これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
出版当時、新聞の書評で読んだ記憶がある。私は出版後10年過ぎて読んだが、これだけのレベルの面白さ、蘊蓄の深さの本はめったにないと思う。アメリカを一口には言えないが層の厚さは否めない。「ミドルセックス」や…題名は忘れたが(ルーシーとかオハンラハンとかいう人物が出てきた)あの本を読んだ時と同じように、作者の呆れるような知識の豊富さに魅入られると同時に敬意を感じる。この本のテーマは大別して映画(特に監督マックス・キャッスルの作品)と宗教(壊滅後から今日までのアルビ派)とセックス。映画をテーマとしている点でP・オースター「幻影の書」に似ているが単純比較してこの本の方が上だろう。ここに取り上げる理由は「宗教」なのでそれ以外については最小限しか触れない。フィクションだからこの本に書かれたことがそのまま実際にあった訳ではないだろうが、キーとなる事実やキャッスルほか歴史に名を残す人物も史伝通りそれらしく紹介されている。
マックス・キャッスルの残したBC級映画のフィルムには二重焼きの仕掛けがあり、観客は知覚では表面的なストーリーを追いつつも感覚では秘められた画面のおぞましいサブリミナル効果にどっぷりと感染させられているという。映画フリークの主人公(のちUCLA教授)はキャッスルの技法の謎を辿り、それがキャッスルのいた孤児院の映画技師養成所で培われたものであることを知る。その孤児院こそ、生き延びたアルビ派が世間の目を欺くために善意の教会が運営するかの如く装った施設で、そこでは孤児達に様々の先端的な分野の教育を施している。主人公はチューリッヒの教団本部を訪ね理事なる人物に施設内を案内され、子供たちの教育現場や、目をそむけたくなるような残虐な殉教者図と空飛ぶ怪鳥と聖ソフィアが壁画として描かれた聖堂を見る。宗派を問われて案内役の理事は「自分達はカタリ派でありイエス以前からあるキリスト教徒である」と答える。
脇役として登場する、発狂したイエズス会士は彼らを「忌わしい教義を信奉するアブラクサス教徒である」としてこの宗派をライバル視する。
これらの中にどれだけ真実が含まれているのだろうか。彼らが自分達の受難の歴史から殊更に現世を否定的に見、子供を作ることに抵抗を示すのを理解出来なくはないが。
ネットで調べると「アブラクサス」とは鳥であるとも「善でありまた悪でもある神」とも書かれていてどうも理解し難い。つまり、善神と悪神(または悪魔)に分れる前の両者の上に立つ原初の神だろうか。ユング自伝の謎めいた最後の章にアブラクサスの記述がある。
「鳥」ということに関してある夢を思い出す。私の中学以来の友人が東京大手町の鉄鋼の会社に勤めていた。彼は学生時代を通じて成績優秀だった。お互いに近くにいることは知っていたがあまり顔を合わす機会はなく、40代初めの頃久しぶりで会って食事した。その時彼が「キリスト教に改宗した」と言った。彼の家は神道だったが、奥さんが先に改宗しそれに倣ったのだと言う。その後しばらくして彼の夢を見た。夢の主は彼本人というよりはスマートな彼のそっくりさんで、すらりと背が高く神父の僧服のようなものを着ていた。その服の色はあざやかな紺色をしておりムリーリョの描く聖母被昇天図の「マリアの青」を連想させた。ガーダムの「二つの世界を生きて」にそういう色のカタリ派の僧服の話が出てくる。
わが友人はこういう世界に繋がっており、改宗するべき運命だったのだろうか、と思った。
夢の場面は明らかに未来的な都市のアーケードのような大きな通り。そこを彼が大股に横切って行く。その姿の後ろの上空に横に細長いものが突然浮かび上がったと見るや、その物体は形を変えながらぐんぐん近づいて来て、私の頭上を飛び越える時巨大な円盤状をしていた。ちょうどイトマキエイのようだった。ユングはUFOについても書いているが鳥とは乗り物のことではないだろうか。コンコルドも怪鳥と呼ばれていた。
カタリ派が地上を地獄というならば、死後の救いには地球外に行かなければならないだろう。23章に「カタリ派は天国の実在性をいっぱいに詰め込んだ壮大で複雑多岐な宇宙構造をマニアックなまでに想定することに長けていた」と書かれている。この世と表裏一体をなす地上の冥界と霊的宇宙を行き来するには乗り物がなければならない。そして死後清浄な(カタリとは清浄の意)者だけが救済の乗り物に乗れる。そういう意味でキャッスルがフイルムに仕込んだ、黒い鳥の面をかぶった男と美女の交接シーンは、後述するカリフォルニアのズマ・ビーチの案内者が言うように、甚だしい見当違いもいい所。
仏教も天を上天・中天・下天に大別する宇宙観を持っている。仏教でいう如来とは単に“来たお方”という意味である。如来もまた教え導くために宇宙のどこかから来たのだろう。
24章の最後のほうに「われわれが闇を見る所に彼ら(カタリ派)は光を見出し彼らが闇を見るところにわれわれは光明を見出す。暗黒の神(おしなべてわれわれが崇める神)がわれわれの精神をくるりと逆転させて、現実のネガとポジを見誤らせている」とあるのは、あまりそういう話は聞かないが、ガーダムが臨死状態にあって昼間はむしろ暗く夜間になると明るい光の世界を感知した体験を説明するものかも知れない。この世を作った神(暗黒の神)によって脳はそのように仕組まれている、とガーダムは言う。
見える世界にいる自分が仮の姿でいずれは見えない世界に帰って行く、その時自分も人も真の姿になると考える限りでは私も同じである。
ひとつは孤児院を持つチューリッヒと同系列の、もうひとつはささやかな信者数の別の信仰形態の、いずれもカタリ派の教会がカリフォルニアにあり主人公はそれらを訪ねるが、これには何か実在のモデルがあるのだろうか。その孤児院の映画工房にハンディキャップを負った天才少年がいて、グロテスクで末期的なしかし特別の才能を感じさせる映画を続々と生産し、教団はそれまでに映画評論家としての幾ばくかの名声を得ていた主人公による少年への賛辞を利用して少年が作る映画を権威付けようと意図し、預言者と呼ばれるその少年と主人公との面会を許容し二人は親密な関わりを持つに至る、という具合にストーリーは展開する。
この小説は時代背景を1970年代に置いているが、当時ベトナム戦争や米ソの対立があり世界は一触即発の危機に瀕していたし、パゾリーニの露悪主義的映画、パンクロックの流行、ポルノグラフィーの氾濫など確かに状況はひどかった。それにしても、少年の作ったおぞましくも嫌悪感を掻き立てる惨たらしい映画が宗教教団のプロパガンダとして役に立つものだろうか。そんな発想自体狂っているとしか思えない。青臭いことを言うようだが、キリストの愛の精神とは程遠い。地獄とも看做されるこの世、それと合わせ鏡のあの世の闇の中に、欠けているが故に必要とされる愛の光をかざそうとしてキリストが試みたものは真実の救いの教えだったのではないだろうか。あまつさえ、それから約40年後の2014年、アルビ派の年代計算で丁度2000年に当たる年に、彼らは世界的な規模で先端技術を駆使した危機をもたらそうと画策しているのだという(註*)。年代はもう近くまで進んでいるので成り行きを見てみたいが、私のシリアスな関心は70億に達した人口増加とそれに伴う今後の食糧問題にある。
最後に主人公は第一線をリタイアしたカタリ派の長老が隠棲しているアルビを訪ねようとして、結果的に彼らの罠にはまって離島に幽閉され失踪する。
ガーダムが乗ったタクシーの運転手が最後に言い残した「導師がいる」という言葉はこのアルビの長老を指しているのだろうか。この本にエンターティンメント以上のものを求めようとすると、どこまでが真実か全くの創作か、或いは名称や場所を変えたリモデルかで、事実がリアレンジされたフィクションに付き物の虚実の境界を出たり入ったり彷徨い、読者は迷路に嵌って右往左往することになるだろう。
(註*)
ここで書いたことについては反省している。段々と見えない世界の現実が判って来るにつけ、そこを支配しているのは誰か、彼らによってどんなに情け容赦なく、むごたらしく、涙も出ない非道な世界が出来上がっているかが分かってきた。少年はその実態を伝えたいのだった。先端技術を駆使したクライシスとはそういう世界に対する革命のことだった。