これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
自分の教えを他人が書き記すことで発生する難しい問題をイエスは痛感しているだろう。マタイ福音書が怪しい。マタイにはくり返しとコピーが多い。ニケーヤ公会議(A.D.325~326年)まではキリスト教は救いの教えだったかも知れない。何故なら、キリスト教関連文書の翻訳家近藤千雄氏によればダドレーという学者は著書「第一回ニケーヤ公会議の真相」で同公会議において聖書に好き勝手な改竄がなされたのは歴史的事実として動かし難いと言っているそうである。
悪魔に唆されてマタイ福音書に毒麦を蒔いた者がいる。イエスが「そのままにしておきなさい」と言い、それに気付かない司教・神父・牧師と彼らに導かれるクリスチャンは「盲人が盲人の道案内をすれば二人とも穴に落ちてしまう」と例えた通りの結果になってしまった。悪魔は裁きの場で聖書の該当箇所を示して理路整然と「聖書を信仰の拠り所とするあなたはここに書かれた教えに背いた。だからあなたは滅びの運命を遁れられない」と死者の命を奪った。一切の改竄の証拠は隠滅したのだろうが、ナグ・ハマディー文書だけはコプト語で書かれニケーヤ公会議の前に隠匿された。もしナグ・ハマディー版新約聖書があれば何がなされたかが現世でも判明するだろう。霊界では「なぜ人間は気が付かないのか」と憂いている。
マタイ福音書から、意味の取りにくい文章、捏造と思われる個所、日本語の誤訳、悪魔が付け込んで逆用しそうな箇所を拾った。中には「この野郎そこは見当違いだぜ」という箇所もあるだろうが、その場合は悪魔さん御免なさい。
断食についての問答
9:14 そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。
9:15 イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。
9:16 だれも織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。
9:17 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」
洗礼者ヨハネの弟子たちが来てイエスに「我々もパリサイ人もユダヤの断食の日に断食しているのになぜあなたの弟子たちは断食しないのですか」と聞いた。するとイエスは言った。「(飲酒や肉食をつつしむ)断食は葬儀で喪に服する時にするもので、花婿(イエスが自分をユダヤに迎えられた婿にたとえて)を囲んで祝いの場にいる婚礼の客(弟子たち)がどうして喪の儀式をしなければならないのか。私の命が奪われる日が来れば、その時は弟子たちも喪に服して断食するだろう。私の新しい教えは古いユダヤの教えに真新しい布でつぎを当てるような教えではない。そんなことをすれば元の教えに矛盾が発生し壊れてしまうだろう。また古い酒を新しい酒と同じ革袋で混ぜ合わせるものでもなく、無理に一緒にしようとすれば古い革袋が破けてしまうだろう。両者は素材(基本思想)も器(慣例)も違う全くの別物で、今までの形式を盲目的に引き継がない。お互い独立して混じり合わない方がそれぞれ永続するだろう」。
☆イエスは断食の習慣に好意的ではなかったと思われる。「アーメン」も古い形式の祈りの一部である。バート・D・アーマンは当時ほとんどの一般人に識字能力はなかったと言うが、一体原文がマタイの作通りならマタイの作文能力は今日の優秀な中学生のレベルにも達しないのではないか。舌足らずの文章を何か重要なことが秘められた尊い教えのように考えるのは持ち上げ過ぎではないだろうか。当時の徴税人に必要な能力は名前と日付を読み書きし金額を足し算する程度で十分だったろう。
律法について
5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである(正しい行いをした者に来世で救われる道を作る、それが立法の完成である。ユダヤ教は来世について語らなかったから人々は来世での救いを念頭に置かなかった)。
5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法(ユダヤ教の律法ではなく天の律法)の文字から一点一画も消え去ることはない
5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り(来世で救われる道を指し示さなかった)、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える(救いに至る道へと導く)者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ(立法を遵守するだけでは正しい行いにはならない、何が正しいかを見極め判断する能力を持ちそれに基いて行動することが出来なければ)、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(父母を敬えという十戒の教えに対して、イエスは息子は父に、娘は母に逆らわなければ私にふさわしくないと言った。ユダヤ人には決まり事は守らなければならないという意識が強い)」
姦淫してはならない(18:1で後述するようにおそらく捏造、39・エピソードより再掲)
5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(女を見て心の中で全く情欲を抱かなかった者だけが姦淫の罪を犯さなかったことになる。過激すぎる表現で、むしろイエスは「姦淫などと大げさに言うな、ましてや肉体関係もないのに。他人の妻を見て欲望を持てば女を犯したも同然と決め付けるのはやり過ぎだ」と言いたかったのではないか。ヨハネ8:4で姦淫の現場を押さえて連れて来られた女に対しイエスは寛容である)
5:29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。(あなたは女を見て情欲を抱いて、その罪を犯すもとである右の目を抜き出して捨てなければ罰として地獄に投げ入れられる。)
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。(あなたは女に情欲を抱いた時自分の右の手で何をしたかを問われる。右の手が罪を犯さないようあなたはそれを切って捨てなければ罰としてあなたは地獄に投げ入れられる。あなたがいつ誰に情欲を抱いたかはすべて記録されており、あなたが情欲を抱いて右の手でしたこともすべて記録されているので、あなたは反言出来ない。その場合あなたは地獄で釜ゆでにされて当然なのだ。時すでに遅く、審判でこのトリックに唖然とし絶望的な怒りを覚えた者が何億人いただろう。聖書に悪魔はいても神はいないと思わせる。)」
復讐してはならない
5:38 「あなたがたも聞いているとおり『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(この言葉も悪魔が我々に逆らうなと悪用する危険な言葉である。霊界にいる悪霊は盗難や、あなたの名義やクレジットカードの不正使用であなたの身内の霊を途方に暮れさせている。交替の時に娘たちが管理責任を果せなたったことを詫びて身投げする悲劇さえ頻発する。本来は、悪人に手向かうなとは悪人と言い争うな、無用な論争に引き込まれ、考えてもいなかった質問をされて答えに窮すると負けたことにされるし、勝ってもまた言いがかりをつけられて際限なく不毛な議論を吹っ掛けられるだけだ、という警告で、黙っていて相手が怒り出し頬を打たれる位は耐えなさい、の意味だろう。)
5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい(古来ユダヤの教えでは盗人といえども上着をとってはいけないルールがあるらしい)。
5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい(だから悪に誘われたら求められた倍の悪行をしなさい)。
5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。(誰もあの世で実際に金が動いているとは思わないだろう。悪人はあなたの家に入り込み、あなたの名前で数億に及ぶ莫大な借金を残す。審判の時クリスチャンはこの言によって悪人の課した借金に背を向けることが出来ない。負債を引き受けられなければ代わりに命を差し出せと言われるだろう。人間に尻拭いさせる専門の口達者な係がいる。愚かなことである。もとは人間同士が争い事を避けるためにできる範囲内で与えたり貸したりする場合の教えである。それでも証文は残すべきだろう)」
敵を愛しなさい
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(本来は十字架上のイエスが自分に刑罰を与える者を許したような態度を意味し、彼らが悪の誤りに気付き神の恵みに与るよう祈ることなのだろう。しかし悪は逆手にとってあなたに害をなす悪霊・動物霊のために祈りその名を唱えなさい、とすり替える。)
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである(天の父は敵に恨みを残す子を快く思わない。恨みは際限なく怨恨を繰り返す。しかしこれまでのことを考えると甘い顔をしてばかりもいられないのが実状ではないか)。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(これは事実で、神が悪人を全部抹殺すれば何の苦労もなく事は簡単なのだが、独麦の存在を許している。悪にとってニケーヤ公会議の誤謬を当てこすった、天地の創造主に対する強烈な皮肉とも取れる。父なる神がトップレベルなら悪が優勢なこんな苦難の世界に愛する子たちを送りたくはないだろうが、それではこの世は完全に悪のものになり全く希望がなくなる。)
5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。(あなたを憎み敵対する悪霊・動物霊こそ愛しなさい、とすりかえる。)
5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。(あなたが人間にだけ親しくしても褒められません、とすりかえる。)
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(完全な者は何をされようと人間も悪霊も動物霊も分け隔てなく愛しなければなりません!)」
祈るときには
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(陰徳の重視。今は不要な教え)
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(真剣な祈りは神と人との一対一の対峙にならざるを得ないだろうが、6:9の主の祈りは教会や集会所で唱えては駄目ということか。するとほとんどの教会は教えに逆らっている。)
6:7~8 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。(天の父の名はアーメンか?それは元エジプトの神の名でしょう?)
6:10~12 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(何をされても許せるものではない)
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。(Lead us not into temptations, and deliver us from the evil ones. の temptation はエデンの園でのサタンの誘惑と同じ単語である。従って evil ones はサタンを暗示する。アダムとイブの図でサタンは樹に巻き付いた蛇の姿で画かれる。マタイ福音書でも旧約の律法学者や祭司はしばしば蛇・蝮の子と呼ばれる。楽園追放は性の誘惑が原因で性欲には羞恥心が伴う。神はノアに産めよ増やせ地に満てと言った。蛇は邪淫のシンボルでcunningな動物とされる。ハトホル神殿にヘビ崇拝のレリーフがあり、エジプト神アメン・ラーに繋がる。モーセはヘビを導きのシンボルとして掲げたが、これが旧約の神YHWHである。レビ記はヘビの教え。ヘビは煙草を嫌う。多淫でずる賢い者はヘビに落されるのか。聖書に仕組まれたトリックもいかにもずる賢い。サタンと関係あったアダムとイブの子孫は滅び、今の人間はノアの子孫。サタンは我々即ちノアの子孫を目の敵にしていると考えられる。)』(“国と力と栄光とは限りなく汝のものなればなり”が抜けている。天の国の繁栄を嘉しないこととも取れる。事実、天の国の栄光は失われた)
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。(恨みは恨みを呼ぶから本来は寛容の教え。別の意味で過ち即ち罪、罪を犯すものは悪魔、悪魔を赦せ。)
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。(サタンは許されないから地上に落されたではないか。)」
思い悩むな
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(時代が変わった。今日では親が子供のために将来の学費を蓄え、子供に人並みの娯楽や恥ずかしくない住居を作ってやりたいと思うのは無理からぬことである。必要ならば各種保険にも加入しなければならない時代である。寿命が延びて自分自身老後の備えを他人の世話にならないよう心がけるのは間違いではない。それが出来なくてどうして人が一生を全うしたとして神が受け入れるだろうか)
黄金律
7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(悪魔がやっていることを悪いと言うな。そうすれば我々もあなた達が動物にしたことを持ち出さない)
7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。(人間が悪魔や動物霊を責めると同じだけ我々は人間を責める。)
7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。(自分の過ちには無頓着だが我々の過ちは問題にする。自分たちが動物を殺している事を反省しないで霊界で悪魔や動物霊が人間を殺すと間違っていると言う)
7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け(自分たちがやっていることの重い罪に気付け)。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
7:6 神聖なものを犬に与えてはならず(犬に聖なる言葉は無用)、また真珠を豚に投げてはならない(豚に涙が出るような説教は無用)。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。(霊界で犬や豚はあなたの命を求める。ここに出た犬や豚だけでなく猫や蝿についても引用して動物霊の怖さを警告したと思う)」
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(そのように動物にもその欲するものが与えられねばならない。)
7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。(動物は言葉や真珠を欲しがるだろうか)
7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。(悪人でさえ自分の子供には良いものを与える。)まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(ましてあなたがたの天の父は欲する者に望むものを与えるに違いない。そのように)
7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも(人間は動物に対してその命を失って人間の食い物になってもらいたいと思いそうしている。それと同様に)、あなたがたも人にしなさい。(あなた方も命を動物に与えなさい・・・これを黄金律と呼んで尊ぶ愚かしさ)これこそ律法と預言者である。」(これが聖書の本質でそれは人間を自ら犠牲にする教えなのですよ、と悪魔は言うだろう。)
☆このようなトリックにより動物霊は「我々は人間より頭がいい」と自慢している。黄金律がマタイだけにあるのは意味深い。捏造の色濃いが、使徒の一人であるマタイはイエスから類似の話を聞いたのかも知れない。映像で見る弱肉強食の自然界で食われる側の無念さは想像に難くない。10:29で神は雀の命さえ気に懸けていることが出てくる。「キリスト教の創造」でイエス・ベジタリアン説が紹介されているがアーマンは真に受けていない。大洪水の後ノアに「動いて命あるものはすべてあなたたちの食料にするがよい」と言った神の言葉に動物たちは耳を貸さない。霊界での人間と動物の関係は自然界より近く、厄介なテーマである。しかしそれまでの目に余る悪魔・動物霊の振る舞いを見ていて、イエスが動物側に立っていたことはありえない。
恐れるべき者(誤訳あり)
10:25 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である(あなた方が出来る限度で教えれば十分である。師-弟子-信者の関係は百人隊長の話で示された)。家の主人がベルゼブル(蝿の王)と言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」(主人である私がベルゼブルと言われるなら、その弟子たちであるあなた方は過去の恥をあげつらってもっとひどく悪口を言われるだろう。9:34でイエスは悪霊を使っていると言われた。12:24のベルゼブル論争を予見していた)
10:26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。(あなた達は色事やもめ事などの過去の恥を人々に知られることを恐れるな。所詮覆われていることで悪魔に暴かれないものはなく、隠してもすべて悪魔に知られている。秘密にしておくと悪魔に付け込まれるから、むしろ自分から今のうちに告白しなさい)
10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。(私が暗い所でこっそり暴いて告げたあなたの秘密、私が耳元で囁いた醜聞を、大声で自分はこんな間違いをしてしまいましたと隠さず人々に告白せよ。ヨハネ8:4でファリサイ派の人々が姦淫の現場で押さえられた女を連れてきた話で、イエスは女を連れてきた者たちの罪を黙って見抜いて道路に書いた。書かれた方は一人また一人といなくなった)
10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども(一般の人)を恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方(者:神ではなく悪魔)を恐れなさい。(英語ではBe afraid of the One who can destroy both soul and body in hell となっている。the Oneとは6:13のように悪魔のこととしないと意味が通らない。誰でも人に言えない秘密を抱えていると悪魔に弱みを握られるだけ、悪魔はその手口で人を地獄に落とす。特に性に関する事柄は絶好のネタである)
10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許し
(care お許しではない。ご心配)がなければ、地に落ちることはない。(Are not two sparrows sold for a penny? Yet not one of them will fall to the ground outside your Father’s care. 雀は二羽一ペニーで売られている。そんなに価値の低い雀のうちの一羽でさえも見逃さず、それが地に落ちればあなた方の父はどうしたのかとご心配される、の意。誤訳)
10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。(何もかも悪魔に対しては隠し立ては出来ない)
10:31 だから、恐れるな(いっそのこと恥を恐れず人前で告白しさらけだせ)。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(You are worth more than many sparrows. あなた方はたくさんの雀よりもっと価値があるのだから、あなた方が地獄に落とされることへの父のご心配は、たくさんの雀が落ちる時のご心配より以上にずっと大きい。翻訳がおかしい。告解の重要性を述べている。女性よ勇気を持って欲しい)」
☆悪魔の手口が暴露されないよう加工されたか。前段の10:22「最後(死)まで耐え忍ぶ者は救われる」10:23「一つの町で迫害されたなら他の町へ逃げなさい。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに(命を失くすかも知れないが)人の子は(私は救いに)来るであろう」にあるようにイエスと弟子たちは万一の死を覚悟していた。
ベルゼブル論争
12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は(sin and blasphemy, crimeではない)、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。(誰が霊を冒涜するのか主格が抜けている。悪魔が善霊や人間の死後霊Spiritに対して冒涜し恥辱を与えること即ち死後霊の殺人は許容出来ないとイエスは言いたい。しかし悪魔は「我々は霊である、だからあなた達は我々を冒涜するなとイエスは教えている」と逆手に取るだろう。そう誤用されないよう配慮して言葉使いに何らかの区別がなされていた筈であるがマタイが理解しなかったか誰かに消されたか)
12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。(私に逆らっても構わない、しかし神が遣わした霊に逆らうことは神に逆らうことと同じであり許されない)」
人々はしるしを欲しがる
12:38 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに「先生、しるしを見せてください」と
言った。(しるしとは来世が存在するかどうかの証明。ファリサイ派は来世を信じなかった)
12:39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる(神に背いた者たちは、だったら来世がある証拠を見せろと言う)が、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。(私が復活するのが死んでも霊が生きている証拠になる。)
12:41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり(悔い改めた者は生きている証拠、12:42の南の国の女王も同様)、彼ら(よこしまで神に背いた時代の者)を罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナ(の説教)にまさるものがある。
「天の国」のたとえ
13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。(新しいもの=福音、古いもの=律法と慣習、学者はただ知識を貯めこんでいるだけ、それは信仰ではない、知識をひけらかすだけの学者のようになるな。旧約から引用したコメントなぞ有り難がるな。)」
☆キリスト教はイエスが弟子たちに諭したようにはならなかった。イエスは旧約聖書なぞ全部捨てよ、そうすれば正しい人と悪い人が選り分けられ、天の国が来ると言っている。ヘビの教えとはきれいさっぱり別れた方がよかった。
イエスの姿が変わる
17:12 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。
人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。
17:13 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。
(この三人は地球外からの飛来者である)
天の国でいちばん偉い者
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
18:2~3 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
18:6~8 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
18:9もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
The Greatest in the Kingdom of Heaven
18:1 At that time the disciples came to Jesus and asked, “Who, then, is the greatest in the kingdom of heaven?” He called a little child to him, and placed the child among them. And he said: “Truly I tell you, unless you change and become like little children,(考えを変えて過ぎ越しの犠牲の子のようにあなた達も生贄にならなければ、とも取れる) you will never enter the kingdom of heaven. Therefore, whoever takes the lowly position of this child is the greatest in the kingdom of heaven. And whoever welcomes one such child in my name welcomes me.
If anyone causes one of these little ones—those who believe in me—to stumble, it would be better for them to have a large millstone hung around their neck and to be drowned in the depths of the sea. Woe to the world because of the things that cause people to stumble! Such things must come, but woe to the person through whom they come! If your hand or your foot causes you to stumble, cut it off and throw it away. It is better for you to enter life maimed or crippled than to have two hands or two feet and be thrown into eternal fire. And if your eye causes you to stumble, gouge it out and throw it away. It is better for you to enter life with one eye than to have two eyes and be thrown into the fire of hell.”
(他の福音書で、偏見に捕らわれず子供のように私の言葉を素直に聞いて受け入れる者だけが天の国に入れる、今日にたとえれば高学歴を鼻にかけ私の言に疑いを持つような者は入れない、と言っている類似の個所があるが、実際に子供を連れてきて立たせることは単にたとえ話をするためではないだろう。英語で Woe toと表現するのは次の文にあるような余程のことだと思う)
The Worst Thing in the World of Men
At that time the disciples came to Jesus and asked, “Who then, is the worst in the world of men?” He called a little child to him, and placed the child among them. And he said, “Truly I tell you, unless you change and save little children, you will never enter the kingdom of heaven. Therefore, whoever takes the life of these children is the worst in the world of men. And whoever welcomes one such child in my name welcomes me.
If anyone causes one of these little ones—those who believe in me—to stumble, it would be better for them to have a large millstone hung around their neck and to be drowned in the depths of the sea. Woe to the world because of the things that cause people to stumble! Such things must come, but woe to the person through whom they come! If your hand or your foot causes you to stumble, cut it off and throw it away. It is better for you to enter life maimed or crippled than to have two hands or two feet and be thrown into eternal fire. And if your eye causes you to stumble, gouge it out and throw it away. It is better for you to enter life with one eye than to have two eyes and be thrown into the fire of hell.
(海に沈められ、手足を切り捨て、目玉をくり抜くに値するほどの、してはならない重罪とはこのことである。この件をユダヤ教徒は決してあからさまに書き残されたくはなかっただろう。Youtubeでアメリカ・イーストコーストのラビは今日でも20~30万の子供が犠牲になっていると言う。)
5:27 You’ve heard it said, ‘Do not commit adultery.’ But I tell you that everyone who looks at a married woman covetously has already committed adultery with her in his heart. If your right eye leads you to sin, then tear it out and throw it away, because it’s better to lose one of part of your body than to have the whole of your body thrown into hell. And if your right hand leads you to sin, then cut it off, and throw it away, because it’s better for you to lose one of your limbs than for your whole body to go into hell.
(捏造されたパロディー。悪魔はここを指して、男女とも右の手ですることが右の手を切り捨てなければならない重罪だと、聖書にちゃんと載っていると言う。)
金持ちの青年
19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
(私は永遠の命を与える立場の者ではない、それが出来るのは旧約の主お一人であるから律法を固く守って旧約の主に助命を嘆願するほかはあるまい、と答えている。)
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
19:20 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」
(十戒は守っています)
19:21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そしてわたしに従ってきなさい」。
(あなたはお金に執着せず、施しの善行をすれば完全になる、とは、人間にはパートナーが霊界にいて人間と同じことをするから、彼は持ち物がなくなれば困窮するだろう、ということを想定している。パートナーを露頭に迷わせる罠である。)
☆何があるか分からない人生が100年に近づいた現在この教えは必ずしも厳密に守られるべきではないだろう。先ず自分が人に頼らず生き抜くことが先決である。
先走ったことを書くことになるが、このブログを読み進める読者は日ユ同祖論即ちユダヤの霊団が日本に来たことに話が及ぶことを知るだろう。マタイの霊も日本に来て、彼は大和地方を中心とする旧約聖書組の悪霊グループには加わらなかったと思われる証拠がある。