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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

歴史

 話が遡るが、イエスの父なる神はエホバを指すのかどうかで、私はそうではない見解で書いて来た。私の立場は宗教家や神学者の基本的常識への、身の程知らずの挑戦になるのだろうか。聖書は矛盾を抱えている。文章を二次元的にとらえて時系列でなぞっているだけでは真実に届かない。正面から見た形がアングルを変えて横から見ると全く別の物が現れるトリッキーな彫刻がある。今ある角度が真相を伝えるとは限らないし、逆にそれが意図的に真実から注意を逸らす狙いの場合もあるだろう。私は自分の視座をどこに置くべきだろうか。

 普通親は子の試みの成功を願い挫折を悲しむもの。旧約の徒は自分の罪の償いとして神に供物をささげた。
然し自身へのよき贖いの供物として、道半ばに十字架に吊るされたわが子(イエス)の死体をよろこんで受け入れ、その替わりに人類の罪への許しの恩恵を与える父(なる神)などというものがありえるだろうか。父に逆らった憎い我が子ならいざ知らず。キリストの贖いによって神は人類を罪から救った、我々は罪を問われない、などと安直に説く神父を信頼して告解する気にはなれない。それに罪というものは落ち葉や川砂と同じで、一度清めても放置すればまた堆積するものだ。

 主の祈りに「み心が天に行われるように地にも行われますように」とあるように、行為の人であるイエスはイスラエルのReformationを試みたのではないか。それは神政政治の時代にあって、国家信仰の対象と方法を取り替えることであった。守旧勢力の抵抗は避け難い。従来の信仰を守るべきか新しい信仰を取り入れるべきか、家庭でも市中でも対立が発生するだろう。だからイエスは、「私はむしろ争いをもたらすために来た」と、また自分より前に改革を唱える者がいて「もう既に火の手が上がっていたらどんなに良かっただろう」と言った
ユダヤ人でなければ病の治療を拒むほどにイスラエルを愛したイエスであったが、イスラエルはイエスを拒絶した。12使徒はイスラエル12部族の新たな宗教的指導者になるはずであった。もしイスラエルがイエスを受け入れていたら、どのような国が地上に出来ていたか見てみたかった。

 クセジュ文庫「悪魔の文化史」で、神々の承認が出揃う前にエホバが「そんな議論をしてももう人類は出来てしまっていますよ」と独断で人類を誕生させたという神話を紹介している。かくて人間の胎児に記憶を抹消された霊を埋め込み、霊と肉が成育し、十分に成長した霊を肉体の死後収穫するシステムが出来上がった。ピテカントロプス・エレクトス以来人類は産めよ増やせよと繁殖して彼らの食用に供された。
ジャック・アタリは「カニバリズムの秩序」(この難解な本を私は十分に理解した訳ではない)で、“最初の神々とは特権的な摂食者でありカニバリズムの激戦の勝利者(つまり悪魔)に他ならない”と定義している。人類はその属する宗教のカニバリズムの犠牲者だった。そしてやっと2000年前に人類救済の宗教を起したのがイエスだった。アタリはホスチアについて驚くべき意味付けをしている。聖餐は単にパンとワインを食べるだけの儀式であるが、「それによってこれまでの神々の秩序を覆した」。つまりキリスト教以前は神々が人間を食べる側だったがこれ以後人間が神(の子イエスの血と肉)を食べる側になった。アタリの視点は角度を転換して鋭く恐ろしい。

 旧約聖書によれば神は家畜の世話をさせるために人類を作ったとされる。牛や羊や家禽を創ってもそれが野獣に襲われ安全な餌場を与えられなければ成長しないし繁殖しない。人類は自分のために牧場を柵で守り品種改良し餌を与えて家畜を殖やしたが、それは同時に神々に供することにもなった。それぞれの家畜にも霊的な等価物があるから。人間の家畜の飼育が軌道に乗ってから旧約の主エホバもまた彼の同志もカニバリズムを止めただろうか。もし止めたなら人間と同等の地位で王となればよかった。エホバは止めなかったし逆に悪魔の仲間を増やしたのではないだろうか。エホバを神の別称とし、それを「悪魔は神の公認の下に悪を行った」と見る見方もある。悪魔は人間に味を占めていた。人間ほど良い種から生まれ良い餌で育ったものはいない。
 自然の悪の最大のものである死は悪魔が管理していた(サタン:初期キリスト教の伝統、JBラッセル)が、イエスは天の神々の支援を得て自分の信者は自分が管理するためにキリスト教を起こした。釈迦がインドで仏教を始めた頃、新興の仏教の軍勢は達成度の高い修業者を旧勢力に対して例外として認めさせるだけの対抗力があった。正法の間はそれが機能していたが、像法以降は次第に弱体化した。途中からデーモンが敵方に加わる。インドを撤退した仏教は崑崙山脈に依拠してしばらく東方に勢力を保っていた。
 霊界は決して一定不変の世界ではない。否むしろ力と力の戦いによる激しい変化の世界である。仏教が日本に伝わった頃、既にインドの悪に馴化されて実態は仏典に書かれた元来の理想とは乖離していた。仏教の招来に功績のあったある大師は死後「我々は騙された」と嘆いた。カニバリズムに汚染されて変質し、ほぼ時効になっていた仏典は優れた隠れ蓑として利用されただけだった。今や合格札を取り外して歩く仏。日本の現状にラダックの子は怖れ慄いて逃げ帰った。

 キリスト教には大きく分けてカトリック・ギリシャ正教・新教・コプト正教があり、新教はさらに分化し一体全部でいくつ宗派があるか神様さえ知らないそうである。たどるルートは異なるが少なくとも経典と目的地は同じという共通項がある。カトリックが露骨に異端を排除したほどではないが他派も自分が最も正しいとの見地に立つ。他方仏教の宗派は増築に増築を重ねた香港の九龍城のような全体像をなしている。仏教徒だった私をクリルタイが馬鹿にして毎晩々悩まされていた頃、華厳教の少年だけは肩を持ってくれた。達磨大師はそれまでの仏教を全否定し、寺を建て経を唱え供養しても功徳は全く無いと説く禅の開祖となった。挙句に臨済宗は仏や祖師に出逢っても父母や親族に出逢ってもただちに殺せと唱え、すでに引き渡された先達も父母も親族も悪意に満ちた仏教の手先であり救いの手段ではないと否定する。救いを妨げる原因として豊穣な中国の肉食文化に着眼して生まれた精進料理は日常的に食の罪を犯さないための実践的な自助の教えであるが、このごろはお盆の時期でも蔑(ないがしろ)にされ俗界で浸透するには至らない。分りやすく説こうとした釈迦の説法とは逆に、我々素人には禅問答なんて無防備な者に足払いを掛けるわざにしか感じられない。達磨の炯眼に光明を見出し禅宗に希望を託したいが禅宗で葬儀した私の岳父は駄目だったと聞いた。救われなくて当然な理由が岳父にあったのか?頑固で人付き合いは良くなかったが酒も美食も女遊びも賭け事も無縁の人だった。自力本願とは換言すれば如何に仏教圏から脱出するかである。「脱出ばかり考えているから殺した」とはしばしば管理者が餓鬼道や死者の霊に対する殺人を正当化するエクスキュースである。たとえ外国に逃げても我々には世界的な追跡のネットワークがあるとうそぶく。

 三十三間堂の無限の観音像は圧巻である。仏教で東西南北に浄土がありその主がいるが、真言宗は天上の浄土を説く。神仏習合では大日如来はアマテラスとされ、アジアでは天上界はデーバの世界であり、肉体という鎧を脱いだ裸の霊がそこへ行くことは自殺行為にしか思えない。その上閻魔様が待つ地獄がある。理趣経は釈迦が説いた欲望否定の修業コースによる救済とは掌を反したような現世肯定で、結局無駄な考えや努力は不要ということか。19.実名の項で書いた昔の友人T君が「我々は死んだら食われる」と言う訳である。人生というものはただ旧来の教えに従うばかりで言い掛りを付けられないよう逃げの一手だけでは決して評価されないし人間の進歩にも寄与しない、性的なことも含めて人生があるのだ、という風に、理趣経に対する肯定的な解釈も出来るが、受け入れる気はしない。肉食や女色をひたすら断って精一杯ご清潔な晩年を心がけている今の私が言われていることなのだが、私を担ぎ上げて意外にも「お前自身がデファクト・スタンダードなのだ、もっと勝手にふるまっていい」という誘いがある。
 つまり仏教にはあらゆる道具立てがそろっている。内部矛盾をも抱え込んだ膨大な数の難解な経文、見事な菩薩・如来の偶像、壮大な建築物、想定された上下左右の空間。私に向かって発される言葉も様々で、中にはこき下ろしもあれば褒め言葉もある。「お前は誤解している、法華経こそ救いだ」「汝は不空自在菩薩」とも言うし「アノマリーには特別ルール。涅槃で思い知らせてやる」とも言う。しかし飛び交っている言葉の基本は煎じ詰めればただ一言、「本当のことを言うな」である。背後に、言えば恐ろしい報復が待ち受ける恫喝の世界がある。

「カニバリズムの秩序」は人間を食べる太陽女王(ダム・ソレイユ)、邪教の太陽神ニムロドの母セミラミス等を紹介しているがアマテラスもそのバリエーションの一つか。セミラミスは光り輝く女神であると聞いたから邪教とはエホバを中心に置いた定義かも知れない。JBラッセルの「悪魔」によればナムチ(飽くなき追求者)はインドのアスラ族。オオナムチとも大黒様とも呼ばれる出雲の神(別名も多い)はどうか。例によって私の知らない事は誰も喋らない。

 私がヘブルの勾玉のことを書いたあとで、枕元にやって来て「あれを読んで人望厚いレビ族の顔色が変わったぞ」と非難する声があった。レビ族のことは知らなかった。しかしその前に改宗直後「私は○○○○族だからあなた達とは違う」と私をサポートしなかったユダヤの少年がいた。片や、革命にはハスモン家が参加していたらしい。このように、神社仏閣と言っても様々だしユダヤと言っても一様に括る訳には行かない。物事は常に複雑で、「すべての不幸の原因はユダヤ人でありユダヤ人抹殺は問題の最終的解決である」などという単純で分りやすいスローガンは危険である。

 言い出した本人がカニバリズムのようないやな問題には余り深入りしたくないと言うと反感を買うだろうか。色々な本が出ているようだしネットでもこのテーマに多数ヒットする。アタリの本は表題と違って過去・現在・未来の「悪」の問題に取り組む人間史に変わって行く。豊富な歴史の引用に圧倒されるが東洋については手薄いのではないだろうか。漢字の発明が歴史に及ぼしたインパクトについてNHKが作った番組に、羌(きょう)という古代中国の人身御供の犠牲者の話があったし、インドにも多分事例があると思われるが言及されていない。しかし西洋人が15世紀新大陸で見たカニバリズムの多数の実例の報告にはたまげてしまう。メキシコでの捕虜に対するアステカの生贄の殺人と食用のための死体処理の記述はこの文明のフィナーレの姿ではないだろうか。

「悪魔」(JBラッセル)の中のヘシオドス作「デウカリオン」。ゼウスがアルカディア王のもとへ来ると王は来客が自称している通りの存在か疑惑を覚え、客の全知識を試そうとして赤ん坊の内臓を混ぜた肉料理を出す。ゼウスは料理に口をつけて直ちに行われた事を悟り、罰として洪水を送る。すべての陸地が水に覆われデウカリオン一人が生き残る。この物語はノアの洪水を想起させる。旧約聖書によれば人間が悪を行ったために神は怒って大洪水を起しノアの家族と彼が捕えた生き物だけが生き残る。二つの話を重ねると、人間が行った滅ぼされる程の悪事とは人肉食である。マヤ文明は忽然と姿を消したとされるがプリオンだけが原因ではないだろう。神が霊を送らなければ胎児はアボートする。

 以上のような背景を考えると霊界でカニバリズムはずっと身近なことかも知れない。私がこのことを問題意識し始めた頃、少年が来て「なぜ悪いんだ」と文句を言った。ちゃんと高いお金を払ったと言いたかったのだろう。多分このHPはどこまで霊界について人間の知識が進んだかのメルクマールである。ある作家がキリスト教に関する本の中で、鎌倉の神社の年賀の参拝客に対して牧師が「キリストは永遠の命を与えて下さいます」と呼びかけているのを見て笑ってしまったと書いていた。それで「貴殿は仏教徒でしょうか。私は不干斎ハビアンを読んでこんな結論に達しました」と、不干斎ハビアンの原稿をプリントして本の出版社気付で作家宛てに送った。その時のインパクトを「水鉄砲を掛けられた程度だ」と言われたが私がこのHPを始めてから様子が違って来た。すこし前仏教の子が「贅沢をするんじゃなかった」と嘆いていたのには情けなくて言葉がなかった。支配的な宗教は金持ちである。人肉ビジネスは利益があがる。地獄の沙汰も金次第である。15.闇の奥の冒頭に書いたような、助けるか殺すかの身代金収入もある。借金なしの人生の私に対しても「莫大な借金を押し付けろ」と上から指令があったそうである。「この借金とこの借金をアマルガムしよう」などと話している声が聞こえたことがあった。死後の大きな不安の一つである。金がある者は不承不承その借金を払うだろうが、血だらけの服を着た少年が来て借金を払えない者が争いになったと言っていた。多くの魂の長いサイクルがこの国で終焉する。何という不幸!どうして放置出来ようか。このスキームに協力していたユダヤの一派は宝石を買い込んでいた。革命が起きた時「マネーゲームが始まった」という声が上った。権力を失う者の株は下がり、新たに権力に付く者の株は上がる。私がかつて株を買ったことに対して(結局損して塩漬けだが)投機に手を出したと人物評価のマイナス要因にあげているが、人間の株はそちらの株と決して同じではな~い。

 私はラッセルを度々引用しているが彼の視点はどれだけ信頼が置けるのか。彼は「サタンは絶えず誘惑し悪をそそのかす。そして罪を犯すものはすべて自動的にサタンの権力下に入る(ラッセル同書)」と言っている。降りて来たばかりの子供たちにゼウスに出されたと同じおいしそうな「肉ニラ炒め」を奨め、警戒すると「食わず嫌いは良くない」と無理強いする。深く考えないで「後で後悔する」という忠告を無視して手を出す者もいる。ある者は身体に不気味な変化が表れる。バンパイア化は冗談ではなく霊界の大問題だと言える。悪い企みを持った者が神父に寿司を食べさせその美味いマグロ(実はマグロではない)がもとでバンパイアになったという話がある。「サタン」(JBラッセル)に乗っている、オリゲネスが「腐敗してふくれあがり腫れものが化膿して口を開くまで罪に罪を重ねる人間がいる」という言葉で表現しているのはアンドレイ・ロマノビッチ・チカチーロのような者をいうのであろう。そのような者はあちらでゾンビ化するので無罪放免出来ない。私は肉食主義も警戒している。