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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

羽化(補足)

神のアギーレ
9月19日「ドナテッロ、手紙を書きたい。今日は我が身となれり」なる言葉が伝わった。
ドナテッロは傑作ダビデ像の作者である。かつてゴリアテの首を打ち取ったことになっているエッサイの子・ダビデは自身が打ち取られる身となり、これまでバチカンを牛耳っていた悪魔の長はこの時報いを受けたと解される。

イザヤの預言
この国には新しい体制が敷かれており、イザヤはこの国にいて反体制側に組していた。イザヤ書はコンタミネーションを起しており、イザヤは神の言葉か悪魔の言葉かを声を聞き分けられなかった。従ってイザヤ書はよく引用されるが危険である。部分的に神の言葉を含んでいてもそれはミスリーディングで、彼は主を全能神と見做す立場であることを踏まえなければならない。
イザヤ書6章で、イザヤは炭火でセラフィムによる火の洗礼を受けたことが記されている。火の洗礼は天使が行うとされるが、それが何を意味するかは何所にも詳しく書かれていない。私は蛭に煙草の火を押し付けると蛭が落ちるようなことだとイメージする。故に火の洗礼は人間に取りついた霊を取り除く手段である。
イザヤが見た「王座に座している主」は黙示録を連想させる。この神は人間が「悔い改めることがない」よう導く神である。特別な霊視能力の持ち主であっても、人間は見た目だけで真の神か偽りの神かを見極めることは出来ないと言われる。旧約聖書を単純に一神教の書と見る見方は再考を要する。ゼカリア書13章では万軍の主が預言者(救い主の出現を告げる者)を撃つと言っている。従って旧約聖書にはエレミヤ書を除き預言書(神の救いの計画の書)はないと考えるべきであろう。万軍の主が「わたしの次に来るものをせめる」と言う「次に来るもの」とは救い主イエスであろう。マルコは「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言っている。

悪魔によるバチカン支配
バチカンはかつて財力のある悪魔に敵対的買収された。

蹂躙された聖書
汚されて真意を歪められた「聖書が泣いている」。
優れた才能によって名声をほしいままにしたエラスムスは校訂版・新約聖書を書きルターのドイツ語訳聖書の原本になった。然し彼は人間には自由意思があるとする立場に立ってカトリックを代弁し、ルターの予定説と対立した。エラスムスの理解を正しいとしなければ行為に価値を賦与する義の真意は掴めない。彼はキリスト教の一体性は維持されるべきとして宗教改革に反対しカトリックを支持した。ギヨーム・ポステルと同じである。これはこの二人の偉人にとって悲劇であった。外国語を駆使したり哲学・神学用語を操る卓越した人間は並はずれた霊性を秘めている。そのような人間は悪魔の好餌となり食われれば捕食者に新たな蘇りのパワーを与える。カトリックに留まったエラスムスもポステルも死後の霊体を分断され悪魔の餌食になった。霊感の突出している私も喉から手が出るターゲットらしい。アケロンテはこうした犠牲者の墓場であるという。もしユダヤ教徒ならユリ・ゲラーも早く考え直した方が良い。

地獄の天使
私のような碁好きは韓国人の能力を決して低く見ない。碁のようなルールがあるゲームでもルール通りにプレーして力を発揮することが出来る。多分韓国は現在囲碁で世界最強だろう。彼らの「日本に追いつき追い越せ」の意気込みは見上げたものでスポーツでも産業でも著しい成果を上げている。しかし両国の外交関係では「これが我々のやり方です。どうぞ一層不仲になって嫌って下さい」と言わんばかりのやり方である。政治的指導者の靖国参拝も中国の尻馬に載って毎回騒いでいるが、中国の軍事予算の増強・領海侵犯、韓国の竹島支配に較べて全く痛くも痒くもないことではないか。日本には祭日に先祖供養する習慣があり、形式的な死者の弔いが何故こんなに騒がれるのかその不寛容さにいつも辟易する。参拝すれば死者の力を借りて中韓を屈服させることが出来るなんて今どき誰も考えていない。ABC級戦犯も、責任の差はあるが彼らは能力と体力の違いに応じてそれぞれのポジションで戦争に関わって戦後処刑された我々の同胞であり、その一人一人が当時家族の夫または父または息子または兄弟または叔父または知人であった人達であり今先祖なのである。
観客が伊藤博文暗殺者の名を掲げて問題になった日本対韓国のサッカーの試合で、終了後マイクを向けられた観客の一人が「今日は反日の幟もなくて観客のマナーも良かった」と平気で言うのを聞いて、我々はエーッそれは違うでしょうと驚いてしまう。この前のアジア大会で風向きの影響を受けやすいバドミントンで日本組はコートを交代しても相変わらず逆風が吹きエアコン操作が疑われたが、相手の韓国選手は「別に何も感じませんでした」と知らぬ顔を決め込んでいる。慰安婦問題で調査後日本軍はシロの事実が出ても「とにかく公式に謝ってくれたら皆納得するから」という約束で謝罪したのに、蒸し返して更なる賠償金獲得を目論み、その上意地悪くアメリカ中に日本の悪口を宣伝する石像を建てたりする。自分達がやった米軍相手の性的サービスの件については知らぬ顔である。韓国の新聞記事を翻訳して日本で報道した記者が大統領を侮辱したとして訴えられ、片や同じ記事を載せたオリジナルの韓国の新聞は問題にならない。普通の感覚なら最初に書いた記事の方が詮議の的になるだろう。悪魔が「お前たちがやったと同じことを俺たちもやったからといってお前たちを非難してはならないことはない」と言うのと同じ理屈である。美容整形の流行も「真実であるかどうかより真実らしく見えることが重要」とする考えである。韓国にはクリスチャンが多いが、これが彼ら共通のベーシックな手法なら、彼の国の大多数の人々が神の義に適って受け入れられるのは難しいと言わざるを得ない。私だけの勝手な想像だが、もし霊として生き残っても、或いは人間として甦っても地獄の使者になるほかないだろう。実は私の周りでもオモニやアポジやコッチェビなどの呼び名が交されていて皆彼らの暴力に大変迷惑している。勿論例外はあるしただひたすら盤上の石の配置だけに傾注する碁打ちや、コースのConfigurationとクラブの一打々の方向・力加減だけに集中するゴルファーは別である(しかしゴルフは賞金を取られ過ぎでしょう)。韓国にはどんな霊的世界があるか我々は死後見聞するだろう。彼の国の食卓で大いに盛んなプルコギも問題だが、公式には禁じられ密かに行われている犬食の習慣は一層深刻な危険性を秘めている。犬という動物はペットとして愛されているがアヌビスそっくりでその殺された恨みは恐ろしい。犬の祖先のオオカミという名前はこの動物の恐るべき神性を表している。狼は霊界のジュラシックパークの主らしい。

ルター改革の問題点
ルターが農民戦争で農民の味方ではなく、改革を支持した王制の側に立ったのは過渡的時代背景にあって存続を計る上で止むを得なかったかも知れないが、新教自身も異説を封じるために殺人を犯したし、また宗教改革がカタリ派やワルド派に対してなされたような宗教の横暴を阻止したのでもなかった。やっと待望の信教の自由が公式承認されたのは人民による民主革命とそれによって成立した民主主義政治下だったということは重要である。ただしイスラムや専制的共産主義国は今も問題を抱えている。またすべての職業がカルビンの言う通りに神の命じた務めであるとシンプルに断定出来ないのは明白である。いかがわしい職業もあるし、映画やテレビのエンターテインメントに出る俳優は与えられたセリフを喋っているうちに自分の本来の倫理観を忘れてそれもありかと受け入れてしまう。一部トレーダーのような暴利をむさぼる仕事もある。
キリストの十字架上の死によって人類のすべての罪はぬぐわれたとする楽観論が誤りであることもまだ清算されていない。人間の命を神に供えれば贖罪が得られると考えるのはユダヤ教徒でクリスチャンではない。

仏教とキリスト教
私は家宗の法華身延派からカトリックに改宗したが、これではニワトリが危険を感じて巣から逃げ出しても、逃げ込んだ先がまた同じ飼い主の篭だったようなもので、我ながらその間抜けぶりに笑ってしまった。しかしこれまでの考えでは無理ないことである。改宗する前、ある少年が家で「キリスト教に変わるならカトリックだ、他のキリスト教は悪魔だ」と言ったのを私は真に受けていた。今回解ったのは、法華とカトリックのメンバーは同じであるという事。これでは改宗する前のクリルタイと改宗後のクリルタイが変り映えしない道理であり、だから何者かが無手勝流などとあざ笑っていた訳である。以下は論議や反撥を呼ぶだろうが止むを得ない。気付いた者が言わねばならないとされている。
法華経偽教説があり作者不明とされているが、作者は仏教で知恵第一とされた文殊菩薩である。文殊の正体は虎である。パーリ語の経典だけが天の声であり法華経はパーリ語で書かれた経ではない。井上ひさしが「仏教の信者は南無阿弥陀仏や南無観世音菩薩とすがる仏の名前を唱えるのが普通なのに法華教は南無妙法蓮華経と経の名前を唱えるのは変だ」と思ったように、悪魔は匿名性を好む。ボードレールの「悪魔の最も賢い所は悪魔なぞいないと思わせる所である」に似ている。法華経が導くアノクタラサンミャクサンボダイとは「何処(いずこ)ともしれない闇の場所」という意味である。京都から法華の寺がなくなったのは賢明である。関東には法華の寺が多く、東京の前名が江戸と呼ばれたのは、浄土教で欣求浄土・厭離穢土と唱える穢土の暗喩である。私の鑑定書も九州での子供時代から関西の学生時代までは規定のルールに則って評価され結構良かったのに、就職して東京に出て来てから散々になったらしい。半分冗談だが東京とは頭が狂っているの意味か。オリンピック開催が結界を超えて世界中の悪霊も呼び寄せ、日本の霊界に著しい困難を齎すのを知らないのは致し方ないが、男根で障子を突き破ったり裂かれたはらわたを手で掴む小説を作り法華経の解説書を書く作家が知事になるのも道理である。
文殊も含めて阿弥陀、観音、弥勒、薬師にはそれぞれ対応する片カナのインド・ヨーロッパの神名があるが、これら仏の別名を知っているのは私だけだろうか?

律法とキリスト教
創世記第9章「その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。さらにわたしはあなた方の魂の血の返済を求める。すべての生き物の手からわたしはその返済を求める。人の手からその兄弟である各人の手からわたしは人の魂の返済を求める。だれでも人の血を流す者は人によって自分の血を流される。神は自分の像に人を造ったからである。そしてあなた方は子を生んで多くなり,地に群がってそこに多くなれ」
ここに書かれている教えを文字通り守りユダヤ人は肉を血抜きする。イエスの教えで最も律法と異なる点は聖餐式である。ホスチアを「これは私のからだである」として食べ、同時に葡萄酒を「これはわたしの血である」として飲む。上記抜粋中でこの神は死後の魂の返済を求めることを明言している。また羊飼いが羊を殖やすように産めよ増やせよとその子孫を囲い込んで大いに繁殖させ豊富な餌を得ることを願っている。だとするとヒトラーとは何者だったのかという疑問が湧く。私は夢でヒトラー自伝というタイトルの本を見た事があり、彼はあれ程の悪業にも拘わらず罰としての処刑を免れたのだろうかと奇異に感じた。
ユダヤ人も現在ユダヤ人であるだけで転生すれば別の人種になることを自覚して欲しい。

神道
父がその親から受けた神棚には恵比寿大黒の小さな人形があった。大黒は法華教徒として私の末路がどうなるかを知っていたのでやりたい放題だった。大黒は何の神か。牛はギリシャ神話(ミノタウロスのエサは若い男女だった)にもユダヤ人やフェニキア人の崇拝にも出て来てインド人も神聖視する。日本で牛頭馬頭の信仰があるが私は危険だと思う。シュワルツェネッガーのプレデターという映画で進んだ文明から来た牛のような怪物が人を喰う。この映画の作者は一体どこからあんなインスピレーションを得たのだろうか。私の周りにいた子供達を襲った霊達はヤクザと呼ばれたが彼らは東北の建国神話上のカミを祀る神社から来たと囁かれた。稲荷も私は良くない話を聞いた。ただしそれらがすべてではなく良きカミの名も知っている(この時点で伊勢のカミの正体は不明だが後々明かされる)。氷川とか寒川の名はコチートを連想しないだろうか。ルチフェロをどちらに位置付けるかによるが彼は”悪魔が言う悪魔”と思われる。


追記
10月17日夜に羽化を掲示した翌朝、それを読んだ霊が大声で「英語は使うなと言った筈だ。売られた喧嘩は買うだろう」と叫び後半部分を経のように何度も何度もリフレーンした。たしかに前半部分に関しては、羽化を書き始める前一瞬頭をかすめた記憶があるが、何のことか意味不明で余り気に止めなかった。結果から見て彼の言う英語とはYHWH四文字のことだろう。その声は少し遠くなり「涅槃で思い知らせてやる。キリスト教は我々が500倍の力で支えてやったのだ。所詮あの世は騙し合いの世界だ」との言葉を語りつつ遠ざかった。審判を牛耳っている自信だろうか。
以前彼は私の生活振りを見て「アノマリーには特別ルール、いまさら節制や禁欲なぞ無意味」と冷笑した。最近「モツ鍋を喰ったから地獄行きだ」とも言った。働いていた頃、部の慰労会で幹事がモツ鍋の店を選び一度だけ食べたことを思い出した。モツ鍋の材料は何なのだろうか。ある種の食品に関わる会社の勤め人の守護霊は半ば諦めていると聞いたことがある。言うと差し障りのあるこういう職業や場所に関する秘密を私は随分抱え込んだ。食物と性が審判の場での言い掛りのタネになるのは予想が付く。巧みに臍下の話題をネタにするのがユダヤ流とは仄聞した。日頃真面目で朝夕の勤行を欠かさなかった人が、夫婦での一度だけのanal sexを指摘されて返す言葉がなく屈服したとも聞いた。私に「映画館」と囁くのは学生時代の記憶を呼び覚まさせて羞恥させる算段である。
もう50年以上前になるが、大阪にシネシルバーという入場料100円の映画館があった。ロードショー後半年から一年位の評判の良かった洋画を二本立てで興業する二番館でいつも混んでいた。当時映画は安く美女に会えて居ながらにして世界を旅する事の出来る絶好の暇つぶしでよく見に行った。今と違い客席は狭かった。ある時偶然空いた席に付くと後ろの席から「全然見えへん」という女性の声がした。そこで尻を座席の前の方に動かし両手を肘掛の下にして身体を低くそらせてスクリーンを見ていた。すると隣りの席にいた女性が身体を動かしてやや横向きになり私の手が彼女の臀部に当たる具合になった。彼女はタイトなスカートをはいていたから直接触れたわけではないが十分に感触があった。女性は一目見て男が安全パイかどうか判るらしいから私が嫌なタイプではなかったのだろう。熱くなって映画は上の空だった。彼女が騒いで痴漢扱いされた訳ではないが痴漢行為に近いから記憶に残っている。こういう秘密をかかえていて予期しない追求を受ける者はあわてるのだろう。

改宗する数年前、半分うたたねしていた時に霊が現れてまるで経を読むように何時果てるともなく独話していたが余りに長々しくポイントか何か聞いていて困惑したことがあった。終り近くなって話が途切れ「仏教で第一の知恵者は誰か」と聞くので文殊菩薩と答えると満足そうに「文殊菩薩の仏像を買え」と言う。わざわざ来てそう言うのだからと文殊像を買ったが改宗後処理に困った。誰かにやろうにも他人が拝んだ仏像をもらって喜ぶ者はいないだろう。離島に旅行してフェリーの上から海に捨てようかとも考えた。数年経って意を決して大きな川の河口に行き「これは自分が買った金属の私物だ」と言い聞かせてブリッジの上から捨てた。そんなことをして祟りが怖いとは思ってもキリスト教と相容れないという考えが優先した。今となってこれは奇妙な成り行きの正解だったと言う他はない。