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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

二つの世界を生きて (A.ガーダム)

 アーサー・ガーダム(オックスフォード大学出の医学博士・精神科医、1905~1992)について知っている人は少ないだろう。だれかが取り上げているのを見たことはない。この本も私がたまたま見つけて最近読んだもので、順序からいえばほかの本を先に扱うべきだろう。読みやすい本ではなくまた齢60代最後の今年は私の視力もすっかり落ちて読み通すのに時間がかかった。然し読み終えると驚きの内容である。

ガーダムは自分が1200年代半ば頃に実在したロジェール・イサルンという名の修道士でアルビジョワ十字軍の犠牲者であったこと、その後ナポレオンの時代に水夫として生まれ変わり、今回が三度目の転生であることを知る。そしてめぐりあった多くの特殊な能力を持つ女性達が前世の縁者であることを見出す。ロジェールの恋人ピューリリアはスミス夫人となって現存し二人は再会する。「スミス夫人は13世紀のカタリ派について語り、フォレスト夫人は原始キリスト教について語った。やがて四番目の証人が二つのものは同一であることを証明するであろう」、それがミルズ嬢と心霊ブライダである。いまや「当時カタリ派に属していた人達が7世紀の沈黙を破って原始キリスト教を声高く語り始めた」のだという。しかし、現在なにかカタリ派復古の動きのようなものが世界中にあるのだろうか?

ミルズ嬢は声に話しかけられ、記憶にない文章を自動書記する。声はやがて心霊的爆撃となって彼女を襲う。しかし彼女には驚異的な意思の力があり持てる力を発揮してそれらをコントロールしたらしい。私もまた30歳すぎて声が「聞こえる人間」になった-----ガーダムにはその体験はなく自分を「見る人」と定義しているが。私の場合生易しいものではなかった。それを話すことは、教科書に出ていた島崎藤村の若菜集序の言葉にある「おぞき苦闘の告白なり」という表現が相応しい。二度精神病院に入院した。内的格闘と不眠が続きそのあと25年間余りの会社勤めを無事終えた時、長い水泳コースを泳ぎ切ったようにほっと安堵した。詳細は別の項目で記すだろうが、「声が聞こえた」という特性抜きにそれ以降の私の自問自答の人生は考えられない。

「カーテンの背後にいかに多くのものが隠されているか」また「脳は人を真実から遠ざける厚いカーテンである」等については私も深く同意する。高橋たか子が「亡命者」で書いているように、緞帳のすきまから、我々は啓示的にむこうの世界の光を‘パーッと’感じて驚愕することがある。そこはこれから行く所というよりは、逆に我々がむこうから亡命してきており、帰っていくべき場所である。また我々が見るというよりは我々が見られている。読んだ脳学者の本は少ないが、基本的に脳は五感から得た刺激をプロセスする器官と考えられる。然し目で見、耳で聞き、手で触り、舌で味わい、鼻で嗅ぐ以外の方法でも真実の情報が齎される。他人は妄想・錯覚・幻覚だと言うだろうが。

カタリ派では「形あるものは霊的な同等物を持ち我々を取り囲む精霊の世界があると考える」と書かれている。私もつやつやと輝く、似ているがどこか違う世界を瞥見した。だから人は死後全く同じような世界を見出すだろう。ある者は自分が死んだことさえ気付かない。

逆に私は、むこうがこの世を見て「夢かと思ったがこれがこの世のありのままの姿だったのか」と驚いている声を聞く。私はこちら側とあちら側の間に「ホイヘンスの穴]と呼ばれる穴を開けたらしい(*1)。その結果人間を軽んじてエサにしていたカニバリストが人間の進歩と今日の文明の姿に驚き、それに較べると霊界が如何に遅れているかに気付いてカニバリズムを止め、革命の意義を認めた者が多数いるらしい。

カタリ派が十字架上のイエスの磔刑像を嫌悪する思想については「イエスの涙」というフィクションにも出てくる。エホバは悪しき造物主でありキリストの神ではない、イエスは人々の贖罪のために十字架に架かったのではない、とする考えも同じ思想に関連するだろう。思うに、イエスは旧約の徒がエホバの怒りを恐れエホバに捧げた生けにえの羊だった、彼らが「過ぎ越しの羊」をささげたのは自分の罪を贖うためだった、従ってイエスが贖罪の犠牲に役立ったのは旧約の徒のためだけである、という理解ではないだろうか。十字架はそのためのいまわしい道具だったし、原始キリスト教の時代には十字架はまだキリスト教のシンボルになっていなかった。

グラハム・ハンコックの「タリズマン」という本が同様にカタリ派のことを扱っており、それによればカタリ派は「カタリズムこそが救いであり、エホバを信仰するカトリック教徒は救いに至らず何度も転生する定めである」と主張した。然しガーダムによれば彼らカタリ派こそが現世への転生を自覚した。矛盾しているように見えるが、ひとは何故人間に生まれて来るかを仏教の菩薩を例にとって考えると理解出来ると思う。菩薩とは既に解脱と悟りを得たが衆生を救うために再び下って来た者であるという。カタリ派の人々もメッセージ性を持ち、自分に要請された事を行い、また悪に対して善なる勢力を強化補整する目的で送られたと想定される。例え「個人の人間性は不滅」であって悪の誘惑に負けない自信があっても地上に生まれるということは大きなリスクを伴うだろうが。

今日のキリスト教は転生について語らないが、多分初期のキリスト教は転生に言及していたのだろう。キリスト教徒の、あるいはほかの宗教の、転生の事実はどうなのか。一回きりの人生なのか。人間サイドでは分らないことだが。

カタリズムを背景にした「悪の力を見くびってはならない」「この世界は本質的に地獄である」というガーダムの悲観論はしばしば同様に他の宗教のペシミズムにも現れる。極端な例で特殊なグループの集団自殺もある。仏教でも「三界は安きことなし尚火宅の如し」という。何処に行っても火事で燃えている家にいるように危険なのだと。
この悲観論と「人の究極的な本性は善である」という彼の楽観論はどう整合するのだろうか。だれもが本質は善なのか?ならば悪もまた善に転化出来るのか?出来るとしてもあまりに先のことではないだろうか。

私は悪のパワーだとかエネルギーだとかバイブレーションなどという表現を積極的に肯定する気になれない。ガーダムがフランスで偶然乗ったタクシーの博識な運転手との会話で、運転手が言った「宇宙では善と悪は組織化されている」という表現の方がむしろ当たっていると思う。あまりオカルトめいた話をするべきではないと思うが、あるユニークな夢を紹介したい。私は外資系の会社に勤務した。会社の保養所が温泉地にあり訓練や集会でよく利用した。そこに泊ったある晩見た夢で、会社の本国の陸軍の迷彩服を着た多数の兵隊がいて広い土地にたくさんの穴を掘っていた。なにかぞっとする光景だった。一人の大柄な明らかに外国人の顔をした少年があらわれて、私の方をまっすぐに見、「You are xxxx, but still bitch」と言った。(xxxxの所は聞き取れなかった)そして手を伸ばして私の方に指を向けると、指先から稲妻のようなものが流れ出、それは私の頭部を撃ち電流のようにしびれさせてしばらく身体の自由を奪った。彼の与えた恐怖感と打撃から彼を悪と見るのか、悪と戦うために鍛えられた善なのかよく分らないが、招かれざる闖入者の私を敵対視したことは確かだった。しかしこれも、彼個人から出るパワーである。

今日、カトリックがエホバをキリストの神として信仰しているというのは当たらないと思う。現法王ベネディクト16世(2013年3月退位)は聖歌や教本にエホバという言葉があれば「主」というあいまいで一般的な表現に置き換えるよう指示した。
高徳な前法王ヨハネパウロ2世はカトリックが犯した様々な過ちを認め謝罪したことが「通訳ダニエル・シュタイン」にまとめて出ている。然しアルビジョア十字軍については彼の存命中に結論に至らず考慮はしたがサスペンドのままで終わった。


<註記>
(*1)このことを「ホイヘンスの穴」と呼ぶのは誤りでその正しい意味は51項を書いた後でやっと分かった。52項で詳述する。
(*2)「50・イギリス」までを書き終えた2017年7月現在、以下の通りこの項に修正・加筆する。ここには英語で語り掛けられた声の ’xxxxは聞き取れなかった’ と書いているが実は大分前に思い出していた。あの恐るべきパワーを持つ少年は "You are god." と言ったのだった。またヨハネパウロ2世はカトリックに改宗直後夢に現れた。その顔は誠実な人柄が偲ばれたが内心の不安な表情を隠せなかった。エゼキエルが現れたのはまだ改宗するずっと前で何故だか分からなかった。これらをカミングアウトすることによって何らかの更なる展開があるかも知れないと考え追記する。最後の段落も間違っていた。ベネディクト16世の指示は単なる隠蔽工作であって、カトリックはイエスの父なる神ではなくエホバ神を信奉する中の主力グループである。