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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

マリア

  昨年11月から通い始めたプロテスタントの教会で、カトリックと違い新教では 1)祈りの後に十字を切らない 2)信者に洗礼名がない 3)マリア信仰がない 4)聖餐式は月一回しかない、ということを知った。カトリックでは日曜ミサだけでなく祝日のミサでも葬儀でも常にホスチアの儀式があり、注意深くカトリック信徒に限ってホスチアが与えられ、信徒でなければ神父が按手するだけだった。新教ではすべてのクリスチャンはもとより教会によってはまだ洗礼も受けていないミサ参加者にもホスチアを与え、私はその方が排他的でなくて良いと前から思っていた。カトリックの讃美歌には正直に言って未練がある。
また神父が妻帯していること、ミサの進行(祭司)役は信者の代表が務めることも違う。8月15日聖母被昇天の祝日もない。
私の行ったほとんどのカトリック教会ではミサの前後にアベマリアの祈りを繰返し唱えた。禁教の時代に長崎のキリシタンの間で、晴れて禁教が解かれた暁には三つの条件を充たす神父、即ちローマから来た、独身の、マリア信仰を持った神父を迎え入れるようにとの言い伝えがあったそうである。ただし個人旅行で行ったドレスデンのフラウエン教会はルター派だったから新教はどこもマリアに全く無関心とは言えない。
クリスマスを控えた12月に教会の学習会でルカ1章が取り上げられた。ルカ福音書はイエス誕生のいきさつにページを割いている。処女マリアが聖霊によって身籠ったことの解釈で、私はこれを文字通りに受け入れる紋切り型の立場に反対した。キリストが再臨する時同じ奇跡が起きるだろうか。今の時代に理性を眠らせて盲信的に奇跡を肯定する訳にはいかない。「いつも目覚めていなさい」とイエスは言った。
マリアはY染色体を持っていないから処女生殖によるイエスの生誕はありえない。ギリシャ語圏を布教対象にしたルカの福音書は最高神が人間の女性に子供を産ませたギリシャ神話を準用したのだろう。ゼウスは白鳥や牛に変身しレダやエウロパを誘惑して交わった。
では聖書をどう解釈するかと聞かれて、ガブリエルに受胎告知されたマリアの「どうしてそのようなことになりえましょう。わたしはまだ男の人を知りませんのに(How will it be since I am a virgin)」は、驚愕したマリアが「何と困った事態になったことでしょう。両親にも婚約者にも、もし問われたら私は処女だと言わねばならない立場です。妊娠したことが事実なら、私というおぼこな娘が許婚者がありながら実は既に男の人を知っている、何とはしたない女だったかと分って大問題になってしまいます」と当惑したことを意味するだろう、と述べ私が中学一年の時に学校であったことについて話した。
A子は二年生で人好きのするまあ魅力的な少女だった。A子の父は役人で一家は公務員官舎に住んでいて、官舎には全家族共用の浴場があった。A子は自分の身体にどんな変化が起きているかを別段気に留めていなかったが、多分母親が変調に気付いたのだろう。両親が問い質して、彼女は相手がKであることを白状した。Kは三年生で今で言うイケメンの花形スポーツ選手だった。既に堕すには遅過ぎて危険だ、無理すると母体に悪い影響が残る可能性があると産科医師が診断して告げた。Kの父親に状況が伝えられて、両家の父母と二人の子供が集まって会談した。Kは自分が働くから子供を生んで欲しいと頼んだがAの父親はまだ未熟だと拒絶した。もし娘が一生子供を生めなくなっても、世間には子供の出来ない女はたくさんいる、と堕胎させる意思は固かった。Kの父親が「自分の子供の育て方が悪かったのでこうなった。堕すなら医者の費用を分担させて欲しい」と申し入れたが、Aの父は「それは私にも言えることだ。援助してもらうつもりはない」と断わり、Kにはたとえ娘への愛情が残っていても、父親として二人が一緒になることは許さない、ただ忘れてくれと言った。ことはその通りに運び、更にAの父は退職を願い出て職場を去り一家は引っ越ししてどこかに行った。この話は余り町の噂にはならなかったが私の親しい友人がその官舎に住んでいたので話してくれたのだった。Aの父は「自慢の娘だったがこんなに親を苦しめ恥ずかしい思いをさせるからには淫売にでも売りとばしてやりたい」と慨嘆したという。もう60年も昔九州の小都市であった悲しい出来事である。マリアも丁度A子と同じ位の年齢だったろう。前後の見境なく一時の(多分ローマ兵との)恋の情熱に攫われたのである。
ファーブルが昆虫の雄雌のmatingの話をしただけで教師の職を追われる程に、性の話はつい最近までタブーだった。しかし決して子供は無知であればよいというものではない。学習会に参加した子供のある女性信者によると最近の小中学校では昔のような男女別々ではない授業でかなり具体的に性のことを教えるらしい。
「聖霊があなたの上に臨みいと高き方の力があなたをおおいます。それ故生まれる方は聖なる者、神の子と呼ばれます(The Holy Spirit will come upon you, and the power of Most High will overshadow you. So the holy one to be born will be called the Son of God. Nothing is impossible with God.)」は「いと高き方の力があなたを包みその分身霊が訪れて胎内の子に宿ります。だから生まれる子供は神の子と呼ばれます。あなたは何も心配いりません。神はヨセフに寛容を説き、お前の過ちを許して受け入れるよう諭します。ヨセフはそれを聞き入れ、ほかの人々はおまえの過ちには気付かないでしょう。(そんなことが出来るでしょうか、とのマリアの問いに)神にとって不可能はない」の意味と解するのが妥当である。マタイ福音書では御使いはマリアにではなくヨセフに現れ「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と告げたことが出ている。マリア自身「私は聖霊と交わって懐妊したのです」と言い逃れする気はさらさらなかっただろう。
「どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように(May it be to me as you have said.)」は妙な日本語だが「本当にお言葉通りになればそれは私にとってなんと望ましいことでしょう」の意味である。

然しマリアにとって何事も都合よく行くとは限らなかった。神殿に参拝に来たヨセフ、マリアと幼子を見た老シメオンは救い主が誕生したことを確信し、早晩死んでも悔いはないと喜ぶが、マリアに対して「いつか剣があなたの心を刺し貫くでしょう」と不吉な予言をする。ユダヤ教はシメオンにとって救いではなかったのだろうか。
カナの祝宴でマリアがもう葡萄酒がなくなったとイエスに問うと、イエスは「婦人よそれが私に何の関係があるでしょう」と冷たい言葉を返す。イエスが群衆に向かって話していた時、ひとりの女が声を張りあげて「あなたが宿った胎、あなたが吸った乳房はなんとめぐまれていることでしょう」と叫ぶと、イエスは「いや、恵まれているのはむしろ神の言を聞いてそれを守る人である」と答える。それは父ヨセフのことである。あるブログによればドイツの聖書学者レングシュトルフは「ここにあるのはマリア崇拝への最初のノーであり、イエス自身がマリア崇拝、マリア讃嘆に冷水を浴びせて釘を刺している」と言っている。学習会で私は「もしヨセフがマリアとの婚約を破棄し、その理由として彼女が不貞によって妊娠したことを公言していたなら、必ずやマリアは非難にさらされて母と生まれた子は路頭に迷いその命運は危ういものになったに違いない。ヨセフの寛容がなければキリスト教はありえなかった」と言ったが、ローマ教の不寛容がいかに反キリスト教的であるかをその時思い浮かべた。

 一体何がマリアをローマと結びつけたのだろう。マリアはイグナチオ・ロヨラに現れ、「盟約するな」の教えにもとるイエズス会創始の動機になった。つい最近アウシュビッツ解放70周年を記念してアイヒマン裁判の記録映画を放送していた。アイヒマンのexcuseは上からの命令、誓約への忠誠ばかりで思考が停止していた。「言われた通りにやれ」は悪魔の決まり文句である。今やイエズス会はローマの柱である。キリストの理想から反転し、権威主義と不寛容の権化となったローマは悪魔崇拝の巣窟になっていることを私は危ぶむ。祭壇の上にダルマのような悪魔像が祀られて、ボッシュの凶々しい絵に描かれたと同じ姿の何者かがいる幻を見た記憶が残っている。欲深の象徴マネーロンダリング、誘拐された児童の犠牲などの疑惑が報道された。教会がどうしてキリストの花嫁なものか。エクレシアは再定義される必要がある。ドヌーブよ、Fアルダンよ。私はイタリア人やフランス人の死後の命を不安視する。
はるか離れたこの国のカトリックがローマとまったく同じ体質だとは言わないが、秋田のマリア像は何故血の涙を流し、「多くの人の命が失われるのが私の悲しみです」と嘆いたのか。ひょっとして自分がそれに加担しているからではないか。
マリアにはネームバリューがあり悪用するには持ってこいである。マリアは何かで弱みを握られたのかも知れない。食べてはならないものを食べてつけ込まれたか。金を盗まれ、何食わぬ顔で盗人の仲間が「お困りなら貸しましょう」と親切顔で現れて見返りに悪事に加担させることもある。借金を利用するのは悪魔の常套手段である。新教の教会に近いアパートに住み始めて間もないある夜、夢で一人の少年が私の住居に駆け込んで来た気配があった。彼の表情は固く手に武器にするのに丁度よいような長い先の尖った木切れを持っていて、その慌ただしさに半ば目が覚めた。すぐ後に同じ位の背丈の、顔が悪相ではない少年がやはり木切れを手にして追いかけて来て「こいつは今までやり過ぎな程むごく我々の仲間を苦しめた」と言うと、「許してやれ。彼のいた神社のカミは飛び去り神社の主は討たれた」と女神の声がした。追われていた方が「彼らに二千万の借金があって今まで命令に逆らえなかった」と言い訳した。昨年来この国の霊界で大きな変化があって悪がくじかれた、その身近な一例である。

 マリアに関しては個人的に複雑でアンビバレントな感情がある。一体世界中にマリアの分身といわれるものが何体いるのだろうか。多分一人があるエリアを担当するのだろう。黒いマリアがいるように日本のマリアは日本人の姿をしている。偽マリアも多数いるらしい。「汝自身を知れ」の項で書いた、幼子を抱いて我家に現れたマリアはまだ若く愛らしい、しかし強い意志のある顔をしていた。私がN市で一人で暮らし始めカトリック信徒になった頃のマリアは優しく内攻的だった。YoutubeでパバロッティーやCeltic Womanのアベマリアを聞いていると「人間は美しい歌を作ってくれる」と言って涙を流した。何にも気が付かなかった頃は悪に組するマリアが家にいたらしい。私自身の当時の生活にも問題があったのだ。なぜ私がマリアを引き寄せるか。実はマリアだけではない。私は私自身信じられない過去と能力を持っているらしい。何時かそれを書かねばならないだろう。ただし人間はだれにでも履歴の秘密があり歴史の生き残りなのである。
しかし昨年からの歴史の変化はこの国だけではない。マリアは最近くびきを解かれたという噂がある。

 ルカの福音書にはしばしばダビデが出て来る。ダビデとはユダヤ最盛期の王、殺人の天才である。息子アブサロムが父に反逆したのはダビデの真実の姿を見抜いたからである。「退化」の項に書いたように、ダビデの行いが彼にどんな恐ろしい姿をもたらしたかは考えられる所である。血の繋がりは、ある時には父と子は同質であるが何時もそうとは限らない。ダビデの父エッサイは「エロイム、エッサイム」と唱える祈りの言葉のエッサイムを具現し親子は同質である。この祈りは「すべての正義の神、すべての悪なる神よ」とユダヤの全神々に訴える言葉である。エロイムは陰陽道の白い勾玉、エッサイムは黒い勾玉である。日本のような緑豊かな国では善悪の区別はつけ難いが砂漠の地では光と影ははっきりしている。

ルカ12章に“イエスは彼らに言われた。「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が詩篇の中で言っている。「主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台とする時までは、わたしの右に座していなさい」このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか”という謎めいた文章がある。これは主(ユダヤの正義の神エル)はダビデの主(ヤーヴェ)に言った、ヤーヴェがユダヤ人の敵をその足下に服従させるまでヤーヴェに自分の右の座を与える、の意味である。ヤーヴェがエッサイムの頭である。またイエスは自分が神の右の座に着く、つまりヤーヴェにとって代わるとも、「私が来たのは律法と預言を成就させるためである」とも言った。預言とは「エッサイの株に若枝が芽生える」と予言したイザヤ書を指す。株とは伐り倒された木の切り株でありイエスの登場によってエッサイの系譜が終わることを示している。12章でイエスは自分がダビデの子(系統)ではないと言っているがそれだけではない。イエスの種はヨセフのものではないからダビデの血を引いてもいない。

かつてユダヤの神エッサイムはカインの奉げた地の作物を拒絶しアベルの羊の捧げものを喜んだ。アブラハムにイサクを生け贄に捧げるように命じた神は生贄を求める神エッサイムでありそれを止めた神はエロイムである。レビ記でヤーヴェは生贄を捧げるルールをモーセに事細かに命じ更に口伝で秘密の教えをレビ人に伝えているが、こんな神を信奉してユダヤ人よ大丈夫かといいたい。レビ記での植物の奉納はパンであるがパン種を用いてはいけない。イースト菌はエッサイムにとって拒絶反応を起す。このような例はドラキュラの嫌うニンニク、インドカレーのウコンだけでなく日本の根菜も同様である。煙草も効果がある。
最高神は人間に供物を求めないし肉食しない。詩編50で神の神、主は語っている。
 If I were hungry, I would not tell you, for the world is mine, and all is in it.
 Do I eat the flesh of bulls or drink the blood of goats ?
 Sacrifice thank offerings to the Most High, and call upon me in the day of trouble;
 I will deliver you, and you will honor me.
 たとい私が餓えてもあなた達に告げはしない、世界は私のものでありすべてはその中にあるから
 私が牛の肉を食べ山羊の血を飲むだろうか
 いと高き者への感謝(の言葉)を捧げものとして供えよ、そうして苦難の日には私に呼びかけよ
 私はあなたを助け、あなたは私をあがめるだろう

イエスも洗礼者ヨハネもエッセネ派だったことが知られている。エッセネ派はエロイムを信奉し、市民から遠ざかって仲間だけで集団生活する菜食主義者だった。然し行為の人イエスは自分達だけが救われれば良いとする彼らから離れて街に戻り救いの教えを説いた。
この二千年間、エロイムの子達がヤーヴェに捉えられる悲劇にただ手をこまねくしかなかった。ユダヤ教の神は生きている者にとっては神でも死者(殺された者)にとっては悪魔である。その理由は人間が肉食を断ち切れなかったからか、教会が福音書を正しく読み解けなかったからか。
イエスの救いの計画は挫折したのだった。それを踏まえなければ新たな世紀はないだろう。