これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
共著者の一人グラハム・ハンコックはカタリ派の世界観として「物質世界を創造し支配している悪神が人間の肉体を泥と水からこしらえた。ローマカトリック教会が神とあがめているのはこの悪神であり、教皇は地上における悪魔の代理人でその目的は死後に私達を光に充ちた天の霊界に送り届けることではなく何度も人間として生まれ変わらせ、物質界という地獄へ連れ戻すことである」という善悪二元論を紹介している。これはニケーヤ公会議で権威付けられた使徒信条へのアンチテーゼであり、カタリ派は創造神話や楽園追放を物語る旧約聖書を軽視する。使徒信条は「天地の創造主、全能の父である神を信じます」(I believe in God the Father, Almighty, Maker of heaven and earth)の句で始まり、今日も教会のミサで唱えられている。
カトリックの信者は死後その頼みとする神の許に行くと、新たな肉体を指示されてそれに宿り、再度・再々度人間界に生まれ変って次なる一生を繰り返すのであり、それがカトリック教徒にとってキリストが永遠の命と呼ぶものである、というのだろうか。山上の垂訓は「柔和なるものは幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」と教え、地上の再生は恵みのひとつである。
死者の苦難がダンテの神曲に描かれ、「招かれるものは多いが選ばれる者は少ない」と言われるように落第者は確かに多数を占めるだろうが、聖書でキリストは天の国について何度も語り、狭い門を通って天の国へと至る救済の道とそのための条件を示し、例えて言えばマイナーリーグでの勝者の条件としての律法を成就させ(止揚し)更なるステップアップであるメジャーリーグでの勝利を目指す天への道を整え導いた。選ばれなかった者はどうなるかイエスは語っていないが、問題はこの「選び」がカトリックにおいて正しくなされていたかどうかである。
これに較べ旧約の教えは天の国について言及しなかったから、旧約の徒は天の国を目的意識することもなく死後その道を求めることもなかったろう。ショアーと呼ばれるユダヤ人の死後の世界は、オルフェやオデッセイのようなギリシャ神話の冥界ハデス、また古事記の神話の黄泉比良坂と優劣はあるにせよ同じレベルの世界であろう。この旧約の徒を導いたのが物質世界を創造し支配している悪神であるとし、キリストを信じるカトリック教徒はキリストの父なる悪神を信じているのであり、カトリック教徒もサドカイ派やパリサイ派と同じだと代弁者ハンコック(自身は多分国教会派?)は単純に言い切っている。いくらカトリックが旧約聖書を正典として継承したからと言って理不尽な難癖ではないか。自分達の存在を否定し抹殺しようとしたカトリックが憎いのは分るが、素朴なカトリック教徒は屋根の上のバイオリン弾きでロシアの役人が言ったと同じ禁句を呟くだろう、「彼らはキリスト○しだぜ、一緒にしてくれるな」と。イエスはこの道を直進するのは先細りで本線は右折するべきなのだと教えたのである。イエスの父なる神の在り処は父と子と子が特別に教えた者が知っているだけ、もしこの神がエホバならモーセも加えなければならない。我々はキリスト教が誕生する前から存在するキリスト教徒であると主張するその教えが本来敵視する悪は別のものであった筈である。(下記註*参照)
超感覚者がしばしば語る通り、輪廻は普遍的で宗教による考え方の違いなどという問題ではなさそうである。キリスト教がニケーヤ公会議以来生まれ変わりについて語らなくなったのは確かに片手落ちだろう。そこを皮肉に突いているのかも知れない。
旧約の神とキリストの父なる神が同じかどうかをメインテーマとする権威ある論議は存在するのだろうか。イザヤ書に「わたしはこの民をわたしのために造った。かれらはわたしの栄誉を語らねばならない」とあり、イエスは彼らを「あなた方は地の塩であり世の光である」と讃えた。ユダヤ民族の祖アブラハムは最初エジプトの外にいてその時点で民族神の助けにより辛うじて子孫を得るが、やがてエジプトで人数を増やし迫害されてモーセと共に脱出した時、エジプトの一神教の神アテンを担いで出てその神のもたらす奇跡に助けられたとされる。聖櫃や幕屋はそっくりのものが古代エジプトに存在し、アーメンという祈りはアメン・ラーへの呼びかけであるとある学者は言う。旧約の中でも創造神と民族神と出エジプト以降の神を同一に扱うことは出来ないのではないか。47億年前のビッグバンの神とたかだか20~30万年前の人類誕生の神と有史以来の地上の神が皆同じとは思えない。
人間に影響を与えようとする神の意図の正邪やその権威の違いを人間の側で識別することは不可能に近い。(私には語るに足るほどの知識はなく極めて僭越なのだが、旧約聖書は神というものに対する人間の錯誤と取り違いの歴史のような気がする。)アブラハムがイサクを犠牲に捧げようとする話も、『ユダヤの神を敵視する地上にある神は、ユダヤ人の子孫を絶やすべくアブラハムを騙してイサクを生け贄に捧げるよう語りかけた。アブラハムは従順にその指示に従ったが、ユダヤの神は天使を送り直前にそれを止めさせた。地上の神は「アブラハムの信心を試したかっただけだ」と言い訳した。』という二神対立の物語に翻案する方が真理に近くはないか。真実の神ならアブラハムの人となりを正当に見る力もあるだろうし一つ間違えば元も子もなくなる危険な試みを軽々しく課したりしないだろう。供物を要求する神を低く見る考え方もある。ましてや人身御供である。イエスは供物を売買する商人を神殿から追いたてた。田川建三の「イエスという男」によれば613の律法の戒めのほとんどが絶望的に複雑な食物の浄・不浄、即ち供物としての妥当性に関する規定であるというが、イエスはパリサイ人と聖書学者に対してイザヤを引用し「あなた達は人間の作った規則を教え神の教えをないがしろにしている」と食物の浄・不浄の不毛な論議、ひいては供物そのものへの否定的態度を示した。
聖木曜日、最後の晩餐での「苦しみを受ける前にあなたがたと共に過ぎ越しの食事をしたいとわたしは切に願っていた」というイエスの言葉は、一見彼も出エジプトの故事を肯定的にとらえユダヤ教最大のペサハの祭りそのものを待ち望んでいたようにミスリードする。然し、ユダヤ人以外の人間も動物もすべてその長子の命を奪うという神の酷薄非情な行いを祝い以後これにちなんで羊の生け贄を慣習化したこの祭りを、それと価値観の全く違う「汝の欲する所を人にもせよ(欲せざる所を人にはするな)」また「私は言う、汝の敵をこそ愛せ」また「天の完全な父が善人にも悪人にも光や雨の恵みを与えるようにあなたがたも完全でなければならない」という自分の教えとの違和感なしにイエスが受け入れていたとは思えない。使命を遂げた後の間近な死を予感していたイエスが、いよいよ人の子としての日々を過ぎ越して天に帰り、それに伴って旧い教えの時代の過ぎ越しを完了して新しい福音の時代の幕を開く直前の別れの宴を、弟子達と持ちたいと願ったという意味ではないだろうか。
キリスト神話(トム・ハーバー)によれば、アブラムが神の指示によってアブラハムに改名した名称は、反対の接頭辞 a- とブラフマンの合成で反インド神の意味であるという。輪廻を前提とし人間の世界に厳しい身分制度を設け、善行を積めば次回は高い身分に生まれ変わることが出来るしその逆もあるとするインド神の運命管理の方式を肯定しないことの表明だろうか。この本は触れていないが、そうするとイスラムの神アラーは反ラー(エジプト神)という意味になる。旧約に固執したユダヤ対イスラムの今日の厳しい近親憎悪の状況に当てはまるが、そんなレトリックにどれ程の真理が含まれているのかは計り難い。
以上「タリズマン」から大分話が逸脱した。この本は広く浅くカタリ派について述べるに留まり独断と踏み込み不足の不満は拭えないが、面白い記事も結構あって捨て難い。グノーシスが人間は「無知」の故に苦境にあり知識こそそこから抜け出す唯一の道であると考えたのは尤もなことで、オクシタニアのカタリ派は新約聖書をそうした知識の宝庫と考え信徒が各自聖書を読めるようにすべきであると感じて、ラテン語から民衆語であるオック語に翻訳した手書きの写本を流布させ子供達にも小さいうちから聖書を読ませたので識字率の高いコミュニティーが出来あがっていた。こうした教育は男女を問わず行われ「教養と学問を身につけた女性の存在がカタリ派共同体の特色」となったし女性の完徳者もいた。素晴らしいことだと思うが、天国への鍵はペテロに与えられたとして権威を振りかざしキリスト教勢力の中心にあったローマカトリック教会やグノーシスを検察する異端審問所は、女性を指導的地位から排除し一般人による新約聖書の所持も俗語への翻訳も厳禁し聖書の解釈権を専有していたから、両者はお互い当時の状況下では並び立たない存在だったと言わざるをいない。
然し聖書が人々に自由に各自の言葉で読まれ、また望む通り解説を求めることも聞く人があれば自分の意見を語ることも出来るようになった今日でも、人間の無知の苦境は深まりこそすれ緩和する気配はない。価値観の全く違う世界が待ち構えていること、現世での楽しみや満足はそれ自体結構なことだが結局糠喜びに過ぎないし死後を無事に通り抜けなければ現世以上の苦難があること、事は自分だけの問題ではなく自己の出自である眷属も巻き込み、死後の審判に当り不幸から救われるにはだれか(良き宗教)の助けが要ること、等々誰も真剣に考えないしますます忘れ去られている。
それに新約聖書は当時の限定された時間と場所と相手の物語だが今日の我々は皆それぞれ異なった状況にあり、中国人は中国の、インド人はインドの、アフリカ人はアフリカの、日本人は日本の独自の問題を抱えている。
キリスト教に先立つグノーシスの例としてヘルメス文書から「人間は地上のほかのどんな生き物とも違って二面性を持つ。肉体という意味では死ぬ定めだが永遠の要素も持っているので不死でもある・・・人間の躓きの原因は欲望と忘却である。」とあるが、本来不死であるものも抹殺されれば死ぬだろう。不死であるには争いに勝つか避けるかが重要である。ヨハネの手紙も憎しみや愛は死後に持ち越され「憎しみあうものは殺しあう。殺しあう者に永遠の命はない。愛しあう者達に永遠の命がある」と言っている。永遠の命を標榜したキリストが「あなたたちに平和を残す」と言ったのはそのことを指す。
更に「私は決して誤らない不可避の運命に結びついた秘密の発動機を発明するつもりだ。これは人の一生に起こるすべて、誕生から最後の死まで支配する。地上のこともすべてこの発動機の働きで制御されることになる」とある。この発動機とはコンピューターである。誰も容易に信じないだろうしまさかと思うことを言うが、冥界にも天文学的な桁の数値を扱うコンピューターが存在しそれは地上の事象や人間の制御・記録のマシンとして稼働している。「複雑系」という本によれば、アメリカのサンタフェ研究所はコンピューター上でシンプルなコマンドによる人工生命の発生と成長をシミュレーションする実験を行った。人間はゲームを作って遊んでいるが、我々もまた誰かが作ったゲームの登場人物かもしれない。
(*註)これを書いた時点で私はカトリックの信徒でありカトリックに対し希望的観測をもっていた。キリストの父なる神は悪神ではないがカトリックは悪神に仕え信者の運命を捻じ曲げた。結局ハンコックのカトリックに対する非難は当たっていた。