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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

沈黙は金

 季節に合わせて咲く花々の色鮮やかさに気付いたのは4~5才の頃だっただろうか。春は梅や菜の花や桜、初夏から盛夏にかけて菖蒲や朝顔、秋には菊やコスモスや彼岸花。田んぼの畔に突然現れた真紅の群生に驚いたが年長の女たちが示すこの花に対する複雑な反応を感じた。冬は水仙が青い葉を伸ばした後に咲き花の姿が愛らしかったが馥郁とした香りにも驚いた。この世とは年間を通じて眼や嗅覚を楽しませてくれる色とりどりの花々が次から次へと咲く何と素晴らしい所かと感嘆したと思う。槙の木に囲まれた家庭菜園の縁に母親が玉蜀黍の種を蒔いて背丈より高く育ち夏に収穫した。七輪に炭を熾(おこ)して網を敷き玉蜀黍を焼くとパンパンと爆発するのが面白かった。初めてそれにかぶりついて噛みしめた時の味覚に「こんなうまいものは今まで食べたことがない」と感じがした。町にアイスクリーム屋が開店し親に連れられて食べに行ったのは小学校上級生の頃だったか。ガラスの小さなカップに盛られた白い見慣れない物を匙で掬って食べると歯に染みる程の冷たさに驚いたがその甘味は抜群でそれは全く未経験の感動だった。当時はまだ冷菓は今ほど当たり前に売られてはいなかった。

 この生で感じたこれら地上の驚きは単に前回生まれた記憶を白紙に戻した人間の誰にでもある二番煎じの追体験に過ぎないのか、それともトータルな意味で全くの初体験だったのか。所詮確かめようもないそんな事なんてどちらでもいいではないかと思うのが大方の反応だと思う。ところが私にとっては大問題なのだということに気が付いてこの一ヶ月余りふさぎ込んだ。

 今までいくつかの自分自身の前世経験をこのブログに書いたがほとんど伝聞によるものだった。日本で演劇に関係していたというのは世阿弥のことで口外するつもりはなかったし、能を見たり花伝書に興味を持ったりすることもなかった。能のテーマである幽玄の世界がこのブログの記事と似ているから類似点がなくはない。そんなものかと思ったが今は能に関心を持つ人たちも一部の好事家に限られ、改めて取り上げる必要のある大きな関心事ではないと思った。かつてイギリスに生まれドイツで布教した宣教師だったというのは聖ボニファティウスの生まれ変わりと言われたからで「前生でキリスト教に関係していたらしい」と書いた。パッケージツアーで四ヵ所をめぐりドイツでマインツの教会に行ったことがあるが、その時はまだ仏教徒だったし特別な感慨もなく、過去の記憶が甦るようなことは何もなかった。宣教師だったなら今回私がキリスト教をサポートしていることと似ている。もし事実であれば悪い評判を残すようなことはしないで良かったと思った。ある教会のミサで牧師が聖なる樫の木の逸話を話したが「実は私はボニファティウスの生まれ変わりです」と名乗り出たりはしなかった。私の Yozo という名前がクロアチア語でヨセフを意味することは「会話編(2)」にも書いた。カトリックの新潟教会を始めて訪ねた時、後ろの方から女の子が「アリマタヤのヨセフが来ました」と言う声が聞こえ、いかにも時と場所がぴったりのタイミングだった。これが出鱈目なら彼女に責任をとってもらう他はない。以前「どのヨセフだ」と話し合っているのは聞こえた。アリマタヤのヨセフだった記憶もない。

 ブルガーコフについてはかなり入れ込んだことを認めなければならない。彼が医者だったことは治癒能力と関係があるし「巨匠とマルガリータ」は死後霊が復活する話だった。今年4月にペテルブルグに行った際ネバ川のほとりで霊が甦るのをジノビエフがあきれて見ていたと聞いた。原稿は廃棄しても霊界に残っていて消えないことも感じていたし、燃えさしの紙も一時しきりに意識した。もう20年程まえになるが後ろから何度も「サンミゲル、サンミゲル」と呼びかける声が聞こえて私は自分がミカエルと関係あるのかと思っていた。ブルガーコフのファーストネームはミハイルである。少年がウクライナ行のバス停でバスを待っている夢を見て表示板に「ウクライナ」と書いてあるのがはっきりと見えた。文字が日本語だったことが変だと言えば変だった。これらがすべて私を引っかける入念なトリックなら何と壮大な仕掛けだろう。

 これまでの様子から地上は悪霊どもが私のような特殊感覚者を垂涎の的にしてあの手この手で罠に懸けようと待ち受けている、気の抜けない危険この上ない場所だということは学んでいた。騙されたら終りで、もし人間になるのは今回初めてで前世体験なんてある訳がないのに前世体験を鵜呑みにして喋ったりしたら、私は嘘と真実の見分けのつかない愚か者ということになり、多分言っていることもすべて信用を置けない無価値な失格者だと言う悪魔の言い分に軍配が傾くのだろう。これは昔からある悪魔の騙しの常套手段で、この手でこれまで天から降りて来た者たちの墓は増える一方だったらしい。

 ただし自分がブルガーコフであったとすんなり受け入れたかと言えばそうとも言い切れない。まずブルガーコフは「マタイが混乱の種を撒き散らしている」と言っているが、私はそのようなマタイの評価に同意出来ない。マタイ福音書23章27~28の「あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨やあらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも外側は人に正しく見えるが内側は偽善と不法とでいっぱいである」はよくぞ言ってくれたと思う。言葉の真の意味で「偽善的な律法学者やパリサイ人」は異端者である。次に彼は悪魔を一体どう考えているのだろうか。彼の書いた悪魔は敵なのか味方なのかよく分からない。第三に彼は3回結婚しているが私は1回だけで結婚生活なんて忍耐以外の何物でもないと思っている。

 古代ギリシャの時代普通に人間には霊能力が備わっていたが「霊感によって得た知識はほとんど偽物で、それを口外したり書いたりすれば嘘と真実の見分けのつかない愚か者にされるぞ。迂闊に霊界に首を突っ込んで真に受ければ墓穴を掘るだけだ」という警告としてギリシャに「沈黙は金・雄弁は銀」の教えがあり、日本に三猿の教えがあったのではないかと疑念が沸いた。ギリシャ神話を読んでもあまり悪魔は出てこない。「悪魔に騙されるな」というこの諺の真意に思い及ばず、悪魔の存在を無視したことがギリシャの失敗の原因だったと推測出来ないだろうか。最近テセウスの名前をよく聞く。彼はモラルの低い悪魔だらけの霊界にうんざりして長い間地上に降りて来なかったというから、推測は当たっているかも知れない。「ヴァリス」の項で紹介したディックは「何か不可解な理由で人間は外なることを読み取ることができず、内なる声を聞きとることが出来なくなった」と書いている。人間の感性に何かが起きたのは多分神のなせる業で、騙しの手口に嵌る犠牲者が余りに多いのでヒューマノイドの霊感を鈍くするよう調整されたのだろう。

 私だって危険性を感じない訳はなかった。それでも6年ほど前、毎晩必ず2時~3時頃に来て「ブログを書け」と何度も何度も催促する少年の必死さとその切迫感に動かされた。書き始めてから「知った者が言わねばならない」という言葉に後から押された。人間が感づいて文章に書くことがアピールされ検証されるのである。「ヴァリス」にあるソフィアの言葉「人間による知恵の時代、知恵の支配が訪れる。恐怖のために口を閉ざせば知恵はあなたたちから離れていく」も盲信の時代の終わりと、そのためには「悪魔のトリックに引っ掛らないか」という迷いと不安に打ち勝つ勇気が必要であることを言い表している。最近このブログを書き始めた頃の絶望的な夢を見なくなったのはガバメントが対処して邪魔するのを止めさせたからだろう。仏教にいた餓鬼道という気の毒なグループもなくなったようである。それともう一つ、耕作を放置して荒れ果てた田畑のことを書いたが、ずっと後ですっかり生まれ変わって田植えがすみ水面に光が当たっている田圃が見えた。霊界が陥った長い閉塞状況を打開する道は人間が真実を見つけて物語ることがトリガーになるようである。今では「真実はプラチナ」だと思っている。

 二千年前、イエスが始めた宣教は使徒言行録2:23にあるように預言即ち「神の定めた計画と予知」の実現であったし、マルコ福音書1:15の「時は満ちた、神の国は近づいた」もこのことを表している。ハルマゲドンという言葉はオームによって半分冗談にされてしまったが、革命ではなくハルマゲドンと呼んだ方が悪魔に対して神々の決意と歴史的必然性を伝えると言われた。ヤマトが最初の舞台になったのは日ユ同祖論と無関係ではないだろう。人類五千年の悲願と言われるこの革命は上位の神々のバックアップを得て、イエス(アポロンと同じであることが後で分かる)だけでなくタンムズ・フィリポ・エサウ・サタンと、彼らに志を同じくするエスニックな神によってガバメントが組成されることによって始まった。ローカルな神と思うだろうが天神様も大変な実力者で志は同じであろう。彼らと旧勢力である悪魔グループとの間に激しい戦いはあったが、関ヶ原のような一大決戦があったかというとどうもそうではなかったようである。最終対決か否かという段階で旧勢力は「お前たちには神々の後ろ盾があるのだろう」と譲歩し、主戦論を唱えるグループもあったが大勢は譲歩を受け入れたらしい。旧勢力下の序列は悪魔がトップで反人間組の動物霊が続き人間は最下層に位置付けられていた。美女は堕落させられ奴隷にされる者もいた。人間の中でも虐げられていた女や子供たちが受けた苦難の実情を知ってアポロンもタンムズも涙を流した。食物を支配の道具に使ってあれは食うなこれは食ってもいいとナンセンスなルールが出来上がっていた。新しい秩序はストア派の自然法に近い人間中心主義であるが、行き渡るまでには様々な抵抗が待ち受けているだろう。卵は安心して食べるよう勧める声が聞こえる。食のルールが見直され生産力を向上させるために霊界でも農業・漁業・牧畜・養殖などの産業を起こすことが必要のようである。北陸地方も横浜も状況が改善した様子が覗えるがまだ問題は残っている。

 神と悪魔は厳しく対立する概念である。神の定義によれば悪魔のために働くことが異端であり、カトリックがカトリックに逆らうことを異端と呼ぶのは正しい語法ではない。逆にカトリックは異端者狩りを通して悪魔のために働いたと言えるのではないだろうか。使徒言行録5章にアナニヤとサッピラが地所を売った代金をごまかした話がある。ペテロがアナニヤに「売らずに残しておけばあなたのものであり、売ってしまってもあなたの自由になったはずではないか。どうしてこんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて神を欺いた」と問い詰めると、アナニヤは弁解の余地なく命を失った。遅れて来たアナニヤの妻サッピラとも同じ会話をし、同じことが起きた。我々は物語の尋常でない成り行きに驚くが、二人は地所を売った代金を先にユダヤ教祭司に献金し残りを使徒たちに差し出して「これが代金のすべてです」と欺き、そのたために神の罰を受けたのだった。しかし実はペテロにも問題があった。言行録の嘘である。