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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

未来

 外に不安一杯で待ち受けている仲間たちがいる。何度も顔面蒼白になる思いをしながらも厳しい審判の四十九日をようやく通過して、彼らと涙ながらに再会し、歓喜の輪に加わって互いに手を取り合い、共に感謝の祈りを唱えることが出来るなら、これ程大きな幸せはないでしょう。

 多くの人々がしばしば「今は天国で安らかに」などと死者を楽観的に追想しますが余りに認識不足です。大体仏教徒が天国に行く理屈がありません。他人の受け売りではなく死後の事を自分の問題として一度真面目に考えてみて欲しいものです。
「私はおいしいものを食べたいとも、おしゃれをしたいとも、いい所に住みたいとも思わない」と言っていた清廉な原節子さんは無事に救われたのでしょうか。彼女がマッカーサーの愛人だったかのような作品を島田雅彦が書いていますがバチが当たりませんように。最近私の周りの雰囲気が変わって霊たちは皆声を潜めて一層口が堅くなり、この疑問に対しても何の返答もありませんが、私は悲観的です(楽観的になる理由がないと言うべきでしょうか)。はっきり書くと議論を呼ぶかも知れませんが、危険地帯とされる関東の太平洋沿岸の中でも鎌倉はそのほぼ中心なのです。

「変身譚」でクリスチャンが豚の化け物の餌食になるかも知れない危険を聊かショッキングに書きましたが、真摯な態度でミサに一定以上の回数参加した信者には特別に導かれる安全な場所があるようです(あまり詳しくは書けませんし宗派にもよるでしょう)。もし原さんが葡萄の木と繋がっていたならその機会もあったと考えられますが。
関東北部のバプティスト系の教会に通い、そこの牧師に共感出来なくて長くはいなかった事情は「マリア」に書いた通りです。然しこの教会でたった一度私は他ではない経験をしました。ある晩身の丈3メートル以上ある巨大な人物がその教会に現れた夢を見たのです。人間と同じような服装をしてきちんとネクタイを締め、厳しい顔をしたその人物に私は全面的な信頼感を見出しました。
この教会に通い始める前の下準備として、実家近くの全く同じ宗派の教会で毎週木曜日に開かれる勉強会に出たことがあります。その時伊藤さんという70歳位の元気な女性平信徒が私と二人だけで対面し、会話の終わりにこの宗派独特の祈りの言葉を唱えてくれました。その誠実でよく構成された敬虔な祈りには神に通じる訴求力があるとさえ思え、最後に私に恵みあれとのフレーズも巧みに織り込まれており、感動の余り泣いてしまったのでした。この慣例を持っていることは彼らの強みだと思います。

「エピソード」の項で書いたのは聖公会の教会でした。毎週カトリックよりも古風なミサがとり行われ懐かしささえ感じる程でした。実は嘘か誠か、私は英国に生まれ8世紀にドイツで布教活動したある宗教家の生まれ変わりだと言う声があります。そのせいかどうか、ドイツの少年がヴォラントの記事を読んで「ドイツではコウモリには特別な意味がある」と言ったり、さらにヒトラーが反ユダヤ主義者だったのはゴイムの秘密を知っていたからではないか、と書いたすぐその後に、少女が「グリュックリッヒカイト」とひとこと言って立ち去ったりします。しかしウルリケよ、グーグルのAIとは違って私はヒトラーのすべてを是認する訳にはいかないのです。
何かを期待する気持ちがあっても実際そうはいかないのが通例です。月1回土曜日に開かれる聖公会の勉強会でブログに書いたようなことを持ち出して「旧来のやり方では恵みは少ない」と否定的な言葉を言った所「素人が身の程知らずに何を言うか」と参加者の総スカンを食いました。神父は穏やかな人でしたが、「聖公会には聖書・ニケーヤ信条・司祭職・聖餐の四本の柱がある」と綱領の枠から歩み出る気配はありませんでした。私はその綱領そのものに問題ありとする立場です。理解されないのは説明不足のせいで全然恨む気はありませんが一つ問題があります。名訳とされるキングジェームス欽定訳は果して神の意向に叶ったのでしょうか?
 この教会とは線路を隔てた場所にペンテコステ派の教会があり、ミサに一回だけ出て退散しました。子供や若い女性も多く中々盛況でしたが、生バンド演奏もある楽し気な歌の集会に目を丸くし、ややこしい話を持ち出しても受け入れられそうな雰囲気は全く感じられませんでした。

 我々にとってオーソドックスの教会は余り身近な存在ではありません。文庫クセジュ「東方正教会」を読むと東西分離後この教会のカバーするユーラシアの広範な領域も歴史の荒波に翻弄されたことを思い起こさせます。それはモンゴルの來襲であったり、勃興したトルコ・イスラム勢力による席巻とコンスタンチノープルの陥落であったり、まだ記憶に新しい共産主義革命であったりします。キリスト教の東西対立も深まるばかりで、そのきっかけにアウグスチヌスの名前が出てきます。血迷った第一次十字軍はコンスタンチノープルを蹂躙し、主教座に娼婦を座らせて卑猥な歌を歌わせた、とあります。
 にも拘らず東方独特の社会的・心理的発展の根底には一貫したものがあって、その根強さは歴史家を驚かせます。神に仕えるもののための教権と世俗の秩序を守るもののための帝権も住み分けられ、一時(8世紀)皇帝が教権に介入した時教会は暴力によらず殉教による抵抗で勝利を収め、以来教会と国家は相互に独立して協調関係を保ちました。形式的にイギリス君主が長である英国聖公会との根本的な違いでしょうか。また正教会の中にも考え方の違いによるいくつかの宗派がありますが、どの宗派のホスチアを頂いても何ら変わりはないと理解されているようです。法王ピウス9世が教皇無謬論を唱えた時当然ながら東方総主教は反対し「信仰の普遍性は自由な共同体によって成立・維持される」という正教独自の教会論を唱えた、傑出した二人の平信徒の神学者がいたことが紹介されています。「表信者」マクシモスは正教会でいう霊的な体験(グノーシス)とはダマスカスでのパウロの体験と何ら変わらず、「グノーシス派の影響が福音を不純なものにしたことは一度もない」と述べています。異説を封じ込め異端グノーシスを焼き殺したり串刺しにするような排外主義とは縁遠いと言えるでしょう。俗界を離れたアトス山やメテオラで精神性の追求が今もなされています。ドストエフスキーが言うロシアの神秘主義とは人間の知性がいまだ解明していない、広大な領域の存在を共通認識した、未知への敬虔な態度を意味するでしょう。
 革命後のソビエトが教会や聖職者を厳しく弾圧したとは言え唯物論一色だったと考えるのは早とちりのようです。総主教(ソビエト政権により廃止された)の代理だった府主教セールギーは人生の意義や目的について共産主義者と信徒の間には大きな違いがあり、われわれはすべての人の心を信仰で満たすために生きていると訴えて拘束され、獄中にあって教会を法的に認めてもらうため政府と困難な交渉をおこなっていた時、彼の管轄区であるゴーリキー市の労働者たちはストライキを打ってセールギーの釈放を要求し、彼の自由を勝ち取ったのでした。

 前述マクシモスが「聖書の持つ謎や象徴の意味は神の言葉が受肉したという神秘のうちにすべて含まれている」と説く時、彼は新・旧聖書を共に神聖不可侵なのもと捉えているでしょうし、それが聖伝と呼ばれる正教の考え方の基本なのでしょう。聖伝には正教の綱領に加えて東方正教会独自の規範も含まれており、聖公会に対するのと同様の(プロテスタントも同じですが)指摘が当てはまりますが、私には正教と聖公会の間に基本的な違いがあるように感じられます。一方には聖書を都合よく加工することなく生のまま受け入れようとする敬虔さがあるのに対し、他方には国王が欽定訳聖書によって聖俗合わせた権威を樹立しようとする意図が見え隠れします。
 マクシモスは「神の言葉を完全に受肉しているイエス・キリストにおいてはじめて聖書の持つ意味がはっきりしてくる」とも述べています。ならば旧約を頑な迄に体現しているユダヤ教の祭司にイエスがどういう態度を取ったか、祭司たちも自分たちの神を冒涜する者として何故イエスを許さなかったかを考えると、新約・旧約二神があると考えるのが自然です。キリスト教徒が旧約聖書と新約聖書の比重を同等に考えるのはイエスの神を不当に軽く見ることにならないでしょうか。むしろ両者は走行性における正と負のような関係にあると思われます。聖書を語る場合キリスト教共通の踏み込み不足がありますが、正教も例外ではなかったと思われます。とは言えオーソドックスの信仰はカトリックやプロテスタントと違う目に見えない素晴らしい成果を上げたようです(後述するザメンホフのルールもその一つでしょう)。
そういう訳で私は7月からそれ程規模の大きくないハリストス教会に通うことになるでしょう。フィロカリアと呼ばれる聖歌集がどのようなものかも大変興味があります。

 食のもたらすネガティブな影響を警告するこれまでの私の見解に対し、霊たちの真面目な批判の声が耳に入ります。ある霊が来て「人間の欲望は簡単に抑えられない。お前の狭い考え方は後継者によって必ず塗り替えられるだろう。それに動物霊は人間に対してあんな態度を取っているが、人間に食われることによって浮かび上がれるのだから、実は感謝しているのだ。このことはヨハネ福音書に出ている」と非難しました。人間のためにならないで崖から海へスタンピードしたガラダの豚のような死に方では動物霊は浮かばれないのでしょうか。人間に食われたお蔭で浮かび上がった豚の霊が悪の導きによってヒトの胎児と合体した結果豚のハイブリッドになるのではないかと思いますが、ハイブリッド人間が今増え過ぎているのです。
別の霊は「お前は肉を食べなくても海の生き物は口にしているがそれだって祟りを免れない」と考えの甘さを突きました。仰るとおり鱗のない魚やイカ・タコなどの軟体動物や貝類を食べることは警戒を要するようです(*註1)。こんな言い方をする彼らが何処から来た霊かは大体見当が付きます。

 まだ声が聞こえても何が何やら分からなかった30代後半の頃、家の中でこんな会話を耳にしたことがあります。悪童らしいのが「お前はつまんない物ばっかり食ってる」と誰かを馬鹿にした。それに対し「いいモーン」と答えた子供がいました。多分あの子は私が生まれる時一緒に降りて来て、法華教の連中の手によりどこか遠くに連れ去られて悪魔に食われた私の坊やだった(「羽化」の項参照)。当時の私は霊界のことは何も考えず食べたいものを食べていて、その代価を支払わされたのです。仏教には人間に対する恨みのスキームがあったのです。思い出すたびに痛切な痛みを覚えます。「三つ子の魂もなかなか美味い」と私を馬鹿にするデーモンもいました。
 そのずっと後で40代の私に「考えを変えろ」と仏教からの改宗を促した少年がいました。最初何のことか理解出来なかったその一言だけで彼も同じ運命を辿ったに違いない。悪が支配するこの世では「助かりたければ余計なことは一切言うな」というルールを知らない訳はなく、多分覚悟の上だったのでしょう(註*2)。これが三位一体でいう聖霊の実態なのです。悪魔に食われた者はどうなるか。最近分かったのですがその結果は最低です。

 この所弾丸10発を食らわせても立ち上がる敵共を相手に、頭が狂いそうな戦いの連続だとの報告があります。悪魔は次から次へと湧いて来て、分身をいくら撃ってもキリがなく、かといって本体だけを狙っても分身供に手ひどい仕返しをされる。むしろサタンは戦い慣れしていてよく敵を見極めることが出来るそうです(註*3)。
 かつて天下を窺い目的のためには手段を選ばなかった強烈な個性の戦国武将は(子孫がいるので名前は出せませんが)死んですぐに「こちらではこれを食うことになっている」と人肉を出された時「それならば戴こう」と手を出してデーモンの側に入ったのですが、革命軍は彼を早く討伐しておくべきだったと悔やんだそうです。
 イタリアでも子供たちが「今だかつてこんな凄まじい戦いは見たことがなかった」と言うほどの激戦があり、アポロンは「これからは頭脳戦になる」と言ったそうです。危惧したようにイタリアには諸悪の根源がいた。ギリシャではエピダウロスが決戦の地になった。アメリカではマッカーサーも指揮をとっているがロバ組と象組は立場が違い一筋縄では行かないようです。象組の指揮者はアイクだそうです。ドイツでは革命(ハルマゲドン)が成功したという噂があるが、何れにせよ今の時点で何処も勝敗は流動的なのではないか。
 革命軍は「我々は未来を賭けて戦っている」と言っています。事態はここまで悪化し人間の道は重く閉ざされている。放っておけば将来良くなるなんてありえない、今ここで打開策を講じなければ永久に人類の未来はないだろうと見ているのです。

 グノーシスによれば悪神デミウルゴスが作ったとするこの世に我々は住まなければならない。神々が地上に人類を住まわせるかどうか議論しているうちに「そんなことを言ってももう人間は出来ていますよ」とヤハウエが言いサムエルが激怒した。人間が拝む神々とはカニバリズムの勝利者者だとアタリは言う。この世が作られた目的をゾロアスターが見定めたのは人間はエサだということ、四人のラビが神の果樹園パルディスで見たものは食い殺された人間の残骸ではないでしょうか。すべてが逆さまです。こういう逆境にストップをかけることがいかに難事業か想像に難くありません。やりたいことをやってもガバメントは敵と戦い補償してくれると気楽に構えていられるでしょうか。我々はせめて「忘却(記憶のむこうにある現実の喪失)と欲望(愛という名の虚偽)が人間を滅ぼす」をいま一度思い起こすべきです(註*4)。 

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(註*1)たしかに「いかなる魚も食べてはいけない」というルールもあるようです。
(註*2)「覚悟の上なら文句ないだろう」というデーモンの言い分をどう思いますか?
(註*3)人間がおいしそうなリンゴを食べたいと思い、夫婦が男女の愛を求めるのは自然なことで、サタンがそれを教えたために神はサタンを悪の誘惑者として悪魔に格下げし、アダムとイブも楽園を追放されたことになっています。神(もしくはこの世の支配者)と人間の間には相容れない深刻な価値観の違いがあるのではないでしょうか。あるいはそれがどうあがいても人間が救われない理由かも知れません。デーモンが人間を食い殺す犯罪性の方がより重大な悪だと思われるのに神は放置していたのです。問い返すならば、これが本当に我々が希求する神なのか。「巨匠とマルガリータ」で二人がヴォラントに連れて行かれるエンディングも神の裁きを受けるよりむしろその方が救いであるとの作者の暗示だったのだとすれば納得がいきます。
イエスが死を覚悟しこれから起こることを使徒たちに話した時ペテロが諫めますが、イエスは「黙れサタン」とサタンを制します。イエスには密かに何らかの助かる計画があったがサタンは計画通りに行かないことを知っていて止めたとも考えられます。イエスの早すぎる死がキリスト教の発展を阻む原因であったことは以前書いた通りです。
(註*4)「愛という名の明白な虚偽。僕はそれを過失と呼びたい」