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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

爆弾発言(2)

 自分に先見性がなかったことは正直に認めねばならない。多分デジデリウムは書かない方が良かった。ホイヘンスの穴も迷路に迷い込んだし、パウロやマタイについての見方も一貫性がなかった。最大のふらつきは肉食のテーマだろう。前項をアップした直後、「本気にしていたのに、そんな掌返しはないぜ」というあきれた声が聞こえた。そんな方には申し訳なかった。何かをブログに書く時、その時点で知り得た限りの目一杯の知識に基づいて書いていたが、後になってまだまだその先があることを何度も思い知らされた。こんな調子では根が尽きるか命が尽きる時が結論の時になる。
 それでもそこまで書いたお陰で更なる展開があるのだろう。「肉を食べてアメラグの選手のような体力を持って帰って来てほしい」と言われた背景に何があるのかが分かった。それが新展開であり、今まで誰も知らないことを言わない方がいいのかとの迷いはあるが、ありのままに明るみに出したいと思う。その前に、はっきり書いた方が良いと言われたこと、また自分で付け足した方が良いと思ったことを補足する。P.Hディックはヴァリスに「フェリックスには金がない」と書いている。65・会話編(2)で紹介した「新・ヨーロッパ100年予測」に次のような文章がある。
「デカルト(1596-1650)は物事を体系的に考える人だ。あらゆるものの整合性が彼にとっては大切だった。パスカル(1623-1662)は小さなプリズムをくれる人だ。それは短い箴言である。彼の箴言を通すと世界がよく見える。デカルトはその思想のうち一部だけを理解しようとしても出来ない。これ程大きく異なる二人だが共通点がある。どちらも言葉の上では攻撃しながらもカトリックへの信仰は大事にしていた」
地獄の沙汰も金次第である。この二人を全能神が支配するカトリックの罠からどうしても救い出さなければならないなら、審判の時高いランサムを支払わねばならなかったに違いない。そういう事をしていたら金がいくらあっても足りなくなるだろう。キリスト教の改革を期待して送り出した筈の二人だったのに、哲学者になって名声を得た。難解にして無益な哲学論なぞ神々から軽蔑されていて、ほかに優先的に明かすべきことがある。私は夢でわずかな本が書棚に並べられているのを見た。前項で役に立たない哲学を暗に批判した事とも関係しているが、その夢は本当のことを言っている、価値のある本は極めて少ない事を示していた。
 身代金だけではなく、子供をキリスト教の家庭に送り出すのには多額の紹介料を要求される。その結果、何と自分が後ろ盾になって創設した筈のキリスト教に自分の子供を入れる金がないのだ。他方、ビッチという汚い言葉で呼ばれる仏教徒の家庭に送り出す紹介料は安い。私が特定の仏教徒(勿論このブログの趣旨を理解された読者にも)に改宗を勧めている理由がここにある。この邪悪な紹介料の仕組みを作ったのはゴドブザデと呼ばれる悪党である。本来は公正な紹介をする約定があったらしいが守られなかった。またしても地上の霊界は悪が支配する場所である。
 私自身、金沢在住の法華信者の家に生まれた。紹介料が安かったからだろう。しかし同行した付随霊たちは全員金沢に着くや否や無惨な犠牲になった。光り輝く可愛いい子供たちだったと言う。このことは姉(生存中)の付随霊が覚えているらしい。幼い頃悪魔の絵におびえたのはそのせいだった。この地のこの宗派に呼ばれたことが罠だった。あのまま真面目な法華信者で終ったらどうなったかと思うとぞっとする。
 人間の脳にはリミッターがかかっているが、それに比べて聖霊というものがどんなに優秀かを示す、炎のような舌が民衆の一人一人に現れ霊が各人の言語に翻訳して語る、ペンテコストの基になった逸話が使徒言行録にある。これらの霊は個々人に付いている霊であって必ずしも天から下って来た霊ではない。人間は付随霊に助けられている。暗記ものが大きな比重を占める大学入試は、勿論本人の実力もあるが付随霊たちのサポート効果が大きい。囲碁や将棋も同様で、あちら側でも盤をならべて検討しているかも知れない。入試テストや対局で霊が助けてはいけないというルールはない。クイズ番組も人間だけの力ではないだろう。私はそれなしで人生をやらなければならなかった。ぱっとしない人生だった。
霊界に満ちている数多の霊の中には人間を上回る数の動物霊がいて、悪魔の手下で人間に恨みを持つ者が多い。彼らは我々を騙すし攻撃を仕掛けてくる。多少は良心のある霊であっても、悪魔の手先になる方が実入りがいいからそちらを選び、あとで後悔することも多い。声が聞こえたからと言って何でも信じたらとんでもないことになる。三位一体の理論は霊の定義が甘く鵜呑みには出来ない。オリゲネスはユダヤ人を「聞こえる人たち」と信頼していた節があるが、それが先ず彼の犯した失敗の原因であろう。

 前項でX氏と書いた人物はジノビエフ(1883-1936)である。名前を出しても構わないと言っているようなので書く。ブルガーコフ(1891-1940)が過ごした時代とほとんど重なる。ジノビエフだけでなく、聞きなれた名前のエリツィンも私を見に来ていたと聞いて妙な気になった。というのは他の国では審判はそんなに甘くなく、たった二人だが有名人の名前が同時に現れる経験は全くなかった。審判に伴う重苦しさが和らぐような気持ちになったが、それが正教の特徴なのだろうか。どんなつまらないことも見逃さず目くじらをたてて不合格にするのがこれまで審きの通例だと思っていた。その重苦しさはアメリカでもイギリスでもインドでも感じられたし、住み慣れている日本もそうである。帰国して夢にロシアの特別な場所を見た時私は高い雲の上にいた。だからあの場所は広いロシアの地上のどこかだと思う。それが黙示録に出て来るニコライ宗の浄土であり、かつ正教の浄土なのかも知れない(正教で審判を無事通過した者は天の国に上がって来ないことを後で触れる)。黙示録の主である「わたし」はニコライ宗を憎んでいる(2:6)。「使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たち(2:2)」とはペテロやヨハネ自身やパウロたちを指すのではないか。つまり「わたし」とは全能神を指し、黙示録は逆転した反キリストの側からの啓示ではないのか。難解な黙示録をこれまでと全く別の角度から見直せば画期的な解釈の道が開けるかも知れない。ヨハネも騙された可能性が高い。

 最近NHK-BSの番組を見て、原爆開発の研究ではイギリスの方がアメリカより一歩先行していて、それにはユダヤ人科学者が大きく貢献していることを知った。イギリスとユダヤの関わりはディズレーリだけではなかったことになる。日本の宗教にはユダヤ教が関わっていることは前に取り上げた。アメリカにはどっぷりとユダヤ資本が入り込んでおり、原爆を最初に作った際にユダヤ人科学者が重要な役割を占めていたし、いま新たにトランプはイスラエルと接近している。それに反し、プーチンは共産主義国家崩壊後に一時入り込んだユダヤ資本を排斥した。イギリスの霊界で私に感じられるどうしようもない悲痛さはユダヤ人を受け入れたせいではないかと思われてならない。ドイツとそのまわりにユダヤ人がいなくなればユダヤ教の影響も排除され、邪悪な力もなくなるとヒトラーも考えたのかも知れない。決してユダヤ人がすべて邪悪だと言っている訳ではなく、もしそうならイエスもペテロもヨハネもマリアも、アリマタヤのヨセフだった(と思われる)私自身も邪悪だということになる。人間ではなく問題は彼らが十戒に従って継承する宗教にある。ユダヤ人も日本人も、真面目で言われたことに忠実な性格である。
 ヨハネ福音書に「あなたの家に対する熱情が私を食いつくすだろう(2:17)」という訳の判らない文章がある。本当にヨハネがこんな謎めいた文章を書いたのだろうか。これを「あなたの家(本来イエスの父なる神のものであるユダヤ教神殿)に対する熱情(全能神を主神に祭り上げようとするユダヤ教祭司たちの、神殿乗っ取りの征服欲)が私を食いつくす(神殿を守ろうとするイエスを亡きものにして追い出す)だろう」というように理解すべきではないだろうか。説明不足の原文は何者かが手を入れた捏造の匂いがする。結果的にイエスは別にキリスト教を起こしてユダヤ教から離別し、ユダヤ教は外見上はそのままだが内容的には全能神を崇めるユダヤ教徒だけのものに変った。マラキの予言は達成されたし、それがユダヤ人の選択だった。だから口が酸っぱくなるほど言ったことだが、キリスト教はユダヤ教ではない。
 ヨーロッパのユダヤ人ゲットーはキリスト教に対する反逆心を秘めた全能神のヨーロッパでの活動の拠点になる。ヒトラーが数百万人のユダヤ人(その中で人の子は全能神のターゲットにされ、コシェルによって力を失い遁れる術なくとっくに全滅していた)を殺したのは再び目にしたいと思わない惨劇だが、霊界で全能神とその仲間の悪神、それに従うヤコブ・イザヤらのグループによって犠牲となった霊の数は数百億の単位であると推定されている。ヒトラーの絶望的な行動の裏には、悪魔グループの嘘ばかりの巧みな手口を阻止できなかった善良な天の国の致命的な失敗があり、ユダヤ長老議定書を読んで爆発した怒りがあったのではないか(しかし歴史は複雑である。あの悲劇なくしてユダヤ人への世界の同情は集まらずイスラエルの建国はなかったのではないか。ヒトラーがそこまで考えていたかどうか)。皇室に余計な口出ししたくないのが本音だが、ユダヤ教がらみの伊勢崇拝なんて国民のためにも止めにした方がいいと思う。藤原某も日本の歴史は嘘ばかりと認めたそうである。

 私はアプラクサスに名指しされた最初の民間人らしいが、同時に自分がアプラクサスであることを知った最初の人間でもあるらしい。「8項・フリッカー、あるいは映画の魔」を読み直すと、イエズス会の老人がカタリ派の教会を「忌わしい教義を信奉するアブラクサス教徒である」として敵視していた。インノケンチウスはアプラクサスであったにも拘らず、自身がアプラクサスであることを知らない教皇だった。本質において彼はカタリ派を擁護すべき人間であったのに、枢機卿団の決議に従い教皇としての任務に忠実であろうとしてアルビジョア攻撃を命じたと考えられる。これは大変な矛盾であった。悪魔たちが「我々は宗教のヘゲモニーを握っている」と誇る通りになった。天の国の住民は真面目だと言われるが、真面目なだけでは駄目だとも言われている。洗礼者ヨハネも然り。こんな失敗を繰り返すならアプラクサスは民間人の方がましだということになったのか。私は自分の将来がどうなるのかは皆目分からなかったが、高校生の頃「早く老いたいと思う。物事を誤りなく映す鏡のような心を持ちたい」と日記に書いた。

 冒頭に書いた新展開とは次のような事実の発見(とは言え来る前は知っていた筈)である。全能神の下でカトリックが審判をパスさせて天の国に累々と送り込んで来たのは、程度の低い、獰猛な動物霊(審判を経たのだから人間とのハイブリッド)か化け物ばかりだった。もともとの住民はとても彼らと一緒に住めなかった。ローマの東西分裂は正教にとって独立するチャンスで、大シスマ(1054年)以来正教の合格者は劣悪な環境と化した天の国には来なくなった。神の子たちは組織的に分裂した。また神の国に奉仕しようと修道院に入った信者は清楚な生活で弱体化して捕まるか、帰れても守りの役に立たなかった。これにより彼我の勢力は圧倒的に逆転した。やがてカトリック由来の動物霊・化け物軍団は独立戦争を仕掛けて来た。住民で残っていた者の大多数は子供の天使か女たちか幼児で、セバスチャンを先頭に国民皆兵で戦った。当時の事を「私たちは生きながら埋められた」と泣いて語る少女がいた。「8項・フリッカー、あるいは映画の魔」で天才的な少年が作るグロテスクなまでに残酷な映画とはこの戦いの様子ではないか。また富山生まれの智子さんがびっこを引いて現れたのは、自ら戦い、その時受けた怪我のせいだと前項を書いた後で気付いた。不幸にして現在の勢力は更に不利になった。それはモルモンがカトリックの側に付いたせいだった。アメリカのユダヤ資本勢力やユダヤ教はモルモンに対しカトリック側に付くよう教えたのだろう。審判での合格率の高いモルモンとは既存キリスト教の過ちを見直すのが目的で創設されたのではないか。それがこんなことになっている。その理由については後述する。

  かつて天の国はイエスが「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげる(マタイ11:25-30)」と誘った安らぎの里だったし、そこに迎えられることがクリスチャンの願いだった。修道院はその安らぎの里に入る希望者たちの清めの場所だったが、今や情勢は全く変わってしまったことを認識しなければならない。ヒトラーが絶望的な行動を取った背後にこんな天の国の事情があった。しかしまだ天の火が消えてしまった訳ではない。イエスに油を注いだ上位の神々も怒りに燃えておられる。神を畏れるなら、ノートルダムの焼失も単に煙草による失火に過ぎないと片付けるべきではない。同じものを再建して同じことを行ったのでは神の警告を聞き入れたことにはならない。
 これからの審判の選抜基準は今までの常識とはすっかり変わり、恋愛沙汰など二の次で、役に立つものが優先的に招かれるだろう。力を付けよ、霊体とはしおれた花が蘇るように肉食によって力を取り戻すものであるらしい。ただし男と女はもともと選抜条件が違う。考えて見れば、「巨匠とマルガリータ」でブルガーコフが「マタイが混乱の種をまき散らしている」と書いたのはこのことだったのかも知れない。しかしマタイが悪いのではない。

  あるプロテスタントの教会の週報にエホバの証人とモルモンと統一教会は聖書信仰の教会ではないと書かれている。それは他の教会でも言われることだが、私は実はモルモンについて少し考え直していた。末日という言葉は私に内在する、未来に対する不安と軌を一にするのではないか。即ちモルモンとは、差し迫った最後の審判に生き残る者が集うことを目的とする教会なのではないか。またカットスロートの儀式によって教団は悪魔との関係を断つ意図があったのではないか。何故なら他の宗教では、例えていえば女高生コンクリ殺人犯人のような、法律が許しても宗教が許せない者は悪魔に餌食として渡される(悪魔でなければ仏と言われている)。そこに悪魔が宗教に介在する機会がある。しかし悪魔(仏も)はその範囲内におとなしく留まっている訳ではいないし、逆に上に立とうとする。このような過去の失敗を繰り返さないために、カットスロートの儀式は悪魔の手は借りず、教団自身が悪人に処罰を下す企画だったのではないか。然し結局天の国で致命的な選択の過ちを犯したのは、カトリックの本質を見誤っただけではなく、旧約聖書をまともに取ったのが原因ではないだろうか。末日聖徒のホームページを見るとそれが言えると思う。私は旧約は詩編を除き嘘だらけで危険だと思っている。例えばダビデは英雄などではなく戦いを逃れてイタリアに逃げたのが真実らしいし、空腹なエサウが食べ物につられてヤコブに長子権を譲った話も「そんな単純は話ではない」と否定された(本人の声かも知れない)。旧約びとの人の血に対する執着、明かされた死者の魂への異常な貪欲、マラキ書、霊界での無軌道ぶりを考えると、マナの正体はアンデス山中の飛行機事故のような共食いの可能性さえあり、それ以外合理的な説明がつかないと疑っている。

 仏教は552年に百済から伝えられたとされる。その時渡来人たちは「どうしようか」と相談した。結論は「奴らのことはほっとけ」に決まり、名前は「ほとけ」にした。同じ穴の貉である。