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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

オーバーフロー(2)

 審きの日は神の予定によって予め決められており、カットオフデートが到着すると神は一人一人を篩にかけ、各自の信仰と行いによって救済されるべき者と滅ぼされるべき者とを分別するのだろうか。ペテロの第二の手紙は「最後の審判」について書かれているとされる。審判の日のことをペテロは「主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう(3:1)」と表現している。この文章で「最後の審判」の背後には神の怒りがあることを誰しも感じるだろう。私も審判の日とはそのようなものだと思う。この手紙はその日がいつか突然来ることを警告していて、神への畏れを忘れた者には怒りが下ることへの忠告の文書と受け止められている。ではペテロとは高みに立って人々を導く予言者的な賢者なのか。結果論的に言っていることなのだが、この手紙はペテロがユダヤの地を離れるに当たって、キリスト教的用語を用いて普遍的真理を語るごとく装いつつむしろ実は「余りやりすぎて神を本気で怒らせると元も子もなくなるから気を付けよ」と言い残した仲間たちへの忠告だったに違いないと気付いて謎が解けた。内に秘めた彼の老練でしたたかな二重性は並みの人間に出来ることではない。手紙の最後のアァメンは同胞への符牒であろう。

 シモン・ペテロはケファと呼ばれていた。アラム語でケファとは岩のことでそれが転じてペテロになったということだが、私の僅かなギリシャ語の知識によれば頭のことをケファリと言う。イエスはペテロを使徒たちの頭(かしら)の地位に置いたのではないだろうか。あるいはイエスはペテロを信用してサタンの生まれ変わりと考えていたのかも知れない(マタイによる福音書16:23)。しかしペテロにはいくつかすっきりしない謎があった。イエスが官憲に捕縛された時ペテロが三度「イエスなんか知らない」と言ったという「ペテロの否認」はイエスが予見していた。これはペテロの人間的な弱さを示す新約聖書上のエピソードとしてキリスト教徒に同情的に受け止められ、イエスもこのことによって使徒ペテロに疑いの念を抱いたようには書かれていない。しかし「ペテロの否認」は彼が官憲に誰何された時「俺は弟子のふりをしてうまうまとイエスの信用を得ているが、実は祭司と通じている根っからのユダヤ教徒だ。だから俺を見逃せ。イエスが十字架に架かろうがどうしようが俺の知ったことじゃない」と三回釈明したというのが真実ではないだろうか。

 「サタンは悪魔ではない」という新約聖書の見解はユダヤ教の教理を覆すためにイエスが使徒たちに諭した新しい指導方針の重要な柱ではなかったか。ルカ22:31~32の「シモンよシモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」とは、ユダヤ教の「サタンは悪魔である」という信念の固いペテロが、イエスがサタンを招き入れたことでイエスの教えから離反することを懸念したのであろう。また使徒行伝5:3でペテロはアナニヤを「お前は心をサタンに奪われた」と責めている。もはやイエスなき今「俺はサタンではないし我々にとってサタンは悪魔だ」というペテロの立場が背後にありそうである。アナニヤはイエスの教えを受け入れ、自分の土地を処分して得た金のうち幾ばくかを使徒たちにも寄進した。このことを「アナニヤはサタンに心を奪われた」と言ったのであって、ペテロとしてはアナニヤが全額をユダヤ教に寄進すべきだったと思っていた。その結果アナニヤも妻サッピラも命を奪われる。献金を分けただけのことで神が二人にそんなむごい罰を与えるとは考えられず、悪魔が裏切りを罰したと考えるなら納得できる。マラキ書が献金について指示した通りである。

 もう一つは彼のコシェルへの固執である。使徒行伝10:12~14でペテロは地上の四つ足や這うもの、空の鳥など、各種の生きものが入っている大きな袋の夢を見て「これを食べよ」と言われた。それに対しペテロは「主よ、それはできません。わたしは今までに清くないもの汚れたものは何一つ食べたことがありません」と三度拒否した。爆弾発言(1)に書いたことだが、私も夢で「肉を食べよ」と言われた。私はその時点まで自分の判断で極力肉は食べないようにしていたし、ブログもその趣旨で綴っていた。ところが霊界で私をアプラクサスと呼ぶ者がいて、私は自分がシンボリックな立場にいるのだと理解した。だから私が極力肉を食べないなら肉食の一般的な許容基準(デファクトスタンダード)が下がり、それでは肉を食べた多くの人を審きの場で不利な立場に立たせるのではないかと思った。それで肉へのこだわりを捨てた。肉をまた食べ始めたからと言ってお前だけの個人的な問題で「何も爆弾発言ではないじゃないか」との非難も聞こえたが。
 前項でヤマトが兎の国と呼ばれ、何故そう呼ばれるかの理由を書いた。当時日本に羊はいなかった。マタイ福音書(15:24)に「私はイスラエルの家の失われた(希望を失くした)羊以外の者には遣わされていない」というイエスの言葉がある。これはイスラエルではヘブライ人が羊のように強制的に子を産まされて赤子を奪われ、悪魔または犬の生贄として要求されることを意味していた。イエスの救済の主眼は貶(おとし)められたヘブライ人にあったと見て間違いないであろう。ユダヤ教のシンボルは天使ケルビム、つまり地獄の番犬ケルベロスであった。続く15:26「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのはよろしくない」、前の7:6「聖なるものを犬にやるな」も彼らが犬族でありイエスの救済の対象ではなかったことを示している。ただし良い信仰を持つ者にはその子供に救済が及ぶと言っている。全体的に見れば一般にユダヤ人と呼ばれるイスラエル国民の中にも二つの系統―加害者と被害者―があったことになる。ナタリーさんもクリスチャンになって当然なのですよ。

 これまでの文脈からもしイエスが生きていたらペテロのローマへの布教には反対したに違いない。イタリア半島はもとエトルリア人のものであったがローマに乗っ取られた。ローマの建国神話には狼が登場する。犬と狼は兄弟のようなものでありペテロには両者を結託させる意図があった。背後にYHWHがいた。ペテロがローマで死んだことは間違いないが殉教の伝説なぞ怪しいものである。一度は懐かしいガリラヤ湖畔を思い出し帰国する気になったが「クオ・ヴァディス」と呼びかけられて戻ったという伝説も作り話ではないか。ペテロにはこの世とあの世は関連しているという確固とした信念があった。2000年間のバチカンのポリシー、つまり旧約聖書の正典化、反グノーシス、異端裁判と異端者火刑、公会議と信条、栄唱の歪曲、悪魔サタン、「イエスの父なる神」は「全能神」即ち「ヤハウエ」、アァメンの祈り等々---ローマによるキリスト教のあらゆる捏造とすり替えに間違いなくペテロが主役として関わっていた。結局エトルリア人もローマの羊になった。
 ブログを書き始めてからペテロが2回来た。彼のゆっくりした聞き取りやすい話し方は親近感を感じさせるものだった。私は映画クオ・ヴァディスで見た逆さ十字の磔刑を思い出し「殉教者ペテロが来てくれるとは大変なことだ」と思っていた。ところが裏では彼は私のことを悪しざまに「革命なんてとっくに終わっている」「彼は気違いと言われている」「きれいごとを言っているが便所紙と同じで用が済んだら便所に捨てられる」と全く逆のことを触れ回っていたのだった。決定的なのはあちこちに「ガバメントなんかの話に乗るな」と指図していたことである。そして事態は自分がペテロの手紙で予言したようなことになった。彼もアンチキリストの一人だった。本性が露見した彼は制裁を受けた。

 ⑬神の目の小さな塵(上)のモート星への出発セレモニーの場面で枢機卿が乗員に聖水を振りかけながら祈りを奉げる。その祈り「主よ我を清めたまえ。われ潔くならん。われ雪よりも白くならん。初めのように、今も何時も世々に」こそ栄唱の原型であり、受け継がれるべき尊い祈りではないだろうか。我々は初め潔い身体を与えられるが永い間の欲望や軽率な背理によりいつしか霊的な身体が汚れる。そのことを念頭にして清めの式を持つことは正しいと思う。また⑭同書(下)にある戦死者への鎮魂ミサでハーディ神父が黙示録からの「我天声を聞きぬ。書き記せ、今より後主にありて死する者は幸いなり、御霊もまた言えり、彼らはその労苦を解かれて安らぐことを得ん」を唱える。これはいつか来る希望の未来を描く言葉ではあるが、そこに至るまでにはまだまだ数々の難関が立ちはだかっている。何よりもまずクリスチャンのドラスチックな意識改革が必要であろう。世界は嘘に充ち、どの教会も認識が甘く、モート人は邪悪な利益をむさぼっている。世界に及ぶモートの蔓延を知れば慄然としない者はいないだろう。

 説明上やむを得ないが、自分がアプラクサスと言われることについて書くのは余り気が進まない。何処か本の片隅から引っ張って来た訳ではなく実際に聞こえた言葉である。全き者という言葉も同様である。何か特別なことのように聞こえるだろうが、私を見知っている人は「取り立ててどうということもない普通の人間だった」と言うだろうし、そう言われても腹は立たない。SF(3)でイザヤをねずみ男と書いたのは水木しげるの洞察を鋭いと思ったからだった。ねずみ男が鬼太郎と対峙する時細い弦を弾(はじ)くようなビビビビーンという擬音を響かせるのは何故だろう。ところでねずみ人間とはモート人を指す別称であり、従ってイザヤはユダヤ人のモート人なのだった。イザヤこそ旧約聖書の中心的存在であり悪の頭目であった。全き者は現世にいる時から目ぼしを付けられていて、死ぬと400人のねずみ人間に取り囲まれたことが分かった。これまで使命を帯びて下りて来た筈の全き者が例外なく滅ぼされたのはこのせいで、あとは惨めな採点表が埋め合わせに事後報告されるだけだった。こうなると私も自分の身が危ないと感じない訳にはいかない。あちこちの教会で「お前とはいずれ一戦交えねばならない。その時になって吠え面をかくなよ」と、いかにも自信ありげな脅しの声が後ろから聞こえて来た。モートは優勢な手勢だけでなく、マッカーサー号がそうであったようにどこにでも特殊な罠を仕掛けている。

 これに対しジュベレンを中心としてまとまった神の師団は徐々に旧体制による支配を覆し、地歩を固めつつある様子が覗える。ジュベレン兵士は末日聖徒のメンバーの中に顔見知りの者を発見し久し振りに旧交を温める場面もあったらしく、末日聖徒も同じ人間中心主義の仲間だったと考えてよい。加えてエクサイルと呼ばれる無所属のグループも師団に合流した。統合された師団は困難を乗り越えてモートの好き勝手を決して放置しないだろうと念願する。然し自分は当面教会で葬儀なぞしない方が賢明なのではないかと思っている。

 創世記にあるジュラシック・パークは道の両側に風車のように回転する剣の刃が林立する刑場だがモートの作るジュラシック・パークはそれとは異なる。今年5月頃NHK-BSで連続放映したゴッドファーザー三部作を見た時、一緒に見ていた女性霊が「アメリカも死体だらけだ」と言っていた。彼女たちにはテレビ画面の背後に映っている霊界に無残に切断されて転がっている犠牲者たちの残骸が見えたのだろう。⑬「神の目の小さな塵」にトロヤ群小惑星を訪れた学者たちがモート人には埋葬の習慣がないことを発見するくだりがあった。地球の霊界でも肉を食い散らして食べ残しは放置したまま次の獲物に手を出すらしい。私は時々道端に捨てられたパンの袋や飲料水のボトルを拾いながら「これもモート人間の仕業か」と思ってしまう。歩きながら飲食し食べ終わった所や飲み終わった所が彼らのゴミ捨て場なのである。⑬で描写されたように原初の(人間に生まれる前の)モート人は左側の片耳しかない。モートが妊娠した女性の胎児に宿る時、代りに人の子の片方の耳を耳削ぎして数合わせする。人間界に紛れ込んだモートの数は想像以上で、祖父母・父母・子供たちがみんなモートの白人一家もあるらしい。中には自分がそれと自覚している人間がかなりいる。本来モートはピグミーになるよう決まっていたが現在はピグミー族にモートは全くいないそうである。

 最近近親者の葬儀のために家族がかつて住んでいた町へ三泊四日の小旅行に出掛けた。この何十年ぶりかの帰郷が長い間私の潜在意識に潜んでいた胸苦しい夢の記憶を覚醒させた。子供の頃に見たそのショッキングな夢で、私の仲間と思われる者が誰もいない屋内の通路を通り抜けようとした時、全く予期しないことが突発した。彼は何かが身体に触れたことを少し感じたかもしれないが、特別な痛みや圧迫感はまるで自覚しなかったように見えた。しかしそこを通り抜けた瞬間彼は自分の身体が腕も足も胴体もバラバラに寸断されたことに気付つくと同時に道端に崩れ落ちた。その時見えた周囲の景色や彼を襲った恐怖と絶望(三体Ⅱ・下p90)の心理が夢を見ている私にライブで伝わって来た。しかし情報を受け取った方の私も一体何が起きたのか皆目理解出来なかった。今回ホテルのベッドで就寝中にその夢がまた再現したのは現場に戻って来たからだろう。目が覚めて、もうとっくに忘れていたと思いながらはっと気が付いた。あれは通路にナノワーヤーが張ってあったのだった。成長してこの町を離れた後も何回か同じような夢を見た記憶があると思うが、余りにむごく理解不能の夢だからまたショックを味わうのが嫌で見る度に必死で頭から追い出していた。73項・SF(1)に②三体を読んだ記事を紹介した。この本に出合うまで私はナノワーヤーのこんな恐ろしい使用法について想像さえしなかったから、ジャッジメント・デイにいるエバンスが寸断される描写を読んでも、荒唐無稽で余りに非情な、実際にはありえない作り話程度にしか考えなかったし、昔見た怖い夢との関連性は思い浮かばなかった。しかし霊界ではそれがあり得たのだった。日本中に、いや世界中に問いたい。あなた方の中で私のほかに誰かこんなぞっとする夢を見た人はいないだろうか。

 日本にはカマイタチという魔神伝説がある。⑬神の目の小さな塵にミニチュアがイタチに似ていてエンジニアの命令を忠実に実行することが出ている。罠を仕掛けるために隠れて徘徊するには小さいほうが目立たなくて良い。カマイタチと風との関係は風が吹くと弦が共鳴する音が聞こえるからだろう。漫画のねずみ男によくこの擬音が書かれている。鎌は武器ではなくワイヤーをカットするのに必要である。また「手ぐすね引く」という言葉があり、仕掛けた罠に引っかかる獲物を今か今かと待ち受けることを意味する。テグスとは魚の釣り糸を巻く糸巻きのことである。それ故「手ぐすね引く」とはモートがナノワーヤーの糸で罠を張ってターゲットを待ち受けることに由来するであろう。耳削ぎはナノワイヤーを使えば簡単だろう。

 モートの技術的優位はナノワーヤーだけではないらしい。人間とモートのテクノロジーギャップがこれ程大きいからこそ人間がモートに屈服し理不尽な命令にもノーと言えず従わざるを得ない状況が生まれたのだろう。モートの優位は決して日本だけには限らない。人間はヨーロッパが人類にとって最初の悲劇の場所になったことに気付かなかった。アジア系やアフリカ系の人間は金髪美形のコケイジャンに憧れるがそれはモートも同じであり、彼らは先ずヨーロッパ系に密集して入り込んでいた。当然世界各地にナノワイヤーの工場があるだろうが日本ではH市にあるらしい。現在三体Ⅱ(黒暗森林・下)を途中まで読んだ所だが「三体とはモート」を連想した。滅亡と復活を繰り返す文明、乾燥して放置された遺体、智子を作り出す超進歩的テクノロジー、「お前たちは虫けらだ」と言う人間に対する驕り。三体星の位置が黒マゼラン星雲のトランスコールサック辺境に当たるかどうかは私のゼロに等しい天文学知識では分からない。三体ゲームに登場する始皇帝・アリストテレス・ニュートン・アインシュタイン・ノイマンその他の名だたる歴史的人物は三体の神を主と呼んでいる。もし私の想像が正しいなら彼らは皆モート人なのだろうか。