これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
このブログの冒頭の「ガバメントの基本方針」を誰の声とも知らず聞いて書き綴った時、グノーシスという言葉が出て来て「やれやれ面倒なことになりそうだな」と思った。グノーシスについてどうしろというのかも正確に把握出来なかった。当時の私にグノーシスについて何程の知識があっただろうか。昔プラトンの「国家」を手に取って途中で投げ出した記憶がある。瞬間そんな事を思いめぐらしたから続くマリアの件も聞き間違えたのかも知れない。これは今となって考えるとマリア信仰を見直せというエポックメーキングなメッセージで、正しく聞き取っていれば早速にも取り掛からなければならないテーマだったが、むしろ「そんな筈はない」とメッセージ全体を聞き違いと疑ったかも知れない。それだけ私の内側に「聖母マリア」について固い先入観が出来上がっていた訳で、自分がガバメントの方針を間違って聞き取り、それが訂正を要する重要なエラーであると気付くまで随分時間が掛かった。然し遅ればせながらでも気が付いて良かったと思う。グノーシスについては他人に向けて書いたからには、何が問題なのかいつか自分なりに理解しなければならないとずっと宿題を抱えていた。今回手に取って読んだ本は
(a)グノーシス主義の思想ー父というフィクション(春秋社)
(b)グノーシス 古代キリスト教の異端思想(講談社選書メチエ)
の二冊である。
イエスの布教活動を見ると、安息日の休息や飲食物(コシェルだけでなく多分アルコールについても)や食事前に手を洗う事といった、ほとんどどうでもいいような事にまで「お前たちにとやかく言われる筋合いはない」と、小理屈を並べて殊更にユダヤ教のルールに従うことを拒んだような印象を受けないだろうか。おそらくその理由は、もし一歩譲って何かある事について「その点はお前たちと共通だ」とでも言えば、ユダヤ教徒に「ではお前たちの新しいルールと我々のルールのうち、どの部分がお前たちだけのルールで、どの部分が共通で、どの部分が我々だけのルールかはっきりしろ」と難題を吹っ掛けられることになるだろう。実際の布教活動がまだ終わっていない段階でそういう談合をすることがどんなに不毛で煩雑な作業になるかは目に見えていた。今までにも議論を吹っ掛けられてさんざん討議したが、どっちつかずの結論しか得られず結局は現状維持に終わった。だから使徒たちには「旧約の用語は一切使うな」と指示していたのだと思う。イエスとしてはペテロのような隠れユダヤ教徒を抱えている問題もあって、余計な議論はしたくなかった。キリスト教グノーシスの各派を評価する場合これらのことをベンチマークとして判断しなければならないと思う。
イエスの指示はペテロの手紙第二の3:16「パウロの手紙にはところどころわかりにくい(hard to understand)箇所もある」に表れている。そういう背景を知らないパウロが手紙に割礼などという言葉を使ったのを読んで、指示を知っていて手紙を受け取った側は「パウロと何者か、本当にイエスの了解を得て布教しているのか」とペテロへ疑問を投げかけたのではないか。ペテロの手紙二はそんな状況で書く必要にせまられたのであり、3:16は「わかりにくい」のではなく「理解し難い、おかしい」と翻訳すべき所である。「H8」の項にも書いたが、新約聖書と旧約聖書とは二次元的に上から見れば重なる所があるにしても、離れて棚引く二つの横雲のように三次元的に見れば別のものなのである(*註1)。イエスはアポロンであり、フィロパポスであったという、これまで書いてきた私の主張に説得力があったかは定かではないが、「アバターは邪悪」の項の(*註2)に書いたように、アポロンであった時は自分の真実の父はゼウスではないと思ったのであり、イエスであった時は母親マリアも自分と本質的な同一性はなく彼女の胎内の子に宿っただけと知っていた。この自覚(目覚め)が重要なのであり、彼はユダヤ人を子々孫々まで取り込もうとする十戒の5.「父母を敬え」に従わなかったのである。
私はグノーシスについて放置していた訳ではないと自分で言い訳していた。このブログでカタリ派を取り上げたし、ベンチマークに照らせばカタリ派は100点満点だった。そのカタリ派はローマカトリックによって異端グノーシス二元論の信奉者集団であると糾弾され、ローマに呼応した当時のフランス王朝とドミニコ会によって完全に命脈を絶たれた。もとはと言えばマグダラのマリアがイエスの子を宿してマルセイユに上陸し、その子孫はメロビング王朝設立と関係あったとされる。実際カタリ派はマグダラのマリアを信仰していた。だからカタリ派の抗戦とモンセギュール城の陥落、信者全員の火刑はイエスに涙も枯れるような悲憤とフランスに対する愛想も尽き果てるような絶望を味あわせただろう。また失敗したベンチマーク方式への挫折感とペテロに導かれたカトリックへの度し難い憎悪を募らせたと見ても見当違いではあるまい。カタリ派だけでなく、歴史の舞台でモートの下で行われた演目はすべて悲劇だった。しかしこれらはこの項で discussするテーマより後々の話であり、今のフランスはモートに乗っ取られた代表的な国の一つである。今回紹介する二冊の本ではギリシャで生まれたグノーシスの萌芽・発展と2世紀半ば頃までが中心となる。
本の内容に入る前に若干の前置きをしたい。現在ガバメント側と旧勢力側は各地で厳しい対立の最中にある。ガバメント側に集まった若いメンバーの中に人の子で人間の年でいえばまだ十代の立派な身体をした少年がいた。どうしてそんなに体が出来ているのかと尋ねた所「自分の仲間はカトリックの信者である。彼らは人間だがカトリックは代表的なキリスト教だと簡単に考えて信者になった。しかしカトリックでは思春期が終わると我々は犠牲に捧げられるという霊界のルールがあり、生きている時間が限られている。だからそれまで頑張って働いて他の仲間のためにも財産を残したかった」と答えたのだった。この事はブログに書いてくれと頼まれた。創世記でアダムとイブが楽園にいたというのは、未成年の間は人身御供のために囲われていたのだったし、カトリックのミサで「初めのように今もいつも世々に」と栄昌を唱えることは創世記で始まったことが今も将来もずっと続くよう唱和するのだから、信者はこのルールを受け入れていることになる、という訳である。
有名なギリシャ神話の一つに「パンドラの箱」がある。人類最初の女であるパンドラは貰った箱を開けないようにきつく言われていたが、好奇心から開けてしまった。すると中に閉じ込められていた諸々の悪が箱から世界に解き放たれ、最後にホープさんだけが残された、という話である。「パンドラの箱」は(a)(b)の本に似たような話はあるものの直接引用されてはいない。この神話は一体何を言いたいのか。多分「好奇心から箱を開ける」とは、寄って来る男性の誰かにロマンスを感じ、彼が何を求めているのかという好奇心に負けて、心を束縛していた紐を解き女性器を晒すことを意味するだろう。諸々の悪とは堕落・背徳・劣情・猥褻・淫欲・姦淫・不倫etcの言葉で表現されるような恥ずべき行為であり性病や堕胎などが齎す悪も含まれるだろう。それでも男と接することによって子供が得られ、親子の愛情というかけがえのない幸せを得る望みがある、というアレゴリーではないか。(a)の本はこの手の婦人科の話ばっかりで食傷した。
最近NHK-BSでブラッド・ピットがアキレスを主演した映画「トロイ」を見た。多分これはブラピの代表作だろう。この映画を封切りで見た時(また昔イリアスを読んだ時も)気が付かなかったのだが、アキレス(アキレウス)は自分をライオンと言っていた。なるほどアキレスが総大将アガメムノーンになかなか従わなかったのはライオンは他の動物と決して群れないことを指すだろう。ギリシャ(アカイヤ)軍はゼウスを信奉し、対するトロイはアポロンを信奉する。アキレスは戦闘開始に先立ちトロイの門前に据えられたアポロン像の首を剣で一撃のもとに断ち切る。トロイは人間の国である。アキレスがトロイの王プリアモスの長男ヘクトールと対峙した時、ヘクトールが昔の約束を持ち出すと、アキレスは「人間とライオンの間に約束事は成り立たない」と聞く耳を持たない。イリアスが神話とされるのもむべなるかな。バチカンは(余り言いたくないが私が言わなければ誰が言うだろう)ある人が言うには化け物屋敷で中心にレオ族がいる。レオ族は恐れられている。尚、トロイ戦争勝利後オデッセウスが帰還を目指したイタケは昔も今も悪魔の本拠地である。
ある者はアキレスのようにこの世で人間の姿形の中に動物の霊魂を宿している(人の子を宿す人間の方が絶滅危惧種である)。グノーシスの表題である「汝自身を知れ」は「お前は霊的に人間か動物かを借問せよ」と問いかけているのである。だからグノーシスの二元論とは霊肉二元論である。(b)の本は二元論に無関心で異端論に比重を置いている。「汝自身を知れ」の問いかけは今日でも生きている。もし自分は人の子であると思うならカトリックに入るべきでないし仏教からも去るべきである。マタイ8:22でイエスは父親の葬儀に行こうとする男に「私に従ってきなさい。そして死人を葬ることは死人に任せておくがよい」と改宗を勧めた。当時のイスラエルの場合ユダヤ教orイエスの二者択一だが今日の日本の場合(否世界でも)選択はより複雑である。よく考えた上で父が信奉する家宗に貴方がマッチしていないと思うならば貴方は父とは別の宗教を求めなければならない。これはリアルな課題であって仮定の話ではなく、「父というフィクション」という(a)の副題は父と子が同じ関係かどうかというテーマを軽視しているのではないか。更に言えば、たとえ貴方は自分が人の子ではないと気付いたとしても、もし私同様に悪魔フリーの宗教を真剣に探している者であるなら、今回の本はほとんど役に立たないだろう。
(a)によれば今日も時折グノーシスは話題に上るが、その言説は1.ロマン主義に由来するもの、2.文献学的・歴史的実証主義に基づくもの、に二分されると言う(a-16)。私のアプローチは、そう言われることを好きか嫌いかは別にして、3.オカルト的であろう。霊界が私に何を訴えているか、どういう変遷を経て来ているか、今何が起きているかがグノーシスに関心を持つ場合の柱である。筆者が非難するロマン主義的言説とは理性(科学的思考)によって照らし出すことの出来ない領域(宇宙、無限、闇、悪)に関心を向けること(a-19)でユングの手法を例に挙げ、彼の説く所(おそらく元型やUFOのことか)はでたらめで妄想に過ぎないと、診療医でもないのに断定している。筆者は2.の方法を選びこの本を書いているのであるが、その努力が果たして歴史をどれだけ実証できるか、大きな陥穽が待ち受けていたり未消化な課題が残されたりするのではないかという危惧を禁じ得ない。諸々のグノーシス文書というものがどれ程あいまいで嘘に満ち、意図的な企みとすりかえを隠しているか、また各人各様それぞれの複雑多岐な観点を秘めているかは計り知れない。一歩間違えば谷底に転がり込むのであり、迂闊に近づくのは危険であろう。このことは勿論 (b)にも当てはまるし、ご両人とも先刻ご承知のことだと思うが。ただし付言すれば、新しく書かれた本という本を虱潰しに読み、マルかバツかを付けている者がいるのであり、本というものは先ず時代の要請に答えていなければならないとされる。すでにマタイの「女は近寄りイエスを拝して言った、主よ、わたしをお助けください。イエスは答えて言われた、子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのはよろしくない(15:25~26)」は、イエスが犬と話しているのではなく人間の女と話していること位難しい本を読まなくてもわかるだろう、と言われている。続く15:27の「すると女は言った、主よ、お言葉どおりです。でも小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」は、女自身犬族であることを分かっていたのだろう。ライオンの子であれ鹿の子であれ、はぐれて一匹だけになれば草むらの陰に身を潜め、ライオンの子はライオンの群れが来れば出て行って仲間に加わり、鹿の子は鹿の群れが来れば仲間に加わるだろう。同じくマタイ19:14の「イエスは言われた。子供たちを来させなさい。わたしのところに(来たい者が)来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」で、イエスは子供たちも自分が人の子であることは自ずから分かる筈だと言っている。子供たちとは創世記の楽園で未だ犠牲にならない者たちである。しかし今日の人間にこういう自覚が残っているかどうか、その可能性は低いと思う。いずれにせよこうした背景を考えればグノーシスとは「新たな父を探求する試み(a-46)」というよりは「省みて自分の父を求める試み」と言う方が近いのではないだろうか。
プラトンの「ティマイオス」の中で彼が造物主デミウルゴスをどう扱ったかは注目に値するだろう。彼はその中でデミウルゴスを悪なる者(公式見解)かも知れないと言いつつ優れた良き者(私的見解)と証していた(a-51)。デミウルゴスにはヤルダバオートという別名もあり、旧約聖書ではヤハウエと名乗っていたとされるが、「造物主」を名乗る者同士が名前の正統性で争った形跡はなく、呼び名が違っていても同一の実体を指すのは間違いないだろう。ヨハネ福音書でイエスがユダヤ教祭司に対して「お前たちの父は悪魔である。悪魔はもともと嘘つきで人殺しだ」と呼んだヤハウエはバアル(またの名をベルゼバブ)だった。だからデミウルゴスとはバアルである。論理の飛躍というよりむしろすっきりする。バアルはモートと兄弟であり、悪魔の長である。そうするとバアルに恩を感じその味方をするプラトンはモートだったという可能性が高くなる(このことはジャック・ラカンとの関連で後述する)。ところでデミウルゴスが造物主であるとはどういうことか。デミウルゴスが生命の系統樹のうちどれとどれを作ったということはないだろう。そうではなく、彼は懐妊した人間(女)の胎に人間以外の霊を送ったのである。つまり人間のハイブリッドを作ったのである。ゼウス、ヘラ、アテナもこうして生まれたハイブリッドだった。他方、神の計画どおり人の子が人間になることもあり、イエスは彼らに目覚めを呼びかけたのだった。ギリシャの3大哲人の前にソフィストが活躍した時代があった。ソフィストは相対主義(人間は立場によって価値観が違う。その原因は内蔵する霊魂がそれぞれ違うから)と人間中心主義(人間の持つ価値観が中心でなければならない)を唱えた。それはゼウスを神として信仰しないことであり、だからソフィストは神に対して不敬であると批判された。ガバメントの方針も人間中心主義である。ソフィズムの背後にはソフィアがいたのだろう。おかげでソフィアはグノーシスの捏造された神話でとんだ濡れ衣を着せられることになる。
ギリシャ神話でヘルメスは天才的な嘘つきでありアポロンの敵対者であった。従ってヘルメス選集も眉にたっぷりツバをつけて読んだ方がよい。ヘルメス選集の一つ「ポイマンドレース」(a-77)の「ポイマンドレースは父なる神、ロゴスは神の子」はハッタリである。「両性具有のポイマンドレースがロゴスと交わってデミウルゴスを生み出した」など想像するだに寒気のする作り話で(この本の筆者はどういうことか想像しなかっただろうか?)、悪い冗談もいいかげんにしろと言いたくなる。人間と交わった湿潤なフュシス(自然)とは後で出て来る「シェームの釈義」の「闇」のことであろう。
「ヨハネのアポクリフォン」(a-90~98)はヨハネ黙示録やヨハネ福音書冒頭部分と似ている。「始めにことばがあった。すべてのものはこれによってできた。できたもののうち一つとしてこれによらないものはなかった」という文章を私は誰かが後で勝手に挿入したものだと思っていた。旧約聖書創世記然り、「みんな(偽りの神による出まかせの)言葉だけの作りごとですよ」の意味だと理解したからである。しかし共通点のあるこれら三つのヨハネ文書の存在を知って「彼もムネモニックな人間だったか」と思わない訳には行かなかった。ヨハネはアポクリフォンでも一服盛られたか。ひょっとするとヨハネは独特の能力を持つサイキックだったかも知れない。
5.知恵の過失の「ソフィアが蛇とライオンの姿をした奇怪な化け物を生んだ」とはライバルであるソフィアを誰彼構わず交わるふしだらな女に仕立て上げ、あらぬ汚名を着せるのが目的である。実際そんなことをする者は別にいた。「彼女はこれをプレローマ界(神々の世界)の外に投げ捨てヤルダバオードと名付けた」は、異星からの渡来人である自分たち悪魔もソフィアを介して神々とのリンクがあり、その末端に連なる者であると権威付けている。
7.アダムの創造で、彼らは自分たちがこの世の支配者になれると思ったが「(この世にいる)人間と(霊界にいる)人間の子がいる」という神の声を聞く。と同時に神はその姿を水面に映し出す。その時すでに生贄にするためアダムとイブをエデンに捕えていたが、創世記に合わせて自分たちが二人を作り出したことにしている。
8.模倣の霊で、彼らは(この世にいる)人間の女が懐胎すると(霊界にいる)人間の子がそこに入ることを見て知った。そこで自分たちの霊が模倣の霊となり代わりに人間の女の胎に入った。こうして生まれたニセ人間は本来人間に備わっていた理性的な性的自制を持たないため激しい性欲を肉体に惹起させた。(オヴィディウス的な a-66)コスプレのようなもので、仮の姿のお遊びに興じてしまうのである。また「生命の霊が到着したことを察知したヤルダバオードがそれを我がものにすると欲した」とはカニバリズムの公然化ではないか。
9.セツの種族の誕生で、それらとは別に心も体も人間である原型に忠実な種族もいる、と言っている。もともとアダムとイブはそうだった。7.で、神が下界を見て自分の姿を水面に映し出したことにしたのは筆者が言うようにナルキッソスの神話を模したのだろう。ナルキッソスが自分の姿を追い求めて水死したように、神よ貴方も自分の似姿を求めて下を覗くと身を滅ぼしますよ、とオチョクッているのである。結論を言えば、アダムとイブなんてベンチマークのルールに触れている。ヨハネはこんな記録を残すべきではなかったが、別段聖書とは関係ないので問題はない。
ラカンによる鏡の理論(a-118)はこの本で見つけた最大の発見であった。興味本位でフロイトやユングは多少読んだがラカンは全く知らなかった。ラカンによれば幼児は最初に鏡に映った自分の姿を見て歓喜の感情に満たされると言う。これを読んでまさに私が生後18カ月前後の頃、鏡の中に初めて自分を発見した時何を思ったかを思い出した。約80年前の住宅は現在のようにあちこちに鏡はなかった。母が針箱と一緒に出したりしまったりした手鏡で最初に見た自分の顔は「これが自分かしら、何か違うな」という戸惑いで歓喜とは全然違っていた。たしか後ろから「それが東洋人の子供の顔だ」という大人の声が聞こえたように感じたが、何のことか分からなかった。モートの場合多分ラカンが言うように歓喜の感情を覚えるであろうことは想像に難くない。ウイーンの講和会議でメッテルニヒが「ちよっとはましな連中はみんなモートだ」と言ったそうである。デミウルゴスを善神と見たプラトンもラカン自身もそうなのだろう。ヨーロッパにはモート人が・・・・・。テレビでニュースを読んでいる女性は十代の頃から遊び歩いたプレイガールだったが、彼女も念願かなって人間になったのが嬉しくて千載一遇のチャンスとばかり男と遊んだと知って同情心が沸いた。鏡が自己愛と結びつく云々というラカンの論理は人によりけりではないか。また母親が自分だけのものではないという寂しさは妹が生まれた時に切実に感じた。妹とは15カ月しか違わないから、母が生まれたての妹ばかりにかまけていた頃私はまだまだ母に甘えたい幼児だった。
「プレデター」という映画で謎のプレデターは特殊なスーツを着ていて、すぐそこにいても背景の中に同化し姿を隠すことが出来た。私の想像だが霊というものも似たようなスーツを着ているのではないかと思う。それを脱いだときだけ姿が見えるのである。女神がしばしば水辺で見えるのは水浴びをする時どうしてもそれを脱ぐからで、男神も顔を洗う時に脱がねばならないから「顔が水に映る」のだろう。バレンティノス派が至高神を深淵と呼んだ(a-124)のは、至高神の顔が見えないのは彼の顔を映す水面が井戸のはるか底のように深く、そのせいで視力が届かないからだと思ったのではないだろうか。光の届かない暗闇に本物の至高神がいる訳がない。むしろ顔が見えないのは地下深い穴にいるモートである。人間が別の惑星を経て地球に来るまでの長い歴史上、神が人間に顔を見せたことは多分あったのではないか。すると神の顔そっくりの別人が現れてなりすまし神を演じたために大混乱を起こした。それに懲りて新約聖書では一人子だけが神の顔形を知っていることにしたのだが、このやり方はうまくいったと思う。ソフィアを獣とさえ交わり、父と近親相姦を望むような淫乱な神格と捕らえるのは(a-131~132)にせの言説を真に受けた逸脱であろう。そんな女の名が何で「叡智」なものか。
続く「シェームの釈義」(a-133)は何事かを語ろうとしている。この物語の主人公は「闇」であるが変じて女性器となる。つまり「闇」は女であり、パンドラの箱の神話を連想させる。「闇」とは陰であり愚かさでありshameであって、叡智の光の対極にある。ここに女同士の運命的な対立がある。女をコインと見立ててソフィアを表側とすれば裏側である「闇」とは誰を指すのか、もうお分かりだろう。「魂の解明」(a-144)は彼女を同情的に描写している。シモン派の神話に出て来るエンノイア(思考)も上記の「闇」と同一の女神であるが、彼女は嘘か真かかつて「至高神」の伴侶であって「世界」の創造ために働いた天使を生み出した女だ、とは驚きである。しかしその美しさの故に数々の支配者の欲望の対象となり、人間の体内に閉じ込められ何世代にも渡って女の肉体から肉体へ輪廻転生した(a-145)というから、他には考えられない(この「至高神」とはヤルダバオート、「世界」とはアルコーンであろう)。エピファニオス「薬籠」ではエンノイアを男性の欲望の被害者というよりはヴァンプとして扱っており(a-147)、この方が私の見た夢に近い。こういう干物の裏返しはよくある話である。ともかくこんな下品な婦人科の話ばかりで、バレンティノス派も「シェームの釈義」も「魂の解明」もシモン派も怪しいと思うが、次の4.仮現論(a-146~)で事態は思いがけない展開となり現世の話になる。
リヨンのエイレナイオスはその著「異端反駁」で、「救済者シモンは転落したエンノイアを目覚めさせ、悪く統治された世界から救い出すためにこの世に来た。彼自身は人間ではないが人間として現れ、ユダヤにおいて受難したと思われていたが実際には受難していない」と説いた(a-154)。これを「シモン・ペテロは身を落としたマリアに女神としての過去の栄光を目覚めさせ、イエスによって統治される世界で失われる彼女の権威を蘇えらせるためにこの世に来た。彼自身は人間ではないが人間として現れ、ローマで受難したと思われていたが実際には受難していない」と置き換えればぴったりと歴史に合致して理解出来るだろう。まさか使徒たちの筆頭格であるペテロを裏切者とは思わず、シモンを魔術師シモンと取り違えてユダヤの地にこだわった点大きく減点されるが、結果的にシモン何某(なにがし)が何のために来たかという目的は正しく把握しており、成程そういう事だったかと納得させられる。結果、ローマカトリックはマリヤ信仰を確立した。刑場で身体から離脱したイエスは身を隠す衣を着ないで現れ、復活した自分の姿をペテロに見せたことになっている(ペテロの黙示録 a-156)。
グノーシスの終末論(a-160)で「新婦の部屋」(a-169)が意味する所は未来的で私の理解と想像を超えている。ともかく現在の「この世」の状態は無茶苦茶な混交と人の子の劣勢であり、「あの世」での状態は悪魔の優勢---俗な表現でいえばのさばり---とカニバリズムである。彼らとの間に時間的な約束があり、これまで比較的放置されていたが、ブルーブックに書かれていたミレニアムの到来と共に、ガバメントという全く新しい統治形態が出来たということはあるのかも知れない。また悪魔の企みの狡猾さや実力(ナノワイヤーのようなテクノロジー、ニセのアバター、マインドコントロールetc)も当初予想した域を超えていたかも知れない。「新婦の部屋」という言葉は新しいカップリングの形態を暗示するが、すんなりそれに移行出来るとは思えない。気になるのは偽りの神々の正体を暴露する誰とも解らない「真実の神」が出現し、それが救いの始まりになるという予告(a-155)である。
第四章「息を吹き込まれた言葉」(a-179)以下は簡単に済ませたい。キリスト教の背後にグノーシスの霊肉二元論がありイエスは人間に霊的な「汝自身を知れ」と呼びかけた。宗教の原則は Cosa Nostra(俺たちが捕まえた魚は俺たちのもの)でありユダヤ教徒(及びすべての既存の宗教)の信者はほぼ全員悪魔の餌食であった。だからイエスは人の子に「目を覚ましてこちらに来なさい、でないと滅ぼされます」と呼びかけた。仲保者としてのイエスによる救済は別に難しい事ではなく「無事仲間の所に帰りなさい」であるが、間違った生き方をした者は地獄の悪魔に引き渡された。「看板に偽りあり」のカトリックはキリスト教の出先機関ではなく独立したローマ教として信者を自分のものにし、自分で審いた。成程マリア信仰をはじめモーセの遺産を引き継ぐなど独自色を出しているが表向きはキリスト教を謳っている。これもこれまでの例に見たように「悪魔は似て非なるものを作り出す」の一環だろう。ニーチェの「キリスト教は大衆向けプラトン主義」(a-188)は、イエスが掲げたキリスト教がプラトン主義であったかと言えば明白な間違いだろう。プラトンはデミウルゴス派であった。しかしまあ、マリアやペテロが中心であるローマ教はニーチェの言う通りかも知れない。
フィロンも創世記を再定義することで(a-190~)ベンチマークを犯している。私はロゴスと思しき個体の訪れを時々感じる(PKディックのValisでもホースラバー・ファットにロゴスが侵入することがあった)。ロゴスには善意だけしか感じないが、彼とイエスの関係が実際の所どうなのかは分からない。しかしハルナックの、ヨハネの錯覚もしくはヘルメス神話の毒に犯された「イエス=ロゴス」という定義(a-195)は成り立たないと思う。ユスティノスも同じ(a-196)過ちを犯し、加えて聖餐式で本当にイエスがパンを取り「これは私の身体である」ワインを取り「これは私の血である」と言う訳がない。これでは「信者の中から健全な男子を捧げよ」とマラキ書で求めたLord Almighty の要求通りイエスを生贄にすることになる。ユダヤ教徒としては年一度の最重要の儀式である「過ぎ越しの祭り」に関してイエスが「決して参加するな」と指示し、言い残した代替案を何とかして捻じ曲げたかった結果以外考えられない。エイレナイオスの新・旧聖書の再統合(a-202)もベンチマークの重大な違背と見て然るべきである。無原罪の処女マリア懐胎のエピソードは美化すべきではなく「マリアとは妊娠したにも拘らず私は処女ですと主張する不品行で厚顔無恥な女ですよ」と後世に警告するのが狙いであった。まして旧約の正典化は最悪でペテロの思う壺であった。クレメンス(a-203)については、ここに抄訳が出ている限りではギリシャ哲学にはキリスト教の種火(フィロパポスの教え)の意味があり、プロメテウスの火と同様人間を助けるものと見做している点唯一常軌を外れていない。しかし「ユスティノスと同様キリスト=ロゴス説を支持した」のであればやはり錯覚している。もしソフィズムをキリスト教の温床とはっきり主張しているのであれば特筆に値する。
この本を最初読んだ時、まるで右から左に、または左から右に、立ち枯れた何本もの白い倒木が行く手を阻む道に迷い込んだようで途方に暮れた。しかしレビューを書くためにもう一度読み返した時、気付かなかった新しい発見が続々と湧き出るのに驚いた。ティルトリアヌス(a-205)について何かを言うとすれば三位一体論であろう。私はこの論理に不満を感じていたが何が不満なのか分からなかった。父と子と聖霊の三位一体論とは懐胎した女の腹にいる子に父と同じ霊を宿らせることであろう。この原則を無視した結果が今の惨状を引き起こしたとは言えないだろうか。ユダヤでは母親がユダヤ人であれば子はユダヤ人と認められるが、おそらくヘブライでは父親が基準だった。オリゲネス(a-207)については「キリスト教は学者が余計なことを言わなければもっとうまくいった」と神が嘆く学者の筆頭であっただろう。彼の膨大な知識は旧約聖書を知悉した結果であり、彼は「これは違う、これはこう変えた方がよい」と新約聖書テキストに朱筆を入れたそうである。やはりプラトンを重用し創世記を引用している。旧約がどんな世界を作り上げていたか、その実態は旧約の文言を色々と知っていて表面的に並べただけでは掴めないし、そのアンチテーゼである新約聖書の意図も素直に頭に入っていかなかったであろう。しかし「諸原理について」の紹介(a-218)は、確かにその通りだ、彼にはこの本に書かれた面もあるのかも知れないと反省させる。聖書の霊的解釈とはどういうことだろうか。
「三部の教え」(a-222~)については、筆者が用いる用語と概念が余りにも私と違うので多くを語れない。宇宙で神を知るものは、今はそういうことにしているがイエスだけではあるまい、ソフィアは「ヨハネのアポクリフォン」に書かれたような神格ではあるまい、キリスト教は旧約聖書をご破算にして考えなければなるまい、ロゴスとイエスとは別であろう、筆者には神と悪魔の対立という概念がない、表に出ないで隠された悪魔の意図は何かを考慮に入れない・・・エイレナイオスについてこれまで私はクレームばかりを付けたがここにある「異端反駁」からの抜粋(a-229)に関しては、異端者(つまり悪魔)が邪悪な企みを持って似て非なるものを作り用語を混乱させ自説を尤もらしく粉飾して、如何に人間を迷わせたかを嘆いている点正当に評価すべきであろう。「フローラの手紙」(a-230)は律法を三つに分けている。しかし律法を分けたからと言ってフローラという女性信者に何をせよというのか。新訳聖書はそんなことを求めていない。律法に関われば邪悪な全く別の企みに絡め取られる危険が増すばかりであろう。世界的にヒットしたスリラー小説「ミレニアム」はレビ記の恐ろしさを書き表している。
グノーシスが古代ギリシャ時代からあった思想であるにせよ、(b) の本で筆者がキリスト教グノーシスと呼ばれる、初期キリスト教会で広まった思想に注目するのは(b-6)妥当なことであろう。前項に書いたように新約聖書(各人各様の視点から書かれていてまだ整理されていなかった)が日の目を見てから夥しいグノーシス文書が書かれたのは、そのほとんどが旧約の立場から新約の信徒即ちキリスト教徒を混乱させ罠に掛けようと意図するものであったとは言えないだろうか。ギリシャで始まった、今だ定義の定まっていないグノーシス的用語や人名がその首謀者によって歪曲され蒸し返された。これに加えて彼らが新しい物語を作るタネにしたのは主にヨハネ文書(ただしその一部)であろう。さらに人々の庶民的な興味をひくために、まだその記憶に残っているギリシャ神話も活用された。そうして出来た物語の持つ企みの邪悪さを見抜いていたのはエイレナイオスだけだったかも知れない。彼の書いた「異端反駁」は異端という言葉を正しく使っている。この言葉には堀米庸三の「正統と異端」以来、力と権威を持つ多数派が正統でありそれに反対する者が異端というニュアンスがあるが、そうではなく神を信じない信仰が異端なのであり悪魔も異端者である。
またキリスト教グノーシスにおける認識の対象は「創造神の所産であるこの世界は唾棄すべきすべき低質なものであること、人間もまた創造神の作品であるが、その中にごく一部だけ、至高神に由来する要素が含まれること」を知ることであり、救済とはその本来的自己がこの世界から解放されて至高神のもとに帰ること(b-7)という記述がある。この「創造神の作った世界」とは、譬えて言えばレーニンとスターリンがソビエト・ロシアを作った、毛沢東が中華人民共和国を作った、金ファミリーが北朝鮮人民共和国を作った、始皇帝が秦を作った、というような意味の「世界を作った」である。また人間は本来彼の作品ではなく、彼は霊と肉が違う人間のハイブリッドを生み出した。それが今はこの世の多数を占めているが、その中に霊と肉が同一の本来の人間もおり、そうした人間に自覚を呼びかけ、自分のもとへ来なければ来世の救いはないというのがイエスの教えであった。それによって死後「創造神」とその配下つまり悪魔の手から逃れることが即ち救いあった。救いの可能性の有無は人間を構成する何か特別な肉体的・精神的「要素」の問題ではなく、一に人間の宗教的選択に懸っていた。地上のあらゆるものは至高神が作ったものであり、この世は生存競争の場所ではあるが本来生きとし生けるものにとって恵みであった。その証拠に、プラトンのようにハイブリッド人間は嬉々としてこの世に来るのである。「この世が唾棄すべきすべき低質なもの」とは、霊界で彼らが「あんな所最悪の場所だ」と人の子を騙して行く気をなくさせ、代わりに自分たちが行くための嘘であった。
冒頭で「黄金のロバ」と呼ばれるAD二世紀後半に書かれた変身物語を紹介(b-14)しているが、その中に劇中劇の形で納められた「アモルとプシケー」の物語から第一章が始まる。アモルとは愛の神キューピッドであり、美しいプシケーはアモルの妻であった。この物語の登場人物でプシケー(恐らくプッシーというスラングと関係あるだろう)だけは人間であろう。二人は通い婚の関係であったというが、多分プシケーは夢の中でアモルと愛し合っていたのである。彼女は「好奇心から」2度過ちを犯す。好奇心から犯す過ちとはパンドラの神話にある過ち、つまり不倫であろう。プシケーが男に会ったあと夜中に帰って来て部屋に灯りをつけるとアモルを発見した。そして一度はアモルに捨てられる。アモルはゼウスによって神格を与えられているがいつまでも子供である。「アバターは邪悪」の項でニセのアバターが猥褻な行為をし、あらぬ罪を人間になすりつけると発いたことで謝りに来た。アモルはニセアバターの手配や付け人の選択をしたのだろう。付け人には人間の能力や評価履歴の記録にかかわる重要な役割がある。それだけでなく、私と光子先生とのハートを弓矢で射て二人のラブを燃え上がらせたことにも関係しているであろう。もし我々が情熱に駆られるまま、何かの機会にリミットを超えていたらとんでもないスキャンダルを引き起こし、二人共人生を棒に振るところだった。これは冗談事ではない。私は目を付けられていた。
「黄金のロバ」の主人公は魔術を学ぶために女魔術師に接近し、彼女の使用人を誘惑する。魔術とは色事のテクニックのことだろう。ところが手違いで彼はロバに変わってしまう。フィクションとは言えまさか生きている人間がわらわらとロバに変わる訳はなく、彼はロバに生まれ変わったのである。人間に戻るにはバラの花を食べればよかった。「バラの花を食べる」とはバラ族つまりホモセクシュアルになることである(*註2)。当時はAIDSという病の怖さは知られていなかったし、陰間はギリシャで今日より普通のことだった。(a)の本でもそうだが、所詮ゼウス神の世界で繰り広げられる話はまともではない。変身譚の例として出ている、神話で水浴びするダイアナを盗み見たアクタイオンが鹿に変えられる姿はローマのボルゲーゼ美術館にある素晴らしい彫刻で見ることが出来る。
筆者は「ソフィアが至高神を知ろうと好奇心を持った」というプトレマイオスの説を何ら怪しみもせず取り上げている(b-24)。創造神とは彼女が(至高神に)向こう見ずな好奇心(この場合パンドラと同じ好奇心)を持った結果生まれ落ちた産物であるとし、ソフィアを介して至高神と創造神をリンクさせている。この物語で彼女が至高神に好奇心を抱いた動機は「イエスだけしか至高神を知っている者はいない」とするキリスト教の前提を土台にしている。我々は宇宙に関心を持つことも遺伝子に興味を持つことも好奇心と言うが、パンドラの箱以来ギリシャ人にとって「好奇心と言えば男女の話」と相場が決まっているかも知れない。しかし試みに至高神、イエス、ソフィア、創造神というものの属性を各々どのように捕らえるか、それぞれの関係をどのように理解するか、そこに妥当性とモラルが成り立つかどうかを検討した結果、筆者はプトレマイオス説に納得出来るだろうか。
私はクレメンスについて前項で彼の支持するキリスト=ロゴス説は間違いであると判断した。(b)の本ではそのクレメンス作の「テオドトス抜粋」が紹介されており、その際テオドトスをキリスト教異端教師と呼んでいる(b-30)。テオドトスは人が救われるためには洗礼という儀式だけではなくグノーシス(自分は誰か、何になったか、何処から来たかの知識)を得なければならないと主張したのであるが、何故テオドトス説が異端なのだろうか。彼が求めていることはイエスがしたことと同様で、イエスは子犬である女には招きの言葉をかけなかった。テオドトスの言う宿命とは私がこの国で仏教徒の家に生まれたような状況を言うのであろう。またアウグスティヌスもテオドトスと同じように自分への問いかけの重要性を強調し(b-33)、それを実行する場所は教会以外ないとした。しかしイエスが「少年を来させなさい」と言った場所が教会の中だったとは思えない。今さら確かめる術はないが、カタリ派を異端グノーシスとして糾弾したローマをカンタベリーにいるアウグスティヌスはどう見ているだろうか。
プトレマイオス説は詳細に紹介されている(b-54~74)がここに再掲する意義を見出せない。最大の問題点はプロパトール(原父、至高神)の相手をエンノイアにしていることであろう。前項に書いた通りエンノイアはデミウルゴスとペアであり、限度を超えてハイブリッド人間を大量に生み出す元凶となり、転生して新約聖書でマリアとなったとする結論を妥当と見る。この章の最後に「フィリポ福音書の救済」が述べられている(b-76)。それは「誰であれ、新婦の部屋の子となるなら、光を受けるだろう。誰であれ、この世界にいる間にそれを受けなければ、他の場所でもそれを受けることはないだろう・・・彼は模像において真理を受け取ってしまったのである・・・」というものであるが、光を受けるためにはこの世にいる間にキリスト教に入らねばならないし、ニセの救い(異端)を選んだのであれば後で光を受けることはないことを言っている。「フィリポ福音書の救済」は最後の晩餐でペテロの反逆によってイエスの計画が頓挫する以前に書かれたものであろう。
バシレイデスについては(b-86~115)、主に宇宙論が紹介されている。彼の論理展開は人間から出発し至高神に至るボトムアップ方式であると言う。最後に行きつく所は、物質世界は最初に誰によってどのようにして作られたか、ということになる。宇宙創成の物語が書かれたのが創世記であり、その作者はモーセということになっている。ところがモーセが書いた言葉はデミウルゴスから発せられた。故にデミウルゴスはこの世の創造神としての権威を与えられた、というのが旧約の世界であろう(多分彼には地球に来る以前にこういうやり方の成功体験があったのだろう)。そこにはビッグバン理論が組み込まれる余地はなかったが、筆者はどんなテキストでもそれが書かれた目的がある(b-105)と言っている。ではその目的とは何だと見るのだろうか。私の考えではその目的とはフェイクの歴史物語を立ち上げてなるべく多くの信奉者を取り込み、そこに真の狙いを仕組みつつ巧妙に隠蔽することであったろう。物語の中心は人類誕生と楽園神話である(*註3)。前に取り上げたが、天の果樹園を訪れた四人のラビのうち、一人は発狂し、一人は自殺し、一人は棄教し、無事に帰ってきたのは一人だけだった、というユダヤの伝説がある。バシレイデスは「無からの創造」という考え方を最初に打ち出し、創成論では必ずしも創世記に盲従しなかった。筆者はバシレイデスに対し批判的で、彼の「大いなる無知」なぞ難解すぎる(b-114)と否定的であるが、旧約聖書の創世記をまじめに信じ込むことこそ大いなる無知なりと言っているのではないだろうか。イエスは世界に救済を説いたが(b-114)創世記を学べとは言っていないと考えるのが布教のベンチマークであろう。もしキリスト教徒が世界はどのようにして作られたかと問われれば、迂闊に創世記を持ち出すべきではなく「ノーコメント」と答えるしかないだろう。
旧約の「第二マカベア書」(b-106)には何が書いてあるかこれまで知らなかった。ホロコーストの歴史はローマによるもの、ナチによるもの位しか知らなかったが、シリアのセレウコス朝アンティオコス四世(BC215-163) によってもなされたのだった。第二マカベア書はその時の記録(*註4)で、息子が処刑される前に母親が「天と地にある万物を見なさい、そして神がこれらのものを既にあるもの(見えて存在するもの)からお作りになったのではないこと、そして人間もその例外ではないことを知っておくれ」と息子を諭す話である。霊魂の存在と死後の復活はイエスだけでなく彼女の息子でも誰でも普通の観念であり、その救済が宗教のテーマである。仮説によれば見えて存在する物質はビッグバンによって瞬時に放出されたエネルギー(光と熱)から生まれた。しかし人の目に見えない霊魂はその前からあったし神もまた霊である。私は四次元の世界とは霊界であり、四次元は三次元を含んでおり、三次元宇宙を生んだエネルギーは霊界から放出されたのではないかと思うが、想像の域を出ない。三次元の物質も時間をかけて形成されたが、霊魂はこれらの目に見える物質から生まれたのではなく先在していたことをこの母親は言ったのだろう。(a)の本は水にこだわっていた。人間は水と霊によって生まれるという水は精子であろう。女は白い水を受け取り、タイミングが良ければそれは胎内の卵子と受精する(受精したかどうか女は知らないが)。受精卵は胎児に育ち、女は妊娠したことを知り、胎児に霊が宿って、月充ちれば赤子が生まれ出て来る。だからこういう事を言うのが息子を持つ母親であることは理に叶っていると思う。
ペトロ黙示録(b-124~)の「(ペトロの問い)十字架の傍らで喜んで笑っているのはだれですか。(イエスの答え)あなたが見ている、十字架の傍で喜んで笑っている人物は、活けるイエスである。両手と両足を釘で打たれているのは、彼の肉的な部分である・・・」は嘘である。企みの張本人であるペテロ、その欺瞞の如何に空恐ろしいことか。
マルキオンにとって創造神とは即ち至高神であろう(b-134-①ただし「人類を罪から救う」とは「人類をYHWHが科す罪から救う」であろう)。神の偉大さは我々被造物にとってその創造の力である。この作者が「創造神」という言葉を余り疑いを持たずに文字通り受け取り、プトレマイオス説でソフィアを介して創造神は至高神と繋がっているから創造の力を受け継いでおり、至高神と創造神は別物で、混同を避けるために至高神を単にイエスの「善なる神」と仮称し創造神と区別しようとしているが(b-136)、これはデミウルゴスの思惑通りの罠にはまった考え方だと思う。最も真理に近いものと見做してプトレマイオス説を詳細に紹介し、多数説に従って旧約聖書を正典と見れば、これはこれで辻褄が合っているということなのだろうが、デミウルゴス即ちYHWHの創造したものは既述の通りのいいかげんな歴史とペテンの世界でしかない。彼らは「騙される方が悪い」と言っている。マルキオンはそもそも旧約聖書を正典と認めていない(これが彼の最大の美点である)からYHWHを創造神と見る根拠がない。この「善なる神」がなぜもっと早くから登場してくれなかったか(b-132)と不満を言っているが、アメリカ人なら Good question と言うであろう。「善なる神」とはエロイムのことである。旧約聖書でエロイムの記事は抹消された。わずかにその痕跡がマラキ書に残っているだけである。旧約聖書でエロイムの記事が消されたと同様に、グノーシス文書からも「善なる神」が消されたのであろう。モートは同じことをやったのである。
デミウルゴスは人間よりも先に地球に来て先住権があったが、人間が来たからといって彼らに出て行けとは言えなかったのだろう。彼らはある時から人の子の人間を目の仇にしてその死後霊をわがものにし始めた。その結果マルキオンが言うように、外から来た「善なる神」がデミウルゴス(霊界にいる)から人の子を救うという図式が生まれた(b-137)。キリスト教が出来るまで神々とはカニバリズムの勝利者であった。この神々と至高神との間にイエスを介してどういう約束事があったか、どういう約束違反があったかは我々のよく知る所ではない。前項に書いた映画「トロイ」でアキレスが言うように、人間と動物の間に約束事は成り立たないのかも知れない。ある種の人間には光の粒子(a-140)があることをマルキオンは気が付かなかったのだろうが、私は腕の毛穴から光が出ている女性を見たことがある。霊たちはそういう人間がいることを皆知っている。ただしルシファーという光り輝く悪魔もいる。マルキオンが言う、肉体は必ず滅びるが霊魂は残る、という事の何が意味不明(b-141)なのだろうか(世の中にはそういう考えを拒否する人もいて、最近亡くなった立花氏や石原氏にも同じようなガラスの天井があったような気がする。特に後者は私を「見てきたような嘘を吐く」と言っていたらしい)。ではこれまで書いた、霊が胎児に宿るという説明も馬鹿馬鹿しい嘘だと仰るのだろうか、私は自分が宿った時のことを覚えているが・・・・
そういう訳でここまで書いて気力減退した。「マルキオンの聖書」(b-158)の項では、ルカ福音書とパウロの手紙10通だけを正典と認めた、という所に彼の著しい特徴があるだろう。さらにマルキオンはこれらの文書に手を入れてユダヤ教的な要素を削除した(b-161)。問題はパウロの文書であるが、前項に書いたようにパウロはペテロに乞われて布教活動した。しかし彼はベンチマークを知らなかったから手紙にユダヤ教的な言葉が混入していた。それらを取除いた彼の文書が果たして受け入れられるテキストになったかと言えば、フグは毒を除けば高級食材であように、中々のものだったのかも知れない。私はパウロをプラスマテと思っているからパウロにはうかつに関わらない方が良いと考える。マルキオンの手が加えられたルカ福音書について言えば、改竄によって追加されたらしきものを削除することは出来るが、削除されたものを復元することは不可能であろう。またキリスト仮現論者のマルキオンは「イエスは人間に生まれなかった」として処女降誕の話を削除したのだろうが、この話はマリアの嘘と彼女の危険な本質を伝えるためにある重要なエピソードであるとすれば消してはいけなかった。基本的に仮現論は間違っていると思う。
この本のタイトルは「古代キリスト教の異端思想」である。筆者は歴史的多数派である正統派が異端と呼ぶものが「異端」であり、正統派と著しく異なるマルキオン派は異端であるとする(b-176)。そして「虚偽」すなわち「悪魔がそそのかした間違った教えが異端である」というような信心深いけれどもナイーブな考え方は現在のキリスト教研究ではすでに克服されている、という(b-177)。これは筆者が留学したドイツでも同じだったのだろうか。しかし異端という言葉は神も使っているのであり、そこでは多数派だとか正統派だとかは関係なく、悪魔のやり方を受け入れ悪魔を信仰する者が異端なのである。筆者にとってはこの考え方は「仮にそうであったにしても」程度の仮定(b-179)に過ぎないし、最後まで異端の言義に取り組む姿勢に真剣さを欠き知的なお遊び気分が抜けない。筆者がクリスチャンであるかどうかは知らない。しかしピリポが言うように人が人生においてどの宗教を選び信仰したかということはいずれ自分の身に降りかかって来ることであり、時代の如何に拘わらず個々人の誰もが死後その選択の可否を審かれることを免れない。それは単に生きていた間だけの人間の統計的な文化的関心(b-180)以上のものである。多数派と違ってわずか40年余りしか存続しなかったにしろ、マルキオン派の場合信徒は異端になりようがなかった。他方プトレマイオス説(b-59図)は言葉の真の意味で異端であろう。この図に示された悪の企みの根深さに気付いた者は震撼するだろう。
エイレナイオスはカルポクラーテスが輪廻転生を受入れ(b-198)、この世においてすべてを経験していなければ再び転生を強いられると説いて性的放恣を実践した、として彼を非難した。カルポクラーテス派の主張の根拠はルカ福音書12章59節であった。イエスは原罪という言葉を使わなかったがルカ12:59はそのことを言っていると思う。そこに書かれているのは「偽善者たち、あなたがたは・・・どうしていまのこの時代を見分けることができないのですか。またなぜ自分から進んで何が正しいかを判断しないのですか。・・・あなたに言います。最後の1レプタを支払うまでは、そこ(牢獄)から出られないのです」という文章である。牢獄とは人間が捕らわれた霊的な身体のことである。「いまのこの時代」とは多数の「人間でない者が人間になっている」時代である。小学生の頃「お前は猿だ、お前は豚だ、おまえは犬だ」と見抜く者がいた。人間の中に猿族・犬族・豚族・羊族etcがいる。イベリコ豚が「俺は大学まで出たのにまた豚になった」と嘆いたそうである。彼らがそうした動物になったのは彼らが負債を負っているからであり、その負債を完済しなければ人間に戻れない、とイエスは言っているが、どういう負債を負ったのか、どうすれば負債を完済できるかは謎である。ここにある「どうしていまのこの時代を見分けることができないのですか」というイエスの問いは善なる神が登場したタイミングが何故この時なのか(b-137)という筆者の疑問に答えているだろう。また宗教について語る場合、「自分から進んで何が正しいかを判断する」真剣さが不可欠であるが、カルポクラーテスが正しい判断をしたとは思えない。
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(*註1) ただしこの二つの横雲を繋ぐものとして、聖書の言葉で言えば「踏み台」があるかも知れない。
(*註2)レスビアンのシンボルはユリの花である。サッフォーが女ばかりのレスボス島で奔放な同性愛に耽ったことは知られている。ダビンチの描いた受胎告知の絵で天使ラファエルはマリアにユリの花を捧げている。ダビンチはマリアのルーツが元をたどればアテナさらにはサッフォーにまで遡ることを知っていたのだろうか。
(*註3)ある教会のミサ後の勉強会で、一女性が「私はアダムとイブに文句を言いたい。もし二人が楽園の主に背いて禁じられたリンゴを食べなければ、我々人間はずっと楽園にいられたのに」と言った。この迷妄の深さをどう言えば解きほぐせるのかと絶句した。
(*註4)このホロコーストでアンティオコス四世はユダヤ人が「豚肉を食べないので殺した」ということになっているが、そんなどうでもいい理由で集団処刑があったとは考えられない。実際は禁秘に触れるような反社会的宗教行為が発覚したのだろう。エサウがヤコブに長子権を譲ったのも、空腹のあまりすぐさま目の前のレンズ豆の煮物が欲しくて長子権を譲るのに同意したことになっているが「そんな簡単な問題ではない」と(多分エサウ自身が)言っていた。ヤコブは一晩中神と争って負けなかったというから力があった。彼はアキレスと同じレオ族であり、従って創世記にヤコブは大人しい性格と書かれているのも嘘だろう。またバチカンにはレオ族がいるというのもヤコブのことであろう。