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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

汝自身を知れ

 高い鉄塔に色んな鳥が来て止まりまた凧が引っ掛かるように、想像もつかないような訪問者が訪れた。いや、よく考えればそれらはそれぞれ訪れた理由があったと言えるかも知れない。長い時間を懸けて概ね三つのグループがあることが次第に明らかになった。

1 恐怖

 30代初め、当時住んでいた一人暮らしのアパートの壁をパラパラと指先で弾くような音がし、それに耳を欹(そばだて)ると、若い女の声が聞こえて来た。「石本は新しく建てる自社ビルの地下に埋めるために、部下に骨を拾い集めさせている」「彼は人を殺してバラバラにした死体を冷蔵庫に保存している」「お前が思っている女を地位を利用して籠絡している」「ドクター(社医)に命じて次々と社員をメスで殺させている」等々。

 当時我々の会社は創立何十年記念事業として隣の敷地に新しいビルを建設中で地下深く基礎工事の穴が掘られていた。石本というのは私が当時属していた部の部長である。平社員の私は直接彼と仕事のコンタクトをすることは全くなかった。元々私は彼に対して反感や憎悪のようなネガティブな感情を持っていたか?・・・正直に言って内心それ程強い個人的感情はなかったと思う。この「声」が与える秘密の情報をどれだけ信用すればよいのか、どう対処すればよいのか?心に直接語りかける声というものは1対1の自分だけのイシューである。迂闊に他人に喋ってはならないという警戒心はあった。また頭からすべて虚言だと割り切る明快な客観的意志を最初から持てる訳がなかった。日夜執拗に繰り返されるこうした刺戟に次第に彼への疑惑と敵意が募っていった。

 これが私の内的覚醒の禍々しい出発点だった。
結果的に私は表面上普通に過ごしていたし、彼に対していきなり粗暴な行動を取るようなことはなかった。その声は「殴りかかってほしかった」と言っていたが。この軍歴のある高圧的な印象の男性は過去に誰かの恨みを買うような事があったのかも知れない。声を真に受けて私が暴力的なアクションを取りそれが彼に何か甚大な被害を及ぼせば恨みの腹いせになったのかもしれない。世の統合失調症気質の幻聴患者に強く警告したい。まことしやかで意味ありげな声を絶対にまるまる信用してはいけない。あたかも重要な秘密の情報のように聞こえるが、それらはほとんどが狡猾な騙しのトリックであり、彼らは人間の過去や秘密や思考パターンを熟知していてそれらを巧みに利用する、邪悪であなどり難く危険な相手である。「騙した」と怒っても「騙される方が悪い」と言い返されるのがオチだろう。

 続いて何か恐ろしげなものが私を目の敵にして術を仕掛けて来、相手が誰とも知らず私はそれに必死になって反発した。「石本が自動車で家の周りを回ってお前を探している」「ピストルで外から狙っている」「隣もグルだ。石本が隣家に入り込んで二階の窓から狙っている」。これらの声に怯えて私は家を逃げ出し、都会の街をさ迷った。そして「お前はもう特殊な人間になったから眼を瞑って横断歩道を渡っても車には当たらない、試してみろ」とか、近くのビルに登らせて「龍が必ずお前を受け止めるから飛び降りろ」とそそのかされ、我に返って慌てふためいてビルから走り降りたりした。私を自死に誘っているのだが、私はまだ理性を完全に失ってはいなかった。然しもう数日に及ぶ不眠と神経の高調で参っていたし、いつの間にか裸足になっていた。雨が降っていて足にアスファルト道路のぬるぬるした感覚があり、水溜りには車のガソリンとエンジンオイルが虹色の波紋を画き、つぎはぎだらけの道路修復工事の跡が路面にまだらな模様を画いていた。声が「この道は死体だらけだ、あの黒ずんだ所に身体を切断していくつも埋めてある。ぎらぎら光っているものは死体の油だ、お前の足がその油に塗(まみ)れている、そら、またお前は避け切れないで死体の上を通ってしまった」と恐怖を煽るのに耐えられなくなって「悪魔だ、悪魔だ」と大声を上げて逃げ惑い、遂に警察に保護されて精神科病院に運び込まれそのまま入院した。この時私が「この死体愛好癖が」と叫んだのが特別に相手を刺激したようで、以来私はトップクラスの悪神の怒りを買っていると言う者がいる。危機と紙一重のこうした大掛かりな自滅への仕掛けは、手を変え品を変えて60代初めまで5~6回繰り返され、私が今日あるのはそれらをぎりぎりに凌いでかろうじて踏みとどまったからだった。

2 緘口令

 私が見えない者たちの声を聞き始めると、ある少女が「ボキャブラリー、ボキャブラリー」と騒ぎ出した。最初何のことかと思ったが、言葉に厳重注意して私が知らない言葉や知識を彼らの話を通して与えてはならないということらしい。特に朝方「黙(もだ)し難い」と言って彼らは枕元でしきりに騒いだが、聞き耳を立てると決して大したことは言っていないことが分かり、なるべくそちらに意識を向けないようにした。そうしなければ引き込まれて睡眠不足に陥るからである。ある朝同じような調子で騒いでいたが、夢で喋っている様子が見えた。そこには単語を書いたカラフルなマシンがあって、言葉を喋るたびに口に出した単語がパカパカと光って明滅していた。つまり私の耳に達する前に単語をエディットして、私の知識にない単語や禁止用語を機械チェックしていたのである。中国でグーグルの検索禁止語があるようなものである。正直言ってあきれた。霊界と人間界とは時間感覚に差があって、人間にはあっという間でも、彼らには一度チェックに引っ掛かった単語を別の単語に修正し、人間には自然な感じで聞こえるよう素早く操作して流し直すだけの時間的余裕がある。また前世紀の終わり頃私は初めて自分のパソコンを買ったが、それは20万以上する自慢のソニーVAIOペンティアムⅢ内蔵デスクトップで、まだでっかいブラウン管方式だった。遊びに来たらしい少女がそれを見て「今どきあんなキャソディックの・・・」と仲間内で話していたが皆さんこの意味が分りますか?霊界とは水木ひろしワールドみたいな前時代的な場所と思い込んでいる諸氏は眼を覚まして欲しい。

 以前からいたのかどうか知らないが、皆が「ある方(Mr. Somebody)」と呼ぶ正体不明の霊が居座って「余計なことを絶対に言うな」と大きな態度で仕切り始めた。特に私の仲間グループに対して厳しく当たっている様子だったが、多分そのグループを消滅に至らしめたのも彼だろう。第三者的に事件そのものを調べに来た者に対しても知っていることを言わせない。言った者はあとで酷い仕打ちを受ける。日本の仏教のやり方についてはあちらの世界では公然の秘密であり、バチカンでもインドでもニューヨークでも北京でも知っているが「人間が気付くまではこのままでいい」と改めないで、現状維持を押し通している。人間がこのことを見破って共通認識するなんて「理論的にありえない」と誰もがあきれる条件だが、私のような者がそれを知ればその「ありえない」ことが起きて継続の条件が崩れることになる。それにもし私が仏教徒でいる内に私を狂死させれば、これまでのやり方で秘密を封じ込めたまま一件落着させることが出来る。もちろん私は当時仏教が押し隠している秘密にこれっぽっちも気付いていなかった。

 仕切りの霊はことある毎に「サリーマン風情で」「民間人のくせに」と私を馬鹿にする。霊界に関係ある職業の僧侶や神職についた者には特異な能力があるのだろう。また「風呂を覗いた」「暗い所で女に触った」「電車で痴漢まがいのことをした」「お触りバーに行った」と痛い所を突く。私の言い訳が終わらない内に次の事に話が跳ぶ。なにもかも知っている、ネタはいくらでもある、お前の評価は若い時でもう終わっている、という訳である。人間は男女が身体を持って接近して一緒に暮らしていて、相手が嫌がるほど度を過ごさない限り多少の接触は揉め事もなく忘れ去られる場合が多いが、死後裁きの場で人前でこんな事を次々と持ち出されるとさぞ慌てふためくことだろう。そこにぞろぞろと証人が現れるそうである。「風呂を覗いた」というのは中学生の夏のことだが、ある建物の陰の生垣のそばを通り抜けようとして偶然女性の入浴する姿が見えた。見られた本人は気付いていなかったと思うが、その女性の守護の霊は興奮して木隠にいる少年を当然気付いていたのであり、審判で私の芳しからぬ行為を証言するよう話が着いているそうである。男女関係のことで「自分だってやるだろう」と反論すると「俺がやるからと言って同じ事を人間がやるのを非難してはならないことはない」と言い返された。ただし法に触れるようなもっと重い犯罪歴を隠し持っていたり「バレなければ犯罪にならない」と罰を逃れてうそぶいている御仁が裁かれる時は、誰にでもあるささいな libido に関するアラ探しを持ちだす必要もあるまい。

3 ビジター

 所詮確認しようもないことだから、私は自分の前世譚に余り興味がなかったが、多くの人間は何度も生きて死んで生まれ変わって来たというのがどうも真実のようである。その結果同志の環を結んだり逆に敵が復讐のチャンスを覗って待っていたりする。仏教徒の頃は秘密事項でほとんど知らされなかったが、改宗してからまさかというような前世の話を耳にする。思い返すと、記憶にある一つの名前を状況の違う時と場所で別の者から再び聞くことはなかった。

 私を訪ねて来るビジターがアレハンドラ、マイセンの方、パネトーネ、マージョリー、キクラデスの人達などと呼ばれているのが聞こえる。ドレスデンに旅行した時、マイセンの陶器工場を見学に行くガラ空きの列車の中でうとうととすると、たくさんの人影が取り巻いていたのが見えて目が合ったが彼らはマイセンの者達だろうか。 仏教徒だった時は人物鑑定書という言葉をよく聞いた。私の鑑定書を冷笑するように誰かが読む声が時々聞こえた。それには「非の打ち所ばっかりの見下げ果てた下品な男で末代の恥である」と書かれその理由となる事項が列挙され、間違いなく総合評価に恥ずかしい程低いお点が付けられていた。私の鑑定書は出身地にも送られ、不品行の例として更に「堕胎した、デリヘルを頼んだ、ダッチワイフを買った」などと、どうせ読み手は地上のことなど確認できないからと、毒々しい嘘まで書き加えられているようである。人物鑑定書なるものは一応数百年は残る権威あるドキュメントだそうで、それを丸々信用した眷属がもう駄目だと諦めたので、死後無事に懲罰を逃れたにも拘わらず「誰も迎えに来ない」と途方に暮れている者もいたそうである。他人を疑うことも知らない純朴な心の者ばかり住む国もある。

 私の出身地からの来客が住居を訪ねて来たらしいのを時々感じるが、送られた鑑定書を読んだ上に「発狂した」などと聞いて人間はさぞや悲惨な暮らしをしていると予想していたが、思いの外ちゃんとした生活をしており、人の恨みも買わず借金もなく暮らし、仕事も無事勤め上げているらしいのを見て驚く。この方々は平穏に帰されるだろうか、戻って報告が誇張と嘘だらけであることが広まらないよう口封じされるのではないかと、私の方が不安になる。
声の様子から若い娘と思しき霊がたくさん出入りした。霊と人間が直接コミュニケーションを交わす独特な生活環境を作り出した私が生前の知識を記憶していることに対し「そうかそうか、この男はムネモニックな人間なのか」としきりに合点していたのも彼女たちの一人である。最初は彼女たちを随分と勘違いし私の好きな女の分身かと甘く考えて歓迎したが、やがて例外を除けばほとんどが根性曲がりで勝手で人の不幸を喜ぶ、手くせの悪い危険な存在であると感じるようになった。彼女らは少しずつ六道の序列に違いがあるようで、聡明さや温かさに個性的なバリエーションがあった。ひどいのはお構いなしに仲間に言い触らし余計な者を連れて来るし、借りた金を返さない。ある早い時期のこと「ルシファーが来た」と寄って行った一人の女の声が如何にも鼻を鳴らすという感じで仲間意識が表れていた。ルシファーとは一体何かピンと来なかったし、当時まだインターネットもなくすぐに調べることも出来なくて、私は全然状況を理解していなかった。考えて見ればあの頃は勝敗の決着がまだ着いていなくて、味方による必死の防戦が行われていたのだろう。「ダッキが来た」という声もまた一つ難物が敵に加わっていよいよ困難が増したことを意味した。辞典でその名の主を中国の希代の悪女と知って唖然とした。
(およその全体像が見えて来た現時点でルシファーはサタンと同じく悪魔が言う悪魔であるとの結論に達した。)

4 キリスト教

 三位一体という概念を単純にキリストの父なる神と審判者キリスト・神の子イエスと地上に遣わされる精霊の三者が意思統一されていて、私利私欲や私怨から離れ悪を拒み正しい人間に対する愛と救済の願望で一貫しているということだろうと考えた(*註1)。聖書で悪魔は魅力的な条件で協力を申し出るがイエスはそれを拒絶する。ただしもし承諾していれば「その代わり」何か別の条件を受け入れなければならなかっただろう。無償な訳がないしそれがどんな条件かは聖書に書かれていない。

 私がまだ小学生だった頃、上の姉は高校を出て公務員になり田舎の郵便局で働き始めた。夕食の時に姉が「郵便局に良く来る客の中に変わった人がいる」と父に話すのを聞いた。その人は別段宗教の専門家という訳でもないが「自分はあちらの世界の声が聞こえ時々夢も見る、観音や如来やほかの仏も、マリア様やキリストも実在している、今の仏教は道を外れておりキリスト教だけがちゃんとしている」等と皆に話すのだと言う。どれだけ苦い思いを味わい悪を意識したか知らないが、基本的に私と同じ感性と推論である。姉によれば彼は結局改宗しなかったらしく、数年後その人が死んだ時葬儀は仏式だったとの事である。昭和20年代末期の話であるが、この人のほかにもこの世に私と同類がいるかも知れない。

 イスラエルへのパッケージ旅行で一緒になったある新教の信者が「私達の教会の神父は元僧侶だがどうもおかしいと感じてキリスト教を学び直し神父になった」と話し、一度その世田谷の教会に来てみないかと改宗前の私を誘った。この神父のような人なら右手と左手を見比べるように仏教とキリスト教の違いを比較し、私以上に真実を見極めているのかも知れない。

 私は過去世にヨーロッパでクリスチャンだったと言われた。家の二階にユダヤ人の婦人と男児の存在を感じ、一階にいる私の属する仏教グループと住み分けているように感じた。人間鑑定に関するドキュメントはクリルタイの一面的な記録だけではなく、「客観的レポート」と呼ばれる他の宗教によるものもあって、その評価も無視出来ない影響力を持つらしい。私の場合既にキリスト教や好意的なユダヤ教一派(例えばベニヤミン族)が肯定的な意見書を提出してくれたようである。

 退職して間もない頃、ソファーに寝転んでテレビを見ながら寝てしまって幻を見た。すると愛らしいが意志的な顔の女神が右手に幼児を抱いて左手でそれを指さし何か言いながら降りて来た。私は彼女が何を言っているか聞こうとして意識を集中したが、彼女は急に「家の中に何かがいる」と警戒して立止まり、部屋中を注意深く見回しやがて見えなくなった。私には子供がいなかったから、この女神は子供を授けに来たのだろうか、今までそのための努力もしたがもう60歳を大分超えたし残念ながら無理だろう、などと考えた。改宗後イグナチオ・ロヨラの「ある巡礼者の物語」を読んで、あれは聖母マリアと幼な子だったのかも知れないと思った。そうであればあの時彼女は早く仏教から別れよと警告したかったのだろう。

 当時「自分は見仏の経験をした」という慢心のようなものがあって仏の救済を信じようとしていた。涅槃に数千の仏が救いに来るという声もあった。仏教関係の本はあまり読んでいないが岩波文庫の「法華経」だけは読んだ。キリスト教は救いの場所は天にあると上下の位置関係を示し仏教は東西南北におのおの浄土と救いの仏の存在を説くが、法華経で説くアノクタラサンミャクサンボダイとは何所のことだろう、余り人口に膾炙されないこの言葉を最初読んだ時その字面に何故かいやな抵抗感があり肯定的に受け入れるのに戸惑いを覚えたが、果たして死後仏教の救いの場所に行けるのだろうか、等と考えていると、背後で「ジュラシックパークに行く」と声がした。そんなテーマパークのような謎めいた所が何を意味するかは改宗後に分った。

 ギリシャでグノーシスの「汝自身を知れ」という言葉は酒場の入り口に啓示してあって、自分の適量を弁えて飲み過ぎるなという警告に使われているとあるブロガーは面白がっている。

 エレーヌ・ペイゲルスは「悪魔の起源」で宗教学の幅広いリサーチの航跡を披歴しさすがに高い語学力のある秀でた学徒の行動範囲は違う、我々はその努力の恩恵に与るのみだと脱帽するが、同様に「汝自身を知れ」をさして意味のない言葉と軽視している(*註2)。たしかに人間が自分の来し方を思い起し自己の属する範疇を見定めるのは至難の業ではあるが、彼らはそれを知っておりそれによって一方に対しては細大漏らさずどこまでも厳しく秘密や失敗や品性の汚点に目くじらを立て、場合によっては作為も辞さずに酷評して何が何でも蹴落とそうとし、他方に対しては多少のことはあったが概ね良好と甘く採点し及第点を与えようとするのであれば冗談事では済まされない。ある声曰く仏教とは「クンダリーニ合格、光の子不合格」。仏教は光の子のいるべき所ではない。

5 親鸞の見た世界

 高校の教科書に出て来た悪人正機説に強烈なインパクトを受け、授業でその解釈に当っては補助線を引き結局人は皆救われるという教えだとの説明がなされたが、私はこの逆説が気になって仕方なかった。それならはっきりそう言えばいいではないか。

 「この世は一定地獄ぞかし」あの世とこの世とはコインの表裏のように重ね合わさっているが、親鸞はこちらの世界に地獄を見たのだろう。つまり誰も救われないのである。仏教では無垢な光を放つ者よりむしろ煩悩にまみれた命の方が助かっているではないか。清浄な生き方をすれば救われると説く一般の教えは綺麗ごとで間違っていると嘆いたのが歎異抄であり、悪人正機説は正直な文字通りの観察結果ではないか。故に彼は肉食妻帯を選ぶ。「雉も鳴かずば撃たれまい」の諺の通り、目立たずそこの色に染まって生きればむしろ何%かのサバイバルのチャンスがある、という事か。

 私に対して忠告がある。無事これ名馬。みだりに狼と呼べば狼を刺激して呼び寄せるから蒙古人は狼を「山の犬」と呼ぶそうである。それと同じく悪魔の名前を再々語るのは自殺行為だと。今は肉体という鎧に守られているが人間誰しもいずれそれを脱ぎ棄てる。そうして皆一個の霊に戻り一人一人呼ばれるが、生前に特に目を付けらていれると危険に曝されるリスクが高いだろう。いや、私はこんな作業をして既に危険を冒したのかも知れない。これは相応の覚悟の要る作業である。

(*註1)三位一体でいう父とは一般家庭にいる「父」のことだと気が付くのはずっと後の話である。
(*註2)後述するがペイゲルスも宗教学者として失格である。自分がどのカテゴリーに属するかは決定的に重要である。