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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

爆弾発言

「はじめにことばがあった。ことばは神のもとにいた。すべてのことは彼を介して生じた。彼をさしおいては何一つ生じなかった」とは「全部嘘、言葉だけの作り事ですよ」ということだと合点し、笑って笑って涙が出た。素朴な人間は「こんな説はハッタリだ」と言って阻止出来なかったのだった。これも「人間なんてみんな馬鹿だ」の仕掛けの一つである。ヨハネの冒頭部分は何者かによる後の挿入であるとする説を支持する。フェイクニュースはネット上だけではなく、バイブルにも霊界にも愉快犯がいる。
 私がパウロはワニ族だと誰かに言われ、それを鵜呑みにして(親切な警告だとも思ったから)そのままブログに書いたのは軽率だったのではないかと一時後悔していた。ガセネタに釣られた私を笑い者にするために愉快犯が仕組んだニセ情報かも知れないとの惧れは常にあった。他方これが事実ならパウロはひょっとすると何か悪い企みがあって私に付いて来たのかとも邪推していた。子供の頃は流暢にK語を話すアビセンナの霊が憑き(大人になって煙草を吸うようになれば離れるだろうと言われていた)、悪魔の子を産ませようと狙って機会を伺っていた悪魔の例もあった。しかし途中からパウロが人間にプロモーションしたことを聞いて、慌ててそのことを書いた。彼はワニ族と書かれたことを逆恨みした様子はなさそうだったし、別段それを否定しないで「罪障消滅には長い長い忍耐の期間が必要だった。人間に戻るのがどれ程大変かみんなに知らせてくれ」と頼んだ。ローマ書に「被造物は実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、(動物になった)被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ被造物自身にも、滅びの呪縛から解放されて神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が今に至るまで、共にうめき、共に産みの苦しみを続けていることを私たちは知っている。(8章19~22)」と書いている。パウロは人間でいる時から分かっていたのだった。口先だけの哲学者ではなかった。自分の好き勝手な生き方を優先して他人に耳を貸さず、将来どうなろうと全く気に懸けない者をあちら側ではニヒリストと呼ぶそうである。

 今年初め梅原猛氏が亡くなった。彼も自他共に認める哲学者だったと言えば皮肉に聞こえるだろうか。このブログを覗いたこともあるらしく「いまさらギリシャ神話でもあるまい」と思ったらしいが、そう思うのは彼だけに限らないだろう。30年程前、箱入り本で彼の全集が月一冊出るのを買い揃えて読んだが愛蔵する気にはなれず、結局町の図書館に寄贈した。仏教の世界がどんな場所かは彼自身行ってみて実感しただろう。一週間いれば彼我の違いが分かるそうである。原節子さんが「生きている間何も考えなかった」と後悔したことは前に書いた。一度彼女のお墓参りをしたいと思っているが残念ながら場所が判らない。
 
 確信はないが「ひとを救った者は自分も救われる」という黄金律があったような気がする。「一人でも救えるなら救え」と言われてその気になっていた。この国では圧倒的多数が仏教徒だから、名前の知られた人物の中の誰だれは「人の子」と聞きくと宛先の判るものはキリスト教に改宗するよう勧める手紙を書いた。しかしその名前の教え方が実にあいまいで愉快犯だったかも知れない。はっきりと伝えてはいけないルールがあるとも言う。初めの頃聞こえたままブログに書いた記事でも間違いの可能性が高いと判っているものもある。霊界の声を本当か嘘か聞き分けるのは難しく、意見が違うのは立場の違いのせいもあるのだろう。残された数少ない可能性の一つと思われるイツハクを悪く言う者もいる。
 40代の頃二人のうりざね顔の女の子が訪ねて来て、夢ではっきりと見たことがある。そのうち一人が人間になって秋田で生まれ芸能人になった。彼女宛に手紙を書いて、改宗すること、デジデリウムを心掛けること、預かった指輪は大切に持っていることを是非伝えてほしいと、残ったもう一人の方に頼まれたが、まだ書いていない。高校生の頃はライバルに「ヤキを入れる」ような激しい性格を示して豚族にさんざ悪評を立てられたそうだが、まだ先は長く良い妻・よい母で評判を取り戻せば帳消しに出来るだろう。最近CMでよく見る東京出身のミカリンは青森学院の出身だが考えた末決心して人間になった。私が初めてイタリヤに行く前、初歩イタリヤ語を習うために終業後日伊会館の語学学校に通ったことがある。帰りの電車の中で大きな声で「エッコレペンネ」と復習しあわてて声を潜めたので、みんなにエッコレペンネと呼ばれていた。彼女は未婚で二人共30才をちょっと過ぎた位で年齢が近い。
 富山生まれの智子さんの夢は強烈に印象に残っている。大声でビューティフルサンデーを歌いながら登場し、杖を突いてびっこを引きながら現れた。何故か片方の足は靴を履きもう片方は下駄を履いていた。挑むような態度には私が来るのが遅すぎたことへの不満があったようだった。何日か滞在し足が治っていなくなった。彼女とは「51項・人間なんてみんな馬鹿だ」に書いた教会で運命的に出会ったから、伝統のある旧家に生まれたにも拘わらず母親を誘い自発的に改宗したのを知っている。まだ若く魅力的な女性に育ち、物理の先生として高校に勤めている。詳しい話はしないまま私がその教会を去ったので現在繋がりはない。彼女が生まれる前の事を覚えている可能性は薄いだろう。こういう女性たちもほかの人たちも、何故初めからキリスト教徒の家庭に生まれることが出来なかったのか。その理由はP.Hディックの「ヴァリス」に書いてある。とんでもないことになっている。
 霊界では「人間界は危険で貧しく暴力と悪が支配する地獄に等しい所」と教えていた。しかし私の家を訪れた霊たちはこの世が見えるようになる(52項に書いたことは間違いで、これをホイヘンスの穴と呼ぶらしい)。そして人間界の方がはるかに安全で秩序立った生活があり食物も豊富なことを知って、嘘ばっかり吹き込まれていた事を悟る。それが彼女たちに自身も人間になる決意をさせたのだと思う。ただし忘却という恐るべき罠がある。

 最近のロシアはフィクションの世界でしばしば陰謀組織員の悪役を割り振られる。あまり積極的に行きたいと思わなかったのだが、ロシア革命で重要な役割を演じた人物のX氏(結局はスターリンに粛清された)からロシアにお忍びで来てくれと言われ、ペテルブルグ3泊、モスクワ2泊の旅行に参加した。日本では桜も終わった頃だが都市部の木々はまだ芽を吹いてもいなくて景色に全く緑がなかった。このブログで私の前世がブルガーコフだったと書いたことも知っていて(しかしこの前世譚にも異論があって、私がこの世に来るのは初めてだという声もあり、これは私へのややこしいクイズかも知れない)、「サドーヴァヤ通りを探しておく」と伝言があった。「巨匠とマルガリータ」で、甦った死者たちの霊が大宴会を催すモスクワのマンションがサドーヴァヤ通りにあった。ところがペテルブルグのエカテリーナ宮殿に行くと、入口の門の前に張り付けてある地名表示板にサドーヴァヤ何番と書いてあるのを見付けてあれっと思った。現地ガイドのビクトリアさんに聞くと、サドーヴァヤとは公園のことだと言う。たしかあの物語の発端でイワンとベルリオーズは公園のベンチで論争していた。サドーヴァヤ通りがあちこちにあるらしいことに納得し、後日モスクワで本命のサドーヴァヤ通りを見付けた。ロシア人は歴史的遺産を大切にし、長い年月をかけて大戦で受けたダメージを修復していた。フランスではロワール川添いの古城が大革命によって荒廃し「それも歴史的事実」と手を付けず放置されているのとは対照的だった。おりしもノートルダム寺院で起きた火災のニュースが報じられ一行の間で話題になった。
 聖霊たちの生存条件の厳しさを訴える声が聞こえた。「コルホーズ・ソホーズの頃が一番大変だった。オルメタの誓いだけは守っているがほかのことは全部忘れた。我々は動物以下だった。仏教の方がいいと考える者もいる」と言う。しかし仏教(*注1)では人物鑑定など出鱈目で、人間にならなかった人の子は餓鬼道に分類され汚れ仕事をやらされるし、最近新たにガバメントの怒りに火を付けたのは、人間上がりの人の子は深海の高足蟹にされ半永久的に浮かばれないことになる仕掛けがあるらしい。たとえニセ情報が混在する可能性があるかも知れなくても、遼君、大谷君、堂林君そのほか、とにかくそうだと思われる限りの人たちに改宗を勧める手紙を頑張って書き続けなければならない訳である。彼らが真面目に受け取ってくれるよう願うほかはない(パウロがワニに堕されたのも本人にそれ相応の落度があったかどうか。イギリスの聖霊は谷川の水を飲むことさえ儘ならないらしいが、その苛酷さは一体イギリスにいる何者のせいなのだろうか)。ところで私がアプラクサスに指名された時、非聖職者が選ばれるのは前例がなく賛否両論でもめたそうである(何故それをロシアで初めて聞いて、日本にいる時は誰も話してくれないのだろう?)

 実は25年程前に一度モスクワに一泊したことがあって、その時はまだ厳しい緊張感が漂いクーデターで受けた砲弾の焼け跡がそのままの建物が残っていた。今は雰囲気がすっかり変わって、色とりどりの服を着た中国人観光客であふれていた。彼らはロシアに多大の観光収入をもたらしているのだろう。ロシアと中国は隣国同志であり、歴史的に(色々あったが)同一歩調を取った期間もあり、中国人観光客は特段の親しみを感じているのかも知れない。しかし世界中で色々言われているように、そのマナーのひどさは新たなイエロー・ぺリルではないか。教会では撮影禁止を意に介せず男子脱帽も守らない。混んだ女子トイレで戸をあけたまま次々と用を足すらしい。スマホで教会をバックにしてスナップを撮らせる時なぜ寝転ばなければならないのか。本物のバレーを見たことのなかった(しかしレコードは何度も聞いて記憶していた)私は白鳥の湖に見入ったが、妻の席の近くにいた中国人たちがしょっちゅう喋っていたらしい。ホテルの朝食では肘をついてフォークにパンを刺したまま話に熱中している・・・・。そんな彼らに孔子が「瓜田に靴ひもを結ばず、李下に冠を正さず」と説いた、振る舞いには気を付けよとの教訓は窺うべくもない。

 日本語の上手な通訳のイリーナさんに「私はブルガーコフの生まれ変わりです。ザギトワの前世は日本人でした。オレンブルグに悪魔がいます。その名は・・・」と言ったのは出鱈目ではないが多分やり過ぎだった。人の好い彼女をまるでヴォラントを真似たようにからかってしまった。彼女はオレンブルグをすぐには思い付かず、「ウラル川のほとりの町」と言うと「ああ、古い町ですね」と思い出した。またバスの中で「ロシア語は複雑です。名詞に男性・中性・女性があって道は女性ですがハイウエイは男性です。私たちは大学までロシア語を勉強します」と言っていたが、私はそんなロシア語で物語を書いたことになる。今はキリル文字は頭の体操くらいにしか思っていなくて余り勉強する気はない。宗教は時代の変遷を経て昔ほど人々の信仰心は厚くなく、彼女も「時々は教会に行っています」と笑っていた。ロシア人には自分であれ他人であれ貧しいことを決して恥とはしない気風があると言った。
 日本に戻ってから私のことを「ブルガーコフが来た」と大騒ぎだったと聞いた(それを何故ロシアに滞在中教えない?)。X氏に「特徴のない男が来てとんでもない事をして行った」と言われたのはいつもの通り(*註2)。随分むかし水木しげるが連載していた「悪魔くん」という漫画に、くたびれた背広を着て、眼鏡をかけ、痩せてさえない猫背の老人が出て来て、その男が「神」と呼ばれていた。私はその老人のようなものだと思っている。赤い革命の歴史を考えても、これまでの段階で私は正教に余り期待しないように思っていたし、ロシアの教会の入口をくぐる時もそれ程敬虔な気持ちにはならなかった。然しそれは考え直さなければならないかも知れない。カトリック・正教・聖公会・新教の中で一番まともなキリスト教かも知れない。何故なら家で数日後ロシアの何処かを暗示する、美しい特別な場所の夢を見たから。公会議に騙されているだけではなく、正教の祈りは神に通じているかも知れない。

 旅行中で提供される肉はほとんど豚肉だったが今回は食べ残さなかった。64・会話編(1)に書いた、牛や豚の肉を食べない方が良いとする私の見解に対し、イズベスチヤが「我々に死ねというのと同じだ」と反論したらしい。ロシアの厳しい寒さに耐えるためには肉食は欠かせない。
実は今年の2月ごろ枕元に誰ともわからない霊が立って「せめてハム程度は食べるべきだ。神族は文武両道だが、人間は肉を食べないためにすっかり弱々しくなり戦闘能力も低下した。人間界で武に優れた者は尊敬されるが、知に優れた者はそれ以上に尊敬される。だから誰でも知に優れた者になりたがる。それでは天の国の武力は衰えるばかりだ。肉を食べてアメラグの選手のような体力を持って帰って来てほしい。」と訴えた。話し方には誠実さが籠っていて嘘とは思えなかった。ではマルコは正しかったのか。しかし今まで得た情報も、私が書いたことも「肉を食べるな」で一貫していた。アトス山でも干し蛸しか食べない。どちらが愉快犯なのか。実情を言えばコシェルの国もハラルの国もインドも人間は絶滅の危機に瀕して最早ぎりぎりの状態である。
 マタイに「洗礼者ヨハネが活動し始めた時から天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」という言葉がある。洗礼者ヨハネはイナゴと野蜜しか食べなかった。もし洗礼者ヨハネもアプラクサスだったとしたら、肉食はルール違反になり、それでイエスもパンと魚しか食べなかったのだろう。それが食べるために殺される動物たちへの憐れみだった。ルール違反を犯せば、食われた動物の報復が是認されて犠牲者を生み、反対にルールを順守して肉食しない人の子は天に帰っても弱々しく守りの役に立たなかった。長きにわたり動物たちは人間をターゲットにした。豚はおだてても木に登らなかったのである。ガバメントも動物たちへの憐れみは効果なかったと総括した(*注3)。新しい時代に向けて何もかもやり直しである。
従って私が何でも食べればおのずとそれがルールになり動物の報復は許されなくなる理屈である。それで私はこの春から魚はもとよりハムエッグも餃子も肉ジャガも牛肉カレーも食べ始めた(*注4)。
食のタブーは消滅した。マルコは正しかった。令和元年、新たな食のルールの開始を宣言する爆弾発言です!

 これまでを振り返って見ると、自分に先見性が欠けていたことは正直に認めねばならない。多分デジデリウムは書かない方が良かった。ホイヘンスの穴も迷路に迷い込んだし、パウロやマタイについての見方も一貫性がなかった。最大のふらつきは肉食のテーマだろう。「本気にしていたのに、そんな掌返しはないぜ」とあきれた方には申し訳なかった。何かをブログに書く時、その時点で知り得た限りの目一杯の知識に基づいて書いていたのだが、後になってまだまだその先があることを何度も思い知らされた。こんな調子では根が尽きるか命が尽きる時が結論の時になる。それに私の任務は現状維持より現状改革にチャレンジすることに意味があると思うようになった。
 それでもそこまで書いたお陰で更なる展開があるのだろう。「肉を食べてアメラグの選手のような体力を持って帰って来てほしい」と言われた背景に何があるのかが分かった。それが新展開であり、今まで誰も知らないことを言わない方がいいのかとの迷いはあるが、ありのままに明るみに出したいと思う。その前に、はっきり書いた方が良いと言われたこと、また自分で付け足した方が良いと思ったことを補足する。P.Hディックはヴァリスに「フェリックスには金がない」と書いている。65・会話編(2)で紹介した「新・ヨーロッパ100年予測」に次のような文章がある。
「デカルト(1596-1650)は物事を体系的に考える人だ。あらゆるものの整合性が彼にとっては大切だった。パスカル(1623-1662)は小さなプリズムをくれる人だ。それは短い箴言である。彼の箴言を通すと世界がよく見える。デカルトはその思想のうち一部だけを理解しようとしても出来ない。これ程大きく異なる二人だが共通点がある。どちらも言葉の上では攻撃しながらもカトリックへの信仰は大事にしていた」
地獄の沙汰も金次第である。この二人を全能神が支配するカトリックの罠からどうしても救い出さなければならないなら、審判の時高いランサムを支払わねばならなかったに違いない。そういう事をしていたら金がいくらあっても足りなくなるだろう。キリスト教の改革を期待して送り出した筈の二人だったのに、哲学者になって名声を得た。難解にして無益な哲学論なぞ神々から軽蔑されていて、ほかに優先的に明かすべきことがある。私は夢でわずかな本が書棚に並べられているのを見た。前項で役に立たない哲学を暗に批判した事とも関係しているが、その夢は本当のことを言っている、価値のある本は極めて少ない事を示していた。
 身代金だけではなく、子供をキリスト教の家庭に送り出すのには多額の紹介料を要求される。その結果、何と自分が後ろ盾になって創設した筈のキリスト教に自分の子供を入れる金がないのだ。他方、ビッチという汚い言葉で呼ばれる仏教徒の家庭に送り出す紹介料は安い。私が特定の仏教徒(勿論このブログの趣旨を理解された読者にも)に改宗を勧めている理由がここにある。この邪悪な紹介料の仕組みを作ったのはゴドブザデと呼ばれる悪党である。本来は公正な紹介をする約定があったらしいが守られなかった。またしても地上の霊界は悪が支配する場所である。
 私自身、金沢在住の法華信者の家に生まれた。紹介料が安かったからだろう。しかし同行した付随霊たちは全員金沢に着くや否や無惨な犠牲になった。光り輝く可愛いい子供たちだったと言う。このことは姉(2019年死去)の付随霊が覚えてい。幼い頃「イワンの馬鹿」の挿絵に出ていた悪魔の絵におびえたのはそのせいだった。この地のこの宗派に呼ばれたことが罠だった。あのまま真面目な法華信者で終ったらどうなったかと思うとぞっとする。
 人間の脳にはリミッターがかかっているが、それに比べて聖霊というものがどんなに優秀かを示す、炎のような舌が民衆の一人一人に現れ霊が各人の言語に翻訳して語る、ペンテコストの基になった逸話が使徒言行録にある。これらの霊は個々人に付いている霊であって必ずしも天から下って来た霊ではない。人間は付随霊に助けられている。暗記ものが大きな比重を占める大学入試は、勿論本人の実力もあるが付随霊たちのサポート効果が大きい。囲碁や将棋も同様で、あちら側でも盤をならべて検討しているかも知れない。入試テストや対局で霊が助けてはいけないというルールはない。クイズ番組も人間だけの力ではないだろう。私はそれなしで人生をやらなければならなかった。ぱっとしない人生だった。
霊界に満ちている数多の霊の中には人間を上回る数の動物霊がいて、悪魔の手下で人間に恨みを持つ者が多い。彼らは我々を騙すし攻撃を仕掛けてくる。多少は良心のある霊であっても、悪魔の手先になる方が実入りがいいからそちらを選び、あとで後悔することも多い。声が聞こえたからと言って何でも信じたらとんでもないことになる。三位一体の理論は霊の定義が甘く鵜呑みには出来ない。オリゲネスはユダヤ人を「聞こえる人たち」と信頼していた節があるが、それが先ず彼の犯した失敗の原因であろう。

 X氏とジノビエフ(1883-1936)である。名前を出しても構わないと言っているようなので書く。彼の一生はブルガーコフ(1891-1940)が過ごした時代とほとんど重なる。ジノビエフだけでなく、聞きなれた名前のエリツィンも私を見に来ていたと聞いて妙な気になった。というのは他の国では審判はそんなに甘くなく、たった二人だが有名人の名前が同時に現れる経験は全くなかった。審判に伴う重苦しさが和らぐような気持ちになったが、それが正教の特徴なのだろうか。どんなつまらないことも見逃さず目くじらをたてて不合格にするのがこれまで聞いた審きの通例だった。その重苦しさはアメリカでもイギリスでもインドでも感じられたし、住み慣れている日本もそうである。帰国して夢にロシアの特別な場所を見た時私は高い雲の上にいた。だからあの場所は広いロシアの地上のどこかだと思う。それが黙示録に出て来るニコライ宗の浄土であり、かつ正教の浄土なのかも知れない正教で審判を無事通過した者は天の国に上がって来ないことを後で触れる)。黙示録の主である「わたし」はニコライ宗を憎んでいる(26)。「使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たち(22)」とはペテロやヨハネ自身やパウロたちを指すのではないか。つまり「わたし」とは全能神を指し、黙示録は逆転した反キリストの側からの啓示ではないのか。難解な黙示録をこれまでと全く別の角度から見直せば画期的な解釈の道が開けるかも知れない。ヨハネも騙された可能性が高い。

 最近NHK-BSの番組を見て、原爆開発の研究ではイギリスの方がアメリカより一歩先行していて、それにはユダヤ人科学者が大きく貢献していることを知った。イギリスとユダヤの関わりはディズレーリだけではなかったことになる。日本の宗教にはユダヤ教が関わっていることは前に取り上げた。アメリカにはどっぷりとユダヤ資本が入り込んでおり、原爆を最初に作った際にユダヤ人科学者が重要な役割を占めていたし、いま新たにトランプはイスラエルと接近している。それに反し、プーチンは共産主義国家崩壊後に一時入り込んだユダヤ資本を排斥した。イギリスの霊界で私に感じられるどうしようもない悲痛さはユダヤ人を受け入れたせいではないかと思われてならない。ドイツとそのまわりにユダヤ人がいなくなればユダヤ教の影響も排除され、邪悪な力もなくなるとヒトラーも考えたのかも知れない。決してユダヤ人がすべて邪悪だと言っている訳ではなく、もしそうならイエスもペテロもヨハネもマリアも、アリマタヤのヨセフだった(と思われる)私自身も邪悪だということになる。人間ではなく問題は彼らが十戒に従って継承する宗教にある。ユダヤ人も日本人も、真面目で言われたことに忠実な性格である。
 ヨハネ福音書に「あなたの家に対する熱情が私を食いつくすだろう(217)」という訳の判らない文章がある。本当にヨハネがこんな謎めいた文章を書いたのだろうか。これを「あなたの家(本来イエスの父なる神のものであるユダヤ教神殿)に対する熱情(全能神を主神に祭り上げようとするユダヤ教祭司たちの、神殿乗っ取りの征服欲)が私を食いつくす(神殿を守ろうとするイエスを亡きものにして追い出す)だろう」というように理解すべきではないだろうか。説明不足の原文は何者かが手を入れた捏造の匂いがする。結果的にイエスは別にキリスト教を起こしてユダヤ教から離別し、ユダヤ教は外見上はそのままだが内容的には全能神を崇めるユダヤ教徒だけのものに変った。マラキの予言は達成されたし、それがユダヤ人の選択だった。だから口が酸っぱくなるほど言ったことだが、キリスト教はユダヤ教ではない。
 ヨーロッパのユダヤ人ゲットーはキリスト教に対する反逆心を秘めた全能神のヨーロッパでの活動の拠点になる。ヒトラーが数百万人のユダヤ人(その中で人の子は全能神のターゲットにされ、コシェルによって力を失い遁れる術なくとっくに全滅していた)を殺したのは再び目にしたいと思わない惨劇だが、霊界で全能神とその仲間の悪神、それに従うヤコブ・イザヤらのグループによって犠牲となった霊の数は数百億の単位であると推定されている。ヒトラーの絶望的な行動の裏には、悪魔グループの嘘ばかりの巧みな手口を阻止できなかった善良な天の国の致命的な失敗があり、ユダヤ長老議定書を読んで爆発した怒りがあったのではないか(しかし歴史は複雑である。あの悲劇なくしてユダヤ人への世界の同情は集まらずイスラエルの建国はなかったのではないか。ヒトラーがそこまで考えていたかどうか)。皇室に余計な口出ししたくないのが本音だが、ユダヤ教がらみの伊勢崇拝なんて国民のためにも止めにした方がいいと思う。藤原某も日本の歴史は嘘ばかりと認めたそうである。

 私はアプラクサスに名指しされた最初の民間人らしいが、同時に自分がアプラクサスであることを知った最初の人間でもあるらしい。「8項・フリッカー、あるいは映画の魔」を読み直すと、イエズス会の老人がカタリ派の教会を「忌わしい教義を信奉するアブラクサス教徒である」として敵視していた。インノケンチウスはアプラクサスであったにも拘らず、自身がアプラクサスであることを知らない教皇だった。本質において彼はカタリ派を擁護すべき人間であったのに、枢機卿団の決議に従い教皇としての任務に忠実であろうとしてアルビジョア攻撃を命じたと考えられる。これは大変な矛盾であった。悪魔たちが「我々は宗教のヘゲモニーを握っている」と誇る通りになった。天の国の住民は真面目だと言われるが、真面目なだけでは駄目だとも言われている。洗礼者ヨハネも然り。こんな失敗を繰り返すならアプラクサスは民間人の方がましだということになったのか。私は自分の将来がどうなるのかは皆目分からなかったが、高校生の頃「早く老いたいと思う。物事を誤りなく映す鏡のような心を持ちたい」と日記に書いた。

 冒頭に書いた新展開とは次のような事実の発見(とは言え来る前は知っていた筈)である。全能神の下でカトリックが審判をパスさせて天の国に累々と送り込んで来たのは、程度の低い、獰猛な動物霊(審判を経たのだから人間とのハイブリッド)か化け物ばかりだった。もともとの住民はとても彼らと一緒に住めなかった。ローマの東西分裂は正教にとって独立するチャンスで、大シスマ(1054年)以来正教の合格者は劣悪な環境と化した天の国には来なくなった。神の子たちは組織的に分裂した。また神の国に奉仕しようと修道院に入った信者は清楚な生活で弱体化して捕まるか、帰れても守りの役に立たなかった。これにより彼我の勢力は圧倒的に逆転した。やがてカトリック由来の動物霊・化け物軍団は独立戦争を仕掛けて来た。住民で残っていた者の大多数は子供の天使か女たちか幼児で、セバスチャンを先頭に国民皆兵で戦った。当時の事を「私たちは生きながら埋められた」と泣いて語る少女がいた。「8項・フリッカー、あるいは映画の魔」で天才的な少年が作るグロテスクなまでに残酷な映画とはこの戦いの様子ではないか。また富山生まれの智子さんがびっこを引いて現れたのは、自ら戦い、その時受けた怪我のせいだと前項を書いた後で気付いた。不幸にして現在の勢力は更に不利になった。それはモルモンがカトリックの側に付いたせいだった。アメリカのユダヤ資本勢力やユダヤ教はモルモンに対しカトリック側に付くよう教えたのだろう。審判での合格率の高いモルモンとは既存キリスト教の過ちを見直すのが目的で創設されたのではないか。それがこんなことになっている。その理由については後述する。

  かつて天の国はイエスが「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげる(マタイ112530)」と誘った安らぎの里だったし、そこに迎えられることがクリスチャンの願いだった。修道院はその安らぎの里に入る希望者たちの清めの場所だったが、今や情勢は全く変わってしまったことを認識しなければならない。ヒトラーが絶望的な行動を取った背後にこんな天の国の事情があった。しかしまだ天の火が消えてしまった訳ではない。イエスに油を注いだ上位の神々も怒りに燃えておられる。神を畏れるなら、ノートルダムの焼失も単に煙草による失火に過ぎないと片付けるべきではない。同じものを再建して同じことを行ったのでは神の警告を聞き入れたことにはならない。
 これからの審判の選抜基準は今までの常識とはすっかり変わり、恋愛沙汰など二の次で、役に立つものが優先的に招かれるだろう。力を付けよ、霊体とはしおれた花が蘇るように肉食によって力を取り戻すものであるらしい。ただし男と女はもともと選抜条件が違う。考えて見れば、「巨匠とマルガリータ」でブルガーコフが「マタイが混乱の種をまき散らしている」と書いたのはこのことだったのかも知れない。しかしマタイが悪いのではない。

  あるプロテスタントの教会の週報にエホバの証人とモルモンと統一教会は聖書信仰の教会ではないと書かれている。それは他の教会でも言われることだが、私は実はモルモンについて少し考え直していた。末日という言葉は私に内在する、未来に対する不安と軌を一にするのではないか。即ちモルモンとは、差し迫った最後の審判に生き残る者が集うことを目的とする教会なのではないか。またカットスロートの儀式によって教団は悪魔との関係を断つ意図があったのではないか。何故なら他の宗教では、例えていえば女高生コンクリ殺人犯人のような、法律が許しても宗教が許せない者は悪魔に餌食として渡される(悪魔でなければ仏と言われている)。そこに悪魔が宗教に介在する機会がある。しかし悪魔(仏も)はその範囲内におとなしく留まっている訳ではいないし、逆に上に立とうとする。このような過去の失敗を繰り返さないために、カットスロートの儀式は悪魔の手は借りず、教団自身が悪人に処罰を下す企画だったのではないか。然し結局天の国で致命的な選択の過ちを犯したのは、カトリックの本質を見誤っただけではなく、旧約聖書をまともに取ったのが原因ではないだろうか。末日聖徒のホームページを見るとそれが言えると思う。私は旧約は詩編を除き嘘だらけで危険だと思っている。例えばダビデは英雄などではなく戦いを逃れてイタリアに逃げたのが真実らしいし、空腹なエサウが食べ物につられてヤコブに長子権を譲った話も「そんな単純は話ではない」と否定された(本人の声かも知れない)。旧約びとの人の血に対する執着、明かされた死者の魂への異常な貪欲、マラキ書、霊界での無軌道ぶりを考えると、マナの正体はアンデス山中の飛行機事故のような共食いの可能性さえあり、それ以外合理的な説明がつかないと疑っている。

 仏教は552年に百済から伝えられたとされる。その時渡来人たちは「どうしようか」と相談した。結論は「奴らのことはほっとけ」に決まり、名前は「ほとけ」にした。同じ穴の貉である。

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(*註1)「7項・二つの世界を生きて」に“You are God, but still Bitch.”と呼びかけられたことを書いた。当時まだ改宗していなかった。つまりBitchとは仏教徒のことである。霊界のひどさを何とかしなければという声が沸き上っている。
(*註2)煙草を2箱持って行った。煙草の効果に驚いていた。
(*註3)牛肉を食べるとミノタウロスのような怪物がついて来て、どっかりと座るともう終りだったそうである。「食べていない」とか「知らない」とか嘘は通用しなかった。この春ハムを買って帰ったら尻尾の生えた豚女(ナメック人)が来て「3カ月いる権利がある」と言っていたのは新ルールを知らなかったのか。ガバメントは既に定住届け出制を施行し違反は罰せられるだろう。
(*註4)豚肉が霊体に及ぼす悪影響について確認出来ていない。「食べるとこうなる」と見せられたものも本物だったかどうか。まだチャーシューと焼き肉は警戒せよと言う者がいる。