これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
結婚以来浮気をしたこともなく、酒も飲まないしギャンブルもしない。借金もなく交通事故の記録もない。税金と社会保険はきちんと払っている。何かの迷惑行為で警察沙汰になったこともない。但し煙草は吸う。家庭排水が流れ込む濁った川のほとりを歩いてコンビニに煙草を買いに行くのだが、道すがら拾った缶やペットボトルや菓子袋・ビニール袋の類は数知れない。そんな私が slovenly という評価を受けていた。これはその人物が救済に値しないという一番軽いランク付けであるが、情状酌量の余地はなく致命的運命である。30才前後の未婚の頃、余り人には知られたくない生活態度だった時期がある。とにかく聞こえて来る「声」に引きずられた。思い出したくもないその頃のことを嫌がらせに「あの頃この男は地獄に落ちればいいと思った」と言う者がる。彼は煙草か嫌いである。私は一時彼をイエスかもしれないと思っていた。ところが彼が来ると鼻孔の内壁に塗り付けられたように強烈なカマンベールの匂いが残った。チーズはネズミの大好物である。ゆえに彼はにせのイエスだったのであろう。
神社仏閣の信者の中にも「自分もその言葉を言われた」と思い当たる者が結構いるようである。これまで裁きの評価はマリアを筆頭とするモート族によってなされて来ており、モートは自分たちが地上でトップの地位にあって、人間の序列はずっと下の方で7~8番目であるから、当然モートが人間を評価する立場にあるとしていた。モート仲間に対する評価は無条件に Very Good であった。しかし人間にとって各自が帰属する(または帰属したことのある)会社もまた評価を左右する条件だと知って愕然とした。「赤い楯」の項に書いたように、私がロックフェラー系の石油会社で働いたことはこの観点で見れば重大な選択ミスなのであった。何故ならロックフェラー系の会社はロスチャイルド系のライバルであり、ひいてはそこで精勤することはモートに対する敵対行為に当たると見做された。Esso/Mobil という会社は世界中に affiliate があった。その従業員全員が(ただしモート人は除く)初めから及第点の可能性がないのである。もし私が Shell で働いていたら及第の資格があったかも知れない。ひょっとしたら ExxonMobil が20世紀末を最後に日本から引き上げた背景にはそれがあったのかも知れない。「赤い楯(上)」のアメリカのパラグラフに書いたように、「ロックフェラーだけでなくドイツの鉄鋼王クルップ、フランスの実業家ラフィット、ドレッセル、銀行家ペリエ、イギリスの保険王ロイズ、オーストリアの金融王シナなど、20世紀に現れた百人の両手の指を折るほどのライバル企業」で働いた従業員もまた同じ扱いなのであろうし、モルガン系以外の金融機関に所属した従業員も同じ定めであったろう。ナチスのユダヤ人に対する常識外れの暴力はこの見えないスキームに対して戦いを挑んだものだったという可能性は考えられないだろうか。
特別暑かった今年の夏に東海道および関東平野で覇権を争った人間グループ対悪魔グループの戦いで、やっと人間の優位が決まった。日本でモートに人間を裁く権能は亡くなった。この戦いで分かったのは、インドの地で「こういう恰好をした動物を見たことはないか」とイカ族のことが噂に上り、イカ族の絵を描いたスケッチが出回って「これがドラヴィダの吸血鬼族の姿だ」と話題になったらしいということである。そしてヒンズー教徒の間で潜在意識が覚醒しイカ族排斥の動きが広がった結果、東京近辺のある県のある町にインドから来た彼らの群れが参集したのである。もともとイカ族のテリトリーであるという噂のある場所だった。戦いに参加した人間は皆「こんな所は人間の住む場所ではない」とあきれ果てたが、そこにも大勢の人の子が何の危機意識もなく住んでいた。この人々は仏教の本質が何であるか知らいで有名な建物の敷地のそばに住んでいるから、人間に伴ってアバターもいるのである。我々とヒンズー教徒の間に同じ敵に対する共闘はなり立つだろうか。
およそ300年前にも人間対悪魔の戦いがあり健闘したが、あと一歩人間は勇気を出しきれず旧来の差別を覆すには至らなかったそうである。そのかわりモートは人の子にも人間になるチャンスを与えると口約束したが、実際叶えられたのはゼロだった。人の子は人間に生まれ変わるモートに対し「人間には羞恥心というものがあるから陰部を人目にさらすようなことはするな。恥かしさを忘れた女は軽蔑されるから」と親切心で助言した。アメリカで露出的な姿で舞台に立つ歌手の Bや女優の Sにはこの助言が届かなかったのだろうか。離婚騒動で話題になった映画俳優 JDの妻は中々の美人だがベッドに排泄したというから、これでは動物そのままではないか。今日アメリカ女の実体はほとんどがモートだと言われている。
イエスはマタイ25章で「自分の兄弟である最も小さい者に何をしたかによってお前たちは選り分けられて裁かれる」と言った筈であった。ところが逆にモートが人間を裁いているのが現実である。一体イエスは何処に隠れ何をしているのであろうか。それとも25章は改竄か。ダビンチの描いた「最後の晩餐」はひとコマの静止画であるが、もしこの画に「アクション!」と命令すると、イエスとその仲間の人間グループに向かってペテロを首謀とするクラバック組が恐るべきランページを揮うシーンが展開するのである。彼らは事前に武器を用意し謀り事を巡らしていたとしか考えられない。先ずイエスは椅子に縛りつけられ、ナノワイヤーで左右の二の腕と両足の膝から下を切り落とされた。止めに入ったマタイは二度ナイフで刺され床は血の海になった。何事が起きたのかと部屋に乱入して来たマリアはあわれな姿のイエスと目が合ったが「私にはどうしようもない」と呟いた。勝ち誇ったペテロは「これが人間共の未来の運命だ」とうそぶいた。人間たちは皆拘束され、暴力を振われるがままだった。程なくして騒ぎはやや静まったが、最後の晩餐でイエスが言ったように、これからローマ兵が来てイエスをエルサレムに連行し、サンヘドリンで尋問を受けさせるのであれば、手足のないイエスを引き渡す訳には行かなかった。従って誰かを身代わりにする他はなかった。ペテロが指名したのはピリポで、ピリポも「ノー」と言える立場ではなかった。夕刻になってユダはピリポをローマ兵の元まで先導し、ピリポに最後の別れの接吻をした。そして家に帰ると絶望の余り自殺した。従って人々に語り継がれるように十字架を担いでヴィア・ドロローサの道を歩いたのも、磔刑の十字架上で死んだのもピリポであった。聖墳墓教会にある遺骨もピリポであろう。聖書はこれらのことをあった事実の通りありのままに記してはいない。すべてはキリスト教信者の信仰を的外れにし、何事もなかったように信じ込ませ、信者の望みに空しい結果を与えるように仕組んだペテロの企みだった。使徒という信仰集団自体がこの時を持って終了したのである。だからニケーヤ公会議であたかも使徒が全員揃って使徒信条が決議されたかのように装ったのも嘘の上塗りに過ぎなかった。
今世紀の初め頃見た夢で、どこか知らないが明るい光の射す石畳の広場に私はいた。その広場で飛んだり跳ねたりしている二人の人影があったが、お互いそっくりの二人には驚いたことに両手の二の腕と両足の膝から下がなかった。だから上半身ががっしりとした身体にも拘わらず背丈は低かった。しかし手と足の傷口はすっかり塞がって厚い肉に覆われていた。何故か二人の顔には喜色があふれていた。彼らの髪の毛は茶色で肌の色も白く明らかに西洋人の姿をしていた。その内の一人が私に抱きついて来て身体が密着した時、私はこれが一体誰なのか、何が起きたのかと事態を吞み込めず、驚きのあまり目が覚めてしまった。彼らは私が尋ねて来るのを長い間待ち望んでいたのだろう。あれがイエスとそのアバターだったと気付いたのはずっと後になってからだった。あの時以来彼らは普通の体形に戻ったようである。
ナノ分子科学という分野は昔からあったのだろうが、私がナノワイヤーについて知ったのは「三体」を読んだのが初めてだった。原作者の劉慈欣がこの分野のことを知っていたのは何故だろうか。それだけでなくこのブログのSF①「三体」を読み返すと「ほんとうのところ、すべて神様が---魏成の妻ユー・フェイの言う“主”が---もはや自分自身をさえ守れなくなっていることが原因なのだ」という文章は、イエスがペテロの仕掛けたナノワイヤーに手足を切断されて人間救済の宗教が挫折したことを言い当てている。このことが言えるのはモート族かユダヤ人しか考えられないが、作者自身がモートなのか、或いは中国にはモート族が多数いて作者がそんな友人の一人から聞いたことだとも考えられる。今年は世界中で異常な洪水が多発したが中国では特にひどかった。あの天災は土遁の術が得意なモートに対し逃げ道を塞ぎ溺死させるための天の報復だったのではないかと私は思っていた。中国にモートが多い理由の一つとして、マオタイ酒はモートの大好物らしい。