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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

人間中心主義

 自分だけが知っていて一体何の役に立つだろう、私が死んだら終わりではないかと思うことがあります。聖書のライターも知っていることをもっとはっきり書くのだったと後悔していたようです。今回は少し考えを改めようと思います。

 繰り返しになりますが、313年ミラノ勅令でローマ帝国によって認められ、はれて信教の自由を得たキリスト教にとってそれは糠喜びに過ぎず、325年のニケーヤ公会議はすべてを原点に引き戻すバックファイヤーでした。公会議で決議された使徒信条(*1)の冒頭に「天地の創造主、全能の父である神を信じます」とあるからには、人間たちが信仰しているのは我々の方だとヤハウエは主張しました。創世記2章4節に
「これが主なる神が地と天を造られた時の天地創造の由来である。(These are the narratives of the heavens and the Earth, in their creation: on the day that Yahweh God made Earth and heavens.)」
と書かれており、片やイエスの父なる神は天地創造の物語には全く登場しないではないというのがその理由でした。物語は一人歩きし始めて考え方の土台となります。ことの真偽よりも先に物語を作った方が勝ちだというのが旧約聖書の基本ではないでしょうか。何者かによる後の挿入であると言われるヨハネ福音書の冒頭の章のも「創世記はみんな言葉による創作だ」というニュアンスがあります。
この神は創世記3章15節に
「わたしは恨みをおく、おまえ(男=アダム)と女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」
とあるように、人間が目指す家族愛・友愛・協調・平和を好むのではなく、むしろ人間同士の憎しみあい・不信・不和を好んでそれらを仕組む神でした。額面通り人間を作った神ならば人間の心理にも通暁し、怒りや嫉妬や性欲をいかに背後からコントロールするかも知悉しているわけです。
さらに創世記3章19節に
「あなたは土から取られたちりだから、ちりに帰る(Because you are dust, you will return to dust.)」
と死んで身体が土に埋められるという自明な事実だけを示唆して、魂がどうなるのかという重大問題については黙殺しています。人間がこの世にいる間には全く気付かないで死後初めて自覚し、知って激しく後悔する、信仰と死後の運命の関係、生前の食や生き方の如何を反映して霊的身体に起こる変形・退化の驚くべき仕掛けについては何も言及していません。新約聖書が「人はパンのみで生きるにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と、パン(現世の糧)だけではなく神への信仰(神の言葉)による魂の存続を説くのに対し、創世記の神は人間に死後の命を与えないことを言外に黙示しています。

 悪魔が自分は神であると自称するならばその敵は何なのでしょうか。神々や天使の中には地上が滅びの場所であることを痛恨し「せめて罪を犯さない人間だけは救いたい」と考える者達が地上に潜在していて、その筆頭こそルシファーでした。ダンテの「神曲」は書き直されるべきでしょう。ルシファーの本拠地はスカンジナビアにあります。スカンジナビア三国が今日高度の共同体的社会福祉国家になったのも故なしとしません。またそこでは性についての考え方も伝統的な罪悪感から解放されています。「39項・エピソード」に書いた通りスエーデンで悪魔が人間と協調したと言われるのにもそういう訳があります。
 サタンについては「44項・未来」の註(*3)に書いた通りです。新約聖書の中でサタンはダミーの役割を演じ、審判では板挟みになり苦しんだのではないでしょうか(*2)。それだけでなく仏教で仏の役割を担ったこともあったようです。仏教が救い主と言われる者を如来や菩薩と呼び神とは呼ばない (本来彼らは個々にその本質によって神もしくは悪魔と判じられるべき) のもそういう理由があると思われます。仏教では悪魔なぞいないと言う人がいるのですが事はそう単純ではありません。弥勒や兜率天の実態がどうなのか、飲んだくれていると言われる帝釈天、虚空蔵菩薩や素朴に信じられている観音や薬師や不動とは、ひとつひとつを個々に見ればどれが信頼すべき仏か逆にどんなに危険な存在であるか、その区別は決して知らされません。仏教がカトリックを中心とするラッパロ条約(1パーセントだけが助かると定められた)に加入して以来救済を放棄してしまった昨今の現状では全体が悪く見られても仕方ないとサタンは諦めているようです。これらの新たな発見に鑑みて、私もこれまで書いたことを別の視点から全面的に見直す必要がありそうです。

 天地開闢だけでなく「アダムがエヴァより前に先在することはあり得ない」と以前書いたように聖書には様々な粉飾と嘘があります。「42・A-bomb」で触れたブリューゲル作の動物の姿をした堕天使の図は反逆者の一団が天から放逐される様子を描いたものですが、彼らは神の地位を簒奪しようと挑んで戦いに敗れ地上に追放された立場でありながら、人間には旧約聖書によって「我らは主なる神」と信じ込ませ人間を後ろ盾に引き摺り込もうと策謀したのでした。サタンではなくヤハウエこそ堕天使の中の一人だったと看做すべきでしょう。地上には人間に嘘や災いや破滅を齎そうと待ち構えている、恐るべき真のデーモンとその仲間がいましたが、これらのデーモンの名前はあまり人口に膾炙されていません。悪魔とはサタンやルシファーやその一味であると人間を信じさせ真実を隠しておくのがねらいです。何故か野口五郎という名前で呼ばれ、仏教やキリスト教の死者の魂を食い殺す貪欲にして淫乱な豚の皇子も、豚であるからには飼い主がいて悪事をやらせているのです。私を待ち構えているというニキスマを幸運に遁れてもその上のエニグマ(ヒトラーは知っていたらしい)は決して見逃さないだろうと警告する声があります。「進撃の巨人」に出て来るように恐ろしい巨体のデーモンの数は約360余と言われています(*3)。

 文庫クセジュ「東方正教会」(*4)は正教会の神学が神の栄光や恵み・三位一体について敬虔な輝かしい論理を展開したことを紹介していますが「逸脱した思考なんて何の意味もなかった」とあの世の学者たちは悔やんでいるようです。学者も宗教家も地上にあって待ち構えている恐ろしい罠や善悪の逆転、信者の仲間や神の働きのために降りて来た聖霊がmisanthropicなデーモン達によって如何に恫喝され行動を束縛されているか、また手足や命を失うなどの危険にさらされ手下共の指示に逆らえないで如何に真実を阻まれているかという霊界支配の実態には全く気付いていないようです。
 死者は風車のように回転する剣が両側の壁に何本も植え込んである狭い道を走り抜けなければなりません。肥満体はとても刃を除け切れるものではないでしょう。これがジュラシックパークと呼ばれるもので、道の外には肉食獣が待ち構えているだろうし、カニバリストのデーモンもその肉を貪るでしょう。デーモンに食われた人間は何とボーフラやみみずからやり直しになるのです。幸運に人間に戻ることが出来たとしても何百年も掛かるでしょう。デミウルゴスと呼ばれる創造の神によって仕掛けられたこのような災難をロシアと雖も遁れることが出来た筈がありません。
 キリスト教徒が救われて招かれるべく予定された天の国はヤハウエの支配する国とは別の場所でした。ゼカリヤ書でヤハウエは「私はエルサレムに住む」と言っていますが、ヨハネ黙示録3章12節に「勝利を得る者は新しいエルサレムに迎えられる」と書かれています。勝利を得る者とは悪魔のことで、新しいエルサレムとはヤハウエの手下たちが乗っ取り悪がのさばる場所であり、黙示録は天の国でキリスト教の恵みが逆転することを予見しています。事実審判ではラッパロ条約の規定が順守され、数合わせのため遊び半分にサイコロで選ばれた者か悪の仲間ばかりが助かって新しいエルサレムに昇ったのです。決して自律と善行と信仰によって神に認められた者が救われて天に送られたわけではありません。

 大多数がもはや祭り上げてはならない仏を祭り上げているこの国はデーモンによる「濡れ手に粟」の猟場でした。人間嫌いの神が救済するのは未開人か悪の仲間かゾンビです。死者が「悪魔になるなら助けてやる、さもなくば殺す」と勧誘されて悪魔の手下になる心理は、悲しい哉止むを得ないというべきでしょうか。一流大学を出た悪魔がいっぱいいます。皮膚の崩れかけたゾンビはさすがに誰も食いたがりません。こうなると親鸞の悪人正機説は筋が通りますが「善人なおもて往生を遂げる」かどうか。藤子不二雄の藤本氏は全く殺生な食をしない人だったと言うし、私の身近にもそういう人はいます。このような人は清浄な霊体の仕上がりでも、ある事ない事難癖をつけられて結局は誂え向きの好餌になる運命なのです。客観的レポートは好き勝手に脚色されました。「全く身に覚えのないことで殴られた」という声をよく聞きます。既述の通り勝手に残された莫大な借金があります。
仏教徒だった頃四文字言葉とばっかりを一日何度も何度も繰り返して非難し私を貶めたのは吉祥天女の仲間だったらしい。彼女は私を「この男は地獄から来た極悪人」とユダヤに教唆されていました。浄瑠璃寺の塑像そっくりの礼服を着たふっくらした顔の女性を夢で何度か見かけましたが、そのうちの一つに特に忘れられない鮮明な記憶があります。立派な寺と思われる一室にペニスケースだけを付けた裸のニューギニア原住民が突然現れました。すると吉祥天如が出てきて慌てて袖で男の腰から下を隠したのです。何とも珍妙な組み合わせの、その時は意味の分からない夢でしたが今は納得します。人間の文明や進歩を心底疎ましく思う邪神が最低限救うのは、素朴なアポリジニーやペニスケースを着けた首狩り族原住民なのです。

 今回のミレニアムで時代を変革させる役割を担う何者かが降りて来ることが事前に確実視されており、ユダヤは世界中に目を光らせて特徴のある者をつぶそうと待ち構えていました。多分私はそのうちの一人と目された通り、老いてから使命に目覚め自分の子供に改革の働きをさせる計画を秘めていたのです。吉祥天如はミレニアムが来る前に法華と伊佐須美の力を使って私の付随霊たちを殲滅しました。その中には人間に生まれるべく予定した霊も当然いました。江戸川中流に近い場所に住み、1970年代末で私が使命を自覚する前でした。
声に傾聴するうちに世紀が変わってタンムズという名をしばしば耳にするようになりました。メソポタミアの伝説の神とはタンムズ神のことで、彼こそ今回の革命に中心的な力を揮った神でした。戦いの熾烈さを見て外国の神の助力が必要なことが皆に分かったと言われます。我々は彼の名を忘れてはならないでしょう。もっとも彼の活躍はこの国に限りません。
 オンライン辞典によればタンムズ神は「アフロディテの愛人としてギリシャ神話にアドニスの名で登場するフェニキアの神」と書かれていますからアポロンとも交誼を結ぶ間柄なのでしょう。タンムズもまた伝説では悪魔扱いされているようで、出生の秘密について「ひどいことを言うなぁ、それじゃあ近親相姦じゃないか」とこぼしていたのを知っています。タンムズの名前を聞いてもまだ記憶がぼんやりしている私に「これなら気が付くだろう」と宣言したのが「人間中心主義」でした。人間が悪魔と動物に支配され苦境に喘いでいる霊界の現状を思い起こさせようとしたのでしょう。にも拘らず私は夜それを聞いて「そういう言葉があるのか」と、状況の変化を教えるそれらしい言葉だとは思いながらも半信半疑で目覚め、ブログに記録しただけでした。
 実はタンムズと私は、彼がこの国で革命を主導し霊界に維新を齎すと共に、私が人間界にいて人々にその状況を知らせる役を担って、車の両輪として行動を共にすることを生前に誓い合った盟友同志だったのです。革命の目的は人間中心主義の実現でした。ガバメントが出来てまだ日が浅いにも拘らず救われる霊の率は大幅にアップしたのですが「もっと救いたいのに出来ない。死ねば分かるでは遅すぎる」と、私は欲望優先の生き方の危険性を人々に警告し速やかに周知せしめるよう促されています。さすがに霊体がぞっとする姿では浄界に招く訳には行きません。堕落や驕りや淫欲は霊体を劣化させます(肉食の戒め等の食の制限は旧体制時のルールに格下げされるでしょう)。また敬神の意識の薄い仏教徒は不利になるでしょう。各自が家宗を墨守するだけでなく大事なのは何が真実人間を救う宗教であるかを真剣に問い直すべき時が来たという事です。

 ここで言う人間中心主義(Anthropocentrism)とは資源や環境の問題ではなく、これまで霊的世界を支配していた「神」からの人間の独立を言います。この神は人間を最下層に位置付け、人間に対する愛情は欠片もなく「人間なんてゴキブリと同じだ」と看做していました。人間の命は消耗品でした。人間世界が持つ共通のモラルは価値を認められず、荒廃した邪悪な弱肉強食の世界が形作られていました。そこには共同体を作り法による合意の下に技術の進歩や増産で随分暮らしやすくなった我々とは全く別の世界があったのです。


(*1)宗派によって信条に若干の違いがありましたが概ね共通していました。私が行った正教の教会ではミサで信条を唱えていなかったと思います。
(*2)ヨハネ黙示録3章9節「見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなた(ヒラデルヒヤにある教会)の足もとにきて平伏するようにし、そしてわたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。」
黙示録の神はユダヤ人でなくても受け入れると言っています。ヒラデルヒヤにある教会とはシナゴーグでしょうか。「愛している」とは逆の意味で考えるべきです。
(*3)私が務めていた一国際石油資本の会社にマニトバと呼ばれるデーモンがいたがこれは例外で「一人では何もできないと歯噛みしていたそうです。
(*4)同じ文庫クセジュの「悪魔の文化史」にあった“ローマの教会もロシアの教会も悪魔の巣である”はどの程度真実であっただろうか。ただしロシアにも悪魔の教会が無いわけではありません。