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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

サクリファイス 犠牲

 ヨーロッパで革命軍は悪魔・モート連合と対決し、サラゴサで休戦会議が催された。革命軍にはイギリス人有志とドイツ人有志が加わっていた。末日聖徒のアメリカ人もいた。会談の結果次の3点が明かされた。
(1)アーリア人は遺伝子だけを残してモートによって根絶された。ドーキンスの「人間は遺伝子の運び屋」とはこの事を指す。言っている本人が誤解している。ホーガンが「星を継ぐもの」に書いたように人間(サピエンス)は地球に遺伝子を運んで来たが、まるで身に纏っていた衣服を略奪されるようにすべて中身はモートに取って代られた。イギリス人とドイツ人は「この野郎、そんなことをしてタダですむと思っているのか」と激昂したが、イエスは憮然として押し黙っていた。ここに何故フランスが入っていないのかと疑問が沸くだろう。その理由を説明するのは気の重くなる作業で誰かに代わって欲しいが、他に誰がやってくれるだろうか。またこれまで私が明るみに出したのはまだ未解明で残された問題のほんの序の口に過ぎないということらしい。一つ言い添えると、第二次大戦はヒトラーがドイツ・アーリアンの存亡を賭けた最後のあがきだった。
(2)モートは悪魔さえ膝下に跪かせていた。
(3)地球を悪魔だらけにしたいモートにしてみれば人間を根絶やしにしたつもりだったが、人間は母星から絶えず地球に流れ込んで来るのである。
誰しも死んであの世に行けばこれらのことが私の作り話ではないことを認めるだろう。

 折しも「サクリファイス 犠牲」という本を読んでいてドーキンスの「利己的な遺伝子」の話が出て来た。この本は純真であり父に一目置いている次男(Y君)が、どうしても父とは異質な自分と父との間の溝を埋めきれず反抗して若くして自殺し、父である筆者がまだ命脈のある限り集中治療室の息子を長男と交代で看取った11日間を自ら記録したものである。内容には事実の持つ重みがある。次男は中学生の頃友達が投げたチョークが眼球を直撃し重症を負うという不運な事故に会ったのだが、それがなければまったく別の平穏な成長もあったかも知れないと思わせる。次男は父に「他人のことよりこの家の地獄を赤裸々に書け」と勧めていた。私も7人家族だった自分の家の混沌を思い出したが、我が家では比較的平穏に父の権威は守られていた。筆者の妻は病気がちだったので父親が台所に立った。次男はそれを見て「アンドロジーナス」と皮肉を言う。私はこの言葉をいままで全く知らなかったが、あるいは出会っても注目し記憶することを拒否したのかも知れない。次男の愛読書には大江作品もあるが私は自分が大江作品の読者だとは言えない。「赤ん坊は揺籃の中で殺した方がいい」という記述が引用されているのを読んで「そこまで言ったか」と驚いた。「燃え上がる緑の木」の項を読み返すと「両性具有をテーマにした作品をこの他に知らない」と書いているが今は「神の目の小さな塵」を読んでそうではなくなった。
 タルコフスキーの「サクリファイス」は私も確かに岩波で見た。もう時間がたっているし、あり得ない設定の、敢て観客の反感を狙ったキワモノ的映画だなと思って受け入れなかったから記憶も確かではない。しかしそれは当時の私の頭がマリアに対する凡庸な一般常識のミストにすっぽりと包まれていたせいで、当時より少しは学習して得た知識で踏み込んで再考するとあの映画には恐るべき事実が含まれていたのだと気付いた。
 本は後半で脳死と臓器移植のテーマに入って行く。次男は人の役に立ちたいと骨髄バンクに名前を登録していた。しかし骨髄バンクに登録することがサクリファイスではないだろう。筆者は「タルコフスキーにおける犠牲はほとんど生贄と同義語と理解していい」と書き、辻邦夫の「ただ一つ重要なことは私たちの平凡な一日一日がアレクサンデル(映画の主人公、元俳優)がそうなったような(誰かの)犠牲によって支えられている」を紹介している。私はこれまで辻邦夫を高く評価し感動もし未読の作品も是非読みたいと思っているが、このコメントはどうだろうか。自問すると、若い頃自分の感受性をしばしば持て余した私だがY君や辻邦夫のような感覚を持ったことは生涯なかったと思う。サクリファイスがキリストの磔刑を意味しているかといえば、少なくともY君の場合違うだろう。彼はかたくなにキリストに祈ることを拒んだのだった。
 骨髄移植の適合者はいなかったので本人の自発的な意志表示はなかったことに迷いながら筆者は医者の勧めに従い昏睡中の次男が腎臓移植のドナーになることに同意する。「私を離さないで」の追記に書いたように私は移植に賛成ではない。読み終わるあたりでグッと来て貰い泣きしそうになったが何故自分が泣くのかと思った。時々あることだがY君が来ていたのだった。彼は「臓器を無駄にしないという考え方は取らない、やはりキリスト教には入らない、お父さんを守らなければならない」とのメッセージを残した。拙速ではない11日間の看取りには離脱に十分な時間があったのだろう。

 「恵みあふれる聖マリア、主はあなたとともにおられます。主はあなたを選び祝福し、あなたの子イエスも祝福されました。神の母聖マリア、罪深い私たちのために、今も、死を迎えるときも祈ってください。アーメン」これがカトリックにいた時毎日曜日ミサの前に必ず繰り返された祈りだった。私も担当者が欠席の場合頼まれて祈りの先導を務めた。カトリックが仕組んだこの祈りが実は実態を逆転した恐るべき罠だった。
 正典の中でマリアが出てくる場面を5ヵ所引用する。最初は「無原罪の宿り」と呼ばれるイエス懐妊である。性行為なくして女が懐妊することはありえない。聖書のごまかしである。婚前交渉なぞ当たり前の現代から見れば人々は何も目くじらを立てることはないと思うだろうが、これは彼女をどう見るべきかの象徴的な出来事である。未婚の女が孕むことは当時としては身持ちが悪くだらしない女の証だった。2番目はカナの婚宴である。ぶどう酒が足りなくなった時マリアはそうイエスに告げるが、イエスは「婦人よそれが私とどんなかかわりがあるのです」とすげなく答える。3番目は「悪魔の起源」のp-48に書いたマルコ3:31~35である。イエスはマリアも自分の教えの仲間であるとは思っていない。4番目はマタイ福音書の最後である。(マグダラのマリアとほかの)マリアが朝早く出かけたが、戻って来て「イエスの収められていた場所に行ったが天の御使いがいるだけで、イエスはよみがえってそこにはいなかった。ガリラヤに行けば復活したイエスに会えると使徒たちに伝えなさい、と天使に言われた」と使徒たちに告げた。しかしこれは嘘であろう。復活したイエスが最初に現れたのはエルサレムにほど近いエマオ(Emmaus)だった。マリアは使徒たちをガリラヤに遠避けさせたかったのである。その目的は使徒たちに妨げられずイエスの遺体をユダヤ人上層部に渡すためであり、その結果「ユダヤの呪いを自らと子孫に与えよ」と言われざるを得ないようなことに意図的に協力したのである。5に使徒行伝1章で、昇天する前の40日間イエスは現れて使徒たちにエルサレムに留まるように言った。「マリアと女たちは祈っていた」とあるがまだキリスト教は形を成していない時であり、ユダヤ教の神に向かって祈っていたのだった。頑ななマリアがイエスの教えに帰順したらしい納得できる推測はどこからも出てこない。

 聖書からも導かれるこうしたマリアへの疑惑を気付いている者はいたらしい。例えばデイッケンズやポリトビューロー(旧ロシア共産党指導部)などである。バチカンも知らない訳はないと思うのだが。霊界ではマリアの実体が何者かはあまねく知られている。マドンナグループとは地獄の支配者である。私がガバメントの広報活動のようなことをしていることに対しさかんに「騙されている」と言う者がいて、その声を聞く度に不安にかられた。後で分かったことだがその理由は「キリスト教とはマリア崇拝」であり、だとすればキリスト教を広めることはさらに多くの犠牲者を地獄に送ること以外ではないからだった。また沢山の偽マリアがいるとも聞いていた。独身時代の千葉、退職して改宗後の新潟、金沢、大阪でマリヤと思しき女性霊が来た。血の涙を流す聖母像のある秋田の女子修道院にも行った。例えば新潟のマリアはパバロッティのアべ・マリアを聞いて泣いているようだった。大阪司教座の教会に夜行バス発車までの待ち時間に訪ねた時のマリアは「5月1日は御霊の集まる例会の日だから来てくれ。次回は生まれ変わってブラジルに行ってくれ」と言った。何か緊張感があったが声は柔らかだった。その声には従わなかった。マリアになりすました悪霊がニセモノなのではなく、善人のように振る舞うマリアが偽マリアなのである。おまけに多分これらのマリアはいかにも魅力的な美女であろう。騙されても仕方あるまいと思う。

 前にユダヤ系の美女の写真を20人ほど載せたネットの記事を見たことがある。成程どなたも文句のつけようのない美女ばかりだった。ユダヤでは美女は悪魔のお目こぼしに与かるそうである。彼女たちが人間になり結婚して娘を孕んだら胎児にマリアグループの霊を送り込む。そうやってマリア族はますます外見的な美貌を獲得する。そのためにはマリアグループが人間の胎児に霊を送る差配権を持たねばならない。西洋で本来誰がこの差配権(日本では「道の教え」と呼ばれる)を持っていたかは Quo Vadisに出ている。アフロディテである。アフロディテはマリア族によって吊るし首にされたが、後釜がやはり美女なので監督者は気付かなかったのだろうか。我々のグループが来て人間に宿った時「人間なんか連れて来るな」と言われたらしい(アロンはモートを見て「こんなもの連れて来るな」と言った)。またマリアはモートが来ると(「神の目の小さな塵」でサンドラがしたように)頭を撫でてやるそうである。あえて父母と子供たちは「幸せな家庭の和やかな団欒」なぞ絶対あり得ないような組み合わせにする。イエスがマリアの胎児に宿ったのも同じ狙いだったのだろう。人間の入口と出口を支配しているマドンナたちの及ぼした影響は余りにも大きい。

 また夢の話で恐縮だが私には重要なことである。ある男性、まだ若くて彼に見覚えがある気がしたから私の仲間だったのだろう、が多分グループ旅行が終わってフランスの空港から帰ろうとしている場面である。見送りの中にそれ程目立たないが中々の美女がいた。彼女は西洋では中肉中背でやや横顔を見せて、口元に薄く笑みを浮かべ伏し目がちにちらちらと彼を見て目を離さなかった。私にとっても好みの女性で、彼が彼女を理想の女性と思いもう一晩延泊する気になったのが分かった。例えば誰のようだったかは、昔夜の番組に出ていて今はテレビではめったに見ないがブログによれば講演などで活躍しているある女性タレントのようだった。彼はうたかたの愉楽を味わったのだろうが最後に喉をかき切られて血を抜かれ、また一人私の仲間が減ったのだった。「巧言令色鮮し仁」の令(麗)色とは美女という意味ではないかと思い当たった。
 この夢とタルコフスキーの映画・サクリファイスを重ねると辻褄が合っていない部分がある。アレクサンデルがマリアと寝て生贄にされそうになり「我々を殺さないで」と助命歎願するのはあり得るとしても、犠牲になることで人類が救われるか?辻邦夫は何を言っているのだろう?彼に平凡な(つまり不幸でない、まあ幸せな)この世の日常生活が与えられたのは別の誰かが犠牲になったからではないか?私にとってこの映画の配役で助けて欲しいのは物言わぬ少年の方である。マドンナグループは女ばかりの世界である。即ちマリアが男と寝て妊娠すれば女児は仲間になるが男児は口もきけないうちに殺される。野坂昭如の「骨餓身峠死人葛」の世界である。タルコフスキーは何故スエーデンにいないでパリに行って死んだのだろうか。フランスはノートルダム教会の本場ではないか。

 これまで私はプロテスタントにはマリア信仰がないことも書いたし、カトリックに行かないことを勧めていた。それで必要にして十分であり、フランスのことを持ち出すのは止めようかと思った。しかしブルグンドや南仏地方には違う宗教観があるかも知れない。旅行で見るフランスの外観はどこの国よりも素晴らしい。よくフランスの霊が訪ねて来る(フランス語を習得しブローニュに逗留してくれと言われた)。先の旅行でも通勤客で混んだ朝のパリの地下鉄で魅力的な女性がすっと立って席を譲ってくれた。愛着はあってむざむざと見捨てられない。しかし何の権威もない私が説得するのは余りにも難かしそうな国でる。フランス人よ、あなたたちは加害者なのか被害者なのか。どっちにしても泣きたくなる。だが「われらがマダム」に見切りを付けない限り『今から後、主にあって死ぬ者は幸いである』という時は来ないだろう。

 1917年ポルトガルのファティマに聖母が現れ奇蹟を示したことがあった。第一・第二の予言はすでに明かされ、第三の予言は封印されていたが、封印が解けて開示されるべき1960年が来ても時のヨハネ23世は内容に衝撃を受け再び封印し、次のパウロ6世も内容を知って卒倒しまた封印した。その後発表された第三の予言らしきものはそれ程ショッキングではなく本物かどうか余り信用されていない。この第三の予言とは実はマリアの偽善性と悪魔性を告発しマリア崇拝を止めるよう勧告するものだったのではないだろうか。そのままバチカンが発表していればマリア崇拝はもう60年前に終わっていた筈である。ではファティマの聖母とは何者だったか。人々はルルドの奇蹟を参考にマリアだと思い込んだが聖母は子供たちに名前を言ってはいない(どんな場合でも現れた神が「自分は誰々だ」とは言わないものである)。ここにP.K.ディックの「Valis」がヒントになる。ソフィアである。Valisでソフィアが言い残したケリュグマは今の状況を表しているように見える。私はポルトガルという国の特性を知っている。一人で抱え込んでいても埒が開かないので書くことにした。

 ヨーロッパがそうであるように、私の周囲にもあちこちに多数のモート人がいるのを実感している。人間を「奴隷共がいる」と見下している者がいるが、決してそれだけではない。人間と一緒に戦ったモートもドイツにはいた。「神の目の小さな塵」にモート星が人口過密になると二派に分かれて戦い、数を減らすことが出ている。闇雲に戦うのではなく、アメリカの民主党と共和党のように考え方の違いによって二手に分かれるのだろう。人間を基準に考えれば misanthropic なモート人だけでなく philanthropicで友好的な、能力が高く尊敬に値するモート人もいる。彼らのうち人間になっても自分がそうであることを自覚している者が高い確率でいるのではないだろうか。


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追記-------
東大阪市に石切神社という立派な神社があり昔行ったことがある。「石切」という名前は青森のキリストの墓にちなむ伝承に言われる「イスキリ」とよく似ている。しかし石切神社と関係ありとされるニギハヤヒやナガスネヒコがキリストとどう繋がるかはよく判らない。むしろ彼らはキリストとは逆縁の関係ではないか。また大阪湾の海流が特に早いわけでもなくそこに注ぐ淀川や大和川が急流だということもないと思うが、大阪のことをナニワとも呼び「浪速」の字を当てる。これもキリストの墓に伝わる盆踊りの「ナニヤドラ」に似ている。このように名前が似ていること位しか根拠はないのだが私は大阪とキリストとは関係あると思っている。その理由は先達て亡くなられた八千草薫さんである。彼女は大阪の生まれで、その存命中私は八千草さんがイエスの娘だと聞いていた。彼女は内心キリスト教に改宗したいと希望していたが婚家の反対によって叶わず葬儀は仏式だったらしい。それでも彼女が救われたらしいのはイエスが宗教の枠を超えて介入したからではないか。当然のことである。ブログの冒頭のガバメントのガイドラインに「無事でこの世に出かけた者は無事でこの世から帰って来る」がある。
カトリック東京司教座の関口教会にルルドのマリア像の模型がある限り関口教会は引っ込みがつかないで耳を貸さないだろう。しかし大阪の教会にはそんなものはなく妨げるものはない。旧弊に捕らわれず一歩踏み込んでマリア信仰の過ちを機会ある度に信者に説いて諭すよう願って止まない。カトリックと雖も自由裁量の余地ありと聞いている。