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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

エポックメーキング

 NHK-BSシネマ放送で「ペイルライダー」という映画を見た。1985年封切り、監督・主演はクリント・イーストウッド。物語は1880年代ゴールドラッシュのカリフォルニアのとある町が舞台で、この地域には小さいが有望な鉱区の採掘権を持って金を採掘している鉱夫たちがおり代表者がカーボン。これに対してそれ以外の地域の採掘権を一手に握り採掘にホースを用いた強力な水の噴射を利用して環境を荒廃させているグループがおりそのボスがフラッド。フラッドはカーボンらの鉱区も手に入れようと画策している。カーボンが町に買い出しに来てフラッドの手下4人の暴行を受け窮地に陥っていた所に、偶然流れ者のガンマンが通りかかりあっという間に4人を叩きのめしカーボンを救う。カーボンは感謝のお礼にガンマンを自宅に招き食事を振る舞うことになり、旅装を解いて食卓に付いたガンマンは何とスタンドカラーのシャツを着た姿をして現れ皆を驚かす。神父はしばらく逗留してカーボンらの金の採掘を手伝う。
 フラッドはカネで動く保安官を手配しており、かねての計画によりカーボンらを追い出しにかかる。保安官とその助手6人を相手にして神父一人が1対7で対決するクライマックスが見どころで、当然ながら観客の予想通り神父が7人を撃ち倒して勝つ結末だが、撃ち合いの場面は西部劇の代表作である真昼の決闘やOK牧場の決闘と同じで、最後に神父が去って行くシーンもシェーンにそっくりである。日本で公開された当時私はこの映画のことを全く知らなかった。もしそれを見たらしたり顔に「神父がガンマンで残酷な人殺しをするなんてあり得ない。出来は悪くないが西部劇の名作をパクった暴力礼賛のB級映画だな」位にしか思わなかっただろうし、当時の知識ではタイトルのペイルライダーが何を意味するかも考えなかっただろう。来る時も去る時も神父は白い馬に乗っていた。
 この道具立ては黙示録6:7~8の “小羊が第四の封印を解いた時、第四の生き物が「きたれ」と言う声をわたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。それに乗っている者の名は「死」と言い、黄泉がそれに従っていた” を下敷きにしている。

 キリスト教もインドも仏教も神道も1%だけが審判で助かるように指示されており、まぐれで助かる者は出来損ないばかりだった。霊界の住民も成績の良い者から順に犠牲になった。これまでの長い悪魔の支配は悪魔と動物霊だけでは不可能と見られていた。すべての指示はローマから出ているとされたが、実は堕落した神が背後からローマに教唆していた。ユダヤは旧約聖書が嘘ばっかりと言われると「文句があるなら神々に言ってくれ」と返答したと言われる。イザヤ書もエゼキエル書もその神について触れているが、ギリシャ神話にも重要な役どころで登場する。このことは霊界で公然の秘密だった。その神は言葉なぞ何とでもなると鼻高々だった。彼の言うことはころころ変わり、巧みに相手の矛盾を突き、絶対に他人の言うことを受け入れようとしなかった。説得が無理なら力と力の対決にならざるを得ない。その前にガバメントによる人口の詳しい現状分析がなされた。その神も数字は誤魔化せなかった。あるプログラマーの少年が来て「何度も何度もレポートのやり直しを命じられた。もうプログラマーなんか止めたくなった」と私にこぼしたことがあった。悪魔たちがやったことが露見し、約束が無残に踏みにじられたこと、未来ある子供たちや女たちがどんなに非道い目にあったかが明らかになり、悲嘆と絶望的な怒りがガバメントを包んだ。イエスもこの敵を愛することは出来なかった。その運命的な対決でイエスは相手の助命懇願も聞き入れず、自らの手で断罪したと伝えられた。恰もペイルライダーの神父のようであり、黙示録による預言の成就とも言える。このエポックメーキングな出来事は「彼らの主があったのはA.D.2019年までである」と歴史に特筆されねばならない。

 人物鑑定書が勝手放題に作られ針小棒大な罪状や莫大な過料がまかり通って誰も正しい審きなぞ期待しなかった頃、唯一脱出だけが滅びを遁れる道だったと言われる。私だって犯罪者にはならなかったが過去を穿(ほじく)り返されてあたふたする位なら脱出したい。脱出できたのは特別なアセンション能力者か、地神が独自の勢力を持っているエリアの居住者か、サタンによって助けられた者たちだった。彼らは審判によって救われた訳ではないから天の国に招かれることはなかった。先だってNHKの土曜日定番の番組でチバラギの神社を紹介していた(*註1)。登場した郷土史家の解説によればヤマト政権にとって香取・鹿島二社は蝦夷からの反大和勢力に対する北方の守りの砦だったそうである。近くに取手という地名もある。古来この国でヤコブを中心とする大和渡来人グループVS北海道の蝦夷(エサイ)・東北の戸来(イエス)連合グループが対立する構図があったと考えられる。マタイも北海道にいたらしく、摩周(Mathew)湖の名前がその証拠である。マタイの人物評は高く、ブルガーコフに影響されていた私は見方を変えた。
 仏教による救いの期待値は低いが平泉中尊寺では真っ当な裁きがあったらしい。もし中尊寺が例えば関東や関西地方にあったならやはり非道な裁きの場所にならざるを得なかったろうと言われる。11月に法王フランチェスコが来日した時のニュースで東京管区大司教が赤いキッパを被って法王に随伴しているのを見た。彼の出身地は中尊寺の辺りで、聖職者を目指したことは生まれたルーツと関係あると思うが、カトリックのヒエラルキーで有能な管理者として組織に貢献することに矛盾はないのだろうか。逆にある地方の由緒ある官幣大社は高い権威を与えられているが、実態はヤコブに打ち負かされ無力化した。このように宗教が形骸化することを霊界ではゲシュタルト崩壊と呼ぶらしい。崩壊現象を起こした宗教は数多く、仏教もその一例であろう。
 この世の霊界は悪が長く支配する世界であったが、それに服従するのを拒む者(エロイム)が絶えることは決してなかっただろう。幸い脱出の条件が適って助かった者たちはかなりいて、彼らは匿名の場所に隠れ棲んでいたと考えられる。そのうちの一人と思われる女性霊が来て「私たちの存在を忘れないで欲しい。今や地球は悲鳴をあげているが世の終わりが近付けば天の国に招かれたい」と訴えた。ロシアのキリスト教徒も同じ思いであろう。
 霊界の複雑さはガバメントにとっても悩みの種で、ヨーロッパや中東でガバメント軍と隠れ住んでいた者たちの自警団との間に遭遇戦が起きたこともあったらしい。外部から言うのは易く行うのは至難の業であろうが、このような悲劇を避けるためにも、何処にどんな仲間がいるかの勢力分布を掌握することが先決であろう。点が線となって繋がればいまだかってなかった新しい統治の展望が開けるような気がする。

 この所さかんに夢を見る。夢の感じがこれまでとは随分と変わって雰囲気が和んで来た。霊界での生活の様子が垣間見える。ある時私はスナックのような場所でカウンターに座ってパンを食べていた。中で調理をしている男がフレンチトーストを焼いていて出来上がるとちらっとこちらを見たので頷くと一枚皿に盛ってくれた。男は無表情だが悪相ではなかった。後ろで「殺し屋がコックになった」と驚きの声がした。住み分けによって抗争が減ったのだろう(*註2)
 またよく飛んでいる夢を見るのは私にアセンションの能力があるからかも知れない。自分が浮遊しているが着衣が何もないのが恥ずかしく気になって目が覚めたことがある。最近の夢で私はマイクロバスのような乗り物の中にいた。車は森の木立の中のくねくねした道を進んで行った。目の前に樹木の茂みが現れて車がそれを回り込むと意外なことに建物が現れた。その中には多くの男女がいて、皆裸だったが誰もそのことを気に懸けている風はなかった。ヨーロッパには裸の男女が描かれた天井画を持つ宮殿や教会があるが、その絵柄と同じような浮世離れした情景だった。多分そこが「私たちの存在を忘れないで欲しい」と訴えた女が住んでいる場所で、私は実際そこに連れていかれたのだろう。ギリシャ神話の時代キリスト教が生まれるまで天の国へ行くという発想はなかったから、特別な霊たちが住む聖なる場所が地上にあった筈であり、それは今も残っているものと考えられる。ガバメントはそのことを知っているのだろうか。

-----註記-----
(*註1)昨年
11月末の放送でこの番組の一行は岡山の鬼ノ城を訪ね山上の遺跡と7世紀頃そこに巨大な鬼がいたことを記す古文書を紹介した。鬼とは大陸から来たネフィリムではないか。あるYoutubeへの投稿によれば2008年6月の岩手・宮城内陸地震で、崩落した崖の記録写真に偶然ネフィリムの遺骨が映っていたが、誰かによってすぐにブルーシートで覆い隠された。シートが取り除かれたら遺骨は消えていたそうである。鬼ノ城のどこかにもネフィリムの遺骨が埋まっているのかもしれない。
(*註2)悪魔は悪魔だけで暮らせと言われている。可能かどうかは分からない。