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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

マラキ

 12世紀北アイルランドに生まれた聖マラキの予言とマラキ書は何か関係があるのではないかと思いマラキ書をひも解きました。旧約聖書の最後に位置する十二小預言書の末尾にあるマラキ書はB.C.400年頃に書かれ、多くの解説で“道を踏み外したイスラエルの祭司たちに神への回帰を命じて語られた主の言葉”だったと紹介されていますが、読んでみてむしろ事実はその反対で、当時の祭司たちは逆走しているイスラエルの信仰を正道に戻そうと懸命に模索したのではないかというのが私の発見です。そういう観点からマラキ書を自己流に書き直して見ました。和訳マラキ書では意味が取りにくい箇所は Bible Study Tools Book of Malachi を参照し思い切って意訳しました。残念ながら直接原典70人訳聖書に戻って調べるだけの力は私にはありません。

1章 かつて双子のうち弟ヤコブを愛し兄エサウを憎んだ主がマラキに現れた。主はマラキに自分が万軍の王でありその威光は日出る所から日の没する所まで及ぶことをイスラエルは思い出すべきであると伝えた。もしエサウの地を再び建てても私はそれを倒すだろうと言った。燔祭の捧げものに主は満足していなかった。捧げられた暗愚な獣や不完全な獣を主は喜ばなかった。「そんなものを奉げる祭司はわたしを侮っている。それならばむしろ燔祭の台を閉じる者が現れた方がよい」と主は言った。祭司たちは「われわれは主を侮ってなぞいない。主の祭壇は汚れていたが、わたし達は卑しむべきものを奉げて祭壇を汚してはいない」と言い、万軍の主に背を向けていた。万軍の主は「信徒の中から主に受け入れられる男子を奉げるとの誓いに反して不完全な獣を奉げる偽りの祭司を私はのろうだろう、祭司たちは私を恐れ敬って誓いを守るべきである」と言った。
(*
1-8盲目の獣を暗愚な獣、傷ついた獣を不完全な獣と意訳した。羊や牛のことを指すと思う。1-12祭壇が汚れているのは“生贄の人間の血で汚れている”の意味であろう。イサクでは失敗したがその後幼児犠牲は止んだり続いたりしていたと考えられる。1-14英文では Curst is the cheat who has an acceptable male in his flock and vows to give it, but then sacrifices a blemished animal to the Lord.  原訳“群れのうちに雄の獣がありそれをささげる”の群れflock には信者の意味がある。これは信者を人身御供することで伊勢も同じである

2章 主は言った。ここでわたしは祭司たちに命令をあたえる。その命令とはレビと結んだ生命と平安の契約が保たれることである。もしこれに従わなければ子々孫々まで祭司たちに呪いを下す。またあなたがたの犠牲の動物の糞をあなたがたの顔の上にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。レビの口伝はまことの律法である。レビはわたしを恐れおののき、その務めを果たして教えの通り伝えた。あなたがた祭司は当然主の使者としてレビの口伝律法を人々に伝えるべきであるのにそれを行わず、結果的に多くの人々がわたしとレビとの契約をないがしろにした。あなたがたはこのように律法を部分的にしか(成文律法だけしか)人々に教えなかった。それ故わたしはあなたがたが人々に侮られ卑しめられるように仕向ける。
あなた方は神が受け入れてくれないと嘆くが、その理由は次の通りである。神を敬う子孫がユダヤ教徒以外の女性と結婚式をあげることは聖所を汚すことであるからヤコブの幕屋(教会)から断たれねばならない。わたしは若い二人の結婚の証人だったのだから離縁する者を憎む。離縁する者は神との契約による妻を裏切り暴力をふるうことである。祭司自身が離婚しないよう注意深く誠実でなければならない。またあなた方は言う、「悪を行う者が神の眼に良しとされる。義なる神はどこにいるのか」と。
2-9聖書原訳の‘ひとにかたよった’は一部の者だけに伝えられた、との意味か。英文では“but have shown partially in matters of the law”で、律法は口伝と成文で一体なのに一部分しか教示していない、口伝は教示されていない、の意味ではないか。非ユダヤ人の女と結婚すれば盟約が保たれないことになり、ユダヤ人同士の結婚であっても離婚すれば証人である私を裏切ることになる)

3章 「わたしは使者を遣わして道を整える。するとあなた方が求める主、あなたがたの喜ぶ契約の使者はたちまちその宮に来る」と万軍の主が言う。彼の来る日に誰が耐えられるか、彼の現れる時に誰が立っていられるか。彼は金を吹きわける火のようであり、布さらしの灰汁のようである。彼は銀を吹きわける者のように座しレビの子孫を製錬された金銀のように清める。そして彼には義のささげ物をささげる仲間がいる。その時(彼らの)主はユダとエルサレムとのささげ物を遠い昔のように、また以前のように喜ぶ。 そしてわたしは不正をなす者でわたしを敬わなかった者について証言するので彼らは滅ぼされるが、反対にわたしを恐れ敬った者の証言はしないから滅ぼされない。あなた方のようにわたしを敬わない者は先祖の日からいて、彼らはわたしの定めから遠ざかり定めを守らなかった。あなた方は十分の一税とささげ物を盗んでわたし以外に向けてささげた。盗みはやめてすべての十分の一税をわたしの倉に納めなさい。そうした後でこれまでのあなた方への呪いが解かれ天の窓が開いてあふれる恵みが下されるかどうかを見なさい。わたしはあなたがたの地の産物を食い滅ぼす者をおさえて滅ぼさないようにしよう、またあなたがたのぶどうの木が熟する前に実を畑に落すことのないようにしよう。そうすればあなたがたは楽しい地の住民となり万国の人に神に祝福された者と讃えられるであろう、と万軍の主が言う。あなたがたはわたしに逆らって『神に仕える事はつまらない、われわれが万軍の主の前にその命令を守って嘆き悲しみながら歩いたからといってなんの益があるか、われわれは傲慢な者が祝福され、悪を行う者が栄えるばかりでなく、彼らが神に叛いても罰せられないのを見た』と激しい言葉で言った、と主は言う。
そのとき主を恐れる者は語り合い、主は耳を傾けてそれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を記憶する者のために、主の前に以下の通りの覚え書が記された。
「万軍の主は言われる、わたしが手を下して事を行う日に主を恐れる者たちはわたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。その時主を恐れる者たちは、義人と悪人、どちらの神に仕える者であるかの区別を知るようになる。
3章の冒頭で新しい契約の使者は厳しい裁きを下すと警告しているがイエスは強制的に犯罪者を改悛させたりレビ人を浄化したり苛烈な刑罰を執行したわけではなかった。3-5この神が不正とみなす罪が列挙されているが基本的犯罪である人殺し・暴力・物取りは挙げられていない、つまり重要な犯罪ではない。このことはこの集団がどういう者たちの集まりであるかを示している。殺人は人身御供で必須である。賃金を払わないことが不正に挙がっているが、使徒ヤコブの手紙5-4で労働者に賃金を払わない金持ちに対しヤコブは「支払いを求める労働者の叫びが万軍の主に聞こえている」と警告している。万軍の主は金持ちの神で使徒ヤコブの神ではないことが判る。カトリック教会で毎週歌われる聖歌220は万軍の主を讃える歌でクリスチャンは祈る相手を間違っていると思うが、カトリックは旧約の神を信仰するのであるからむしろ正しいのか

4章 万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて尊大な者と悪を行う者とは、わらのようになる。その来るべき日は彼らを焼き尽して(死滅させ)根も枝も残さない。しかしわが名を恐れるあなたがたには恵みの太陽がのぼり、癒しの光は復活の力を備えている。あなたがたは満ち足りた子牛が牛舎から出るように外に出て飛びはねる。またあなたがたは(私を敬わなかった)悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって灰のようになる。あなたがたは(その日のために)わたしの僕モーセの律法、すなわちわたしがホレブでイスラエル全体のために彼に命じた定めとおきてを学びなさい、と万軍の主は言われる。
主(自分ではなくイエスの父なる神のことであろう)の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は親の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその親に向けさせる(自分がどちら側の人間かを思い起こさせ留まる者と分かれる者とに二分する)。これはわたしが来て、この国全体を撃つことのないようにするためである」

(* 神による世の終わりの日についての預言。歴史的には対ローマ戦争の敗北か。4-2原訳の翼は英文のray光にした。この文は死後の復活を指していて光に治癒の効果があるとの意味だと思う。万軍の主を敬わない悪人(実際は善人)、例えばハスモン家は死後抹殺された。モーセの律法で重要なのは十戒とレビ記と過ぎ越しの祭であろう。過ぎ越しの祭に何が行われるかは前に書いた。我々クリスチャンがユダヤ人でもないのにミサで過ぎ越しの祭を真似てホスチアを食べる儀式は万軍の主の指示に従っていることになる。もう止めた方がいいと思う。本当にイエスが「私の身体を食べ血を飲め」と言ったと思いますか。イエスはエリヤだったことになる。4-6原訳の父は英文でparents になっており両親つまり自分の出自が何かを思い起こすことを指すであろう。イエスの側に付いた者に万軍の主の力は及ばないのが宗教の基本原則)

 上記の翻案が合格点を取れるかどうかはレビ人に裁いてもらう外ありません。聖書の和訳文には独特のくせがあり意味内容を伝えることよりもニュアンスを重視したがる傾向があると感じますが、正確性では英文の方が上だと言われています。Lord Almightyと万軍の主は本来意味の違う言葉ですが万軍の主の方が実態を表しているのではないでしょうか。というのは悪は古くから世界的に組織化されていると言われており、この考え方はイギリス・フランス・ドイツで受け入れられています。ユダヤのLord Almightyがトップの地位にいたのでしょう。彼らには人間にはない共通言語があると言われ、私もブンブンブクブクブクブクブンブンと聞こえる意味不明の会話をしばしば耳にしたことがあります。
 イエスが「私たちに反対しない者は私たちの味方だ」と言ったように悪に対抗する力同志が対立するべきではなく、やっとガバメントが出来て一本化されたのだと思います。これは歴史的な出来事ではないでしょうか。誰がガバメントのメンバーであるかないかは私も知りませんし、こういう線引きほど難しいものはないと思います。黙示録を読み解ければヒントが掴めるのかも知れませんがとても難解です。イエスの教えを基本とするガバメントですが、キリスト教の各派がガバメントのメンバーに無条件に参入したとはとても考えられません。ローマカトリックは黙示録で革命軍に攻撃される立場ではなかったでしょうか?
マラキ書にあるように反キリスト勢力の柱は万軍の主とヤコブとモーセ五書で、キリスト教は今後これらをどう取り扱うべきか過去を振り返って抜本的な考察が必要だと思います。革命軍も成果を上げているようです。

 マラキの預言はWikipediaの“全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言”に詳しく書かれています。111番目の先代ベネディクト16世の後に「ローマびとペトロ、彼は様々な苦難の中で羊たちを司牧するだろう。そして7つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判が人々に下る。終わり。」と書かれ、ローマびとペトロとは現フランシスコ教皇を指すことで意見が一致しているようです。これは彼をもってバチカンが廃墟と化しカトリックが解散する事でしょうか、またはフランシスコの指導の下に全く新しいキリスト教の流れが始まるということでしょうか。もしマラキ書に書かれた古い理念が幕を閉じて、脱皮した蝶のようにキリスト教が生まれ変わるならバチカンは残りますが、外は同じで中だけ変わることが可能でしょうか。ローマで変化が起きているらしい悪魔は受け入れるべきでなかったとの噂は耳に入っていましたが、今も聖職者による性的虐待事件で教皇は大変な苦労をしているようですし、ローマの負の歴史がそんなに簡単に消せるものではないだろうと疑っていました。

 私的なブログなので勝手なことを言わせてもらえば、牧師の思い付きだけを喋っているような新教(説教壇からうろつきまわる蛇蝎のごとくに言われた事がある)、逆にガチガチに形式的な正教会(古い言葉使いで理解困難なミサ。この国で先細りは必至か、でも晩祷は感動的だった)、聖公会は貪欲なイギリス王の私物に過ぎない。キリスト教はラグビーボールを追いかけていると言われています。そんな中で仏教との関連で考えると、新時代の幕開けとして聖マラキの予言が成就し、先ずカトリックが最初に店じまいして欲しいのが現在の心境です。