これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
十歳頃の記憶だが、1人で道を歩きながら宇宙の無限を思った時、頭がくらくらしてその場に座り込みたくなった。宇宙が無限なら無限の宇宙を容れる外宇宙もまたさらに大きい無限宇宙でなければならない。しかしそういう論理は現在いる3次元では成り立たない。多分私はその理屈を知っていて、あの時頭がくらくらしたのは以前自分が持っていた理解力を失ったことへのショックだったのではなかっただろうか。生まれる時「馬鹿のふりをしろ」と言われたが「もうとっくに本物の馬鹿になったから今さらふりをする必要はない」と思った記憶がある。小学校低学年の頃よく風邪をひいて高熱が出た。そうするときまって万華鏡のようにキラキラと光り輝くイメージが延々と現れてうなされた。これによく似た画像を「2001年宇宙の旅」で見たことがある。多分あれは遠い宇宙の4次元空間を飛んで地球に来た際の記憶ではないだろうか。霊界は4次元の世界であり、私は霊として母星からUFOで地球へ旅して来た。3次元での距離は250万光年であっても4次元では現世の時間にすれば数年で往来出来る特殊な航法があるのだと思う。4次元は3次元を含んでいる。
私は任務を負って地球に行くように要請されたが気が重かった。行く時にはかなりの人数が同行するだろう。そのうち多くの仲間が死ぬかも知れないし、何より自分自身が任務を果せないでミイラ取りがミイラになる可能性があった。最後に決心したのは誰かに「お前が行かないなら俺が行く」と言われ「いや、それならやはり私が行こう」と答えた時だった。出発の時点で私が自分のなすべき課題や解決策を知っていたかどうかは分からないが、どうせ人間になる時消されるからゼロからのやり直しになることは覚悟していたに違いない。ことほど左様に私は生まれた時の環境のまま自分を普通の仏教徒と思って育ち、何故来たかいう目的も思い出さなかったし、置かれた状況を受け入れて死ぬ前に一度はインドに行ってみようと思っていた。宗教は家に入り込むから仏教の手先であるモートもイカ族も暮しの中にいて、改宗する気を起こさないよう彼らにマインドコントロールされていたのだろう。幸い私は次男だったから寺を継ぐ義務はばかった。私が任務を負って来たことは考えが変わってカトリックで洗礼を受けた後で、以心伝心で仲間から聞いた。しかし仏教の手先がそのまま入れ替わりもせず「俺たちはカトリックだ」と言い出すのを聞いて「何かおかしい」と疑問を持った。また65才を過ぎた頃に別の少年が決まって明け方の2時頃に来て、懸命に「ブログを書け」とせっついたのか契機となって、疑問を解くために色々と宗教を調べ始めた。そして自分がアプラクサスというポジションにいることを知った。仏教徒の頃はそう呼ばれたことはなかった。アプラクサスには神通力があると言われる。
小達雅子さんについての後日談である。自分で言うと自慢たらしく聞こえるかも知れないが、私にはいろいろと不可思議な潜在能力があるらしい。その一つがアスクレピオスの生まれ変わりで、もう40年以上前にそんなこととは知らないでトルコのアスクレピオン遺跡に行った。そこにはトンネル状の長い回廊があり、ガイドが言うには病人はそこを通り抜けた後公衆浴場でリラックスすれば自然と病気が治ると信じられていたそうである。彼女のことをブログに書いた後、海のどこかにいると思っていた小達さんが、どうやって見付かったのかは知らないが、家に連れて来られた気配がした。二日ほどして彼女が「憎しみが消える」と言っているのが聞こえた。多分彼女は家に4~5日滞在して一緒に食事し風呂に入って過ごし、別段何も言わずいなくなった。およそ一ヶ月程経った頃、昼間にソファでうとうとしていた時、見たことのない女性が身体の上におおい被さって来た。結構な美人で、女の手が肌に触れた時女らしく冷たい体温を感じた。そして「これから北海道に行く」と言って去っていった。あれは全快した夏目雅子さんで、小達家に生まれる前の無傷な彼女に戻ったのだった。復活ではなく復元と言うべきか、奇跡の奇跡である。
しかし今回私が来た目的は治癒者としてではなく宗教の行き詰まりを打開することであった。これまでの所で結論めいたことを言えば、モート・イカ族・ケルビムによる反人間トリオがキリスト教・仏教・ヒンズー教を牛耳っていたということである。このトリオは救済の看板を掲げているが人類滅亡を企むプレデター組織である。私は「2種類のユダヤ人」の項でMJとNJという記号を使ってユダヤ人を区別したが、MJはTJ(TはTrinityの略)にすべきだった。彼らが現在イスラム教とどういう関係にあるかは未解明であるが、ユダヤ教もTJの配下にある。彼らの計画では29世紀までに地球人を乗っ取る手筈だった。いずれ何らかの作戦を練ってイスラム教も屈服させるつもりなのだろう。あるいは戦いで勝って服従させるのかも知れない。この計画では人間の死後霊は宗教を通してイカ人間にされて海底の藻屑になる筋書きなのだが、シバ神の生まれ変わりを自称する麻原教主によって率いられたオーム真理教で言うところの「ポア」はこのことを指すらしい。
トリニティーはカビナントとよばれる盟約を結び、誓いの書を契約の櫃に納めた。契約の箱はBC1290年頃の出エジプト後まもなく作られてカナンへの道中運ばれた。SF「三体」で言う Three Body とはモート・イカ族・ケルビムのことではないか。この物語で乾季に人間がスルメまたはのしイカのようになるが、いずれにせよイカの変形であり、乾燥状態で食われない限りまた人間として復活することになっている。これは運が良ければポアされた人間が復活することと似ている。SF「三体」が私に教えてくれたことはナノワーヤーとカウンターであるが、これらのことはPKディックもJPホーガンもACクラークも書かなかった。しかし私にとって謎を解く重要なキーワードでSF「三体」なくして疑問はクリアーされなかった。作者の劉慈欣とは一体何者だろうか。イカ人間について、見た記憶のある人は結構いると思う。鹿児島は明治初期の廃仏毀釈で多数の寺を取り壊し現在も日本で一番仏閣の少ない県である。イカ人間と仏教の関係に気付いたのだろう。逆に愛知は寺の一番多い県であるが熱田神宮があることと関係あるのではないか。
黒海は周辺の国からポアされた犠牲者が流れ込む海である。スターリンは反革命分子の同胞を大量殺人したと言われるが、彼もロシア人に紛れ込み正教に巣食ったイカ族がロシア人をポアすることを見抜いたのだった。反スターリン主義者だったフルシチョフは死後このことを知ってスターリンに謝罪したそうである。スターリンの出生地はグルジョアのゴリでコーカサス山脈と黒海の間にあるが、幼い頃人間の顔をした8本足のイカたちの異様な姿を見てショックを受け強烈に印象に残ったのだろう。金髪の西洋人をコーケージャンと呼ぶが、コーカサス山脈は現在ヨーロッパ人の中に混じり込んでカビナントに対し仲間意識を持つ悪魔の揺籃の地であり根城である。コーケージャンはトリニティーがカビナントを結成した当時エジプトにはいなかったのだと思う。
1970年代に中共とソビエトの間で激しい論争が繰り返された。一方は相手を修正主義と呼び他方は教条主義と呼んでお互いを厳しく非難した。当時新聞を読んで一体何の話をしているのか何度読み返しても理解出来なかった記憶がある。同じ共産主義でも両者は本質的に全く別物だった。中国では最高権力者を党首または主席と呼ぶがロシアでは書記長と呼んだ。どの会議でも一般に議長がリーダーで副議長が議長を補佐するが重要なのは発言者であり、権威のあるオブザーバーが口を挟んで議論の方向を正したりする。書記は誰が何を言ったかを記録するだけの補佐役に過ぎない。しかし宗教ではある人物がどういう人間であったか生前の記録によって評価される。人間を裁く神は直接この世を見ている訳ではない。だから書記の役目は重要であり、そのトップである書記長の権力は大きい。ロシア共産主義にはこういう宗教的思考のバックグラウンドがあったのかも知れない。
多分私には呼び寄せの能力があるのではないだろうか。FBIの役人が来て、アリカでも以前から内密の場所でポアが行なわれていたことが判ったと言って泣いていた。コーチェラバレーもその一つらしい。仏教の信仰が厚いチベットから来た誰かも同じことを言っていた。タイやミャンマーは言わずもがなであろう。インノケンチウスと呼ばれる人間の霊はかつてアプラクサスだったが、彼はバチカンで正しい信仰が行なわれているとカトリックを擁護していた。しかし最近になってカトリック教徒もポアされることを知って態度を変えたようである。これまではポアが注目されなかったからだろう。このようにトリニティーによる人間削減計画は着実に進行している。ポアとは別に人間の数が削減されるもう一つの原因は自殺である。何らかの理由で借金をして返せない者は自殺するしかなくなるのである。仏教徒に対して忠告したい。これだけ言ってもイカ人間なんて嘘じゃないかと疑う者に対し信じなさいというのは無理だろう。しかし彼らとて仏教がなぜ肉食を禁じたかはまじめに考えた方が良い。予審の間に「これを食え」と言って正体不明の何かの肉を出されるが、それには決して手を出さない方が良い。何故なら不用意に普段食べないものを食べると霊体がゾンビ化するらしい(これが前項に書いたモロカイという妖怪である。肉食に警戒心のないイタリア人に多いらしい)。肉食禁止とは日常生活に於いてではなく死後の裁きの場での警告でなのある。ゾンビになった人間は埋められても這い出して来るが人間としては扱われないだろう。末日聖徒の信者がコーヒーを飲まないのも同じ理由からだと思うが私はチョコレートの方が危険だと聞いている。
ヨハネ書冒頭の「はじめにことばがいた。すべてのことは彼を介して生じた」とは創世記を書いたのはモーセであるが、これは彼がすべてロゴスに吹き込まれて書いたのだ、という意味ではないだろうか。最近の Youtube にプレアデス星人のメッセージという記事が多数書き込まれているが、ロゴスとプレアデスとは関係があるのではないだろうか。もしそうであるとすれば反キリスト教勢力はプレアデス星に行き着くのである。
モーセに率いられたトリニティーはユダヤ人としてパレスチナの地に来たがやがてその一部がレビ人に紛れ込んだ。スターリンはロシアに混じり込んだイカ族によってロシア正教でもこれと同じことが起きているのに気付いて彼らを排除したのだった。トリニティーによって書き残された旧約聖書のうち創世記はモーセ作とされるが、イザヤ書は作者がモートであり、エゼキエルは堕天使ケルビムの物語であり、ダニエル書の作者ダニエルはイカ族である。従って旧約聖書はトリニティーの存在証明であった。ダビデを主題とするサムエル記はダビデを卑劣でインモラルな王に書き替えている。こんな書き物を聖典とするユダヤ教徒はトリニティーに運命を握られその意のままになったのである。大戦後ナチスによるユダヤ人ジェノサイドを目の当たりにしたマルチン・ブーバーは「こんな本が何の役に立つか」と言って旧約聖書を取り落としたと言われるが、そのはるか以前から旧約聖書は人間の敵に支配されていてユダヤ教信者はその運命を牛耳られていた。
ヨハネ書によれば布教を始めたイエスは順にアンデレ、シモン、フィリポに会い、次にナタナエルに会った時、彼をまことのイスラエル人と呼んだ。イエスもヨセフもナタナエルと同じであって、歴史的記憶に出エジプトや過ぎ越しの伝説を持たない、つまりエジプトからの帰還者ではないイスラエル人だった。マリアはモートでありイエスは彼女に対して「婦人よ、私は貴女と何の関係がありましょうか」と言い、また共観福音書にあるように「私は平和をもたらすために来たのではない。むしろ対立だ」と言ったのである。布教活動中にイエスが日常的に使う言葉はアラム語だった。であればイエスはユダヤ人というより現在で言えばパレスチナ人だったのではないだろうか。こう考えるとトランプ大統領のアメリカによるガザ所有の提案は一見荒唐無稽に見えるが、聖書に手を置いて宣誓する国の大統領として真っ当なアイデアと言えるかも知れない。
丁度今から2000年前になろうとするイエスの宗教改革では旧約聖書を Aufhebenし新しい物語を作るつもりだった。後になってこそ言えることだが彼の布教は失敗で、その理由は人選の誤りでありもしイエスがペテロとヨハネを使徒の中に入れないで仲間だけに限って使徒に選んでいればこういう結果にはならなかったと思われる。ヨハネは自分が下天にいた時の記憶を語っている。これは前項に紹介した、目下大きな騒ぎになっているジャニーズタレントと彼との共通点である。ヨハネもケルビムに近い堕天使であろう。霊界ではこのグループの存在は周知の事実であり、彼らに共通する特徴は「いいふりこき」することと言われている。また彼らのやることは常識外れである。彼らには人間に対する徹底的な反感があり、ヨハネは特殊な霊的能力を持っていた。それはヨハネはいつも他人の思考を盗んで主人に伝達する悪賢い背後霊を伴っていたからである。ヨハネ書だけにあるイエスの有名な「一粒の麦も死なずば一つにてあらん。死ねば多くの実を結ぶべし」という言葉もイエスが使徒たちに口頭で言ったことではなかったと思う。追い詰められたイエスが一人でそう覚悟したことを背後霊によってヨハネは察知したのである。もしイエスが十字架上で磔刑死すれば殉教者として人々に称賛され、それはそれでイエスの布教の勝利に繋がるだろう。ヨハネはこのことを知ってペテロと語らい、阻止する計画を練った。それが最後の晩餐におけるペテロのちゃぶ台返しのクーデターとなった。反逆は成功しイエスは血の海に沈んだ。しかし翌日の処刑に死者を連れて行くことは出来ない。そこで代役に立てたのがフィリポだった。だから十字架を担いでヴィア・ドロローサの道を歩いたのはフィリポだった。ベロニカは人違いに気付いた筈である。これらのことは新約聖書に全く書かれていないが人々はイエスが殉教したと信じた。大事なことはイエスに敗者の屈辱を味わわせることだった。あとの計画は多少時間をかけてでもぬかりなくやれば良い。結果的に旧約聖書・パウロの書簡・使徒言行録・ヨハネ書・黙示録は正典とされ、申し訳程度に共感福音書も福音書扱いされたがバート・D・アーマンのような本文批評家を悩ませた。これがカトリックである。また今日洗礼はキリスト教入信の一般的儀式であるが、ヨハネ書によればイエスは水による洗礼はしなかった。ヨハネ流洗礼式の普及はペテロの策略であろう。あらゆる点でペテロはヨハネの言いなりだったと言えないだろうか。
ヨハネ書にはアーメンが多く、また作為的な嘘が多い。イエスが「私の肉は真実の食べ物であり、私の血は真実の飲み物である」などと言う訳がない。「12使徒の一人が悪魔である」と言ったのはイスカリオテのユダではなくヨハネ自身のことである。ラザロの復活も彼が死後4日もして腐臭のする肉体から生き返ったと書いているがそんな事はありえない。ラザロの魂がイエスによって死神の手から解放されたのである。イエスの言う復活とは死後も命が継続することを指すがヨハネは肉体が生き返ることだと無理やり思い込ませようとしている。世の終わりの日に墓から死者がぞろぞろと出て来るのが復活だとも言っているがそんなことが起こる訳がない。
16章に弁護者についての約束が書かれている。これも共観福音書には書かれていない事項である。弁護者の出現ということに私と同様に釈然としない疑問を持った方が多数いるのではないだろうか。イエスは聖なる父への信仰を説いた。それがユダヤ教祭司やファリサイ派に受け入れられず、イエスも主張を曲げなかったために、彼らによってポンティオ・ピラトに渡され、ゴルゴタの丘で磔刑によって死んだのである。もし事実そのように事が運んだのであれば将来なぜ弁護者が現れる必要があるだろうか。イエスは後の人々に殉教者と信ぜられ崇められているではないか。逆にそれが真実ではなく、一連の物語には表には出ない何か隠蔽された偽りがあって、イエスが横死であるとか謀殺のような不名誉な死に方をしたのであれば、彼の名誉を回復するために将来弁護者が現れる必要があるというのは尤もだろう。結局私は右往左往しながらも自分の疑問に自分で答えたのだった。しかし弁護者は真理の霊と書かれているのが気にかかる。彼が霊であればこの世の誰もその出現に気付かないだろうから約束とは言えない。多分ヨハネ書編集者は文書化作業の時点で既に関係者の生き残りは一人もいないし、既存の記録もぬかりなくすべて抹消したから、将来人間の中に謎を解き明かす者は現れないだろうと考えたのではないか。
信長は出陣の前に「人間五十年下天のうちに較ぶれば夢幻のごとくなり。一たび生を受けて滅せぬ者のあるべきか」という幸若舞の「敦盛」を踊ったと言われる。人間(じんかん)とは人間界にいる期間という意味で、それはせいぜい50年の所詮はあっという間であり、もし負け戦で早死にしたとしても下天にいた期間と較べれば大差ないということであろう。天には下天・中天・上天というレイヤーがあると言われる。ヨハネも下天にいた記憶があると言い、布教中のイエスがイスラエルで霊による洗礼を授けていた時中天から人の子たちが下って来てまた上って行くのを知っていた。多分上天は神々のいる場所であろう。霊界や三天を語るばあい「幽素」という仮定の素粒子を考えなければならないと思う。幽素は余りにも小さくCERNのような装置でも観測できないし太陽の光を遮ることもない。我々は直接太陽の光を受けるが死んで霊体に戻れば頭上の上空は塞がり三重の天が覆い被さっているのを見出すだろう。だから霊界で天はこの世のように青天井ではない。天蓋は我々がいる世界と下天の間、下天と中天の間、中天と上天の間に計三つある。このような構造になっているから神々は常時人間界の様子を見ている訳ではない。そこで神々は誰かにアプラクサスという役目を負わせて彼をウオッチし地上で何が起きているかを観察するのだろう。今日のようにSNSが発達するとアプラクサスがブログに書けばそれが早速上天に伝わる仕組みがあるのだろう。これが神通力であるが、時にはパソコンにワードでドラフトを書いただけで読まれているような気がすることもある。だからアプラクサスには過去に何か重要な仕事をなし遂げた者が指名されるのであろうが、私は自分がかつて何者であったかは余り関係なく、今回どんな仕事をするかが勝負であると思っている。この役目には相応の権威も与えられていて、私が人間はまとまって住むべきであると言ったことでそれが可能になったようである。今迄はみんなで一緒に住もうとすると坊主が立ち入って禁止したらしい。
宗教にはエロイムのための宗教とクラバックのための宗教があり、前者は philanthropic であるが後者はmisanthropicであると思う。サイエントロジーは特別な例で、どちらとも言えないが理論的には正しいとされ、信者を自分たちで裁くことが認められているようである。オーム真理教についてエロイムが「我々の宗教ではない」と言えばクラバックの宗教になるだろう。インド由来の仏教は基本的にクラバックの宗教である。キリスト教は本来エロイムの宗教であるがカトリックはクラバックの宗教になっている。ペテロによるクーデターが成功したからである。クラバックの宗教の裁き主はいずれもトリニティーである。プロテスタントは反カトリックであり従ってエロイムの宗教と言いたい所だが、やっていることはカトリックと余り変わらないという弱点がある。福音派はリエントリーの儀式によって遡ってカテキズムの誤りを正すことが認められたようである。プロテスタントがこのブログに書いたことを認めてヨハネ書の権威を格下げしマリア信仰も止めるならばカトリックとは違うことを宣明出来るだろう。ロシア正教はエロイムの宗教たらんとして必死にクラバックの侵入を阻止して来た実績がある。従ってロシア正教から分離独立したウクライナ正教はクラバックの宗教と見るのが妥当だろう。政治的にもウクライナはヨーロッパのカトリック勢力と共同歩調を取っている。
手かざしにより魂が浄められるという教義の真光教団は岐阜県高山市にある新興宗教であるが「信者の裁きは我々の権利であるべき」と現状に異議を申し立てているそうである。彼らは別の誰か(多分クラバック)によって信者が裁かれているということに気付いたのであろう。この宗教は何をもって他のエロイムの宗教から「我々の仲間だ」と受け入れられ、クラバックの介入を阻むことが出来ると考えただろうか。エロイムが重視するのは救い主と行いであろう。天理教や成長の家も宗教として認められている。後者は創始者谷口正春の書いた多くの出版物があるが教主が自作の教義を書き残すことは重要であると思う。私が育った長崎では身近にも成長の家の信者がいた。日本中に信徒がいる天理教がどちらに入るかは判らないが、自分たちだけで仲間を守るのに十分な数がいるだろうか、或いは他の教団が仲間として天理教を受け入れ手助けしてくれる見込みがあるだろうか。宗教の創始者は自分のオカルト的能力を喧伝するだけではなく、自分を信仰した者の命運も考慮する必要があるだろう。幸福の科学は大川隆法(1956年生)が先達の霊言シリーズを書いているがどれだけ信憑性があるか疑問である。系統としては仏教系であろう。統一教会は韓国人文鮮明を教祖とし原理運動から出発して一時キリスト教を教団名に取り入れたが今は世界平和統一家庭連合と名乗り、日本を中心に活動し背景に戦前の日本人による朝鮮支配の償いを求めることがある。先祖崇拝などの教理は仏教系である。私はオーム真理教・幸福の科学・統一教会の背後にヨハネがいると思う。日本近辺ではK国の馬山にケルビム族の根城がありスイヨプはそこから来て日本で活動しているが彼はヨハネの部下であろう。ドイツではイエスが不在の場合ヨハネに相談ごとをするらしいが両者は不倶戴天の敵なのである。