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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

命の道を問う者へ

1. ガバメントによる裁きのガイドライン
                                                                                                         
Updated on 2015/11/05

人々よ、注目せよ!

人間は誰しも死後その一生を顧みて下される裁きの場を避けて通ることはできません。従来はそれぞれの宗教が独自にその信者を裁き、審判の任を担う権威者とルールを持っていましが、今後ガバメントと呼ばれる新たな組織が定めたルールはそれぞれの宗教のルールより上位に位置付けられます(「31・仕分け」参照)。神々の目的は審判の本格的な正道回帰にあります。ガバメントが出来る前に、ブルーブックと呼ばれる神々の計画に基づいて革命が起き、その勢力は philanthropic なグループによる協力体が中心となり、歴史上でキリスト教とは直接関係ないと思われるメンバーも参加しました。そして、今後に向けてこの国のすべての人間は、ガバメントの集団合議制の下で最大限統一された基準に基いて裁かれることを目標にします。そのためにガバメントは、この国でこれまで各々の宗教によって行なわれた裁きがいかなるものであったかを検証し、その妥当性の如何を評価する作業を行いました。私にはその検証結果および結論的に導かれたガイドラインを、可能な限り私心と歪曲を避けて人々に伝える任務があります。その内容は以下の通りです。

・ガバメントはイエスの教えだけを権威あるものとする。裁きの基準はこれである。このことは稲刈りに出かける人々にも漁に出かける人々にも例外なく適用される。宗教戦争は正当化されない。グノーシスはグノーシスであるが故に異端とはされない。マリアは信頼に値する女神であり信仰することは正しい。

・仏教の教えは凡そ何もかもが虚偽であるとの結論に達した。この教えに願いをかけ、その指示するところに従って考え行なっても果報はない。なかんずく法華経を信仰することは悪しき行いに準じるとみなされよう。生類憐みは天の教えではなかった。

神道にあって祐徳稲荷を信仰することは悪しき行為を行うに等しいとみなされよう。

・いかなる理由にせよ奢侈贅沢する行為、礼節を尊ばない行為は慎むべきで、これを犯す者は厳しい裁きから逃れられない。

・招魂社を讃仰する行為は慎むべきである。

・「無事でこの世に出かけた者は無事でこの世から帰って来る」であろう。

このガイドラインは古の天皇からも支持を得たようです。私に出来る範囲で以下コメントします。
イエスの教えは天の裁きの原則を基本としています。
「エロイム、エッサイム」と神々に呼びかけるユダヤの祈りは「30・マリア」の項で引用しました。
これに関連し、まだ公には知られてはいませんが、ユダヤの神・大和の神同根説には根拠があり、八百万(やおよろず)の神々を二分する場合一方がエロイム、他方がクラバックと呼び習わされている事実があります。従って「30・マリア」の項に書いたように、イエスの教えは大和の良き神々の願いと同じなのです。
想像の域を出ませんが、クラバックの呼称はクラマトンと関係があり、それ故彼らが拠り所とした京都の場所を鞍馬と呼ぶのではないでしょうか。鞍馬天狗の高い鼻はユダヤ鼻の特徴を表現したものとは考えられませんか。然し青森の「キリストの墓」伝説を聖書と整合させるのは難しく、謎は深まるばかりです。この国のある女神がアナーヒターと同一神であるとされるように、大和の神々はその80%が世界各国の神々と共通なのだそうです。

キリスト教がこれまで権威あるものとした儀式・行事や慣例・宗教的関連物のうちイエスの考えに近いものだけが新たな権威を受けるでしょう。
宗教戦争についてはキリスト教の過去の宗教戦争を是認しないしジハードに対する不同意もあると思われます。グノーシスについては、これに対するガバメントのまなざしとカトリックのそれとには違いがあるということでしょう。 キリスト教のグノーシス的取り組みも成り立ちうると考えられます。 
マリアについてはその働きに鑑みてマリア信仰を頭から排除するのは正しくないし、私も自分の見解を修正する必要があるでしょう。新約聖書のうちイエスの考えと関係ない物語は重要視されません。旧約聖書はすべてを無条件に正典扱いすべきではなく、これは「33・マルキオン」の項の最後に書いた私の見解と同じではないでしょうか。

慈悲や救済をスローガンにした仏教は、その実あまりにもむごい運命を信者に齎していることが実証され厳しく排除されました。生前に殺生や食肉の経験のある人間(それが罪なら誰でも罪を逃れられない)を刈り取り食することを、仏たちが「大乗に生類憐みの根拠となる経がある」故をもって自己正当化するのは「己の非道を棚上げにして他人を罰する」何ら正当な根拠のない行為であるとしてガバメントは否定したのです。そのような目立たない大乗経の存在が引合いに出され当然のように苛酷な裁きが下されていたのです。その非難は特に法華経に関連する仏に著しく当てはまるが故に、彼らを盲目的に尊崇しその活動の場を与える信者まで不利な立場に立たされるのです。
思うに、他人の書いた文が意味を考える間もなく読み上げられる読経をぼんやりと聞く法会、金で買った戒名や木魚の音には何の利益もないに等しく、死者がどんな目に会っているか、自分がどうなるかを知らない仏教徒を思う時、友人知人の顔が浮かび肌に泡が立つような焦燥を感じます。追善供養の効用にも疑いの目が向けられています。人間には魂のふる郷から同行した多くの仲間がいますが、彼らも一蓮托生なのです。
すべての宗派が画一的にこの非難に該当するのではなく、例えば華厳宗は例外でしょう。もはや全体が回復しがたい宗派もあり、正道を守るべく努力している寺と全く正道に悖る寺とが混在する宗派もあるのでしょう。人間が気付かなくても、禅にさえ悪の根城になっている寺があります。それらを踏まえて厳正な判断が下され、宗派の開祖や宗祖は強制的にまたは自発的にガイドラインに服したのでしょう。

祐徳稲荷については検証の結果エゼキエル28章18にあるツロの王のような不正行為があったのではないでしょうか。「48・対立物の統合」の追記を参照して下さい。

礼節について最も重要なことは正しき神への真摯な尊崇の念を持つことでしょう。キリスト教はイエスに油注ぎ、ブルーブック計画を導いた上位の神への供え物(感謝の言葉)を忘れてはなりません。「48・負の遺産」及び「48・対立物の統合」を参照して下さい。(2017・3・13修正)

軍人を招魂社に祀ることが誤りとは想定外でしたが、その問題点を指摘する説も既に存在しているようです。民族間に争いを齎す好戦的な軍人を恰も神の如く祀ることは是認されません。

ヨハネ黙示録7章にすべてのイスラエル人のうち十四万四千人(各士族1万2千人)が額に「私たちの神の僕」である印を付された「人の子」であり、地の主によって放たれた「武装した蝗」が彼らに害を与えることを禁じられ(9章4節)、神は彼らを地上から購うとされています(14章3節)。この方針はガバメントによっても継承されました。

尚、付言すれば人間は生前に愛や寛容を求められますが、裁きの場は我々が愛や寛容を求めて得られる場所とは思えません。

このように、日本人の常識は根本的に改められねばなりません。改革に向けるガバメントの意志は固く本気であることを是非共理解して下さい。
                                                                                                                        20157月9日

2. ガバメントに対する信任

四海波静かとなり、201510月にガバメントとその方針は信任されました。ガイドラインで仏教は全面的に否定されたように表現されていますが、一部の改革の意志ある仏教側からも数百の信任が与えられたようです。新たなガバメントは仏教の代表をメンバーから排除しません。
ただし次のような懸念は必ずしも不当ではないでしょう。即ち仏教が全国津々浦々にある自分の寺で葬儀し、自分の敷地にある墓地に埋葬する自分の信者に対して、他者がどれだけ介入できるでしょうか。表の顔がどうであれ、仏教の裏の顔は霊たちに人間に対する憎しみを抱くよう教唆し、現世で人間が生物に対して行ったことに対する見返りとして、その命を当然のこととして要求する者たちの集団だったことです。これが「輪廻の輪を絶つ」と彼らが掲げるスローガンの実態なのです。彼らにとって人間を餌食とする者が即ち悪魔ではなく、悪魔とは下等な生物に憑依する、蜥蜴のような二又の細い舌を持つ人の姿の霊たちを意味していました。あるテレビの番組で若い禅僧が「仏教は善悪二元論を採らない」と言っていたのは、はしなくもこの事を物語っています。善悪の基準が違うのです。
天下をうかがった戦国のある武将は、「ここではこれを食するのが決りである」と人の肉をもってもてなされ、豪胆なその武将は「それならば頂戴しよう」とその料理に手を伸ばしたといいます。同様のイニシエーションは彼に限りません。長く続いたこのような状況が簡単に一掃できるでしょうか。
一蓮托生という言葉が何を意味するでしょうか。私がこの国の仏教の信者の家に指し向けられる前「どうぞ来てください、歓迎しますよ」と受け入れられ、随伴者特に子供たちを伴うよう要請されたそうです。私は千余の自分の眷属を伴って来ましたが、今や彼らはほとんど残ってはいません。大袈裟なことを言っているのではありません。ある女が現れ「我々は人間の腐った肉なんか欲しくない」と言ったことの意味は、汚れた人間の死後霊よりむしろ清浄無垢な若い霊の方が仏教のターゲットなのだと理解するに至り、その女の憎々しい物言いは、単に彼女が貪欲であることを示すのではなく実は私に問題点に気付くよう促す示唆的な意図もあったのだと分かりました。一人の人間が救われて助かるかどうかだけが唯一の問題なのではありません。以上は私が得て、慚愧を込めて告白する Lesson learned なのであり、当然ながら私だけのことではありません。
その救い難さたるや、ユダヤの方がまだましだといわれています。両腕を失った少年、足首から下がなくて骨が露出した少年を夢で見たことがあります。反抗できないよう、また逃亡できないようにするためです。(悪霊は家の中に入って来ますが、その悪癖を知っている我が家の子供たちはチャーハンを食べさせたり焼き芋をたべさせたりして、通常の食物にも関心を持つよう必死に試みたようです。)

  この国の仏教界で生き残った人間には、僧侶たち、特に菩薩の名を贈られる程の高僧、才能を発揮して著しい功績を挙げた人たちなどがいますが、少数派に過ぎませんでした。これまで力を発揮しようにも発揮出来なかった仏もいたでしょう。これらが今後改革の指導的役割の担い手になるのでしょうか。来世に別段関心のない、先祖崇拝の伝統に従う仏教徒は死後仲間の信徒らの集まる所に行ってその現状を見、また過去の仏教世界がどんな悪所であったか、彼らから聞く機会があるかも知れません。
かつて司馬遼太郎が護国護教を掲げた高僧のことを書いてベストセラーになったことがあり、また女流作家が新しく書いた本が出たようです。その高僧の初心が何か予想外のいきさつがあって変質したとの疑いがあるようですが、真偽の程を確かめてください。従来、仏教徒が再び人間に戻る例は極めて希だったとも言われます。佛教界は人間に対してさらさら憐憫の情を持たない動物霊の世界だと言っても過言ではありません。西遊記を思い出してください。それは猿と豚と河童が人間を馬に載せて経典を取りに行かせる話でした。彼らが仏教導入の功を得て仏教は動物の紐が付いたのです。動物霊を決して侮(あなど)ってはいけません。
ある話し合いで分かったのですが、夢で排泄物の溢れる生活環境を何度も見た経験があるのは私だけではないようです。それが彼らの好みなのでしょうか。もと人間の好む環境とはとても思えません。別の言い方をすれば、仏教によって作り出されたのは常識では思い及ばないブラックユーモアの世界だったのです。彼らの欺(あざむ)きの罪業と執着は深く、ガバメントの新しいガイドラインに素直に耳を傾ける気があるとは思えません。そこにガバメントの影響力の浸透をどれだけ期待できるでしょうか。

 キリスト教で偶像を崇拝するなと教えるのはなぜでしょうか。長い間疑問でしたが最近その意味がやっと分かったように思います。従来は人間が神または仏の似姿の像を作って礼拝するのを禁じることと解釈されていましたが、そうではありません。霊たちは仮の姿と真の姿を持ち、仮の姿は人間そのものであっても真の姿は動物かも知れないし、そうした場合は多い。だから仮の姿が尊い者のように見えても、霊の外見だけで有り難がってはいけないという警告なのです。しかしもともと人間がそうした霊の真偽を区別するのは至難の業です。偶像崇拝の禁止はユダヤ系の宗教だけではないでしょうか。
上手に化粧した美女が化粧を落とすと、のっぺらぽうのこわい顔になることがあります。つい最近韓国の美しい女性が美男で金持ちの中国人と結婚し二児を設けたが、子供はどう贔屓目に見ても醜い顔をしている。怪しんだ男が問い詰めると、彼女は一千万の費用をかけて完璧な整形手術を受けたことを告白したという、写真付きのエピソードが報道されました。真実より見かけが大切という考え方。過剰な化粧を禁じる宗教もあるようです。刺青や茶髪も厳しく叱られるだけでしょう。
 
3. 宗教についての私的考察

 聖書は「我々の前の宗教はすべて利益導入のための手段だった」と言っています。招魂社も中国伝来の宗教を元にしており、そこに紐付けされているようです。仏教は天竺から中国を経て日本に来ましたが、最早正法の勢いは失われていた。釈迦が説いた悟りによる救済はグノーシスと同様思考の到達レベルの高さが審判者に認められて救われるとの教えと考えられますが、そのためには同時に霊体に穢れがないことも重要でしょう。インドには食に関する強いこだわりの素地があるが、他方中国では弱い。中国でリプロセスされて日本に来た時、それは換骨奪胎されて動物に乗り換えられ、動物霊の利益のために殉じる祟りの宗教に変貌したのではないのか。法華教は初めから我田引水の欺きの教えで創業者のパテントは今も続いているとしか思えないが、宮沢賢治はどういう意見でしょうか。
ならば禅はどうか。それを実行する者には中国の風土において救済の道が開示されたかもしれません。しかし水掛け論のような噛み合わない禅問答が審判の場で通用するかどうか。どうも審判者にとって自分だけが納得している独特な理論は受け入れ難く持て余されるだけのようです。般若心経に迎合して、それがさも究極の真理を述べているかの如き「高邁な」こじつけじみた解釈は褒められたものではないと思われます。私の未熟な理解不足でしょうか。禅が日本に来てその意図が正しく達成されたかというと、蓋を開けてみると結局他の中国伝来の仏教の大枠に捕えられて、ほとんど変りないのが実情はではないか。キリスト教が毎週のミサで聖書に触れる機会があるのと違って、禅の教えの狙いをどれだけ信者は把握し、また実践しているでしょうか。
地上には得体の知れない霊とその作用が充ち充ちており、キリスト教はそれを排除する目的で洗礼を行う訳ですが、その意味で真言宗や神道の拠り所は危険を孕んでいると言えるのではないでしょうか。神社には狐や狛犬が祀ってあります。
いずれにせよ仏教グループと不毛で非生産的な議論をする気はとても起きません。仏教のモメンタムは人間救済ではなく、いかに危機的本質に気付かれないで、やめられない悪癖の欲望を巧みに充足し続けるかだけではないでしょうか。

 もし仏教の現状把握がまさに上記の通りで、キリスト教も救済に成功したと思えないならば、あとはキリスト教以後に誕生したイスラムか、キリスト教の分派を唱えるモルモンか、残るは無神論しかないのではないか。しかし世界各地で大事件を起こし、排他的敵対心を隠さないイスラムの現状が我々の理想像を満たしているとはとても思えない。ハラルはコシェルと同じでイスラムはユダヤ教にきわめて近いし、誰の利益に繋がっているのかいないのかよく判らない。
村上春樹のすぐれた翻訳による「心臓を貫かれて」という本によれば、モルモン教は喉を掻き切って大地に血を流さなければ贖罪は得られないと教えているそうです。「彼らは人を殺しているに違いない」と考える人もいます。ポリガミーも社会の規律に違背する。ただし短い断食を実行してセーブした費用を社会に役立てる目的で献金するアイデアはささやかだが肯定出来ます。(「50・イギリス」の*註2参照)
では無神論はどうか。ただ単にあらゆる宗教の誤謬と束縛から遁れるために何処にも属さないだけで審判を通るとは思えない。救済を考えなければ宗教ではないし、無神論者として自律的に救済への道を求めるのはグノーシスのような努力を積む以外ないのではないか。実は無神論的な共産主義にも信者を受け入れる神がいるのです。ただしとても厳しいと聞きました。対立を煽り敵対者を容赦しなかったのは行き過ぎだったかも知れないとの反省があるようです。
ヒンドゥー教は土俗的で我々の日常にはなじめずインドの神々はやはり危険だとアラームが鳴る。世界中で暴れているインド発の暴走族とは?インド的思弁のウパニシャッド哲学も受け入れられているとは思えない。もともと「無理が通れば道理が引っ込む」哲学ではないのか。ヒンドゥーもイスラムも女性を見る見方が余りにも差別的であると言えるでしょう。マララの平和賞受賞を喜びたいし、これが変化のきっかけになることを期待しているのは私だけではないでしょう。
韓国から派生したキリスト教系の世界統一教がやっていること、教主の重婚やそのむさぼり体質、横柄な性欲への執着は全然イエスの教えとは違うとしか思えません。文鮮明が神の子を自称しているが彼の父なる神は旧約の神ではないか。彼に対する裁きはどうだったか興味を惹かれます。それでも信者となって家が建つほどの献金の要求に応え、決められた相手と集団結婚式で結婚する人々がいて教団を支えているのですから分からないものです。
学者や専門家の目で見れば随分とラフな素人考えかも知れませんが、ここに書いたことがほぼ私の思考の総括です。以上のような事を漠然と考えていた時に冒頭のガバメントのガイドラインが伝えられたのでした。

  私に対してさかんに「ローカルフラッグを立ち上げろ」という霊たちの声がありますが、私は全世界のクリスチャンに深い思いがあります。自分の利益だけのためにキリスト教以前のような宗教を起こして何か一儲けしようという気は全くないし、この国だけの問題ではないと思うのです。キリスト教が唯一の平和と救いを願う宗教であるなら、あとはそれをどう反省し再構築し、出来ることなら自分なりに今後の進路に何か寄与して行けるかと願うのが第一の関心事なのです。例えば慣習や三位一体の見直しの必要。ニケーヤ信条にも疑問がありそうです。
キリスト教のようなアプローチの別の宗教を作って対抗する考えは沸いて来ません。それをやっても意見の対立、分派騒ぎなどまた同じ轍を踏むだけではないでしょうか。あるいはその方が良い別の理由がある可能性も考えられなくはないでしょうが、今その理由は分かりませんし、たとえ分かっても私がそれを実現出来るだけの力の持ち主かどうか。実はそういう声か上がるのにはそれなりの理由があって、私には一般人が全く予想も期待もしていない能力があるらしいことは段々と分かって来ました。その力もこの国だけに必要とは限らないでしょう。多分このことを公言するとますます変人か狂人扱いされるだけでしょうから、今の所公にするつもりはありません。
救われる道だけを考えるなら、この国の霊界には「道の教え」と呼ばれる非公然のグループがあり、彼らは冥界の複雑なパスに通暁しているらしく、霊と胎児を結ぶ時の案内の役も担っているらしい。「道の教え」を担いで新しい宗教を立ち上げるのもなくはないでしょうが、うまく脱出出来ても汚れていたり堕落した人間は故郷でもどこでも引き取ってくれないでしょうし、これを悪用する者もいるかも知れません。ずっと前山手線に乗っていて「道の教え」の看板がどこかに出ていた記憶があります。カトリックで「道」と呼ばれるグループがあるそうですが関係あるのでしょうか。
そう言えば私に二元論をやれと最初に呼びかけたのは「道の教え」でしたが、当時何のことか分かりませんでした。今となって霊界での二元論的対立があることは切実に実感します。これまで悪霊(クラバック)の方が圧倒的に優位な環境で、光の子たちが国民皆兵体制で負けても負けても戦わねばならない苦境が続いていましたが、やっと光が差して来たようです。彼らが報復する気持ちはもっともですが、上の方たちが止めに入る場面もあるようです。

 仏教で言う大乗論とは、仏教の信徒はインド人であってもウパニシャッドの世界ではなく皆仏国に行くという程度の意味しかないし、「地獄に仏」とは仏は地獄にいると解釈するのは皮肉がきつ過ぎるでしょうか。
17・祟りの神」で少年が死者の割合で述べたことを記載しましたが反感が多く、救済に与る割合は極めて低いのが実情のようです。この国で仏教徒が墓から復活しても、眷属は怖くて迎えに行けないそうです。
同様にキリスト教でも、神曲でベルギリウスはクリスチャンの領域には入れませんでした。
イエスも天の国に至る道は狭く、一例として「金持ちが天の国に入るのは駱駝が針の孔を通るより難しい」と言っています。それでも例えば1%しか天の国に至らないとしても、全体では相当の数になります。当然キリスト教徒にも地獄行きはあり、地獄を逃れた死者はクリスチャンの霊界に行って良き報いを受けるかまたは人間として地を受け継ぐのでしょう。私の「山上の垂訓」に対する解釈です。しかしそれだけではなく、カタリ派が言うように劣悪な裁きを受ければ畜獣に落される道も避けられないし、ゾンビになった者は埋められるしかない。決して甘くはないと思います。ポルノ女優が死んだ後の追悼番組で「今は天国にいる彼女に」などと言うのを聞いて、死後を軽々しく考えない方がいい、認識不足も甚だしいと思いました。
 序ながら、私の知っている他界の情報はやっと1プラス1イクオール2程度だそうです。