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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

ヒエロス・ガモス

 古代ギリシャに由来するヒエロス・ガモスという言葉がある。一般にこれを「成婚」と訳するのは誤りではないだろうか。ヒエロスは当然holyであるがガモスは通説のような marriageの意味ではなく、couplingつまり一対になることであると私は思う。テニスや卓球の試合のダブルスのような意味であるがミックスダブルスではない。これは宗教的に普遍的なルールであって仏教でも重要なテーマであることを再認識する必要がある。密教ではこの世とあの世の関係を両界曼荼羅に描いている。その着想は正しいと思われるがそれが、教理上どのように取り入れられているかは疑問である。ユングはシンクロニシティをこの世で似たような事象が同時発生するケースがあること捉えているが、これも違うと思う。私の言いたいのは、常に現世とあの世では共通の事象があると理解することがシンクロニシティで、現世で私に起きたことは必ずあの世でも起きているという関連性があり、そのためには人間のそっくりさん(アバター)があの世にもいなければならない。私の一生が終わった時に私は死んで霊魂離脱する。そしてもし死後霊になった私が自分と表裏一体のアバターと相まみえることが出来れば、ヒエロス・ガモスは達成されることになる。このようなヒエロス・ガモスの成就を我々は心をこめて祈念し、真剣に願望しなければならない。ヒエロス・ガモスの成就こそ宗教における救いの実現なのである。

 仏教ではヒエロス・ガモスを「あってはならない間違い」と言い含めている。我々は死ぬと自分の父や母や兄弟に会えるだろうし、「最後の晩餐」の項に書いたような「法華経の本を出した作家、僧籍に入った女流作家、仏教の教えを取り入れて成功した実業家、弥勒賛歌を作曲した音楽家」の縁者はあちら側で各々の故人と会えるだろう。しかし会えたのはみんなアバターの側で、人間上がりの当人ではないことに気付くべきである。僧侶は自分で自分の首を締めるような信仰をなぜ支えるのか。仏教では「元・人間が始末されていなくならないことには、同じ人物が二人いるというとんでもない事態になる」とごまかしを言っている。僧侶自身が亡くなった場合であろうが信者が亡くなった場合であろうが、生き血を抜かれた挙句、誰とも見定めのつかない亡者になる。元・人間の霊は全滅する。ところがこういう事例があった。ある時亡くなった私の縁者のアバターが来て「仏教の世話役に人間の方は助かったのかと聞いた所、幸運にも助かったのはお前の方だ、お前たちのカップルは我々によって救われた。人間はもう通常通りに復活して別人になっているからここにいない」と言われた、と話していた。「それは言い逃れのごまかしにすぎない。人間は次に生まれかわるまで何年か間隔を置かなければならないというルールがある。あなた方は騙されている」ということになった。霊界に於いてもヒエロス・ガモスが遍く理解されはいないとしか考えられない。カトリックでも同じことが起き、信者であるクリスチャンも神父も、人間上がりの死後霊は悪魔の餌食になる。悪魔は我々の無知に巧妙につけ込み、疑いを持つ者をいかにはぐらかすかの話法も用意しているのである。「赤い楯(下)」で紹介した、モルガンの早すぎる転生はルール破りだった。嘘吐きのプロである悪魔は隠れてルール違反をする。

 上記では仏教徒すべてはイカ族の犠牲になる前提で書いたが阿弥陀経はどうだろうか。一枚の白い紙に何本かゲーム参加者の数だけ縦線を引いた後で、みんなが縦線と隣の縦線の間に何本も梯子段のような線をランダムに引き、あちらこちらにブリッジを懸けたような図を描く。そして縦線の末尾のどれか一か所だけに予めアタリの印をつけておく。図が完成してからゲームの参加者はどれかの縦棒を選びその上に名前を書く。各自はこれと決めた縦線を上から下に鉛筆で辿って進み、もし横線と出会えば必ずその横線の方に渡って、横線の終わりで出会う隣の縦線を再び下行し、またその縦線が横線に出会って道が分れれば必ずブリッジを渡る。これを繰り返して何度も右に行ったり左に行ったり下方に下ったりして最後にどこかの縦線の末尾に到着する。アタリの印がある末端に着いた、たった一人が勝ちである。参加者それぞれが選んだスタート地点の縦線の上端と終点の縦線の末端は上記のルールに従って実際に辿ってみなければ分からない。これは日本人なら誰でも知っている当てっこゲームで、名前をアミダ籤という。この図はジリスやネズミのように地下に住む穴掘り動物が地中に作る巣穴トンネルの構図そっくりであり、入口がいくつあっても巣穴は地下の通路で横に連絡して繋がっているから、ハンターは彼らが逃げて隠れた穴だけに罠を仕掛けて待っていても獲物はそこから顔を出すとは限らず、遠く離れた全く別の穴からひょっこり顔を出すのである。この迷路図が阿弥陀仏の住まいそっくりである所から誰かがこのゲームをアミダ籤と命名したのであろう。もしこの名前が正当ならば阿弥陀様とはモートのことであり、宗祖の親鸞もモート族ではないか。真宗とは信者に繰りかえしナムアミダブツを唱えさせる「絶対他力本願」の仏教である。従って仏教にはイカ様だけでなくネズミ様もいることになる。人間が人間のために人間中心の宗教を欲するように、真宗はモートのための宗教なのかも知れないが、人間になったモート族が真宗を優先的に選ぶとは聞かない。人間になる前はモートであったが人間として生きて人の姿形になった死後霊は、最早同類ではなく他と同じような人間上がりとして阿弥陀仏の好餌になる可能性が高い。SF(4)「神の眼の小さな塵」によればモートは共食いする。

 禅宗の少林寺の僧たちは拳法によって人間離れした強さを会得するために集団で厳しい鍛錬をする。彼らは死後の世界とは我々が敵に取り囲まれる、如何に危険な場所であるかを知っていたのある。朝鮮でもテコンドーの体得者たちは集団で身を守って生き残るそうである。日本にも空手や古武道があるが、それをもって集団で団結して戦うための死後の備えであると想定する考えはあまり聞かない。日本で、死者はみんな大人しく指示を待って言われる通りに従うからやすやすと敵の手に落ちる。もし闇の中に点々と灯された蝋燭の光に導かれて進めと要求されても、明るくなるまで待った方が良いと聞かされた。人間と違って敵は夜目が効くから夜間は彼らが有利である。真宗の絶対他力とは決して自分では何もしないでじっと他者の救いを待てという教えである。この他力本願のセンチメントは真宗の信者以外にも、学校教育や文学作品や見聞を通して日本人の常識に入り込んでいると思う。禅宗が説く自力本願とは少林寺の僧のように自分たちで戦う力を持てと説く教えなのに、座禅で瞑想して悟りを開くことと全く見当違いな意味に歪曲され、僧も信者も騙されている。動物性蛋白質のない懐石料理を食べても戦う体力は付かないし、殺生を禁じるのも肉食で栄養を与えないためである。ましてや大根だけを食べて生き残れるわけがない。色々な教祖が現れて別々の教えを説くのは、管轄区域内で信者グループが所属する宗派によって分割されて少人数に分かれるので、たとえ抵抗勢力があっても分断され、対処しやすいからであろう。大同団結されては困るのである。

 現在進行中の人間対反人間の戦いの様子が分かって来るに従い,、何が今の仏教に巣食う問題点かがやっと明らかになった。それは上述の通り言葉の元の意味から別の意味への歪曲であり、キリスト教が抱えているのと同じ問題だった。本来この戦いは人がの宗教に属するかとは無関係なのだが、キリスト教がやっていることと思って傍観する者が多かったし、仏教は敵側のシンパだった。しかし戦いに負けて生き残っているのを知って自分は人間の側だと気付いた者もいた。左翼も傍観していたが後で「我々も参加すべきだった」と反省したそうである。禅が修練のコースで取り入れている瞑想は自分の意識に残っている脳内イメージから敵の正体を思い浮かべる手段だったのではないか。その姿を見て驚愕する者はいても「救い主に似つかわしい」と思う者はいないだろう。このブログの影響もあると思うが、京都の古刹でも地方の大小の仏閣でもイカ族の姿を見たと思う者が増えて、次第に「こんな宗教は止めた方がよい」という声がくすぶり始めたようである。ナムアミダブツと唱える人々の間にも「自分はモートを見たことがあるかも知れない」と意識する人が増えるかも知れない。彼らに媚びる必要はない。一般に誰かが自分の考えをブログなどで公表するに当たっては、総合的な結論が先にあってまず冒頭にそれを述べ、順序だててその理由を説明するのが常套手段であろう。それに比べて私のやり方は行き当たりばったりだと非難されても仕方ないであろう。しかしモートの正体が分かったのとイカ族の正体が分かったのは別のタイミングだった。

 パウロの「復讐は我がことにあらず」も自分で戦うなの意味であり、パウロがペテロの腰巾着だった所以であろう。イエスは戦いを避けるなと言ったと聞いているが聖書には見当たらない。マタイ539の「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」はどう解釈すべきだろうか。私は捏造だと思うが、「都合の悪いことはなんでも捏造にする」と言われそうである。少年時代のイエスは年長者に逆らってさんざ手を焼かせる問題児だったし、敵対した男児を盲にしたり呪い殺したりする悪童だったというから、根っからの善良な平和主義者ではなかったことが外典のトマスの福音書に書かれている。トマスはイエスと二卵性双生児だったという説がある。しかし「汝の敵を愛せよ」は話し相手の協力を得るための妥協であって、捏造とは言い切れない気がする(甘すぎたという悔いはあるだろう)。誰かに「キリスト教の教えを三つ言え」と問えば即座にこの三件が答えに出て来そうな程みんな有名である。

 ダビンチの描いた「最後の晩餐」では右から3番目がマタイ、4番目がピリポ、5番目が大ヤコブ、6番目に顔だけ出したトマス、中央にイエス、7番目がヨハネ、8番目がユダという順番に、人間グループがイエスを取り巻いているように見える(バルトは外れる)。イエスの身代りとして受難したピリポは死後霊界の王になったが、絵の中でピリポの背丈が一段上に出ているのはそれを表しているのではないか。ダビンチの洞察力はすごい。しかしキリスト教の立ち上げで人間チームは敗れた。ピリポの役回りは敗軍の将ペタンと同じで、勝者としての優位を誇る敵のやりたい放題を見ているほかはなかった。悪魔が人間より上に立ち、爾来人間の地位は低かった。新約聖書とはそういう状況の中で編纂されたものだし、彼らの指示によって関連文書も選別され、ミサの式次第も定礎された。彼らが素知らぬ顔をして讃美歌に仕込んだアーメンはアメン・ラーへの呼びかけを意味している。もし
   心を尽して神に祈り、神の恵みをたたえよう、我らを導くいと高き主よ アーメン
と歌えば「神」とはアメン・ラー以外の何者でもない。しかも Amen とは反・人間のことであり、他の反人間敵な神に訴えることにもなっている。キリスト教の指導者イエスはそれまでの古い慣わしを捨て去るように言い(*1)、アーメンもやめろと言っていた。しかしペテロたちにはどうしても譲れないものがあり、それが彼らにどんずまりの反逆を促した理由だった。アメン・ラーは彼らの存在理由であり、また反人間グループ結束の旗印だった。遅きに失したとは言え、今こそ我々はこのことを見定め、讃美歌に仕組まれた有害で無益な旧弊をきっぱりと捨て去るべき時であろう。貴方がアーメンと言った回数はカウントされている。

 無力感に苛(さいな)まれたピリポはエサウに地位を引き継いでくれるよう頼んだが、エサウも見通しが立たないからと断わった。そして西暦2000年(ミレニアム)を期して、やり方を変えようとして出来たのがガバメントだった。最初にこの国のある場所で女たちが戦いに立ち上がったのは、ある女が「一千万を払え」と言われたからだった。多分「金が払えなければ命で払え」ということだったのだろう。彼女の後も誰が次の、さらにその次の犠牲者になるかも決まっていた。どうせ命を失うなら戦って死んでも同じことだった(男だって悪魔に食われて死ぬことがある)。男たちは傍観していたが、指導者の指示に従って女たちは戦い、勝ち抜いた*2。その中の一人が「敵の火炎放射器の炎をかいくぐって戦ったのが忘れられない」と言った。以来男も一緒に戦うようになった。敵がその中の一人の男に「お前は人間ではなくて猿だろう」と言った。そう言われた男が「これを見ろ」と言って胸を開くと体毛がすっかり失くなっていた。敵も一度は人間になって人間の姿をしているから、戦いは人間同士の戦いに見える(*3)。私にはどちらが本当の人間か見分けが付かないが、霊界の住民同士は何か見分ける特徴を知っているのかも知れない。女同士の戦いを見たが、一方の女の持つ尖った棒の先が相手の女の喉から頭に突き抜けていた。むごいことだが、そうしなければ人間の立場は変わらないのである。男同士の戦いには一段と厳しい緊張感があった。戦いに勝った人間は、決して性格が豹変するという訳ではないが、男女共それまでとは全く違う意識と能力が芽生えるようである。この国での勝利はインドで驚きを持って迎えられた。

 アラーの神を信奉するイスラムはジハードを標榜する。しかしどこに戦いの矛先を向けるかは難しい問題である(*註4)。ドイツはイスラムを受け入れているようである。メルケルはイスラム教国からの難民をドイツ各地に分散して住まわせた。当然モスクも各地に出来るだろう。何より「緑の党」とは親イスラムの政党であろう。緑はイスラム教のシンボルカラーである。第二次大戦でプロティスタンティズムを掲げて戦ったナチスは敗北し、その結果キリスト教では救われないと考える少数派がいるのではないだろうか(*5)。アメリカは個人的に銃の所有が認められている国である。もし戦いになればマシンガンも使用され南北戦争以上に大がかりな Civil War の再現になるだろう。既に両陣営は住み分けられ、各々私兵を蓄えていて、怒りの葡萄は樽の中で発酵しかけている。ブラック・パワーの行方が鍵を握っていると思う。European はこのブログが警告していることを、口にこそ出さないが、実はとっくの昔に分かっていたようであり、日本人の認識は遅れていた。

 霊界の対立は人間vs反・人間の対立である。プロテスタントはこれまでの意見の違いを超えて、大きな一つの勢力にまとまるべきであろう。ウエズレーも「我々だけでは数が足りない」と言っている。それはアーミシュや清教徒も含むが、国教会はプロテスタントではないというのが私の見解である。末日聖徒はプロテスタントグループと連帯できるだろう。日本ではエスニックな神々も人間の味方をしたのが大きかったが、その実力は強力だった(*註6)



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*1 「新しい酒は新しい革袋に」
*2 SF(2)の「ソラリス」に、ハリーという霊界の女が恐ろしい力を持っていることが出ていた。
*3 不幸なことに、たまたま初めて地球を訪れた人間の宇宙人がそれを見て逃げ去っていった。
*註4 霊界ではスンニ派もシーアはもイスラム教で一体化すべきであろう

*註5 このテーマを扱った「誰よりも狙われた男」という映画は秀作である。Youtube で無料で鑑賞できるので是非御覧いただきたい。
*註6 私は彼らが人間の味方かどうか半信半疑だった。恐れられていた神もあったからである.。誰が敵か味方かは人間には予測できない面がある。