これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
1600年代当初、仏僧リモンとハビアンと思われるイルマンによる論争が紹介されている。
イルマン「霊魂の不滅について信じるか」リモン「一切は現世の生に終わると拙僧は確信する」イルマン「それならば何故貴僧は多額の銭を取って死者に対し葬式や経をあげるのか」リモン「貴方の言う通りである。拙僧はそれにいたく当惑している」
この世の後に続きはないとする立場は「魂の不死」「神の救済」を説くキリシタンにとって400年前に仏教攻撃の好個の材料となったが、更に“この問いは現代の仏教にも刺さったままのトゲだ“と著者の釈徹宋氏は付記している。しかしリモンはなぜ論争のためだけにでも輪廻転生や解脱や回向を即座に引用しなかったのかと疑問に思う。自分に正直なリモンの確信がそれらを否定したからだろうか。確信は閃きによって与えられる。釈氏もリモンのように輪廻・解脱の教えや法要の功を概念としては理解しても実感としては支持しないのだろうか、つまり僧として彼岸からの手答えを閃きで感じないのだろうか。
ハビアンも同様に過去の死者達に呼びかけたがさっぱり答えがなく死者の霊魂の現存をたとえ幽かにでも感じ取ることが出来なかった、その結果彼も霊魂不滅、魂の不死のコンセプトを疑ったのではないか、そしてそれがキリスト教を棄教する理由の一つになったのではないだろうか。ここで私は注意を喚起したい。この三者が共通して応答を試みているのは皆仏者の霊魂であることを。時代は既に平安以来の末法の世であり釈迦の教えの力は時と共にますます衰退している。そして「タリズマン」の項でも書いたが、魂は「本来」不死・不滅なだけである。
宗教的権威より聖書そのものを重視することを主張し聖書の翻訳と普及に努めたキリスト教新教の勢力伸長に対抗して、アジアに新しい信徒の拡大を求めたイエズス会などのキリスト教旧勢力は日本に聖書を持ち込んだのだろうか。宣教師たちが用意した布教用ガイドライン(カテキズム)の書き物はあっただろうが、多分実際に日本人信徒が聖書を直接読んだ例は少ないと思う。もし聖書がハビアンに与えられていたならば、向学心あふれる彼が「ぶどうの木の例え(ヨハネ15)」を見出すことも可能だったかも知れない。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
ハビアン著「妙貞問答」でキリシタンの幽貞はキリスト教を擁護し説明する。然し「母の胎内に父の種子が入り身体の下地が調ったらデウスがそこにアニマラショナル(人間の魂)を造り身体の主人と定められます。これは後生となって滅びず残ります」というカテキズムの教えに二重の過ちがある。まず、“造り“でなく”送り“である。男の胎児には男の魂を、女の胎児には女の魂を。魂が水から出来る訳がない。次にデウスが送るのはキリスト教徒の胎内である。当時の日本人なら仏教か神道が連れて来る。魂が先在していないとイエスが神の子であることや放蕩息子の例えでいう父のふるさとも、もちろん輪廻転生も成り立たない。更に、送られる魂と行く先の母胎の宗教とが同じとは限らない。人間には神の魂を持つ者と悪魔の魂を持つ者があって信仰に招かれるのは前者であり、人間が信仰を選んだのではなく神が人間を選んだのであるとヨハネの福音が説いている。
また「前世の業で生まれ変わったのであれば少しは前世のことを知っている筈だがそんなことはない、デウスは現世の善悪によって永遠の楽しみに生きる者と永遠の苦しみに生きる者とを分け二度と逆転することはありません」と輪廻を批判しているが、魂が生まれる前に渡る忘却の川の記憶洗浄力は強い。例外的にイエスは前世を知っていて天の国について多くを語った。単純に言って死後の魂は二分ではなく三分されほとんどは現世と背中合わせにある中間の煉獄に帰属し彼らは機会あれば転生するであろうし、時には「主の贖い」、即ち救い主が金銭を支払うことによる救出もあるだろう、何故なら「地獄の沙汰も金次第」だから。
仏教諸派を俎上に載せその違いを論じているが所詮「無」や「空」を説くこれらは同じ所へ帰結する、と結論付ける。私自身も以前なぜ仏教は無・空・無常・諦観等々の自己を虚しくさせるネガティブなコンセプトを手を変え品を変えて語り掛けるのかと不思議に感じたことがある。無と空は違うと言っても我々に与えるインパクトは変わらない。禅も執着を否定し人間のコアにある自我を粉砕する。信・望・愛を説くキリスト教の積極性とは対称的である。一方は死を永遠の命への出発点とし他方は寂滅とする。
著者はこれに対し浄土教は阿弥陀仏による西方浄土への救済を説く点でキリスト教と同じである、禅僧上がりのハビアンがもし浄土教に詳しかったらどんな結論になったかと興味を示している。然しマリア様と観音様は似ていても全く別個の存在だしキリスト教徒の行く国と西方浄土は違う所である。西方浄土へ脱出する航路のホーバークラフトは末法の現在も稼働しているのだろうか。仏国土全体を覆う暗雲は西方も包んではいないか。
「仏教ハ善悪不二、邪正一如ト説ク」とは知らなかった。あらゆる現象には本来性はなく、諸条件によって善にも悪にもなる、これを「無法の法もまた法なり」と言う、と禅的ニヒリズム説が紹介されている。
キリスト教は善と悪を対立的に捉え、悪をシンボライズする悪魔を排斥する。片や仏教は善悪を相対化しケースバイケースだとする。その結果今日、仏教は悪魔について一切議論する事なく神道と同じように受け入れている。この件は別項で詳述するが、父について思い出すことがあるので付記する。
私が高校2年生のとき父は57才で病死した。死の数日前、病院で付きっきりで看病していた母が帰宅し、昨日お父さんが変なことを言った、と家族に話し始めた。父が「俺は昨夜悪魔と議論した」と述懐したのだという。気弱な姉が「そんな怖い話は止めて」と悲鳴をあげて母を遮ったが私は鋭く興味を掻き立てられた。平均的仏教徒でどちらかと言えば宗教心の薄い父はそれまで悪魔について一度も話したことはなかった。私はそれを聞いて、悪魔なんているのかと思ったし、仏教と悪魔とは常識的に結び付かなかった。近年あるアメリカ映画で「悪魔の最も賢い所は悪魔なんかいないと思わせる所である」というセリフがあったがその通りである。ゼカリア書でサタンがゼルバベルと大祭司ヨシュアを告発したように死期の近い父を下取調べに来ていたのではないか。悪魔は人間の弱点をうまくつかみ美点は全く無視して失敗や欠点を暴いてさらけ出し巧みな話術で人格攻撃する。隠し事は通用しない。時には嘘も平気である。戦い上手で味方にすれば心強いだろうが味方にはならない。純情な魂を甘言で誘惑し堕落させる。
たしか中村元の仏教シリーズに釈迦と悪魔の対話をテーマとする著作があったと思い図書館で探した。ざっと読むと修業中の釈迦を悪魔が邪魔する話だったが、とある個所に悪魔はラーマ(殺す者)と呼ばれ後世の仏典で有力になった、と書かれているのが眼に入った。
これらを通して繋ぎ合わせるとショッキングな一連の流れが浮かんで来る。既に無・空・諦観によって執着心を剥奪され自家薬籠中の死者の魂は、裁きの場で悪魔の狡猾な論理のすり替えや矢継ぎ早な暴露による連続攻勢にさらされて敗北感を味わい、宣告を受けて引きずり降ろされ・・・多分多少自由な時間を与えられて結果的に殺される。何のために? 人間が牛や羊や豚や鶏を殺すのと同じだろう、ほかの理由があるだろうか。ゴヤの「我が子を食らうサトウルヌス」の黒い絵が、また宮沢賢治の「注文の多い料理店」のブラックユーモアが思い浮かぶ。
1973年、血と涙を流す奇跡のマリアは次のようなメッセージを伝えた、と秋田の修道会を訪れる参拝者に無料で供される写真の裏に書かれている。
「たくさんの霊魂が失われるのが私の悲しみです。毎日ロザリオを唱えて下さい。私をよりすがる者は助けられる」
私と同じ結論に至った精神科医の作家がいるらしい。私はハビアンを信仰浅薄だとは思わない。より頼むべき宗教は何かを真剣に求めた類稀な求道の人だったと思う。しかし仏教の資料は豊富にあったのに比べ信頼するに足るキリスト教の資料はなかった。イエス・キリストその人を理解するチャンスも少なかった。上記に指摘したようなカテキズム用テキストの過ちは疑問に回答するものではなくむしろキリスト教への不信となって彼を背教に導いたのではないか。
巻末で著者は「夢現にハビアンが現れるかもしれない期待をもってこの本を書いた」と記しているがどうだったろうか。そういう経験は前例があるのだろう。この本に出て来る日本人留学生で、ローマで司祭となり日本人で最初にエルサレムを訪れ、禁教後も棄教せず斬首されたペトロ岐部が2007年に列福された。それを記念する式典が2009年5月16日米沢で開かれ、私も参加した。ローマからも使者が来ていた。そこで「位の高い霊が従者を従えて降りてきた」と言う声を聞いた。