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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

A-Bomb

  この世の住民は彼岸がどんな世界か恐らく誰も知りませんが、誰しも死後そこにいる自分自身を発見し、またそこは死んでこの世から退場したあらゆる霊たちの充満している場所であることも知るでしょう。
人生において前世のすべての記憶は抹消されてゼロスタートしました。魂は霊界から来て肉体に宿ったという記憶さえ覚束なく、死後必ずそこに帰ること、それと宗教が何の関係があるかもはっきりと自覚されません。人間は見て、聞いて、読んで、触れて、味わって積み重ねた経験や学習によって確実な共通認識を得ますが、霊界についての個人的な経験や学習はあくまで私的な関心事に過ぎず、誰かが何かを確信しても他人とそれを共有することは至難の業です。
一方で我々が霊界を感得出来ないように、他方で霊界の住人たちもまたこの世を感得出来ないのではないかというのが私の推断です。但し例外的に声を聴く者は双方にいて、人間で言えば私自身がその実例だし仏教では声聞と呼び精神医学では分裂症患者と呼ばれ病人扱いされる人たちがいます。地獄耳という言葉もあります。人間界は声が聞こえた場合の対応について予備知識もなく教育もしないから当人は最初混乱する外はありません。多くの声はひっかけです。
霊界の側で人間の話し声を聞く者を古の仏教では観音や多聞天と呼び、彼らは特殊能力者として人間界の情報収集の任務を担いました。
夢だけが相互に相手を見る手段です。ただしブルガーコフが言うように文字はこちらで書いたものが向う側にも現れ記録として残ると考えられます。だからニケーヤ公会議で聖書が誰によってどう改竄されたか、もとの文がどうだったかも向こう側ではトレース可能だし、たとえ現世では物理的に破棄されてもコピーはすべて残っているでしょう。

  この世の人間や動物と違って霊は遠くの誰かが自分を思念していることを敏感に察知する能力があります。第1項の「宗教についての私的考察」に引用した本 “Shot in the heart” を最初思い出すままに“心臓を撃ち抜かれて”と誤記したのですが“貫かれて”が正しいとすぐに訂正してくれたのは翻訳者村上さんの生霊でした。手塚治虫さんのことを書いたあとで「虫」という字が夢に表れて二つの□のなかに「へ」が書き込んでありました。死後の世界は動物霊の世界だとのメッセージを送ったのも多分彼だし、開高氏も霊界を実見して「動物農場」が霊界の実態のパロディーだと納得したとの伝聞がありました。ライアル・ワトソンの本を何冊か読んだことがありますが「豚の話をしてもなかなか分ってもらえないだろう」と呟いたそうです。豚や犬と人間が姿を取り換えることについて、ガバメントも手を焼いているらしい。豚の姿をした霊がその本体は人間なのか、人間の姿をした霊がその本体は豚なのかを見分けるのは容易なことではないらしい。
私は子供の頃自分が特別に感受性の強い人間であることを意識し級友たちの粗雑な言葉やマナーに途方に暮れることもありました。ここで説明のために私の特殊な能力を明かすしかないでしょう。というのは私の近辺を訪れた霊たちは「人間界に開眼する」のです。他人には決して信用されないことだし証明することも出来ないから今までなるべく触れないようにしていました。まず「ホイヘンスの穴」と呼ばれる覗き窓が開く。やがて彼らに見えなかったものが見え、聞こえなかった声が聞こえ、話せなかった者が話せるようになる現象が起きるのです。青海波とよばれる治癒能力や霊的な死者を復活させる現象については既に述べました。旅行に行った各地の教会で死んだはずの霊が蘇生したという話を聞きます。だから聖書に書かれた数々の奇跡もイエスが霊に対してやったことと見方を変れば誇大な嘘ではないと思っています。
「36・優君への手紙」に書いたクロアチア出身カナダ人の女性英語教師は1990年頃結婚しストラスブールに行きましたが、昨年四月のクロアチアへの旅行はその先生に随伴する霊に「ザグレブに一度来てくれ」と頼まれたからでした。旅程は首都からドブロブニク、プリトヴィツエを5泊で巡る駆け足旅行でこんな慌ただしいバス移動が何程の効果があるのか半信半疑でしたが、あとで連絡がありました。私のエーテルに当たって1500人程度の霊が復活し中に重要な人物の霊もいてまあ意義があったのですが、それより在住していた多数の霊たちが開眼して人間の生活が見えるようになったことの方が驚きだったらしい。
私の住いを始めて訪れた霊たちも彼ら自身に起きるかって経験したことのない変化に瞠目するようです。我が家の平凡な暮らし振りが見えたのはともかく、テレビに映る国内の都会や地方都市の、また諸外国の住環境、そこに登場するありきたりの群衆、各種スポーツの競技と大勢の観衆、議会や学校で行われる集団的行動などを見て、これが通常一般の人間の生活だったのか、夢ではないのかと疑うのです。
何より人間が自由に生きていることが驚きなのです。霊界では極めて希な例外を除いて、人間とは収穫されるか蓄獣に転生するか廃棄されるものなのです。そうでなければ言いなりになる手下にされ、男は汚れ仕事をやらさるし、女は出鱈目なレポートを書きまた嘘を垂れ流す任務を命じられ、命令に従わなければ用済みになる。彼女たちが言われた通りにやっているかを監視する口うるさい役員会があるのです。
この国で優勢な宗教では人間には真実を知らせないことが最も肝要、意味ありげな謎を散りばめた巧言で解ったような解らないような安堵を与えて網懸けし捕食します。どの仏教徒も「インテリ振り過ぎた」と悲痛な嘆きの言葉を残して露と消えるのが通例なのです。騙されて愚かにも信じ切った人間どもを犠牲にすればその分動物同志争い相食む必要が少なくなるし、その味を憶えると止められません。
関西を、否日本を代表し没後四半世紀を過ぎた今でも誰もが知っていて、我々が尊敬と親しみをこめてその面影を思い出すかの立志伝中の偉大な実業家さえ、沸騰する鍋で煮られたのが人生の総仕上げでした。決して当て推量で言っているのではありません。
人間界を見た霊たちは、代表民主制に基づく人間界の規律と統制の実態を知るにつれ、欲望むき出しで相争う弱肉強食の霊界が如何に下等劣悪であるかに気付き意識改革する者が出て来ました。そこに人間中心主義の根拠があります。

  4月1日付日経の「夢と異世界への扉」シリーズにピーテル・ブリューゲルが描いた「反逆天使の墜落」が取り上げられました。Wikipedia「ピーテル・ブリューゲルの作品一覧」の11番目にも掲載されています。新聞の解説に「この絵は悪のイメージを獣として捉えその動物的な野蛮性を堕天使たちに重ね合わせている」と書かれています。一般に悪魔の図柄には半神半獣のものが多く、聖書に出てくるベルゼブルは蝿の顔です。記事はこの絵を「心に潜む負の欲望の隠喩であり悪徳や愚行を象徴的に表現」したものだと解説していますが当たらずとも遠からずという所でしょうか。私は単なる風刺画風イラストではなくこれこそ悪や愚行を行った者たちの行き着いたリアルな姿形であり、彼らが退化によってかくの如く成り果てる霊的現実を描いたものだと解釈します。人間の中にある霊体も然り。ずる賢い詐術で善人を窮地に落とす者は忌み嫌われる多足類の毒虫になったり、贅沢や強欲にふけった者は治癒不可能な醜い姿になったりするでしょう。これがイエスの教え“天地が存在する限り神の立法は変わらない”が具体的に意味するものではないでしょうか。宗教道徳が禁じる驕り・高慢・無慈悲・狭量がどんな恐ろしい結果をもたらすかに思いを致し自省自戒すべきでしょう。自分の姿が醜いガマ蛙なったことを恨み復讐として神の似姿である人間を食らう恐るべき悪魔がいます。
もしこれらを素直に受け止めれば霊界がどんな場所で動物霊がいかに侮りがたいか理解していただけるでしょう。「07・二つの世界を生きて」で紹介したアーサー・ガーダムは人間の物理的な脳にはリミッターがかかっていて、本来の知力をフルに発揮してはいないと言っていますし、霊界の住民は「人間は住みやすい社会を築いているが先端技術は一歩遅れている」と言いっています。

 二元論を語る時、神か悪魔かという二分類だけでは足りないようです。悪魔には神に近いものも動物霊もあり、動物霊にも人類に好意を持つものと敵意を持つものがあるようです。人間から見て人間に悪意を持つものをひっくるめてデモンと呼ぶほかないでしょう。また人間が動物にされ、動物が人間になりすます。悪魔さえ立場を変えることもあるようです。こうなるともうお手上げですが、人間は霊界を頭から馬鹿にしないで態度を改めて騙され続けた歴史をなんとか早く終わらせなければなりません。真人間は神のかけらを内蔵していると言われます。つまり本来人間ではなかった人間も人間界に混在しているのです。
人間に胎児が着床すると、地上においてもっとも支配的な霊的勢力である豚たちが自分の仲間を増やすために人間を宿主として子孫霊を送るのは間違いないでしょう。その結果豚が増え過ぎたと噂されるのがこの国の実情でしょう。受験制度では豚の背後霊が強力に彼らをサポートし敵対者を邪魔する。おかげで偏差値の高いとされるピッグマンも数多くいるようです。彼らは「我々は人間より賢い」と自慢している。仏教を牛耳っている。現世で人間の食料となり犠牲を払っているのだからその代価を要求する当然の権利があると主張する。霊界では力においても数においても優位である。
こういう文章は却って逆効果になる可能性もあることは百も承知です。想像したことさえなかった話に頭の整理がつかず、冗談を言うなと受け入れない多く人々の抵抗は止むを得ないでしょう。誰かがこの着想の先鞭をつけ第一歩を記すしかないと思っています。
私と一緒に上位から送られた霊は彼らにとって好個の獲物になったのです。悲しい限りですが、危険は覚悟の上の使命でした。我々だけでなく同じ志の別グループが諸国に向かったが、ガバメントの調査によれば皆結果は思わしくなかったと聞き及びます。中に未来を嘱望された子がいて、私の子供として生まれ救い主になる計画があった。然しその子も、この国に来たほかの大勢の仲間と共に仏教グループによりほとんど全滅した。「力不足だった」と言い残した声が記憶に残っています。私のファミリーを食べ尽す会さえ作られたらしい。

  革命のあとサタンはこれ以上彼らと同道することを拒否し人間寄りの立場に立った。ローマも軌道修正に向かって歩み出し(否、実はそう簡単ではないらしい)、ユダヤさえ自分たちがやっていることの愚かしさに気が付いたらしい(これも中々はっきりしない)。しかし豚とその仲間の misanthropic な動物霊たちはサタンやキリスト教の説得にも拘わらず「我々が我々の理想とする万全の世界を作り上げた」として強硬に新体制への協力を拒んだようです。彼らの本拠地は近隣国にあるようです。革命直後仏教が宥和の態度を見せたのは欺きに過ぎなかったと言えるでしょう。インドも「我々がスタンダードだ」と共同歩調を拒んだ模様です。

  3月のある夜、夢の中で私は林道のような樹立ちの中の真昼の道を歩いていました。車が慌ただしく何処からともなく現れまた何処かへと消えて行きました。一台の車は耳が垂れた犬型で昔手塚治虫の漫画によく出て来たパトカーそっくりでした。もう一台は熊型で、三台目は丸っこく甲虫そっくりでした。いずれも緑色の羅紗を貼ったような車体をしており、車の型はその所属グループを表すもので、多分彼らはphilanthropic な動物たちなのでしょう。ふと異変を感じて空を見上げるとはるか上空まで届く巨大なキノコ雲が立ち上っているのに気付きました。急いて道端の木陰に身を隠しましたが、あたりは強烈な光に照らされました。爆心までの距離は富士山程遠くはなく、一瞬埼玉県と長野県の境あたりかと推測しました。そこに人間の敵どもの根城があるのでしょう。彼らの傲慢さは神の怒りを買ったのです。
アメリカの情報も時々耳に入ります。最近巨大な裁判所が建てられたそうです。米大陸で人間によってほぼ根絶やしにされた野牛や狼がどれ程の怨念を抱いているかと思うと震撼させられます。これから数世紀に及ぶ長い困難な戦いが続くのです。