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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

夢の不思議

昔から夢は元々よく見る方だった。30歳を過ぎて爆発的な霊的体験をしてから特に鮮明になったように思う。然しその登場人物たちは何故私の夢の場に現れるのか、私とどういう繋がりがあるのか理解出来ないことも多い。 勿論通常の夢も見て、会社の女性達の中には本人以上に夢の中で親しみを感じる者もいる。

ある時寝ていると、子供が大きな声で私に何々せよと話しかけてきた。半分目があいて見回すと自分のまわりがまるく光っていた。その光の中に子供が一歩入ろうとした時、光の外にいた白い服の女性があっと叫んで子供を抱き上げ、すぐに降ろした。すると子供は象の首のお面をすっぽりとかぶっていた。素面はさらしたくなかったのだろう。彼はガネーシャの化身だったのだろうか。

別の夢で、七つの枝の燭台に蝋燭が灯っているのが見えた。後でそれがメノーラーと呼ばれるユダヤ教の燭台であることを知った。その二十年後イスラエルに旅行した時メノーラーをお土産に買ってきた。

これは人間界と霊界の時間感覚の違いを示唆した夢である。
明りの中に少年のものらしい右足だけが出ていた。少年は椅子に座っているようだがその身体は影に隠れていた。そして彼が足をトントンとやや早い調子で光から影へ影から光へと出し入れするとその度に靴下の色柄が変わった。物理的世界で人間が動作に手間取るよりはるかに素早く変化することが出来るようである。これは声でも同じである。ある時室内にいると家の外から車がマイクで流す歌が聞こえてきた。するとその歌に合わせて私に当てこする替え歌がメロディーに全然遅れずに聞こえてきた。丁度ジャンケンマシンのようなものである。ジャンケンマシンは絶対人間に負けないそうである。なぜなら機械は人間が出すジャンケンがグーかチョキかパーかを掌の形ではなく手元の筋肉の動きから瞬時に判断して素早く後出しジャンケンするからである。

本を読むとその主人公が出てくることがよくある。「東電OL殺人事件」とその続編を読んでいた時、何所かうす暗く侘しげな場所に彼女(YW)がコートを着て現れ「読んでくれてありがとう」と言った。私は嫌悪感や軽蔑ではなく、疑問と痛ましさを感じながら読んでいたのだった。この本の別のテーマは、訴追されたゴビンタ被告は犯人ではなく濡れ衣ではないかと筆者が見ている所にあった。彼女は真犯人が誰か知っているだろうし私も答えを知りたがっていることは分っていただろう。本に出てきた人物の誰かが犯人ならば名前さえ挙げれば私に伝わる筈だが、私の知らないことは言わない、というのがこんな場合の鉄則である。デルフィの巫女の時代からそう簡単に解が与えられることはない。

水村美苗「私小説」を私はとても面白くまた感心しながら読んだ。これは作者とその姉のアメリカでの学生生活を描いた本である。ある晩寝ている時二つの小さい顔が私の顔にくっつく程間近に現れじっと私の目を見つめていた。作者の顔は写真で知っているが夢に現れたのは余りに幼い造りなので最初誰か分らなかった。二人はお互いそっくりだった。

角田房子「甘粕大尉」を市の図書館から借りて来たのは「甘粕大尉はお前の前身だ」というような声を聞いたからだった。彼の死は私が生まれた後だったのですぐに嘘だと分ったが、その声が何を意味しているのかと疑問に思いながら、あまり感動や興味を感じないで、大逆事件に対する彼の沈黙や軍人としての満州国での行動にずっと批判的な気持ちで読んでいた。別に私とは関係なさそうだった。読み終える頃、僧侶のような短髪で和服を着た、小柄ながっしりとした男性が私の頭の近くに黙って座っていた。夕日を背負っているように背後に真っ赤な光が輝き、顔や体の前面は逆光で影になって見えなかったが、私の心臓が騒ぐ程身体から怒りの気を発散していた。

「ビラヴド」はフィクションなので夢に出て来たのは主人公ではないだろう。ノーベル賞を受賞した黒人の女性作家が南北戦争時代の黒人奴隷の苛酷さを描いたこの小説は正直読み辛かった。魂は肉体に宿るが黒人は魂の姿も黒いだろうかなどと考えていた私を笑うように、海を越えて大きな黒人の女性が肉感的な姿で現れた。作者の分身だろうか。

米原万里の本は何冊か買った。共産主義という強固で画一的な枠の中で個性的な女性たちが人間的に必死に格闘しながら生きていくストーリーはどれも切実で面白かったし、エッセーでもハズレがなかった。早すぎる死だった。死後出版されたエッセーを読みつつ、「私は唯物論者として死ぬ」という彼女の言葉を思い返して唯物論者でも魂は残るだろうとなにかを期待したが、果たして何も起きなかった。

「春の戴冠」を書いている間中、シモネッタの像が親しげに付いて離れなかったと辻邦生は書き残している。また僧である釈徹宗は不干斎ハビアンが自分に憑いてくれないかと願ってハビアンの本を書いたとあとがきに書いている。

鮫は人が珊瑚か何かでちょっと怪我をすると血の匂いを嗅いで海流の方向に関係なく四方八方から寄って来るという。そんな風に、人間が誰かを思っていると霊界はそれを敏感に感じ取るのではないだろうか。

二児の母親で会社にアルバイトに来ていた女性が出てきた夢は露骨なので笑ってしまう。普段彼女には親しげなそぶりがあったが、だからといって普通以上の関係になった訳ではない。現れたのは本人よりずっと子供っぽいがよく似ている豊満な女性だった。下半身は裸で、丁度スピードスケートの選手がリンクを滑る時のようにかがんで臀部を突き出している。振り向いた顔は下から覗いて目が私を見ている。然し挑発的に身体を曲げているその角度が絶妙で、隠すべき所はちゃんと見せないようにしている。
これを見て、この夢は編集された映像に違いないと思った。もしまずい過剰な露出部分があったら編集して事前に削除出来る。カメラに視線を向けて撮影すると目線が会ってその時私を見ているように思わせる。
きっとあちらにも我々と同じかそれ以上のテクノロジーの世界があると思う。