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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

SF (3)

 これは世間様に一風変わったブログと受け止められているらしいが、多分前項に書いたこと、特にビットボーイや煙草の煙に潜む微小ファイターの件にビジターは呆れたことだろう。一度も口外したことはないし書くチャンスもないと思っていた。それはいいとして、アッタンについて詰めが甘かったと反省した。

⑩内なる宇宙・下でジェヴェックスのマシン本体はジュヴェレンではなく惑星アッタンにあったんで(シャレではない)光軸教の教主ユーペリアスはアッタンのコントロールセンターで指揮していた。その以前シバンにあったコンピューター・オフィスはすべてハリボテで見せかけだけの書割りだったことがJPCによって発かれていた(物語の筋とは関係ないと思ったので引用しなかった)。ニューロカプラーでジェヴェックスに入り浸るアディクトたちは通信衛星を通じてアッタンと繋がっていた訳である。つまり堕落の思想の根源はアッタンである。⑨でシローヒンが「アヤルタたちは例外なく大人になってから(当然成人未満のよい子は使用禁止されていただろう)突然神懸かりし、自分は霊感を受けて導者になったなどと言い出す。昔はそのようなことはなかったし、そういう現象が発生したのはジェヴェックスが出来てからだ」と言うのも、アッタンが邪教の出所だったと見るべき証拠だと思われる。動機からして神懸かりした連中はマスターのような所詮どうかと思うような手合いだろう。ユーペリアスはエセンダー(どういうスペルか知らないが英語にこれと似た単語があるのだろうか)という尊称で呼ばれていたという記述がある。日本語の似非(エセ)は偽物を意味する。
星の語源がホスという動詞だということになると「干す」くらいしか思い浮かばない。しかし「干す」という動詞は「会社員が干される」とか「スポーツ選手が干される」とか、誰かに見捨てられることを指す。つまりかつては活用されていたが今は無用なものだということを意味する。星とは動詞の「干す」が語源で昔誰かが住んでいた場所だが今は住民がいなくなった(しかし霊はいる)と見るのは妥当かも知れない。現在地球にもアッタン人が来ているのである。以下は推測であるが宗教というもののパターンを表しているのではないか。
アッタン人ありし頃死後の世界にレイヤーがあって、後ろ指を指されるようなことはしていない者だけは最上階の層(ハイぺリア)に行って幸福に暮らし、ひどいことをした者は地獄に堕ちて悪魔の責め苦を受け、その他は中間の層すなわち煉獄に行った。それに誰かが気付いて、現世とは振り分けの場所であり最上階に行けば幸せが得られるから行いを正せと説く者が現れた。それが螺階教の原型でその限りでは正しかった。しかし長い時間を経て霊界も入り乱れ闇が訪れた。ところがある場所には光がさして恵みが齎されていることが判り、それを新しいハイぺリアだと唱えるものが現れて、光軸教の原型が生まれた。それもまた正しかったと言えるだろう。その星もまた環境条件が悪化して生き物が住めなくなり、挙句に霊界で善悪のグループは対立して戦ったが結局アッタンという星では悪が勝利した(もしくは善はすべて別の星に去っていなくなった)のだろう。ハントすなわちホーガンの言う「ジュヴェレン人が地球に齎した迷信」はそんなアッタンの悪霊たちがジェヴェックスを通してジュヴェレン人に吹き込んだ宗教だった。オームがヘッドギアを付けていたのもニューロカプラーを真似たのだろう。ホーガンがそれと意識せずに書いた作品が悪のルーツを発いていたのである。
キリスト教がイエスを神の子として救済の福音を伝えても、紫衣のグループが「宗教なんてみんな騙し合いだった。我々の宗教だけが由緒ある教えでキリスト教の神を信じてはいけない」と唆(そそのか)したとすれば、ジーナが言うようにその言葉が正しいと信じたキリスト教のグループもあったと考えられる。「自分の身さえ救うことのできなかったイエスが他人のために何をしてくれようか」と公言したと言われるボニファティウス8世もその一人ではないだろうか。それでもキリスト教があっただけ地球には恩恵が齎らされたと言われている。仏教に関係している某氏が最近「仏教はみんな案山子だ」と言ったらしいが、本人が声を挙げてくれるとは期待出来ないだろう。
生半可な知識だけで迂闊に喋るべきではないだろうが、ホーガンの身になってみればウエスレー当たりが妥当な選択だったと言えないだろうか。先月(2020年4月)末NHK-BSで「エリザベスとメアリー」という番組を夜半に再放送していて見入ってしまった。立場によって議論の分かれるテーマであり双方に言い分はあるだろう。ケイト・ブランシェットが主役を演じた映画「エリザベス」も見たが私の浅い知識では判断はつきかねたし、Wikipediaもエリザベス一世(1533-1603)をそれ程悪くは書いていないと思う。番組を見たその夜、高い崖の上のテラスに5~6人の男が白い素裸の女を運んで来る、かなり遠景の夢を見た。女は既に死んだか気を失ったかでぐったりしていた。男たちは凡そ300メートルの高さの険しい山のテラスから谷底へ女を投げ捨てようとしていた。下には尖った岩が何本も突き出していた。私の見る位置はさらに100メートル以上離れた斜め上方だったから顔まではよく分からなかった。ゲヘナの夢なぞ初めてだった(*註1)。人間は死んでからもし言い訳が通らなければ自分がした最悪のことと同じ罰を受けるのかも知れない。ホーガンの場合時代も立場も違う。生き物を殺さない心優しいガニメアンと気の合ったホーガンだが、最後に「こいつらは殺さなければ駄目だ」と言い残したらしい。私には---ダイアナ妃も直面したように---英王室も、また国民一般もモラルのバーは少し低すぎるように見えるが、余計なお世話だろうか。注目を浴びたハリー王子の王室離脱にはどういう意図があったか?

幼年期の終わり(アーサー・C・クラーク)
 キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」はWikipediaにあるように私も多くの戸惑った観客の一人だった。正直なところ出だしのツァラツストラと映像美と人間に対するコンピューターの反逆の話以外は理解力が付いて行かなかった。私がSFに対してこれまで足が遠のいていた一つの原因だったかも知れないが、これは大変有名な本でビジターの中に読んだ方は多いかも知れない。私には⑤の「メデューサとの出会い」が初めて読む彼の作品だった。⑤はそれぞれ独立した話の短編集で「幼年期の終わり」も前の話と後の話は全く別の場面、別の登場人物、独立したエピソードだから短編集と似たようなものである。途中で「あの話は一体どうなったのだろう」と何度か思った。ただし時間の流れと上空に長期停留した宇宙船と人間を監督する上帝(オーバーロード)のカレルレンの指導方針は一貫しているから一つの物語である。ストーリーは長い時間を追い最後は宇宙船もオーバーロードもいなくなり新しい人間の誕生---幼年期が終わり青年期に入る人間、同時にそれはホモ・サピエンスの最後でもある(P336)---を暗示して終わる。

カレルレンは宇宙船内で国連事務総長とだけ曇りガラス越しに面会し彼としか会話しない。東西対立を止め、国境を取り払ったカレルレンの支配を信用しない訳ではないが、誰も彼を見たことがないことに不安を持つのは反対派だけではなく事務総長のストルムグレン自身も同様である。これに対しカレルレンは50年後に自分は姿を見せることを約束する。そして「その後われわれは本当の仕事にとりかかる」と予告する(P110)。しかしその時何故か彼の声に悲しみのトーンが混じっていることをストルムグレンは不思議に思う。
少し長くなるが興味深い箇所を訳文のまま引用する。
「われわれにも失敗はあった」
そうだ、あれは本当だった。そして、人類の夜明けまえに一度やりかけて失敗した。あれはあなただったのか?あれはたしかに失敗にちがいない、なぜならその影響が幾世代もの年月を越えていまだに尾をひいているからだ。それが、いまだに全人類の幼年時代につきまとっているからだ。わずか五十年で、あなたは世界中の神話や伝説に打ち勝つことができるのか?
だが、ストルムグレンはそこに第二の失敗はありえないことを知っていた。二つの種族がふたたびあいまみえるとき、オーバーロードは地球人の信頼と友情をかちえるだろう。そして、地球人が最初に彼らを見るときに感じるショックさえ、すべてをご破算にすることはできないだろう。彼らとともに手をたずさえて未来へ分けいるのだ。そして、過去の歴史を暗く彩っていたにちがいないあの知られざる悲劇は、先史時代の薄暗い時の回廊の中に永遠に失われてゆくのだ。
(P115~116)

50年後、巨大な宇宙船は地上に降りて来て報道陣と人々が見守る中カレルレンが船内から現れる。その姿は「皮に似た強靭な翼、短い角、さかとげのある尻尾」を持つ有翼人だった。ありとあらゆる伝説に巣食う最も恐ろしい(悪魔)と(誤解)される存在が、いまは微笑みながら黒檀さながらの威厳をもってそこに立っていた(P123)。上述の引用文は「オーバーロードを実際に見たショックさえ二つの種族が冒したあやまちを帳消しには出来ないだろう」と言っている。結論を先に口走ることになるが、二つの種族とはセリアンとランビアンのことであろう。この二つの種族の分離は人類の夜明け前に試みられ結局失敗した。しかし両者の再会によるネオ・サピエンスの誕生は過去の失敗を帳消しにするだけでなく(神や悪魔や宗教にかかわる)誤てる迷信や神話を必ずや打開し、人類に対する新しい未来の展望を可能にするだろう、と言っている。

この作品でクラークの潜在力を認めた私であっても(子供が大人を叱るような気恥ずかしさがあるが)カレルレン出現直後の記述にある二つの問題点を看過する訳にはいかない。その1「中世において人々は悪魔を信じそれを恐れた。しかし今は二十一世紀だ」(P126)とは「人々が中世にオーバーロードを悪魔と信じたのは間違いだった。悪魔なぞいなかったのだ」という風にとれる。それとは違う悪魔はやはりいたしそれが問題の本質だった。その2「確実な経口避妊薬の普及によって以前なら悪徳と呼ばれたであろうものが今では不行跡程度のものでしかなくなった」(P130~131)とは「妊娠の不安を取り除かれたことによる性の解放は良心の桎梏を取り払っただけで風紀に何も害をもたらさなかった」と取れる。イギリス流の平均的な考え方かもしれない。では今のヨーロッパの霊界がどんなに女が苦しむ末期的な症状か、そうなった原因が何かを彼はどう考えるだろうか。

ジョージ・グレックスは友人ルーパート・ボイスが新妻マイアと結婚した祝賀パーティに招待され、ジーン・モレルと一緒にエアカーに乗り風変わりなルーパート邸を訪れる。客は海底で海洋生物学を研究しているサリバン氏夫妻そのほか多数。混雑する客間を抜けてジョージとジーンが邸の二階を覗きに行くとそこにオーバーロードの一人ラシャヴェラクが本を読んでいたので挨拶する。オーバーロードは既に人間にとって目新しい存在ではなくなっていた。ルーパートは魔術・心霊研究・易学・精神感応・超物理学に関する膨大な出版物のコレクターとして有名だった。ラシャヴェラクの本を読む速さは一ページあたり数秒程度である。やがてもてなしに満ち足りて客がほとんど帰り数人だけ残っている所へルーパートがウイジャ板を持ち出す。参加者にはジョージとジーンのほか新妻マイアの弟で数学・物理学と音楽を専攻する学生のジャン・ロドリックスもいた。ラシャヴェラクは黙ってゲームを見ている。しばらくこっくりさん遊びをして答えが正解とも無回答ともとれるやりとりが続いて、みんなが疲れ目がとろんとし始めた頃、ルーパートはジャンに「きみも何か質問したまえ」と水を向ける。するとジャンは即座に「オーバーロードの母星は?」と質問する。ボードはくるくる回りNGS549672と回答する。

人間による自前の宇宙開発が禁じられている状況であってもジャンの「生きているうちに宇宙旅行したい」という夢は抑え難かった。ジャンは図書館で天体観測便覧を調べて竜骨座の彼方にNGS549672が実在することを確認する。夢を叶えるには何とかしてオーバーロードの船に乗せてもらう他はない。思いついた手段はトロイの木馬作戦だった。海洋生物学者のサリバンの協力を得て、鯨と大王イカが戦っている構図の実物大模型を作りそれをオーバーロードに贈呈し、ジャンが鯨の中に潜り込む算段である。製作中に下見に来たカレルレンは秘められた企みを知ってか知らずか模型を見て気に入った。⑦でシャピアロン号の乗務員が船内に20余年いる間に地球では2500万年が過ぎていたように、地球から目的の星までは40光年であるが星間宇宙船に乗っている時間は2ヶ月かからない。だからジャンが半年後に戻って来たら地球では少なくとも世紀が変わっているだろう。そこで姉に密かに別れの手紙を書いて友人に託す。水と食料と旅行中安静にしているために睡眠薬を準備する。予定通り鯨を積んだ貨物宇宙船が出発してしばらく後にカレルレンは宇宙船に密航者がいたことを発表するが、別段騒ぎ立てる様子はない。

ジョージ・グレックスとジーン・モレルはパーティーの後結婚し男児ジェフと娘ジェニファを得る。ジェフは異星の夢を何度も見て怯え、10才の頃浜辺で遊んでいて「津波が来るから山に登れ」という声を聞き急いで避難して助かる。ジェニファにはおもちゃを空中に浮かせるテレキネシスの能力がある。ラシャヴェラクはジェフとジェニファのような特殊な能力のある子供たちのことを逐次カレルレンに報告していた。これらの特殊能力は自分たちの社会にはないものだとラシャヴェラクは言う。やがて子供たちは集められ、宇宙船に乗せられて連れていかれることになる。子供たちの天賦の能力を知っている親たちは敢て反対しない。多分安全と無事帰還は保証したのだろう。行き先がどこかは不明だが、オーバーロードは自分たちの上にはオーバーマインドがおりこれまでその指示に従っていたことが判る。つまり特殊能力を持つ子供たちの選抜--それが彼らの予定された最後の仕事だったのだ。思うに、連れていかれた子供たちが訓練を受け、やがて成人してネオ・サピエンスとなって地球に帰って来て、人間の意識を変える作業を始めるのが地球の青年期のはじまりなのではないだろうか。今までその特徴を持つ者は人々に非科学的と軽蔑され彼らの言辞は一笑に付され、医者は病人扱いし薬漬けにして閉鎖病棟に送り込んだが、実は彼らの出現にはどんな重要な意味が隠されているかを人々に啓発し、その存在を再認識させることになるだろう。このことはオーバーロードの次の言葉に表されている。
「科学だけが人間の真の宗教になった。そしてこれはあらゆる信仰を打ち破った。われわれがやって来たとき、わずかに生き残っていたものもすでに瀕死の状態にあった。科学はすべてを説明できると考えられていた。その領域にいれられない力は一つとしてなかったし、最終的にそれで説明できないことも一つもなかった。それでも人類の神秘主義者たちは、われとわが謬見に目を曇らせながらも、真実の一部を見きわめていた。この世には、霊魂の力、さらに霊魂を超越した力というものが存在する。地球人の科学は、これを自分の枠内に持ち込むことが出来なかった。もし無理に持ち込もうとすれば、科学の体系それ自体が完全に破壊されていただろう」(p332)この視点はホーガンにはなかった。
ここまでは私が言いたいことと同じだと思うが、以下オーバーロードの論調が急変する。
「20世紀前半になって、ごく少数の科学者たちがこの問題を調べ始めた。彼らは知らなかった---が、彼らはじつはパンドラの箱の錠をこじあけようとしていたのだ。彼らが解放したかも知れない力は、原子力のもたらすどんな厄災をもしのぐ危険なものだった。なぜなら、物理学は地球を破壊することぐらいが関の山だが、超物理学は、破壊をほかの星まで及ぼすことができるからだ。そこでわれわれは地球にやって来た---いや、派遣された。われわれは地球人類の発展を全面的に妨害した。とりわけ超自然現象についてのまじめな研究を抑止することに力を注いだ」(p333)これは奇妙な論理展開である。これではホーガンに逆戻りである。むしろ地球人類はほかの星の超物理学によって破壊される被害者ではないか?それを防ぐために新しい科学が必要なのではないか?ごく少数の科学者たちとはUFO研究の科学者か、またはユングのことだろうか。オーバーロードは彼らを派遣したオーバーマインドの意図を取り違えているのではないか。取り違えているのはクラークか。

オーバーロードの母星でジャンは地球とは全く違う都市を見出す。人間は歩くための道路をつくるが有翼人は空を飛ぶから道は主に荷物の運搬だけが目的である。移動手段が第一に飛ぶことだから飛行の科学が優先的に発達したのだろう。ひいては宇宙工学の開発が進んだ理由かも知れない。彼らが街で飛んでいる姿は神曲の地獄編にある挿絵のようだとジャンは思う。英語は誰にも全く通じないので絶望的になるが、早口でカタコト程度の英語が出来る若いガイドが付く。するとジャンと過ごすうちに彼は日常会話には困らない程度の英語をすぐに身に付ける(こういうことを書くクラークの発想が単に想像だけとはとても思えない)。監視もなく二人はあちこちに出かけるが宇宙の星々から展示品を集めた博物館めぐりがとりわけジャンの興味を引く。中でも地球館には絶滅したものも含めて様々なコレクションがありサリバンが見たらさぞ喜ぶだろうと思う。
ジャンは帰還するために地球へ往復する最後の宇宙船に乗る。地球に近づいてその映像がクローズアップされると周縁が薄黒いオーストラリア大陸が見える。しかし何故かアメリカ、ユーラシア、アフリカなどの大陸の様子がおかしい。かつて星々に向かって光輝いていた幾百万キロワットの電飾は跡形もなく消え去っている----描写された情景がイメージに浮かぶや私は68項のミタール・タラビッチの予言(*註2)を思い出し、ぞっとした。この物語は東西対立末期から始まってジャンの帰還までせいぜい150年内外しか経っていない。まさかそんなに早く終末が来るとは思わなかった、ホモ・サピエンス後のネオ・サピエンスによる地球青年期の始まりはどうなるのか、それとも②の三体ゲームのように経過時間の計算なぞいい加減で、実は中間省略登記方式の書かれずしてすっ飛ばされた時間があったのか、単に長期間地球を離れていたジャンの帰還と最終戦争後のイメージをクラークがくっつけてサプライズ効果を狙っただけなのか・・・
やはり「あの話はどうなったのだろう」という悔いが残る。多分往復6ヶ月のジャンの宇宙旅行が地球時間で80年(P346)というのが短かすぎるのではないだろうか。いずれにせよジャンはカレルレンとラシャヴェラクが任務を終えて最後の定期船で去るのを見送る。ジャンは自分が最後の人間であることを自覚し、地球の大気が逃げて行くのを感じ、彼の周りには終末の気配が漂うが、その心は満ち足りていた。

結局の所クラークの作品は所どころにまばゆいばかりの真実を散りばめたフィクションなのだろう。完全に一致するわけではないが、クラークとホーガンは同じことを書いたのではないだろうか。つまりオーバーロードとティユ―リアン(もとガニメアン)は同一ではないか。共通である類似点は次のとおり。
・太字の引用文は⑥星を継ぐものと共通のエピソードである
・監督者として地球人に対する責任感があり、地球人同士の争いを止めさせるのに熱心である
・地球に来て国連を相手にする。クラークの場合その統治に反感を持つグループがありリーダーが盲目であることは象徴的
・宇宙が活躍の場で考え方が科学的知識偏重であり、第六感にも霊的現象にも関心ない
・元の星を捨て現在居住する母星に移って来たこと。ホーガンの場合ミネルバからGスターに来た
・現在の星の重力を人為的にコントロールしている
・身体的特徴は巨人で相当に長寿である。ホーガンの場合ガニメアンはチュニックを着て特徴を隠している
・あらゆる宇宙の星のコレクションがあり特に地球館が充実している
ホーガンの場合ティユ―リアンの母星にはだれも行かなかったがクラークの場合登場人物がオーバーロードの母星だけに行った。お互いに住み分けて重ならないようにしている。

<後記>
 SFシリーズに入る前、もう書くべきことはすべて書いたと思っていた。あとはこのブログの見解をどれだけ理解して腸詰めのように固まった古い信仰から誰が自発的に抜け出してくれるかだけだと思っていた。教会では悪魔の問題を真剣に取り上げる所はなく「それを言うなら破門だ」とさえ言う神父もいるようである。一見仏教界も相変わらず権威を保って外国人さえ仏閣を訪れ、新天皇は慣例に習いアマテラスのサーバントとしての大嘗祭を取り行った。背後に神々がいてガバメントのメンバーが公になり、霊界にも良い変化があり食べ物も出回るようになって、ブルーブック計画が所期の成果を挙げたにも拘わらず、人間界では何の目新しい変化も見えない。神々に「根が生えて動かない考えない葦は風に巻かれて苦しむ他はない」と言われても仕方ないだろう。それでもあちら側で何が起きているか、タイムリーな記事を書いているこのブログを読んで知識を蓄えた方は有利だと思われるのは手前味噌だけではあるまい。ビジターの一人と思われた八千草さんは中学生の頃クラスで話題になったことがあった。彼女のことを「きれいな方だった」と教えた声には安堵の響きが感じられた。もとより背景にある本人の生涯も関係している。若い頃友人がある批評家の評論を読んで「言っていることは納得したが論敵を口ぎたなく難詰するという評判は本当だった」と顔をしかめて言うのを聞いて敬遠していた。厳しい言葉は相手に切りつけるような痛みを与える。彼の場合一体何人の敵がまとまって反撃しようと待ち構えていただろうか。彼は足を引っ張られるのを防ぎきれなかったようである。色々な人の死後の具体的な事例を公開すれば説得力のある教材になるのだろうが、慣例に反することだから難しい。実際は送る言葉で誉めそやされるだけでは決して済まないことを肝に銘じて欲しい。

 もう勤めは果たし評価は出たのだからからこれ以上書けば反って元も子もなくすだけと忠告する声もある。自分でも自費出版して記録だけは残すのが最後の務めかと思っていた。ただし天下に向けて告解するつもりで書いた恥さらしな記事は削除した上で。反対に死ぬまで思ったことを書き続けろ、まだ手の届いていない問題がある、と言う声もある。私がSFに取りかかるタイミングを期待して待たれていた様子もある。そしてこの国でもそれを見計らって人間たちが団結し、それまで羊以下の地位だったのが立ち上がって人間並みの地位を確保した気配がある。外国からの仲間も合流したらしい。だとすると昔にこだわって仲間割れしている場合ではなく、ジェヴェレンも人間だから一緒に手を携えた可能性がある。もし私の読みが当っていたら「幼年期の終わり」のテーマは成る程そういう意味だったのかと納得が行くが、どうだろうか。鳥肌が立って来た。
 ここで私自身を含めて言葉の再確認が必要だと思われる。「68項・クレムナの予言」のNo.6は悪魔よりもっと悪い者たちが上に立つことを予言していた。元来悪魔とは自ら志願して割に合わない地獄の汚れ仕事を引き受けた者たちだった。だから神にとって悪魔とは公認の数量限定的な存在であり、神に見放された者たちの管理者だった。それ故異星人の公的な悪魔はありえない。霊界が余りに非道で正邪が逆転していることを最初に訴え始めたのはその悪魔だった。悪魔よりもっと非道い連中にとって悪魔は隠れ蓑でありむしろ悪魔と呼ばれれば公認の存在扱いになれた。神曲で悪魔の長が鎖に繋がれているとするダンテの構想は間違っている。遡ってヨハネ福音書の悪魔は悪魔を僭称する者の方でありそれがすでにユダヤ教に巣食っていた。
 この‘僭称’悪魔が仕切っていた霊界の学校では「ユーバーロードは悪」と教えていたらしい。例の「自分の敵は悪魔」方式である。あえて言葉の意味を混乱させている。この世界は嘘がまかり通り、自分が人間ではないから人間を目の仇にして苛(さいな)んだし、人の子に嘘を吹き込んだ。ユダヤ教に殉じたイザヤもヤコブも彼らに奉仕したが、そのむごさも白々しさもよくそこまで出来たものだと言われている。人間がその敵だとすると、彼らのターゲットにはジェヴェレンも含まれたのではないか。ホーガンが明かるみに出した過去のいきさつは余人をもって代えがたいのは分かる。しかし彼は昔の話を面白いエンターテイメントに仕立てて提供している場合ではなく、いまさらジェヴェレンを全面的に敵愾視すべき状況ではなかったのではないだろうか。このように(邪教に仕える者を除く)ジェヴェレンにも自分たちの守りのために地球の人間とよりを戻すべき必然的理由があった。やはりホーガンの落ち度は霊界を軽んじたことであろう。
 悪魔に二論あるように、木星人が幅を利かしているせいか知らないが、霊界でほとんどすべての場合ある一つの物事に対し意見は両義的であるが、人間が的を得た結論を出して意味が定まるとあたかも道路標識のように共通の概念が出来て安定するそうである。これで「ユーバーロードは悪に非ず、人間の味方なり」の定義が固まるだろう。ヴィシニュウ号についての情報は「ヴィシニュウ号は招かれざる客を連れて来た」と「ある時から招かれざる客の星には停泊しなくなった」とクラークの「もう来なくなった時が地球の終わり」がある。「関東周辺のとある都市に大きな船が来る」という意見もある。

 イザヤも聞こえて来る言葉の両義性に翻弄された一人ではないだろうか。しばしばあることには正しい情報を言い、同時に別のことには嘘の情報を言う。これを「混ぜ飯を食わせる」と呼ぶ。彼もその混ぜ飯をたっぷり食わされた。聞こえるままに書いた預言書はまちがいだらけで、神に「わたしはこんなことは言っていない」と不合格になり、それで腐って悪魔に寝返った。ホーガンも然り、本を書くのは相応の覚悟がいる作業だと気付くべきである。イザヤは一時期北関東の中都市にいたことがあって、そこで嘘情報ばっかり撒き散らしたと聞いた。私は昨年途中からそこで一人暮らしを始めたのだが、それを知ったのはアパート契約後だった。行ってみようと思ったのは、信じた訳ではないがそこが宇宙と関係ある街だと書いた記事を読んだからだった。働いていた当時、私が40才の頃国立大学新卒で入社して来たのがHisae-sanで大分前に結婚して退社した。我々の年の差は18位だから彼女の同期はまだ会社にいるかも知れない。彼女はその町にある大学の出身だと言えば同期生にはどの町のことかわかるだろう。毎度のことだが、夢の中で炊飯器で麦を洗っているのを見た。ここでは「麦は炊いて食べるもので、まず釜に水を入れてから次に麦を入れて研ぐ」と手順を教わったのだと言う。それは騙されていると大笑いになったが、そんな変なことを教えたのはねずみ男だそうである。ねずみ男、即ちある方、即ちMr. Somebody、即ちイザヤである。自分が騙されたから今度は自分が騙す番という訳だろう。ねずみ男はどの葬式にも必ず来ているそうである。彼を漫画にした水木しげるもただ者ではない。私もある方は金毘羅様だと騙されていた。この町は独特の古い町で進歩が止まっていると感じた。ただしHisae-sanと同じタイプのこの町出身のT.Yさんという美人俳優がいて、駅でもよく似ている若い美女を見かけた。ブログのビジターにはもと会社の同僚が多いらしいので書くのである。

 そういう訳で、私の書くこのブログは宗教について意見を述べる文章の然るべき類型から極めて逸脱していて、冗談が多すぎ、自作した日本語の未公認の語源を多用し、読者を深く考え込ませるような難語に欠け、たとえ嘘でも前例が示すようにもっと意味ありげに格好つけるべきであって、従って全体的に風格に欠けマイナスだらけだと非難するグループが霊界にある。私のようなのを「得意がっている」というのだそうである。マタイに「施しをする時には右の手がしていることを左の手に知らせないようにせよ」という言葉がある。これは施しする時は両手を添えてあたかも良いことをしているが如く、尊大に、善行を得意がっている風には見えないようにせよ、という意味であろう。施すときは左手には風船玉でも持っていればよいとマタイも冗談を言っている。神が「得意がるな」と警告したのはガニメアンが恒星の太陽活動を活発化しようとして超新星爆発を起こしたり、遺伝子操作して新種の人間を生んだり、また毒ガスや原水爆を作って力を誇示したりするなという、行き過ぎた科学開発への警告であろう。もう一つ「拡大解釈するな」という指示もある。これは聖書に書かれた文言を黙ってそのまま受け入れよということではなく、オリゲネスら学者がしたように新約聖書・旧約聖書から縦横無尽に文言を引用した挙句、イエスの父なる神は旧約の主であるような間違った結論を導くようなことはするな、旧約と新約は別だという意味であろう。新約聖書には言葉の意図をもっとはっきり書くべきだったという反省がある。旧約聖書はユダヤ人の良識が一度あえて没にしたものをアレキサンドリアの学者が復活したのだったが、一点「神は自分の似姿にして人間を作った」だけは類書にない美点だった。

(*註1)日本には「負けるが勝ち」という昔からの諺がある。ときどき血の気の引くようなむごい夢を見る。決して嬉しくはないがそれも止むを得ないと思っている。残酷だからといって隠すばかりなのはどうかと思う。
(*註2)クレムナの予言には重い意味があることをあの後で実感した。もし終末がそんなに近いのなら緊急に阿蘇山と富士山と大雪山に十字架を建てたい。