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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

改宗後

改宗を決意してから修道のつもりでN市に一人で暮らし始め、半年後に洗礼を受けたのはもう66歳の時だった。教会からキリスト教人名辞典を借りて来て洗礼名を考えていると「サムエル」と声がした。調べてみるとサムエルはダビデ王時代の祭司で、子供の頃寝所で神が彼に呼び掛ける声を聞くエピソードが旧約サムエル記に出て来る。子を持たなかった母親が神に願って得た子供でそのお礼に彼を聖職につかせた。その母親の名前をハンナといい、私の母の実名ハナに似ている。出来過ぎた話のようだが事実である。納得してこの名に決めた。サムエルとは「神(の声)を聞く者」との意味であるとの説と「私は神」だとする説がある。歴史の初期にサマーエルという超感覚者が声を聞いて真理を悟ったと自惚れるが、ソフィアに「お前は間違っている」とたしなめられる神話がある(*註1)。

特異な変化は外国人の夢を見、身近にその存在を感じるようになったことだった。この記録は面白おかしい話題で受けを狙うのが目的ではないが、ある夜の夢に赤味がかった髪の外人の女がソファーに横臥して片膝を立て、前を広げて股間を露出している姿があった。美形といってもいい顔立ちをしているが冷たい表情で視線はじっと私に注がれていた。妙にはっきりとしたカラフルな夢で細部まで鮮やかに見えた。誰かが「リリスだ」と言った(*註2)

クリルタイは勿論全く前と同じではなくキリスト教と対立する立場の者はおのずから身を引いただろうが、即座に改編されたようには思えなかった。こんなに高齢の男性が改宗しても残る人生のイベントは死だけだから別段組み換えに急を要する理由はないのだろう。若い女性の場合はこれから妊娠する可能性があるので改編を急ぐ必要があるかも知れないけれど。

鼻つまみ的存在の「ある方」(*註3)は尚尊大で余計なことはいうなと仕切っていた。存在をずっと身近に感じていた女神がさすがに我慢出来なくて両者の間で争いがあったようで、彼女はその結果傷を負ったのではないか。しばらく気配がなかった

クリスチャンになったからといって急にキリスト教の霊が私の側に加担するものでもないだろう。それにキリスト教は歴史上好むと好まざるに拘わらず余りにも戦いが多すぎて厭戦の気分があるのかも知れない。それでも信者に対する改宗以降の評価と記録の仕方には著しい違い出るだろうし、聖書でイエスが「私の軛は軽い」と言ったようにクリルタイがやる仕事も違うだろう。改宗は何よりも最後の審判に良かれと期待してすることではある。

(ひとつだけ特記すべきことを思い出したので追加する。洗礼を受けて間もない夜、床に入って眠りに着こうとした私のそばを通って三人一組のチームが飛び立って行くのが見えた。瞬間的に、それがネゴシエーターとローヤーとアカウンタントであることを察知した。彼らは成人の姿ではないが意志的な信頼できるタイプの霊だった。過去の記録や負債などを確かめに行ったのだろう。)

私の心理にあの針の莚にいるような焦りがなくなったのは事実だった。もっと早く変わっていたら、多くの仲間が助かったかも知れないと今更ながら悔やまれた。

「ある方」の存在が感じられなくなったのは「不干斎ハビアン」で私があの結論に達した時からだった。何よりそのことを隠蔽したかったが、隠し切れなかったので結局は諦めたのだろう。然し私があの結論に達したのには、ハビアンの項では書かなかった以下の通りの大きな別の理由があった。ハビアンと相前後してマズダ教の入門書を読んでいた時「ゾロアスターはこの世が作られた目的を見定めた」という文章に出会った。その瞬間何故か封印された生前の別の記憶が甦った。「ムネモニックな人間」の項では書かなかったことで、それを思い出したとたん私は長い間吸わなかった煙草を買いにすっ飛んで行った。芥川の小説で悪魔は煙草を嫌がるという話を読んだ記憶があったから。何故書かなかったかも恐怖のせいである。

それは集合が解散しそれぞれ各自の行き先に向かう場面で、私一人が二人の係官に導かれるままに細い通路を通っていた。すると頭上高くから私を見ている者がいて、彼の口から「うまそうだ」と言う声が聞こえた。私は恐怖にかられ声の方に顔を向けられなかったが、その存在は大きくて明るく光輝いているのは分った。光の周囲に滝にかかる虹のような、もしくは特殊な光沢のある布が放つような光の帯が浮かんでいた。彼に対して係官が「これはいまから人間界に下りて行く者で、帰って来た者ではありません」とたしなめた。その存在は「わかっておる、わかっておる」と譲歩し、我々はそこを事なく通り過ぎた。しばらく進んでから係官の一人が「あの方は余りにも欲が強すぎる」とこぼし、もう一人は何も言わなかったが暗黙の同意を示した。ひとつ間違えば私はあそこで終わっていたかも知れない。

「おまえは欠けるところがない。知恵に満ち、美のかぎりである。おまえは神の国エデンにいた・・・おまえは油を注がれたケルブだ・・・わたしがそうしたのだ・・・おまえが創造された日からおまえの中に不正が発見されるまで、おまえのふるまいは完全だった・・・おまえの心は自分の美しさのために高ぶり、おまえは自分の才気のために知恵を腐敗させた。わたしはおまえを地面に投げる・・・わたしはおまえの中から火を出しその火におまえを焼き尽くさせる(エゼキエル28-12)」の不正とはカニバリズムだろう。(創世記の地上の楽園エデンと神の国エデンは違うだろう。)しかし彼はまだ燃え尽きてなぞいない。またダンテが「神曲」で描写したように冷たいコチートで鎖に繋がれてもいない。それどころかそのルシファーが大和の天空に居座っている。常々疑問なのだが、「とうりゃんせ」の歌は何を意味するのだろう。天神様の細道で「行きはよいよい帰りはこわい」とはあの係官が言ったことと同じではないか。

一人暮らしを始めて間もない頃、本か何かを見ていたと思う。前からいて安心できる女子の霊が後ろで覗いているのが何となく感じられた。突然誰かが来て、男の声で「エサだろう?」と彼女に言い、彼女の当惑が伝わった。男は私に霊の声を聞く特殊な感受性があることを知らなかったのだろう。聞いたばかりの時は一体何を言っているのかピンと来なかった。しばらく後で思ったのは「人間なんてみんな奴らのエサになるんだしこいつにも同じことが起こるだろう。そんなに親しみを持って情けをかけても先が見えているじゃないか」と言いたかったのではないか。映画ジュラシックパークで貪欲な古代肉食獣にエサとして切断した動物の肢体や胴体を投げ与えるその動物と同じ運命にある、と。(霊界にもジュラシックパークと呼ばれる場所があることはこの時知らなかった。)

きびしい緘口令が解かれてから余りにも無残な話が次々と出るは出るは、とても他人に詳細を聞かせてやる気がしない。亡くなった親戚や身内の運命も見定めたと思う。またそれと別に、すべてを鵜呑みにする訳にはいかないが私という人間が何者かという事についてもまさかと思うような新しい発見がある。

イエスは使徒には詳しく話したが民衆には譬えをもって話し「聞く耳のある者は聞け」と言ったと聖書に書かれている。それでもミサで信者が「わたしの血」であるワインを飲み「わたしの身体」であるパンを食べるよう言い残したのは、彼自身が犠牲となって刑死する事と、儀式で犠牲者の血ではなくワインを、身体ではなくパンを用いるよう言っている。パウロもエフェソスの信者に「光の子になりなさい。彼らユダヤ教祭司または教徒)は口では言えないようなことしている」(エフェソ5)と間接的な表現しかしていないが、共に過ぎ越しの祭りのことを言っているのではないか。果してキリスト教信者はもちろん教会の司教・司祭をふくめてどれだけの人間が聖餐の隠された意味に気付いているだろうか。

仏教のことをあちら側では根本教と呼んでいる。彼・彼女ら仏教配下の監視者は信徒の性(セックス)に関するあらゆる事柄を細大漏らさず記録して最大限誹謗し、もし見当らなければさらに精度を上げて調査して信者を面目なからしめる。自慰も大罪扱いされる。食についてのデータも積み重ねていて死後の審判でサプライズがある。 本来の教えでは、苦の娑婆を離れて争いや憎しみあう関係を絶ち、心を虚しくしていかに食と性の基本的欲求を克服するかを重視し、結果的に他人の悪意や侵害を受けず欲望の誘惑から去って清浄さを保った例外的な少数者だけが成仏して救済に与り地獄を遁れる。しかし現代人がこのテストにパスする訳がない。「呪われた者共、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意された永遠の火に入れ」と諸国民の審判(マタイ25)にある通り、地獄に待ち受けているのは死者を食うデモンとその手下と餌食になる死者である。だから助かるためにはむごい仕事を我慢してでも手下になるという選択もある。

(*註1)霊界の声はしばしば嘘だらけである。歪曲された想像神話で悪魔とされるのだから本来の楽園の主ではないか。
(*註2)偽リリス。本物のリリスは慈愛に満ちた女性霊らしい。
(*註3)「インノケンチウス」と呼ばれる。