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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

マルキオン

 バート・D・アーマンは「捏造された聖書」で問題提起し、長い手書きの時代に写字生によって聖書がどの様に間断なく加工され、最早何が真実であるかが如何に判読不能になったかを、年代的分析により明らかにしています。その結果は彼に信仰の足元を揺るがすほどのインパクトを与えました。彼の「キリスト教の創造」は意見や表現や語彙の使用法の違いを分析することにより、今日ある文書を相互比較して真にその作者によるものかどうかを辛辣に同定しています。彼は基本的に偽書と見做された文書の価値を認めません。読んだ感想として思ったのは、彼にはメートル原器がなく相対性の罠に陥っているな、ということです。従って異同については鋭く注視していますが、どちらがよりイエスの教えに近く正しいかどうかについては判断を差し控えていると言えるでしょう。我々素人は手紙であれ意見書であれ「代筆」ということもあり得るのではないかと思うのですが(アーマンは当時読み書き出来ない人が多かったという例を挙げています)。代筆によって出来上がった手紙には語法の違いがあったり代筆者独自の解釈が少々紛れ込んでも、現在と違って細部に拘り後で書き直すことは困難で、よく仕上がっていてほぼ依頼者の考えが取り込まれていればそのまま完成と見做されたのではないかと思われます。

 今更過ぎ去った歴史が変わる訳でもないし、異端とされた教えがむしろ正統の地位を占めて発展の場を与えられるべきであったと考えられる例は数多いと思われますが、「キリスト教の創造」でアーマンが取り上げたマルキオン(P101~)は聖書に二神ありとするこれまでの私の考えにきわめて近いので紹介します。マルキオンが葬られた後二神論が再浮上することはなく「人間はなぜこんな簡単な理屈に気付かないのか」と神は嘆かれたそうです。
アーマンによれば、マルキオン説は「イスラエル人を己れの民と定め律法を課した旧約の神」とは「何人たりとも律法を守り抜くことが出来なかった」人間にその罰として破滅を与えた、邪悪なのではなく公明正大な復讐の神であるとして、イエスが福音で招いた救済の神とは別物であると見ます。理由として、エリコに先住する男、女、さらには子供まで虐殺し約束の地を奪うようイスラエルの民に命じる神(ヨシュア記6章)が「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」「自分を迫害する者のために祈れ」と教えたイエスの神と同じとは思えない。また預言者エリシャの禿げ頭を囃し立てた少年たちは、怒ったエリシャの祈りに答えて現れた二匹の熊により42人が引き裂かれて殺されたが(列王記下)、これが「子供たちを来させなさい」(マタイ19章)と言った神と同一だろうか、という例を挙げています。

 二神説には先達がおり、ケルドは「律法や預言者たちの教える神は私達の主であるイエス・キリストの父ではない。なぜならば一方は知られているが(YHWH)他方は知られていないからであり(知っているのは父と子と子が特別に教えた者だけ)、一方は義であるが他方は善である」と説いたことがエウセビオス教会史に出ています。
旧約の神の非情さの例として、出エジプト記の「エジプトの国のうい子はパロの初子もはした女の初子も家畜の初子もみな死ぬ」や、ミステリー小説“ミレニアム・ドラゴンタトゥーの女に引用されたレビ記の懲罰規定も枚挙できるでしょう。イエスが来た直接の目的はイスラエルの民をこの神の苛酷な差配から救出するためだったのですが、この神は公明正大な懲罰の神というよりは、厳罰の裏に悪意ある欲望と目的を隠し持った人間狩りの神だったというのが私がこれまで書いて来たことです。
洗礼者ヨハネはこの神を信奉するユダヤの民衆を「まむしの子」と呼び、イエスもこの神が「霊に対してやっていることは許されるものではない」と言い、またイエスを殺そうとするユダヤ教のリーダーに対して「あなたがたは自分の父、即ち悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから人殺しであって真理に立つ者ではない」(ヨハネ福音書)と言いました。だから守旧派と革新派の対立を浮き彫りにさせ、この現状を改めるために「私は人々の間に争いをもたらすために来た」、そしてだれか先人がいて「既に火の手が上がっていたらどんなに良かったか」と言ったのです。

 マルキオンはパウロの10の書簡集(テモテ1,2とテトスを除く)とルカ福音書を正典として取り上げ旧約聖書を正典から全く除外しました。正典という概念を持ち出したのは彼が初めてだったそうです。
しかしマルキオンは旧約の中にも二神があることを重要とは考えなかったのでしょうか。一方の神は選別された動物の供物を求め、他方の神はイザヤ書や詩編50が宣言しているように供物を求めないし、詩編50の「主の主」ははっきり肉食しないと言っています。究極の供物は人身御供ですが、尤もらしい粉飾があるとは言え創世記でアブラハムにイサクを供物として供えるよう要求した神とそれを止めさせた神が実は別の神だったとは考えなかったのでしょうか。アダムの子カインは地の作物を供物として奉げますが、ユダヤ教の「主」は弟アベルの奉げた羊の供物の方を喜びます。これに怒ったカインがアベルを殺したのは、弟を人身御供にして神の歓心を買おうとしたのではないかとの疑いが浮かびます。私がそう考えていた時、「歴史の秘密は軽々しく明かせない」と声がしました。
また洗礼者ヨハネが「私の後に来る人は火と霊により洗礼する」とイエスの出現を先触れしたのは羽化(補足)に書いた通りイザヤ書に先例があり旧約と新約の関連性を窺わせます。

 アーマンはマルキオンが正典としたルカ福音書を「ルカ福音書の別バージョンだ」と偽書扱いしていますが、むしろマルキオンのルカ福音書の方が本来のルカで現在の正典ルカの方が後に編集されたニューバージョンとは考えられないでしょうか。私が「30・マリア」の項を書いた時、ルカ福音書が「マリアは聖霊によって神の子を宿した」とあたかも相手が人ではなかったように表現しているのは意図的に事実を隠して(処女から救世主が生まれると説くゾロアスター教的な)迷信臭く、反って聖書の信用を損なうだけではないかと怪しんだ時、後ろで「ルカが悪いのではない」と言う声がしました。イエスの誕生の記述は後代の追加であるという説があります。アーマンも「捏造された聖書」で、公衆に向かって説教しているイエスの前に姦淫の現場で捕まった女が連れて来られ、イエスが試される話が後代の加筆であることを証明しています。抹消は追加を上回り、ボリュームだけで見て新約聖書はオリジナルの四分の一が失われているそうです。たとえばイエスはゾンビについても語ったようですがどこにも見当たりません。ヨハネもヨハネ福音書に加えられた改変を諦めているそうです。コロンビア大学モートン・スミス教授が1958年に発見した二世紀ギリシャ語の手紙は、現在のマルコ福音書には載っていない二つの物語をマルコの一部として言及しており、手紙の真贋が論争の的になっているそうです。(p297

 カトリックが揮う権威と聖書の独占に反発し、プロテスタントは「聖書に返れ」と主張して聖書の一般化に寄与しました。その結果どのプロテスタント会派もことさらに聖書への信頼を強調しその無謬性を指導理念として掲げています。どうも新約聖書が今日ある姿に定まる前に様々な加工をした者がおり、誰かにとって不都合な真実が覆い隠され、その証拠も隠滅された疑惑があります。アーマンも聖書はそのまま字句通り信用してはならないのが従来からの暗黙の了解事項だったと言っています。彼を代表とする本文批評学者の努力によって開示された新たな成果が正当に評価され、教会の信仰の現場に取り入れられるような動きはないようです。科学がそうであるように、信仰も常に現状が打破されなければなりません。聖書が神の霊感によって書かれているにしても、霊感を受け取り記録したのはしばしば過ちを犯しがちな人間なのです。私の経験から言えば、地上は邪悪な霊に満ちており、役割を与えられた霊が真実を伝えようとして下りて来ても「本当のことを言えば生きては返さない」と妨げられるのが実状です。
二神説に立たないプロテスタントはカトリックと本質的に変らないのではないでしょうか。YHWHに向かって祈るクリスチャン、またはイエスの神とYHWHを一緒くたに祈るクリスチャンを、イエスの神が喜ばれる訳がありません。求める対象があいまいなクリスチャンは裁きでも受け入れられず、群盲となってさ迷う事になるでしょう。

 ユダヤ教が人間の生まれる前と死んだ後の霊的状態について語らなかったことを踏襲した訳ではないでしょうが、新約聖書に書かれたイエスの誕生と死後の復活の物語にも論理的に何かすっきりしない印象があります。誕生では胎児(マリアの相手は人間以外考えられない)に神の子の霊が合体したと記述すべきですし、イエスが霊的に復活したのならば何も死体が行方不明になる必要はありません。オリジナルの新約原典がどうだったかは判りませんが、旧約の神が人間の霊に対して何か良くないことをしていることを連想させないための旧約の徒による加工ではないでしょうか。
エウセビオス教会史にマルクスという人物が教会での婚礼で「イエスの中に降りてこられた方(そして天に帰った方)」の祝福を祈ったとの記述がありますが正しいと思われます。(ただし自分を正統派であると唱導するエウセビオスはマルキオンやケルドやマルクスを謬説の信奉者扱いして否定しています。)

 マルキオンの主張するキリスト仮現説は霊と肉体を別物と見てイエスが血肉を備えた存在ではないと考えます。死体が見付からなかったのもこの説を援護するかも知れません。その結果、彼はイエスと行動を共にした使徒たちではなくイエスの死後にその使徒となったパウロを評価します。これでは新約聖書の物語を大幅に改編する異端説扱いされるのも無理からぬことでしょう。そして「ユダヤの律法を遵守することでなくキリストの死と復活を信じることによってのみ、人は神に正しく向き合える」というパウロの思想に魅了された、とあります。イエス・キリスト自身の復活によって人間の死が即ち滅亡ではなくなった(永遠の命へ)ことをパウロは良き知らせとして異教徒に告げた訳ですが、マルキオンよ仮現説(キリスト非人間説)とパウロ説の間に矛盾を感じませんか?
ユダヤ教の信者はイエスの前にアブラハムもイサクもヤコブもモーセも霊的に生き残ったと言うでしょうが、逆にこの四人は誰が自分たちを救ったか、またユダヤ教の神が死者の霊に何をしたかを、歴史的に見たり、あるいは自ら神の業に与った証人たちでしょう。
然し仮現説には聖書の謎に関わる部分があります。というのはイエスが死者を生き返らせたり病を治すのは、人間にではなく霊に対してはあり得ることだからです。時代の変わり目に救世主サオシュヤントが人間として出現し霊を復活させたり治癒したりするとゾロアスター教が説くのは誇張ではありません。
逆に仮現説に立つマルキオンがルカ福音書だけを正典に挙げたことは、ルカ福音書でイエスが人間として誕生し幼児の時代を過ごす物語はマルキオン時代の原典ルカ福音書には存在しなかったことの証明になるかも知れません。

 旧約聖書の神はこの世界を創造した悪しき神であり、イエスの神は世界の創造主ではないとするマルキオンの見解にも混乱があります。いくら「神」の名で呼ばれる存在でも、創世記にあるようにビッグバンに先立って存在し、今日まで凡そ50億年もの長き命を保つことは恐らくあり得ません。中国人の天人五衰の考えには妥当性があります。今日存在する神々の命は日の最も老いたる者でも多分10億年を超えないか、超える者は極めて希でしょう。神は誰も例外なくこの世の地・水・風・火・空・光や自然の仕組みの創造、または生命の誕生と発展に関わり、イエスの神もその例外ではないでしょう。マルキオンが創世記を引用するのも矛盾ではありません。問題はホモサピエンスの誕生以来人間がこの世に存在するに至ったことをどう見るかで、旧約聖書の神は人間の創造を意図し加担したが故に悪しき神であり、以来人間(もしくは人間に閉じ込められる神の似姿の霊)に不幸をもたらしたと一方は考えるのですが、他方人間がこの世で過ごすことを恵みと見て、欲望の充足や強者が勝ち取る利益・栄誉を肯定する考えもあり、エウセビオスは後者に近くこれがカトリックの基本的立場でしょう。そこからキリスト教が俗権と結びつき更に俗権の上に立とうと試み、やがてグレゴリウス7世やアレクサンデル6世やインノケンチウス3世が生まれました。彼らがイエスの考えとは違うのは明らかです。「キリスト教徒になる者は神が選ぶ」と言ったヨハネの言葉は破綻したのです。

  正典に選ばれなかったコリントの手紙三(p105~)という文書が紹介されています。ここに書かれた似非教師による「神は全能ではなくあらゆるものの上に君臨する存在ではない」、言い換えれば現実は神の思い通りに行っていない、と見る説を私は肯定します。人間が性行為の結果妊娠すると、旧約の神も新約の神も、その上の神の命じる所により自分たちの子を人間の胎内に送ることを拒否出来ない立場にあり、これは何もイスラエルだけの話ではないでしょう。ユダヤにおいて旧約の神が審判のルールを作り、そのルールによって合否を判定し、その結果ほとんど合格する者はなく、旧約の神とその手下によって新約の神の子も含めて死後霊が収穫される状況にあった。それを新約の神は座視出来なかったのが新約を起こした理由でしょう。それは他者に恵みを与える「愛」以上の、切羽詰まった要求でした。何もしないことは負けを認めることに等しかったのです。旧約の神々は自分の子さえも収穫して食する訳で、彼らが悪魔と呼ばれ、洗礼者ヨハネやイエスにユダヤ教徒が悪魔の子と呼ばれた所以です。どちらの神の子も人間に落されるにはそれぞれの理由があり、それが「原罪」と呼ばれるものですが、イエスのように中には意図をもって人間になることを望んだ者もあるでしょう。

 クリスチャンは旧約聖書を読む時どうしても物語の主人公であるユダヤ人の立場から見てしまいますが、エジプトからローマまでの歴史でイスラエルと対立した関係国がすべて敵対国として悪く書かれるのは致し方ないでしょう。それらの国々が「勝手な理屈だ、我々から見ればお前達の神に問題があるのだ」と考えるのは無理からぬことです。聖書の英雄は敵にとって極悪人です。ユダヤ人には伝統的に他者を受け入れない独特の頑なさがあるのが原因でその姿は今日も変わらないと思います。だからイスラエルの周辺でキリスト教国になる国は皆無で、皆イスラム教なのです。
イスラエルの覚醒はイスラエル自身に俟つしかないでしょう。キリスト教誕生以来2000年を経た今、現在に直結する様々な問題こそ重要で、マルキオンがしたように教会ははっきりとconfusingな旧約聖書から離れた方が良いと思います。
キリスト教以後に誕生したイスラム教をどう理解するべきでしょうか。現在の社会がイエスの願った通りかどうかは判りませんが(多分そう思う人はいないでしょう)、この状態が今後の出発点であり、イエスの教えは今後も生きるのか最早役立たないのかが問い直されてもいい時期です。例えばイエスが行った数々の奇蹟は予防医学や日々更新されている医学的知識、医療技術、薬品によって乗り越えられています。