これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
タンムズが奸計によって窮地に陥って撃ち取られ、私に「最後はどんなことがあっても無事脱出してくれ」と言い残したという知らせはショックでした。暗澹としつつ他方で私を不安に落とし入れる例のデマかも知れない、また人間は何もかも、夢さえも完全モニターされている監視システム下で脱出なんて可能だろうかという強い疑いもありました。ある者は「タンムズは煙だから撃たれるなんてことはあり得ない」とも言うし、別の者は「やられたのは替え玉だろう」とも言う。
私の世代で覚えている人は多いでしょうが、子供の頃福島鉄次という絵物語作家が少年雑誌「冒険王」にアラブの扮装で大刀を揮(ふる)い、天空を自在に飛び回り近代装備の軍隊を相手に戦う怪人を主人公にした「砂漠の魔王」というカラフルな冒険活劇を連載して人気がありました。軍は魔王のアナログ映像を分析して怪人の正体は煙だと判明するのですが、作者はタンムズのことを知っていたのでしょうか。福島鉄次、小松崎茂、山川惣治らの描く絵物語は技術・ストーリー共抜群で当時の少年達を惹きつけました。中でも「砂漠の魔王」には独特の、前後に類を見ないファンタジーがありました。
一歩で百メートルを飛ぶと言われるタンムズでもやられるとは余程手強い相手だ。悪の正体を暴露した私は彼等に随分恨まれているらしいが今更引き返せないでしょう。我々は一体誰と戦っているのか?
しばらくタンムズの様子が聞かれず「天に帰っているのだろう」と言う声もありました。ある夜見た夢で私の間近に軍服を着た将校がいました。彼は偽装して敵軍に潜入した後、これから敵のゲートを通って退出する所でした。難しい局面にも拘わらず彼の挙動は落ち着いていました。門衛に誰何されたが階級章を見せて通される。通りに出ると誰かが後から追いかけて来る気配がする。彼は道脇に並んでいる、とある店に入り子供に金を渡した。すぐに兵隊が追い付いて男はどっちへ行ったか聞いている。子供は気が付かなかったと答えている。私も店の中に入り彼の行方を追ったがすでに姿はない。そこで目が覚めたのですが私の心臓は早鐘のように激しい動悸を打っていました。「あれはタンムズだ」という声が聞こえました。カーキ色の軍服は多分フランコ時代のスペインのものでしょう。あの夢はタンムズが健在であることをアピールしたのだとも取れます。ではこの国で彼が撃たれたという伝聞はやはり嘘だったのでしょうか?この件の顛末は未だ続きがあり現時点ではこれ以上書けません。
次に見た短い夢で私は突然弾丸が間近に飛び交う危険地帯にいました。自分が流れ弾を即座に二、三発食らっても不思議ではないような激戦地でした。そこにいたのは私が顔を知っているような気がするサタンでした。彼が鋭い声で部下に指示していた言葉は、私がかつて一度も耳にしたことのない言語でした。私から見て、サタンは私の側で戦っていたのです。
マタイ16章にイエスがペテロに対し「黙れサタン、お前は神様のことより人間のことを思っている」と叱る言葉があります。イエスがペテロをサタンと呼ぶことだけでなく、人間中心主義がイエスの計画で、もしペテロが本当に人間のことを思っているなら、何故イエスは厳しい言葉でペテロを叱るのでしょうか。ここには複雑な論理的矛盾が感じられ、捏造の疑いを禁じえません。さらに、イエスはシモンに対し「あなたはペテロである。そしてわたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」と言いましたが、マタイ21章の「家造りたちが捨てた石、これがすみの親石となった」の「家造りたち」とは祭司長やファリサイ派等の旧約指導層で、サタンを悪魔として捨てた者たちです。片やイエスはサタンを自分の教会の親石に指名し、祭司長やファリサイ派こそ悪魔に仕えるものだと言ったのです。ここにも矛盾があります。
ルカ福音書22章で「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された」のに対し、マタイ16章でイエスがペテロに言ったとされる「わたしはあなたに天国の鍵を授けよう。そしてあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」という言葉も矛盾します。「ペテロが地上でつなぐことは天でもつながれ地上で解くことは天でも解かれる」とは、ふるいにかける役を与えられたのはペテロだったことを意味します。どちらを正しいと見るべきなのでしょうか。
新約聖書がこういう矛盾を孕むものであるとすれは、2000年前のイエスの企ては失敗だったとしか考えられません。従って新約・旧約を含めて聖書とは負の遺産であり、仏典もまさにそうかも知れない。ですから今回の革命は乾坤一擲の、これからの人間の運命を賭けた戦いなのです。
ルカ福音書10章18~19の「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう」は何を意味するのでしょうか。これだけではよく判りませんが、前半の「サタンが天から下った」と「人間は敵に打ち勝つ権威を授けられた」は関係あると考えられます。ですから人間はサタンの力に助けられているのでしょう。パーリ語は虫の言葉で、多くの仏典がパーリ語で書かれています。ハエの王ベルゼバブは顔はハエだが人間と同じに手足がある姿で画かれ、知恵と力を秘め悪魔と恐れられています。黙示録の蝗も武装しています。
サタンを貶める者に彼の助力はないでしょう。
黙示録1章8の「私はアルファにしてオメガである」は「真実の人間救済の教えを述べる者は私が最初で最後、以前にもいなかったし以後もいない」と解釈されます。ただしイエスの教えの山上の垂訓はそれに当てはまる者が救われることだけを説き、該当しない者(ELSE)がどうなるかの説明はありません。
仏教は虫や猿や虎による欺きの教えで信者は彼らの餌食です。例外的に生き残る者は余程特別な能力か特異な功績があるか、悪に加担する者(プラスマテ)です。いくら優れた仏像を拝んでも経を唱えても金をかけて葬式しても寺や庭に感動しても合格率は救いなんてほとんど不可能に近い数字です。イエスは自分だけが救いの道を示し、それ以外はどれも滅びの宗教で巧妙な破滅への誘いであると言っているのです。私の名付け親からメッセージが入っています。それは「親類縁者に法華から抜け出るよう是非伝えてくれ、来るべき所ではないし我々は彼らに適(かな)わない」というものです。彼とて蔵前高専を出たエンジニアだったのですが、発心して家族を捨て僧侶になったのでした。
最近分かったサタンと私の関係を例に引きます。私は独身の頃千葉県某市に狭いアパートを借りて一人で住んでいました。あの地域を統括するのはお節句に豆蒔きをする大きな寺で、宗旨は猿の教えです。その寺が私に寄越したのは暗闇の神で、その実体はワニです。多分こう言っても何の事か分からないでしょうからはっきり書きますが、大黒天です。福の神なんてとんでもない、人間の子供たちをバリバリ食う beast だそうです。あの頃「お前はえらいのを背負ってるな」と誰かに言われたことがあります。これが何と「改宗後」に書いたある方(Mr. Somebody)であり、また「人生は遊びではない」に書いた海の神(金毘羅)の正体で、私は何度も右往左往させられた訳です。サタンは私に味方して寺に抗議してくれたのですが、この男は仏教徒だ、お前の出る幕ではないと拒絶しサタンを殴り付けた。この「殴り」の技は漫画の孫悟空にある通りぶっ飛ばされる程凄いのですが、サタンはじっと耐えた。私が上から目的を持って(全然自覚していなかったが)降りて来た者であることをサタンは知っていたのです。仏教にとって私が自分自身の何たるかに気が付くまでが勝負でした。
メソポタミアにワニを神格化する古い宗教があったようです。黙示録は難解で目星を立てることさえ簡単には無理ですが、多分海と陸にまたがる beast がこのワニの神でしょう。悪の三本柱の一つと言われているそうです。革命軍がローマを攻撃した時この神が多数の部下を連れて人間を迎え撃ったが、率いている部下はワニたちでした。そして人間側に味方しそのワニと戦って勝ったのがロシアの獣・・・とにかくこれが霊界で今日起きている現象の実態です。
黙示録2章24でサタンに秘密があることに触れていますが詳しい説明はありません。12章9ほかではサタンを悪魔と断定しています。という事はヨハネも旧約の呪いに呪縛されていたのでしょうか。以前私の所に何度か来たジョン少年には何か屈託を抱えている様子があったのですがこの所為でしょうか。ヨハネは死後黙示録を非難されて「サタンが実際何をしているか行って見て来い」と言われたらしい。ペテロがローマで処刑される時逆さ十字架を希望したのは、[
自分はイエスや他の殉教者とは違うから同じ刑を受ける訳にはいかない」と考えたのかも知れませんが、逆さ十字架の話は嘘だという説もあります。
「苛酷なまでの真実」で書いた“人間の運命は今のままで良い云々”という仏教の本音を聞き出したのは「神の臨在」に書いたP(ペトラルカ)ですが、彼も危うく命を失う所をある組織に助けられたそうでほっとしました。PもBも悪が優勢な母国を嫌って Exile中で革命軍の中には Exile が多く、ヤマトの神々は伊勢も八幡宮も反革命だったらしい。伊勢の外宮にはYHWHが祀られているという説があるようです。日ユ同祖論を裏付けてヤマトの神々がエロイムとクラバックに分けられるように、日本にはユダヤの神たちがいます。「改宗後」に書いた“虹を帯びて輝く神”がそのトップでしょう。この神を見た者は三人います。黙示録を書く時のヨハネ、馬上でこの神を見て落馬したサウロ(パウロ)と私です(*註1参照)。私は黙示録の王と王座を取り巻く者たちの情景を読んでぞっとしました。もし黙示録2章20のイゼベルの教え(イゼベルには結婚しない女の意味がある)をカトリック、13章3の“頭に傷のある獣”を仏教(インドで敗北し勢力を失った)と解釈することが可能ならば、この国では三つの保険が悪魔のために掛っていることになります。神道、仏教、カトリックです。
イエスは“あなたがたに蛇や蠍などの敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた”のですが地上のすべてのヘビや蠍を完全に退治できる訳がありません。彼は切手のようなイスラエルの地からそれらを駆逐しイスラエルを浄化しただけなのです。しかしイスラエルはローマに席巻されて荒廃し、イエスの意図を超えてその教えはパウロによりローマに伝導されてローマの国教になり、キリスト教となった。ローマは蛇や蠍のような動物霊が未だ浄化されてはいなかった。そこに失敗の大きな原因があったのだと推測されます。ですからパウロが非難されるべきかと言えば必ずしもそうとは言えない訳で、聖書に汚れた手が入ったとは言え現存する聖書なくしてキリスト教はないし、イエスの名は残らなかったと考えられます。
ただし人間にとって幸いなことには動物のすべてが敵ではないのです。草食動物である牛や馬は心が優しいし、力のある象やゴリラも草食です。だから牛頭馬頭(ごずめず)の神を祀る八坂神社は良い信仰の可能性が高い。蛇もその本性は悪ではなく、私も今まで書いたものを見直す必要がありそうです。ヨハネの考えと違って、黙示録のニコライ教とは同様に良い宗教であると考えられます。何故ならロシアに強い人間の味方がいたお蔭で、信者の真面目な信仰と相俟ってロシア正教は機能したと考えられます。では一体その動物とは何か。その姿を見てキングコングだと言う声がありますがロシアにゴリラがいる道理がない。おそらくそれは人間にとって今なお未知の存在、イエティーまたはビッグフットまたはサスカッチと呼ばれる存在ではないでしょうか。ウラル山脈近くに住む人々は彼らを神として崇めています。
日本でもこの動物霊の助けがあって敵味方の兵力均衡が破れ、世界最初にガバメントが勝利し革命が終息したようです。それだけでなく天からも軍勢が押し寄せ、その力は圧倒的で世界も平定されハルマゲドンは革命側の勝利に終わり、チューリンゲンの和議と呼ばれる講和会議が開かれたのでした。ただしこの体制が未来永劫続く保証はなく、殺されて食われた動物の遺恨や獣畜に堕とされた者の恨みは完全に払拭出来た訳ではないないでしょう。
インフォーマントとしての私は何が本当の情報か嘘かに戸惑い、結論を伝えるタイミングを誤り、「過酷なまでの真実」は後になって聞こえたことを今の状況と取り違えた順序のミステークで、既に「神の臨在」の時点で世界的に大勢は決していたようです。
ガイアの夜明けが始まったのです。
しかしこの項に書かれた悪しき宗教はすべて根絶されたとは言えず、今も我々が目にする悪しき宗教の一見これまでと何ら変わりのない建造物は悪の拠点として相変わらず利用されています。彼らが敗北を認めるのには何かの約束事が成し遂げられる必要があるのかも知れません。
ユダヤ人も天使がイスラエル以外から来たことを知っていました。ポステルはユダヤの始原性を高く評価しましたがこれは誤りでした。サタンやルシファーやタンムズが悪魔と欺いて定義され、人類の始祖はアダムとイブだけではなかったし、ダビデに関する逸話にも疑わしいものがあり、多分アブラハムが論争でニムロドに勝った話も嘘でしょう。旧約聖書の真偽が問われたのはこれが三回目だそうで、前の二回では人々はその厚顔振りにあきれたのでした。
(序で乍ら私はサタニストやルシファーニストと呼ばれる人々の団体や結社とは全く関係ありません。)
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・人間はカニバリストを最大級の罪人とみなし彼らが極刑に付されても異議を唱える者は少ないでしょう。歴史的真偽はともかくソニー・ビーン事件の顛末もそうなりました。それにしてもビーン一族が近親相姦によって宿した多数の胎児もアボートすることなく通常通りに魂が与えられ人となったことには逆に冷酷非情ささえ感じます。sein は sollen に優先するのです。
霊界では動物同志で殺しあう方が犯罪的で、動物霊が人間を食の標的にしても別段譴責されないで当たり前の事とされる面があるようです。現世と霊界は鏡に映った実像と虚像のように対称的です。
私に小学校以来付いていたグアナコと呼ばれる少女霊がいました。私がこのブログを書き始めてから彼女は私の文章を上手に英訳し(だからこのブログは世界で読まれているらしい)仲間の尊敬を集めていたのですが、ある時消防署に行って「今日は何月何日ですか」と聞いたことがきっかけで人間であることが露見し、捕えられてメスのブタに食われてしまったのです。「生き延びたかった」と泣いていたそうです。
・調査の結果私と一緒に日本語の入門コースを受けたクラスメートだけでなく上から降った他の霊もほぼ全滅で、この国では黙示録に書かれたようには行かなかった。「無事でこの世に出かけた者は無事でこの世から帰って来る」約束は守られなかったのです。宗教的な環境(仏教と神道)のせいだと思われます。天の怒りは頂点に達し、報復としてロケット・ミサイル・バズーカが撃ち込まれ、根城にはきれいな水爆さえ投下されて、さすがに彼らもやり過ぎを認めざるを得なかった。
・大阪はすんなり革命の理念を受け入れて意思統一されたが、東京にいる権威者たちは首を縦に振らず足並みが揃わないらしい。ある神が現れて「元凶は赤坂見附だ」と言ったのですが(「ネーミング」の項の権田原に関する記事参照)、「あれは三輪の神だ」という声がしました。
「カトリックを悪者扱いするな。名古屋で対策を講じている」という声があります。南山大学が話をつけたのでしょうか。
「ローマは宇宙を視野に入れている」とも言われました。異星からの来訪者を考慮に入れているのでしょうか。
新潟では「キリスト教徒は団結すべき」との動きがでているらしい。
・陰謀論者はケムトレイルが人口抑制の薬を蒔いていると言っていますが、人口増加によって動物たちの住む場所が侵害され怒りを買っているているのは事実でしょう。すべて動物が悪いのではなく人間にも非があると死んでから認める者も多いそうです。ある少年が「地球に来るたびに干潟がなくなっている」と言っていました。列島改造論が喜んで受け入れられたとは思えません。
(*註1)
後述「QUO VALDIS」に登場するペテロを入れると四人になります。QUO VADISが全くのフィクションか多少共真実に立脚しているのかは何とも言えませんが、ローマに”ペテロがここでQUO VADISと呼びかけられた”と書かれた石碑があるそうです。石碑がもともとあったのか作品が書かれた後に出来たのか判りません。