これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
仏教や神道の信者はすぐにグループごとに分けられ別行動だったから、ここにいる十数人は皆キリスト教徒だった。彼らがこちら側に来てもう一カ月が過ぎようとしていた。これまで様々な厳しい査問を受けて知ったのは、自分たちが一生を通じてまるで金魚鉢の中にいる金魚のように間断なく観察されていて、今さら何も隠し立てしようもないことだった。誰かに宛てて書いた手紙もコピーが残っていたし、日頃頭の中で考えていただけのことさえも見透かされていた。この世で人がやったことは同時に霊界でも例外なくアバターがやったのであるが、逆に霊界で起きたことがこの世でも必ず起きたとは限らず、それが「言った言わない」「やったやらない」で食い違いが起きて揉める原因になることもあった。誰しも「もっと慎重に考えるのだった」「あんなことやるんじゃなかった」と反省することしきりだった。さて今日は何をするのだろうかと様子を窺っていると美しい女が現れて「福音派の方はこちらに来てください」というと6人が立ち上がり、女の後に付いて外に出ると「皆さん全員どうぞ」と待機していたマイクロバスに乗せられた。バスはくねくねと長い距離を走り、市中を過ぎて人家がまばらになる辺りで、森の中にあるかなり大きな建物の前で止まった。その建物は周囲を高い金網の塀で囲まれていて、入口の看板には「P&Pキリスト教研修所」と書かれているのが見えた。中から男が出て来て来客を招き入れ、一人が「P&Pとはどういう意味ですか」と尋ねると、彼は「ペテロとパウロのことです」と応えた。みんなは建物に入り、指示があるあるまで休むように言われ、待ち時間を休憩室で過ごした。少々時間がたってから呼び出しがあり、全員は教室のような部屋に導かれ、自由に席に着くように言われた。
程なくして男が入ってきた。その男は黒のハイネックシャツの上に襟のないブレザーのようなものを着ていた。そのブレザーは薄手の化繊のような、やや光沢のある布地で出来ていて、人目を惹きつける赤銅色をしていた。車好きならその色は自動車業界でプレシャス・ブロンズと呼ばれ、最近の新車の広告で似たようなツートンカラーの写真を見ただろう。男は眉毛が無きに等しいほど薄いせいか異様な印象を与え、その顔に人間とは違う独特の風貌があった。誰かが「悪魔のようだ」と呟いた。彼は壇上に上がって部屋を一渡りみまわした後、壁に備え付けられたテレビをつけた。すると画面に「贖罪」という字が現れた。その字を指さしながら「きみたちは洗礼式で『イエスは私たちのために贖罪の生贄になって十字架上で死にました。世の罪を背負って犠牲になったイエスのお陰で人々は罪を償われ、私たちは救われました。イエス様に心からの感謝を捧げます、アーメン』と唱和し合掌した。ユダヤ教には一年間で自分が犯した罪を償うために信徒が羊を屠って神に捧げる習わしがあった。またマラキ書には祭司が信者の中から健全な男子を選んで全能神に捧げねばならないとする、神とレビ人の間で交わされた不文律について書かれている。だから羊に代って神への供物になったイエスへの感謝は、イエスを主として信仰したのではなく、供物を受け取るべき全能神こそイエスの地位より上の神であるとして信仰したのである。これは旧約聖書の神を信仰する我々ユダヤ教徒と全く同じ考え方であり、君たちにはユダヤ教徒に対するルールを当てはめるべきである。聞く所によるとイエスは『私は生贄の羊になるために死んだのではない』と言っているそうではないか。旧約聖書の創世記に、エデンの園においてユダヤ教徒には特別な試練が与えられることが書いてあるが、同じものがこの部屋を取り巻いているコの字型の通路に設置してある。君たちのうちそこで課される試練を無事に通り抜けた者だけが救われるのだ」と言った。
いつのまにか部屋の後ろに屈強な男たちが入って控えていた。話が終わると彼らは威圧的な態度で6人を右手のドアから通路へ出るように促し、全員が通路に出て行くとすぐにドアに鍵がかかった。マイクロバスが着いた時その建物にはいくつか出窓があるのが見えたと思ったが、内側から見ると通路の左右は完全な壁で、窓はすっかり塞がっていた。通路は暗く足元に豆電球ほどの灯りがあるだけだったが、6人は自分たちが通路の一番端の位置にいることが分かった。ほの暗い灯りの中で全員は一体そこに何があるのか、おずおずと廊下の前方を窺った。その時後方からガラガラと蛇腹のシャッターが巻き上がる音がしたので驚いて振り向くと、蛇腹が上がるに従い奥の凹んだ空間に風力発電の風車のようなものが次第に現れて、その回転翼が今まさに目まぐるしく回っているのが見えた。しかし発電機とは違って、羽根の代わりに結わえつけられているのは鋭く光る4本の刃であった。外向きに取り付けられたその刃はかなりの速さで大きく回転していて、それが描く円の円周は丁度通路の横幅ぎりぎり一杯になるのが分かった。そしてシャッターが上がり終わるや、突然風車の軸が前方にせり出して来たので、全員はあわてて飛び退いて、通路の奥に向かって数歩後ずさった。しかしその時行く手の廊下全体に騒々しく別のシャッターが巻き上がる音が響き渡った。弱々しい光を通して、彼らは左右両方の壁に一定の間隔をおいて壁付けされたいくつものシャッターが次々と巻き上がるのを見た・・・・・
キリスト教には動物の供物によって罪から救われるという考え方はないと明確に考えるべきであろう。それはマタイ福音書9-13の「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」が意味する所であり、また同25-40の『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりに(弱者への思いやりと慈善行為を)したのはすなわちわたしに(良いささげものを)したのである』で繰り返されている。イエスがキリスト教を起こしたのは、ユダヤ教には実は多くの信者の死が隠されていたことへの反発であり、それは現世だけでなく来世でも同じであった。
イエスが磔刑に至る過程にはミッシング・リンクともいうべき謎がある。イエスはユダヤ教祭司の告発によって磔刑に至ったのであるが、最初ポンティオ・ピラトは訴状を読んで「私は彼に罪を見出さない」と刑を拒んだのだった。にも拘わらず結果的に刑が行なわれたのはイエスが「ローマもいづれ滅びる」と言ったためで、その言葉によって彼がローマ帝国及び皇帝の永遠性と尊厳を否定し名誉を傷つけたとされたためであった。しかしイエスは大衆には専ら譬えをもって語り、もめ事の種となるようなことは軽々しく喋らなかったし、真実は使徒に向かってだけしか話さなかった筈である。だから使徒の中の誰かがイエスの言ったことをユダヤ教祭司に告げ口したのである。それはペテロ以外考えられなかった。最後の晩餐でイエスが「この中に裏切り者がいる」と言い、その後でペテロに「お前は今夜三度知らないと言う」と言った二つの非難は並行関係あった。
これまでこのブログでペテロへの疑惑を書き並べてきたように、ローマが旧約聖書とパウロ文書を正典化したのもペテロの仕業だった。キリスト教徒である筈のエバンジェリストに旧約聖書の記述を適用することが出来るのもペテロの思惑通りであろう。イエスは初めからそんなペテロの本質を見抜いていた。私はグノーシス(1)の項で、エイレナイオスがその著「異端反駁」の中に「シモンは人間でなかった」と書いたシモンとはペテロであると想定した。人間でないペテロとはイエスにとって本来敵の筈であったが、逆にそこにイエスが敢て「汝の敵を愛せよ」と教えた真意があった。命の糧のリソースである地球で、人間は人間ではない異星人とも出来るだけ争いを避け共存共生しなければならないという考え方であった。しかし実際はイエスの願いはペテロに通じなかったし、早すぎる死の原因もペテロだった。あと少しでもイエスが生き永らえていたらキリスト教の様々な矛盾もなかっただろうと思われる。イエスの死後ペテロが連れて来たパウロは上述したようなジュラシック・パーク---またの名をサンクチュアリ---の撤去に反対する者であり、信者を生贄にするシステムの存続を望むアンチキリストであった。故にキリスト教信者がパウロ文書を学ぶのは危険な蛇足の行為である----蛇足とは余計なことをしそれが原因で失敗することを言う。
イエスの死を罪の贖いと見做すセクトがあることは知っていたが、一部のマイナーな、旧約に捕われたグループの考え方だとしか考えていなかった。しかしつい最近それはエバンジェリストで、彼らはアメリカのプロテスタントで過半数を占める最大のセクトだと知り、黙っている訳にはいかないのではないかと思うようになった。敢て本心を言えば余計なおせっかいをして他人の考え方にくちばしを入れるのは揉め事の種で、思い上がりとも取られかねない危惧があった。エバンジェリスト的な考えの源流が建国の父であることを知ってさらに気が重くなったが、そう言えば明らかにエレーヌ・ペイゲルスにも同じような傾向があったし、それは彼女が無意識のうちに先人への畏敬に縛られていたせいかも知れなかった。しかし建国の父たちは今やそれがどんな結果をもたらしたかは知っている筈である。フィリップKディックやフルト・ゴンザレスを読んだ時も感じたのは、どちらかと言えばWASPとは現世的人間で、「こちらの世界」については数多の指導的人物を排出し優れた書き物を残しているが、これまでの所「あちらの世界」に関する習熟度はそれ程高くない人種ではないかということである。彼らのブルーブック、ジュラシックパーク、アバター、サンクチュアリー等の言葉に対する認識には、巧妙なネーミングのせいもあるが、実態とのズレがある。
このブログを読んで私が何者か思い当たった人が2名いるらしく、偶然にも二人共 NHK の OBである。彼らが私と同じ所から来たのなら私以上に私を知っているかも知れない。ところで私は自分がダブルバイト人間と呼ばれているのを知っているが「なるほどな」と思う。この言葉が検索しても出てこない新語であっても決して自前の造語ではない。つまり私はこちら側の生活を普通に暮らしているが、30代半ばからあちら側の声や夢や、場合によっては匂いや幻影を、発生するがままに常に感じ記憶に残している(ただし声については嘘が多く要注意であるが)人間である。パウロがジュラシック・パークの撤去に反対していることはリアルな夢であちらで誰か(とある教室にいる生徒たち)が話していた。野外で刃の風車が何台も並立して回転しているジュラシック・パークの夢は実際に見たがさすがに現在は人目を憚るだろう。だから冒頭に屋内のサンクチュアリの様子を書いたのだが、基本的に想像であるとは言えいくつかの要素は個別に得た情報に基づいている。江戸時代に日本にも蛇腹があったのは悪魔はモーターさえ既に持っていたのだろう。
ペテロの手紙1には、それが本人の自筆とは考えられないという通説上の疑問はさておき、イエスに対立するペテロの考え方が表れている。多分何者か彼のグループ内の有識者による代筆であろう。
1:2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。
---生贄となって御霊の罪を清めたイエス・キリストに倣って、イエスと同様に血を流すべく選ばれた者たちへ。父なる神とはグノーシス(2)の項で取り上げた『グノーシス 古代キリスト教の異端思想』のプトレマイオス説(b-59図)にあるプロパトス(エンノイアの夫)即ちデミウルゴスである。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず(As obedient children, do not confront to the evil desire you had when you lived in ignorance)
---無知な子供の頃はよくない考えを持つものであるから、子供の頃自分がどう思ったかに今さら目を向けないで聞き分けのいい素直な子供になりなさい(これはマタイ19章14の「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」を否定している。元来このイエスの言葉はアダムとイブの失楽園のストーリーを創世記に書かれているのとは違う見解で捉え直していた。二人はサタンが自分たちの仲間であると思ったから彼について出て行ったのであって、楽園の主によって追放されたのではない。)
1:19 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。
---マラキ書の全能神とレビ人の間で交わした不文律に従って健全な男子の信者を捧げたのがキリストであった
1:24 「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」
---イエスは自分を信じれば生きていて死ぬことはなく、たとえ死んでも生きると言った。
2:5 イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
---「イエス・キリストにより(through Jesus Christ)」とはキリスト教の信仰を通して霊のいけにえを捧げることである。イエスはいけにえなどいらないと言っていたが、ペテロにとってキリスト教とは信者という生贄を集めペテロの言う神に捧げるための組織なのである。
2:11 あなたがたは、この世の旅人であり寄留者である
---彼らも地球に来たビジターである。2:16~2:20で彼らには彼らの神があり、常にその命ずる所を忘れるなと言っている。また彼らには人間のような民族はなく、住む所はグローバルであるが、摩擦を起こさぬよう居る場所のルールには従えと言っている。確かにモートには彼らなりの Art of Life があるように思う。
2:21 キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである
2:24 (キリストは)わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
---この欺きのプロットによってキリスト教を我がものとし信者を乗っ取るためにはイエスが生きていては都合が悪かった。
3:6 サラはアブラハムに仕えて彼を主と呼んだ
---アブラハムではなく、アダムとイブを救ったサタンこそ真のユダヤの国父である。
3:18 キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
--2:21、2:24と同様
5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
---カトリックが草創期にローマにより迫害を受けたことを指すだろう。
ベネディクト16世(在位2005-2013)が讃美歌でそれまで「ヤハウェ」と書かれていた箇所をすべて「主」に変えて歌うよう指示したのは画期的なことだった。ただしその教会があわれみの歌(主よあわれみ給え 主よあわれみ給え 主よあわれみ給え キリストあわれみ給え キリストあわれみ給え キリストあわれみ給え 主よあわれみ給え 主よあわれみ給え 主よあわれみ給え)を歌うことが条件だった。
以下は安倍元首相の死と旧統一教会の問題について私見を述べる。
非人間的で過酷な労務条件に縛られて所属会社への奉仕を要求される社員のことを「社畜」と呼ぶが、それに倣って世界平和統一家庭連合の信者を「宗畜」と呼ぶのは必ずしも的外れではないだろう。この団体の始まりは宗教的な学習グループであるかの如く見せかけて原理運動と呼ばれ、それが反共的イメージの国際勝共連合に改名し、更に世界基督教統一神霊教会という呼称に変遷したが、そのカルト的実態がキリスト教の基本から乖離していることを糾弾され、最終的に現在の称号に変わるに至ったのは右往左往した挙句この団体の目指すビジョンが漸(ようや)くその方向性を見出し、今後の運動方針が定まったことを示すだろう。この協会では創設者文鮮明の説く教理を受け入れた信者が教団内の指定された異性信者と結婚する。やがてその家庭で生まれる第二世代は日常的に両親の振舞いを見て教理と信念を伝授されるから協会に対しアレルギーがなく勧誘の手間が省けるだろう。そしてその第二世代が成人すればさらに同様の相手と結婚し次々世代へ信仰を受け継がせ、ネズミ算式に信者を拡大再生産することが出来るだろう。こうして自分たちに隷属する信者の家庭をまるで羊飼いが自分たちの柵の中の羊を増やすように繁殖させて、日本を起点としてやがて世界中に広めようとするのが協会の基本的構想である。この協会は信者から手持ちの有金だけでなく借金までさせて金を搾り取り本部に上納させる組織である。毎月一定額の献金を課し、あまつさえ怪しげな効能ありとするまゆつばな物品を購入させ、さらには遺産や保険金などの臨時収入があればそれも巻き上げる。明らかなのは協会の目的は決して信者の救済ではなく一にも二にも金であり、教理の普及はその手段に過ぎない。「教会」が「協会」に変わったように本国では宗教団体扱いすらされていないらしい。
安倍元首相が銃殺された時、これは一部の新聞が言うような暴漢による民主主義の危機の問題ではなく、ずさんな要人警護の問題であると思った。その場で捕まった犯人は何かひ弱で虚ろな表情をし足元もよろよろとしていて、古くは浅沼稲次郎氏や豊田通商社長やオーム幹部に対してなされたような公然殺人の犯人像とは全然違って見えた。母が信者であって被害家族の内情を知っていた彼の犯意は我が家に悲惨な凶事をもたらした旧統一教会の勢力拡張の裏に安倍氏の強力なバックアップがあったと見ての恨みと思って間違いないだろう。岡山でも犯行の機会を窺ったが果たせなかった。ところがその安倍氏が選挙の応援演説のために住み慣れた自分の町へ来たのである。一般人はなかなか要人には近付けないものだが、街頭での選挙演説であればオープンである。まさかこんな場面が訪れるとは思いもよらない心境で、彼は演説中の安倍氏の周辺をうろついていた。そして一瞬警護担当者の警戒心が散漫になり、あたかも暗い雲間が晴れて青空が覗いたかように、ターゲットの背中と自分との間に一筋の空間が生まれた。彼にとって千載一遇の瞬間だった。色々めぐり合わせを考えると”天は”彼に犯行のベストチャンスを与えたとは言えないだろうか。もしあの時安倍氏殺人の機会がなかったら、彼は懐もいよいよ寂しく生きる気力も失せ、数日後には一度失敗した保険金目当ての自殺を再度試み、今度は目的を遂げただろう。
事件の後で流された様々なテレビの報道の中で特に印象に残ったのは文鮮明夫妻が空港で日本への入国を拒否され、その時彼が「(こんな扱いを受けて)天皇が土下座して謝っても許さない」と言ったシーンだった。私はそれを見て「随分日本を見下したひどいことを言うな」と思った(註1)。私は天皇に対し特別な感情を持っているつもりはなかったが憲法が天皇に国の象徴としての権威を与えていることは自然に受け入れていた。その時の天皇は現上皇、政治は村山内閣だった。この非礼且つ強欲な文鮮明に対する対応策を強引に変えたのは金丸信でありその時何か釈然としなかった記憶があるが、これによって莫大な金がこの国から流れて行くだけで日本にとって何のメリットもない組織の活動が許容された。以来旧統一教会への警戒心はあいまいになり空白の30年が続いた。その間犠牲を被った信者の数は目に余るほど増大し、政治家特に自民党内議員の旧統一教会との癒着は腐敗と言ってもいい程に進行していて、今になってその実態が次々と明らかにされ我々を驚かせている。犬が飼い主の序列を知っていると言われるのは誰がくれたエサなら食べていいかを弁えているということであるが、今の議会は(まだ人口に膾炙されてはいないが)野良犬の集団と言われている。野良犬は誰がくれたエサであれ見境なく食うからである。そして獲得した票の数が多い者が大きい顔をして議会でのし歩く。法と秩序を遵守し国の利益と国民ために働くという公的な目的意識から遊離し、浅ましくもモラルに欠け票集めのためにどんな手を使ってでも議席を獲得すれば良しとする野良犬政治家に支配された今の政治こそ、日本が瀕している民主主義の危機であると思う。だから彼らはどんな手を使ってでも金を巻き上げることを最優先する金の亡者たちとウマが合うのだろう。
韓国人の日本に対する態度には戦後日本と韓国の立場が逆転したとする彼らの優越感が根底にあるように思う。文鮮明の男尊女卑の教理でも韓国がアダムの国、日本がイブの国で日本は韓国に尽せということになっている。女性はそういうやりきれない彼らの思い上がりを余り気にしないらしく、韓ドラやKPOPに熱中し焼肉につられて訪韓するのも女性の方が多いのではないだろうか。安倍殺人犯である山上の母や高知の橋田さんの元妻や小林よしのり氏の叔母など女性がのめりこんで深刻な被害が出る例が多い。漫画家の小林よしのり氏といえば同和問題やエイズ薬害問題やオーム真理教事件等で難敵と命懸けの戦いをしたつわものだが叔母の件に関してはなすすべなく白旗を掲げているように見える。一体何がこうまで彼女たちを引き摺り込ませるのか逆に興味が沸くが、5億円もの献金をしてやっとおかしいと気付いたある女性が「先祖が地獄に落ちて苦しんでいると言われて拒めなかった」と言っている記事を読んだ。こういう論理は西洋にはなく仏教だけの罠である。三島由紀夫の「豊饒の海」は輪廻転生をテーマとする四部作であるが第一部の主人公は松枝清顕、第二部の主人公は飯沼勲、第三部の主人公はジン・ジャンというタイの女性、第四部の主人公は安永透であり同じ魂が時代を超えて異なる肉体に転生する。だから安永透がご先祖の供養をしても赤の他人を供養することにほかならない。転生の実態はこの作品に三島由紀夫が書いたとおりで、私は前にスイスにいたという会社の同僚、ローマから来てカトリックの悪女の生まれ変わりである女優、コンビニでいつも煙草を買ううちに顔見知りになった元ドイツの女性、日本人で新約・旧約聖書の登場人物だった男性etc,etcを知っている。これまで書いたように私が異星から来たのであれば我が家の昔の先祖のことなど私と何の関係があるだろうか。数カ月前美空ひばりさんが人間になったという情報を聞いたが彼女が加藤家に生まれる可能性はゼロに等しいし日本人であるとは限らない。だから旧統一教会の論理なぞ悪い冗談と思った方がよい。また「サタン界に入る」などというものの言い方も前述のとおりユダヤ教が敵を悪魔呼ばわりするコテコテの偽造品の借り受けである。我々は審きでサタンと実際に出会う可能性があるがその時サタンの本当の人となりを知り、旧統一教会が何も分かっていないことを知るだろう。地獄は本当にあり彼自身がそこに放り込まれたと思って間違いない(私も出鱈目を吹聴すれば自分がどういうことになるかよく分かっている)。10年前に文鮮明が死んだ時彼は裸の王様だった。その姿が露になって「こんなお前が神の子を名乗った証は何処にあるのか」と問われた。序でに言えば旧統一教会の信者は「貴方は無駄な人生を送った」と言われるそうである。
安倍総理大臣の治世に私も違和感を感じるのは多くの識者が指摘するとおりである。森友学園の件に関し私の心情は赤木氏の方に傾いた。彼は職務に対する忠実義務と辻褄合わせのために上から命じられた公文書の書き直し要求との板挟みに苦しんで自殺したまじめな公務員であった。伊藤さんという若い女性が性的暴行を受けて訴え出た事件で警察がほぼ彼女の言い分を認めて作った調書がなぜ反故にされ不起訴になったかも大いに疑問だった。別件から旧統一教会に対する容疑の調査が始まろうとした時に国家公安委員長は何故ストップをかけたのだろうか。これらの件で安倍元首相が直接的な指示を出したかどうかは、例えあったとしても誰も言わないだろうが、濃厚な関与の黒い霧は拭えなかった(註2)。安倍元首相がテレビで国民に残した最後のメッセージ「国の借金は心配いりませんから」もマイナスポイントだった。日銀とタイアップして安倍政権が取った金融財政の手法は余計なお荷物がふえるばかりで Ramshackle と呼ばれ忌み嫌われている。SDG は気象だけの問題ではない。日本の若者は環境問題よりむしろ候補者の健全財政に対するプライオリティーに目を向けて議員を選ぶべきではなかろうか。本人は意識しているかどうかは知らないが、日本を借金まみれにして滅ぼしたい人種がいるのである。こども銀行ではあるまいし、紙幣を印刷して配れば良いというような党には投票すべきではない(註3)。これらすべてを含め、国葬で天にいる安倍元首相への「貴方のやったことはすべて正しかった」という送辞には唖然とした。コンプライアンスも裁きの重要な要素である。この項の冒頭に書いたとおりあちら側から一切はお見通しで、彼にどんな審判が下ったかを明かすのは禁じ手だろうが、誰しも甘く考え過ぎない方がいいという警告はした方が親切だろう。
旧統一教会に対して様々な意見が錯綜しているが、フランスのようなカルト法がないから取り締まれないというような意見は余りにナイーブで無策である。騙される方が悪いというのは悪魔の言い分と同じである。献金も金銭の所有権が移転する法律行為であるから場合によれば公序良俗に照らして違法であるという民法上の判断も当然起こるだろう。婚姻は両性の合意のみによって成立すると憲法に規定されているが、合意は自由でオープンな交際と事前の情報交換なしにはありえない。勝手に伴侶を決められ「日本人は戦前の償いをしなければならない」と信者の女性が韓国の貧しい農民と結婚させられた気の毒な事例があるそうだが、そんな理由を憲法の規定に優先させて良い訳がない。旧統一教会という閉鎖社会で日本人女性の基本的人権を無視するこのような慣行が行われているのに、なぜ管轄の文部科学省は何の策もなく放置しているのだろうか。当面は束縛から逃れたいと希望している信者二世の問題が解決の方向を見出すのに尽力して欲しい(註4)。
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(註1) 教団発行の『文鮮明先生マルスム(御言)選集』に文鮮明が「昭和天皇暗殺を考えていた」「二重橋を破壊しようと思っていた」という旨の記載がある。(2022/11/19)
(註2)2020オリンピックがコケたのだけは安倍氏のせいではないと思っていた。不正行為がからんでいて色々もめているが、本当に彼は関係なかったどうかは我々にはわからない。下記の記事によればクロの可能性が濃い。
五輪組織委員会理事への就任を懇請されたT氏曰く「安倍さんから直接電話を貰って『中心になってやって欲しい』とお願いされたが『過去に五輪の招致に関わってきた人はみんな逮捕されている。私は捕まりたくない』と言って断った。だけど、安倍さんは『大丈夫です。絶対にTさんは捕まらないようにします。Tさんを必ず守ります』と約束してくれた。その確約があったから招致に関わるようになったんだ」
一国の総理大臣が “犯罪を犯しても逮捕されないようにする”と約束するとは法治国家とは思えない暴挙ではないか。にわかには信じがたいが、しかし、これを掲載したのは「文藝春秋」だ。それなりの裏付けをとっているとみるのが妥当だろう。(2022.09.17)
(註3) 新しい事案について原資を求める場合まずトレード・オフ(多すぎる、または不要と思われる予算から削れるものは削ってこちらに回せと求めたり、使途不明金について追及する)を試みるのが最初になすべきことではないだろうか。
(註4) 旧統一教会被害者救済法案でマインドコントロール対策について「マインドコントロールがあったかどうかの判断は難しい」と及び腰であるが、「一般家庭で1億円を超えるような献金がマインドコントロールなしでなされたとは考えられない」と見るのが常識ではないだろうか。だからこれまでもマインドコントロールはしばしば実際にあったと考えるべきで、今後に向けてその対策も避けて通れない課題だと思う。