これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
マルコ福音書より
(1:10~17)ヨハネの洗礼を受けると、イエスは聖霊が鳩のように自分に下って来るのを見た。御霊はイエスを荒野に導いた。そこでイエスはサタン・御使い・獣たちと40日間を過ごした。今後の活動に備える準備工作と打ち合わせのためであった。御使いは神の意向を伝達した。サタンは協力を約束して救世主になるようイエスを励まし、獣を調伏して力を示した。
イエスとサタンの考えは必ずしも一致しなかったことがルカ福音書に書かれている。イエスは神の計画に則って活動の時間と範囲を限定したがサタンはもっと多くを期待したと思われる。洗礼者ヨハネが捕えられるとイエスはガリラヤに行き「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と宣教を開始した。最初にイエスはガリラヤの海でシモン(のちにペテロ、「QUO VADIS」項参照)とシモンの兄弟アンデレに声を掛け仲間に誘った(多分原典が著しく欠落しておりゲシュタルト崩壊を起こしている)。(3:22~30)また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った(誰かが私を悪魔呼ばわりしたのと同じである。百科事典によればベルゼブルは“新約聖書の福音書に出てくる悪魔の首領の名称。サタンの別名とされる。元来はペリシテ人の都市エクロンの神〈バアル・ゼブルBaal‐Zebul--崇高なるバアル〉の名が,《列王紀》下1章でヘブライ語では「バアル・ゼブブBaal‐Zebub(蠅のバアル)」と蔑称化されたもの”)
そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうしてサタンがサタンを追い出すことができようか。もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。(サタンの働きは彼の善の力によって悪を駆逐した布教の前の事前作業だったと言っている。なぜか文章が異常に冗長な感じがする)
よく言い聞かせておくが、人の子らにはその犯すすべての罪も神をけがす言葉もゆるされる。しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。(Truly I tell you, people can be forgiven all their sins and every slander they utter, 英文は“罪も中傷も小声で言うだけなら許されるかもしれない”の意味か。あからさまに神を汚す言葉も許されると言えるかどうか、翻訳に疑問あり。but whoever blasphemes against the Holy Spirit will never be forgiven; they are guilty of an eternal sin. 列王記下1章にあるような行為に出て権威のある神Baal-Zebulを蠅の王と呼称するような冒涜は永遠に許されない重罪であり、サタンもバール神に等しい holy spirit であって、これに対する冒涜は重罪であると言っている。下記註参照)そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊(サタンを指す)に取りつかれている」と言っていたからである。
古代メソポタミアに関する私の知識は乏しい。Wikipediaによれば「ナブー(Nabu)は当初はバビロンの都市神マルドゥクの書記官で大臣であるとされていたが、後に息子であるとされた。バビロニアの新年祭にはナブーがボルシッパからバビロンの父のもとへ向かうという行事があった。後にナブーはアッシリアの主要な神となり、人類の運命が記された運命の石板の保持者であった。繁殖の神や水の神として信仰されることもあった。ギリシア人からはアポローンやヘルメースと同一視されていた。後者はその後ローマ人によって水星(Mercury)の語源となったメルクリウスと同一視されている。」マルドゥクやナブーだけでなくエア・アプスー・エンキ・エンリル・ギルガメッシュ等々の神々があるようだが迂闊には論じられない。ただし霊界ではこれらの神々は我々よりずっと具体的に認識されているようである。サタン・ナブーで検索すると多数ヒットする。それだけでサタンとナブーを同一とする根拠にはならないだろうが両者共大蛇と関係がある。アッシリアに滅ぼされ、更にバビロニアに神殿を破壊されたユダヤ人がナブーを怨敵と看做すのは民族の宿命かもしれない。ユダヤ教の家造りが悪魔サタンとして捨てた石とはナブーのことである可能性は高い。ユダヤはこのあたりから迷走し始めたのではないか。
第一ペテロの手紙より
(5:8~11)身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔(Devil)が、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。
あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふれる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。
(5:12)わたしは、忠実な兄弟として信頼しているシルワノの手によって、この短い手紙をあなたがたにおくり、勧めをし、また、これが神のまことの恵みであることをあかしした。この恵みのうちに、かたく立っていなさい。(With the help of Silas whom I regard as a faithful brother, I have written to you briefly, encouraging you and testifying that this is the true grace of God. Stand fast in it.)
(5:13)あなたがたと共に選ばれてバビロンにある教会、ならびに、わたしの子マルコから、あなたがたによろしく。(Your sister church in Babylon, chosen along with you, sends you greetings, as does Mark, whom I regard as a son.)
この手紙でペテロは小アジアの離散したキリスト教徒たちにそれが彼等にとって真に恵みある神への信仰であることを保証した。全世界にある偽の信仰は人間を苦しめライオンのように食い尽くす悪魔崇拝であるが、バビロンにある教会は正しい信仰の教会で、あなた方と同じような選ばれた者たちによる Sister Churchであると言っている。但し正しき信仰の都バビロンでも固く身を慎み目をさましていなければベルシャザルのように滅ぼされる。のちにペテロはカトリックの創始者となるが彼が忍耐と信仰の継続を呼びかけている仲間とは何者であるかはこれだけでは分からない。しかしこの手紙が書かれたのはペテロが生きている頃だから信者は、まだ313年にキリスト教がローマで公認される前の初期キリスト教徒であり、当時ローマはゼウス信仰の中心であってキリスト教徒を迫害したから、悪魔崇拝とはオリンポス神信仰のことであろう。私はトルコ旅行に行った時カッパドキアの遺跡を見学した。地下に穴を張り巡らせた住居跡はモグラの巣のようであったが、中に礼拝所もあった。
片やユダヤに愛着する民族主義者のパウロは “そうするのはサタンに欺かれることのないためである。わたしたちは彼の策略を知らないわけではない(コリント第二2:11)” とあるようにしばしばサタンを悪魔として引用している。だからコリントの教会は “あなたがたがそれぞれ「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合う(コリント第一1:12)” ような分裂を起こした。
先にYHWHはパウロのこの固定観念を見抜き、ダマスカスで光り輝く霊となってサウロに現れてイエスであるような錯覚を起こさせ、キリスト教への改宗を促した(私はこのエピソードに嫌疑がある)。パウロによってローマの教会はサタン悪魔説を移植され、パウロ教が世界に伝播された。影響はカトリックだけでなく正教、聖公会にも及びイスラム教にも影を落としている。
私もサタン=悪魔説を刷り込まれた一人だったがこのブログを書く途中から段々と考えが変わった。ところが「何度もサタンに騙された」と囁く声があってまた振り出しに戻ったりした(これは「何度もサタン悪魔説に騙された」ということかも知れない)。最近「QUO VADIS」の項を書いた後ようやく腹が決まったが、誰が私に入れ知恵したかの犯人捜しが始まり仲間内で言った言わぬでもめているのが聞こえた。
Youtubeを覗くと「キリストに敵対し人間を悪に導くサタンの奸計」と声高に叫ぶ盲目の輩がいたり、邪悪な背徳の宗教をサタニストの集会と呼んだりしている。今やこれらはとんでもない濡れ衣だとはっきり言わなければならない。サタンは救われるべき魂を滅びの宗教の裁きから脱出させる手助けをしていたらしい。だから誰かが私に「大徳寺もモルモン教もサタンこそ人間の救済者であることを知っていた」と教えてくれた。
必然的にこれまでの常識や文学・芸術・哲学の大々的な見直しが必要になるだろう。悪魔サタンと神聖サタンの止揚である。かつて時代の終わりに起きるとオリゲネスが予想した“対立物の統合”がサタンに対するこの価値観の転換によって実現されるのだとの声がある。
------(追記)------
・現在シリア・レバノン・イスラエル・イラク・イラン等が属する中東地域はイスラエルを軸として激動の最中にあるが、今となれば遠い紀元前にも長い人類の栄枯盛衰の歴史があったし、当時の人々は様々な神々を祀って崇拝し先駆的な宗教を起こした。歴史が一貫しているものである限り、今日信者を持つユダヤ教・キリスト教・イスラム教がそれら先駆的な宗教と無関係である訳はないだろう。だから今更古い神々を引っ張り出すなという非難は当たるまい。この地域からほど近くにオリンポス十二神を祀ったギリシャがあり、トルコのアララト山にはノアの箱舟の痕跡があるとの伝説がある。また地中海を挟んだ対岸には太陽神アメン・ラーを主神とするエジプトの宗教が起こり、モーセはエクソダスを指導したもののユダヤ教はエジプト宗教の影を色濃く残しアーメンと祈る。これら地中海の最奥部とその周辺は宗教の巣であったと考えても見当違いではないだろう。
・サタンはイエスの仲間であったが、叛逆する者(旧約聖書でYHWHを奉じる者)によって支配されたキリスト教がサタンを悪魔視するに至った結果、イエスの意図するキリスト教は立ち行かなくなった。上述マルコ3章のイエスの言葉「もし国が内部で分れ争うならその国は立ち行かない」を地で行って「もしキリスト教が内部で分れ争うならキリスト教は立ち行かない」わけで、イエス自身の言葉がキリスト教に降りかかった訳である。笑いの止まらない策士は「うまくいった」と御満足だったに違いない。Woe to evil schemer!
・宗教は正しい神への信仰と力ある仲保者の助力なくして信者を救済する力はなく、悪魔に取り込まれる。以下はまた何を言い出すのかと屹度怪しまれるだろうが、これまでバチカンにいたメカミマテバ神や、ウラル川の畔の都市にあるロシア正教本部にいたゴンチャロフ神は昔も今も歴史に名前が挙がったことはない。カトリック信者、正教の信者はこの名前を是非インプットしておいて死後確かめて下さい。私が冗談事を言っている訳でもないし、彼らがどんな神でどんな道筋を辿ったかも判るだろう。聖公会の信者もバプティストもこれまでここに書かれたことをどうか入念に検討して下さい。黙っていて波風を立てたくないのが心情だがそれではこんなシビアな作業を労する意味がない。ヨハネやパウロにも今更2000年前の過失を事上げして心苦しいと思う半面、説明上名前を挙げない訳には行かなかった。
・この所煙草が手放せなくなった。止めろ止めろの声があるが無視している。それは煙草を吸うことによってある現象が発生することが分かったからである。芥川が「悪魔は煙草を嫌う」と書いていただけではなく、ゾロアスター教の神官は何か(記録がなくingredientは不明)を吸っていたし、「嘘つかない」インディアンも約束事をするに当たって煙草の煙管を交換した。絶対止めないでくれと言う声もある。煙草にまつわるハプニングは色々あったが最近も発見があった。その数日後ある少女霊が、私が煙草を吸う理由を調べて成る程そんなことがあるのかと納得していた。これと同様にサウロがサタンについてどんな固定観念を持っていたか、上級霊なら簡単に調べることが出来た筈である。
・列王記下1章にアバジアがエクロンの神をバアル・ゼブブと見做して使者を遣わし、使者たちは天から下った神の怒りの火によって焼き殺される話が出ている。「ガバメントのガイドライン」に“礼節を尊ばない行為は厳しい裁きを逃れられない”とあるのはこの事を指すに違いないとの思いに至る。従ってサタンを悪魔呼ばわりしてその尊厳を汚すことも「礼節を尊ばない行為」として厳しく裁かれるだろう。アメリカはこの過ちを犯していないだろうか。決してどうでもいい事ではない。
同様にエゼキエル28章18にツロの王が“暴力と罪を伴い聖所を汚す不正な交易”を行なった結果、神は王の中から火を出して地の灰にしたことが出ているが、この不正な交易とは何の取引か。「負の遺産」の項で“これらの建物の周りの地域では長い間夥しい被害があった”のと同じビジネスではないか。それは利益の上がるビジネスだが、その寺・神社の主は厳しい罰を受けて「金もうけなんて何の意味もなかった」と言い残したと言われる。
エゼキエルにはつるぎが何度も出て来て力を揮う。特に21章4~21章5はあたかも念動力でつるぎが舞うかの如くである。この畏るべき主はラタキアの神と呼ばれ、嘘を嫌い、バチカンに巣食った敵が撃たれたことを前にこのブログに書いた。
・ユダヤ人は異分子がイスラエルに紛れ込んで神官になり旧約聖書を書き替えているのを「彼らも同じユダヤ人だから聖書の間違いを直しているだけだろう」位にしか思っていなかった。とんでもなく甘い考えだった。もしユダヤ教の教えが旧約聖書と同じならユダヤ教徒も危ない。NPさんが心配だ。