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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

悪魔の起源

 悪魔について書かれた次のような文章が記憶に残っている。出典は忘れた。
「もしケーキで出来た人間がいたら我々は彼らを捕まえて手足をちぎって食べ、胴体をケーキ皿に載せてナイフで切ってみんなで食べるだろう。彼らケーキ人は我々を悪魔と呼ぶだろう」

 我々にとってその逆を我々は悪魔と呼ぶ。ただしカニバリズムだけではなく、霊界にいる恫喝者・嘘吐き・暴力を揮う者・冷酷非情な神経の持ち主等の「共通の敵」、或いは偽金作りも悪魔の同類と見做されるだろう。然し彼らも人間に悪魔と呼ばれることを嫌っている(だから機会を捉えて人間になるものもいる。必ずしも悪人ばかりになるのではなく、学力テスト優先の人間社会で良い学校を出て高い地位につく者もいる。同じ立場に立ってみて、彼らは人間は少々真面目すぎると言う)。まして悪魔でないのに悪魔と呼ばれた者は腹立たしいと思うだろう。もし彼に権威があれば自分を悪魔扱いした者は審判で許されないことになる。サタンとはそういうこわい存在であると思う。エレーヌ・ペイゲルスは『悪魔の起源』で「サタンは貪欲・嫉妬・煩悩・憤怒・獣性などの異常な性格を体現している」(p-14)と書いている。これはキリスト教が誕生する以前のユダヤ思想をつゆ疑う事さえ知らずに真に受けた受け売りであり、彼女はそんな自分の危うさにまるで気付いている様子はい。一体サタンがカニバリストであり、恫喝者であり、嘘吐きであり、暴力を揮う人間の敵だというどんな記録があるのだろうか。また彼女は簡単に「キリスト教はユダヤ思想を受け継いだ」というが、キリスト教はイエスが命を懸けて当時のユダヤ社会にノーと言ったユダヤ思想に対するアンチテーゼだったとは何故考えないのか。多分それはイエスの決意の背後にYHWHの存在とヤコブ・イザヤらに率いられたユダヤで人間に対して何があったかを察知しなければ理解出来ないことかも知れない。ペイゲルスの学究は彼女自身を救わなかった。同じことを私はJ.B.ラッセルについても危惧する。

以下『悪魔の起源 エレーヌ・ペイゲルス 』より
p-15 マルチン・ブーバーの神についての定義「神は完全な他者である」とはどういう意味だろうか。ブーバーがユダヤ教徒だからだろうか。むしろ神は人間の側に立っている。ブーバーが砂漠の砂よりも多いと言われる宇宙の星々を生んだ高次の神のことを言うのならそれは聖書の神とは直接関係ないだろう。
「悪魔(ベリアルやマステマ)は西暦一世紀の(キリスト教運動が生んだ)混沌とした状況から生まれた」とは「ベリアルやマステマはそれまでもいたが悪魔扱いではなかった。初めてキリスト教運動が彼らを悪魔に見立てた」ということなら筋が通る。

p-17 自らの敵を象徴する存在として「サタン」が用いられた。福音書に示された超自然的な闘争のビジョンは実は現実の抗争を現わしており、それは宇宙的次元まで拡大するものであった。全キリスト教典を通じて常に他者を悪魔化することを許容してきた。
-----ペーゲルスは悪魔やサタンという言葉を「お前達は悪魔だ」「何を言うか。お前達こそ悪魔だ」と言い合いする現実の抗争の具に過ぎないと理解しているとしか考えられない。ヨハネ書でイエスが「お前達の父は悪魔である」と言ったのは冒頭に書いた悪魔の要件にあるように「お前達の父はカニバリストで嘘吐きで人間の敵だ」と言ったのであり、それはユダヤ教祭司たちが人の子ではないことも指摘するものであった。ユダヤ教祭司たちがイエスに怒りを抱いたのは真実を暴露されたことに怒ったのである。ホモ・サピエンスも地球外から来たのだが、それ以外にPhilanthropicな星から来たグループとMisanthropicな星から来たグループがある。ただし悪魔同士が縄張り争いして相手を悪魔と非難することはあり得るかも知れない。
「もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出し(て特別な役割を与え)たのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである」(ヨハネ福音書15:19)

p-38 イエスの本当の敵は歴史的観点から見ればローマの総督であり兵士たちであった。イエスはローマの処刑法により殺された。
-----イスラエルの地において人の子が人間になれず悲惨な運命を強いられていることこそイエスが新しい宗教を興した動機であった。彼の敵は人の子の道を阻んでいる者たちであり、ローマの力の存在は岩や地震や洪水と同じく逆らい難い強大なハザードであった。

p-41 「あなたは私の愛する子、わたしの心に敵う者」という声が天から聞こえた(マルコ1章11節)。また神の霊がイエスを荒野に追いやってイエスは野獣や天使と出会った。これらの出来事が大宇宙における善と悪の闘争に関わっている。
-----イスラエルであったような芽むしり子撃ちは世界中で同時進行していた。それに気付いたのはイエスだけだった。悪の勢力はインベーダーであり、神の立場は人間の側だった。日本にモートが来たのは貞観・延喜の頃と言われる。イカ族が来たのは仏教伝来と同時だろう。

p-47 また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。(マルコ3:23~26)
-----サタンがいる国や家はうまく行っているが別のサタンが入って来てサタン同志が争えばその国も家も立ち行かないし、サタン同士も縄張り争いで滅びるだろう。この譬でわずかにサタンは悪魔ではないことを言っている。

p-48 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばれた。大勢の人がイエスの周りに坐っていた。「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを探しておられます」と知らされると、イエスは「私の母、私の兄弟とは誰か」と答え、周りに坐っている人々を見回して言われた、「ここに私の母、兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹また母なのだ」(マルコ3:31~35)
-----神の御心を行う人とはp-41の神を信仰する者たちである。

p-72 多くの人類学者が指摘している所によればほとんどの民族の世界観は基本的に二種類の二項対立からなっている…人間対非人間、そして我らと彼らである。
-----カトリックの方針は旧約と新約の二項対立をあいまいにさせ新約を旧約に併合させることだった。イエスの父なる神は旧約が昌道する全能神と同じであるという理解へ導いた。ペーゲルスの認識においても新旧の二項対立が明確であったとは思えない。

p-73 イスラエルが「主おひとり」にのみ忠誠を誓うことを要求する人々、例えばアモス(BC750年)やイザヤ(BC730年頃)やエレミヤ(BC600年)といった預言者たちは異国の風習、とくに異国の神の崇拝を激しく非難した。これらの預言者たちは…イスラエルを主に愛でられた真に唯一の民族であると見ていた。
-----イザヤが言う「主」とエレミヤが言う「主」は違うと思う。エレミヤの主はp-41の神である。歴史を通し立場の異なる二神が信仰の指導者の方針によって代わる代わる現れていたのではないだろうか。イザヤの「主」はイスラエルだけに恵みを齎すことを標榜したがエレミヤの「主」はグローバルである。一神教という言い方はイスラエルが国家宗教であったという以上の意味はない。

p-74 「敵は既に、単なる地上の勢力ではない…それに代わって、或いはそれに加えて、この上なき敵意を持つ宇宙的な力となっている」聖書学者ジョン・レヴィンソン
-----人間に敵意を持つものとしてモート(マゼラン星雲)がガバメントと対立した。苛酷な争いがあり日本に関してガバメントが優位に立った。物事は複雑で、モートの中にも彼らのやり方に与しない者即ちエクサイル(「我々に反対しないものは我々の味方である」とはエクサイルのことではないだろうか)がいる。夢に現れて私にドイツの状況を伝えてくれた使いはサングラスをして軍服を着ていたが体つきはどう見てもモートで、私に対する敵意を少しも感じなかった。また「女は太らせて食おう、なんてやっている」と語りかけたのもこの国にいるモート人だった。シリウスを代表するロゴスは人間の味方である。NHK-BSでオーストラリア原住民のアポリジニーに伝わる神話を放送した。その神話によればアポリジニーは南十字星人の姿を魚になぞらえて描く。その魚の日本名はナマズであるがナマズとはイスラム教徒のことである。彼らの外見は人間と同じらしい。では南十字星人がイスラム教徒かと言うと、そこまでは分からない。シッチン星やナメック星やモンロビア、アンドロメダ人という言葉を聞くが人間とどういう関係にあるか分からない。仏教を支配しているイカ族はホーガンの言うアッタン人であろう。

p-76 神が行くなという所へ行くバラムの前にサタンが立ちふさがった(民数記)
-----悪魔の文化史(文庫クセジュ)に出ている「インドに行って嘘を広めた者がいる」とはバラムのことだろう。結果発生を事前に防ごうとするサタンの進路妨害は神意に叶っていた。結局バラムはインドへ行ってバラモン教の始祖となった。

p-86 ペーゲルスはサタンを「神の敵対者」と定義しているが、その神とは善神か悪神か。サタンが悪の諸力---ベルゼブブ、シュミハザ、ベリアル、闇の王子等々の一人であるとのペーゲルスの見方は正しいか。

p-99 エッセネ派は大多数のユダヤ人を呪われた存在と見做した。
-----エッセネ派は人の子であり大多数のユダヤ人はモートである。善悪を人間の立場で見るならば「天使と悪魔、とサタンの間で繰り広げられる宇宙的規模の戦争」という表現にあるは善神(人間の味方)ではない。

p-99~100 ヨセフス、フィロン、大プリニウスらによれば、エッセネ派は極度に禁欲的な生活を実践しており、聖戦中の性交は禁じられていた。ただし彼らが参画していると信じた戦争は、通常の戦争ではなく悪の諸力と神の闘争である。
-----人間にはエビデンスと呼ばれる人間と同じ年恰好のアバターが必ずいる。エビデンスはあちら側で人間がやっているのと同じことをする。聖戦中はエッセネ派のアバターも神の手兵として働いているのであるが、人間が戦争中に性行為をすれば同様にアバターも時と場所を弁えず性行為をすることになるから、人間は聖戦中に性行為してはならない。人間が手紙を書けばアバターも手紙を書くから向こう側で人間が誰にどんな手紙を書いたかも筒抜けである。エッセネ派だけでなくユダヤ人はこのことを知っていたのだろう。

p-102 「もしユダヤの伝承の中にサタンが既に存在していなかったらエッセネ派は彼を新しく創造していたことだろう」
-----このような考え方はおかしい。ペーゲルスは実態を把握していない。サタンの存在は古く土星と関係あると思う。エッセネ派が類型的な「サタン=悪魔」について語らなかったのであれば叡智であろう。

エッセネ派は天界と地獄の間で戦われるこの戦いのまさに中心に自らを置く。彼らは「キッティーム」と呼ばれるローマ人もイスラエルの敵として罵倒しているが、それよりも遥かに激越に「ベリアルの会衆」となった同胞たるイスラエルとも戦うのである。
-----イザヤとヤコブは合い携えていた。イザヤはモートだった。エッセネ派を除くイスラエル人はモートまたは犬族に乗っ取られていて、人の子は人間になる権利を著しく損なわれていた。サタンのモートに対する態度は厳しい。

エッセネ派によれば、イスラエルの選びの基盤となっている神とアブラハムの契約は、人々が犯した罪のためにご破算となっている。今や真のイスラエルに属したいと欲するものは新たな契約に入らなければならないと彼らは主張する。
-----人々が犯した罪のせいと言うより、イスラエルの人間守護の神が敗退したか、祭司職が乗っ取られたか、トーラーが歪曲されたのだろう。

p-106 (シリア人医師)ルカはエッセネ派に匹敵する情熱をもって、自らのセクトこそがイスラエルを体現するものとして描いている。ルカによればイエスの信者こそが事実上現存する唯一のイスラエル人だと言う。
p-145 非ユダヤ人であったルカは我こそはイスラエルの真の後継者なりと信じるキリスト教徒である。
-----ヨハネ福音書で「キリスト教の信者は神が選ぶ」と言っていることと通じるだろう。ルカのセクトもイエスの信者と同じく原初イスラエル人と同類(人の子)だとルカは見ていた。ルカの時代エッセネ派は途絶えていたのだろうか。

p-123 弟子たちが「生けるイエス」に質問する。イエスはその問いを黙殺し、ただ次のように答える。「嘘をついてはならない。あなたがたが憎むことをしてはならない。何故ならすべては天の前に現れているからである」(トマスによる福音書NHC2・33 18~21)
----ペーゲルスは「あなたがたが憎むこと」について「一人一人憎むことは違う」ことを強調しているがイエスの言うのは誰でもが憎むことであり、冒頭に悪魔の特徴について羅列したようなことである。人間のすることはエビデンスと呼ばれるアバターが同じことをするので隠し立て出来ない。仏教では鏡によってモニターされていると言う。

p-139 「彼ら(ファリサイ派)が言う事はすべて行い守りなさい。しかし彼らの行いは見倣ってはならない」「律法学者とファリサイ派の人々、あなた達は偽善者だ。十分の一税は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる」(マタイ23章23-24)
-----口先や十分の一税だけで実際に陰でやっていることは道義に反している。彼らのやっていることも見られている。めくらが人を導けば二人共穴に落ちるだろう。

p140~141 『さあ、わたしの父に祝福された人たちよ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」(マタイ25章34~46)
-----霊界で生まれたばかりの小さなホモ・サピエンスの赤子を見たことがあるが記憶に焼き付いている。「最も小さい者」とはそれらの嬰児を指すのだろう。その赤子に親切にした当人は必ずしもホモ・サピエンスとは限るまい。この章句が活用されることを切に願う。何故なら現状は全く逆だからである。

p-143 マタイは磔刑後の話も付け加えている。すなわち「祭司長たちとファリサイ派の人々」がイエスの墓に見張りを立てるようにピラトウスに懇願するのである。さもなければ信徒たちが死体を盗み出して復活を偽装するかも知れないからだ。当時イエスの死体は弟子たちによって盗み出されたという噂が広く知れ渡っていた。マタイはその噂をうまくごまかすために、ユダヤ人上層部がローマ兵に贈賄してこの噂をひろめるように依頼した、と言うのである。「兵士は金を受け取って教えられた通りにした。この話は今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」
-----ユダヤ人が刑死者の遺体をどうしたかは公知の秘密である。同頁の「ユダヤの呪いを自らと子孫に与えよ」(マタイ27章25)はそのことに関係している。そうさせないために信徒たちはイエスの遺体を何とか手に入れようとしたが兵士たちに妨げられて果たせなかったというのが事実ではないか。逆にユダヤ人上層部はイエスの遺体を確保した。復活の話には遺体がなくなって信徒たちが驚く(ショックを受ける)様が描かれている。

p-144 イエスは言う、そこで王は怒り、軍隊を送ってこの人殺しどもを滅ぼし、その街を焼き払った。そして家来たちに言った。『婚姻の用意は出来ているが招いた人々は相応しくなかった』(マタイ22章7)---マタイはこう言っているのだ。紀元70年ローマ戦争によるイスラエルの大逆殺と神殿破壊(ひいてはディアスポラ化)は神自身がもたらされたものだ。彼らが神の「息子」を拒否したことへの神罰に他ならないのだ、と。
-----仏教徒やユダヤ教徒は「クリスチャンが陥りがちな神の過大評価だ」と言うだろうが、マタイの理解は正しいとしか言えない。歴史学者は歴史上の不幸の原因を調べるが、原因があったということは既に結果なのである。

p-147 イエスは洗礼を受けたあとナザレの街の会堂に入って行き会衆のためにイザヤ預言書の一節を朗読する。「そこでイエスは『この言葉は今あなた方が耳にしたとき実現した』と話し始められた。皆はイエスをほめその口から出る恵み深い言葉に驚いた(ルカ4章1-22)。次にイエスは,街の人が自分を受け入れないだろうと予言し、神はイスラエルを無視してでも非ユダヤ人を救うつもりであると宣言した。
-----イエスがまずイザヤ書を読んだことは重要な意味があると思う。イザヤこそ羊頭狗肉で看板に偽りありの空文だった。ところで私も洗礼後最初に聖書交読で読んだのはイザヤ書だった。

p-159 ルイス・マーティンによればヨハネ共同体が危機を迎えたのはラビ・ガマリエル2世(80~115)に率いられたユダヤ人学者集団が「異端者に天罰の下るのを祈願する祈り」をシナゴーグに導入した時であり、キリスト教も異端者に含まれていた。
-----神が「わたしの意に叶うもの」と言ったイエスの教えが本当の教えでありユダヤ教こそ異端であった。

p-163~164 「ヨハネ(福音書)」に於いては悪魔の正体を暴露するのはイエスその人である。ペトロがイエスに言う、「わたしたち(使徒たち)はあなたがメシアであり、神の子であると信じています」これを聞いたイエスは不愛想に答える。「あなた方12人は私が選んだのではないか。ところがその中の一人は悪魔だ」。イスカリオテのユダのことを言われたのである。このユダは12人の一人でありながらイエスを裏切ろうとしていた。(ヨハネ6章70~71)
-----「12人の一人が悪魔である」とは「あなたはメシヤである」と追従を言ったペテロのことである。「汝の敵を愛せよ」の敵とはペテロを意味するだろう。イエスは人々をユダヤ教から改宗させるには橋渡しになる敵側の人材が必要だと考えていた。またイエスは「一粒の麦も死なずばただ一つにてあらん。死ねば多くの実を結ぶべし」と、この状況下では主張を撤回しない限り自分が助かる見込みはないと死を覚悟していた。だからユダはイエスが言う悪魔ではない。イエスはユダにローマ軍に自分を引き渡す段取りを頼んでいた。ユダは金を受け取ったがぶちまけて自死した。もし彼の目的が金だったならほくそ笑んで金を持って消えただろう。「ユダの福音書」によればイエスの教えを正しく理解したのはユダ一人だった。ユダの自殺は彼がイエスに引き寄せられることを期待しイエスの後を追った殉死である。ヨハネにはそこまで理解する器量はなかった。

p-176 ヨハネはピラトを無実のイエスを釈放しようと腐心する人物として描き、それと対象的にユダヤ人たちを「単なる悪人ではなく悪人中の悪人」として描いている動機は何かということに関しては多くの学者たちが議論を行って来た。
-----p-143と同じである。

p-178 紀元100年頃に執筆したヨハネは、悪魔が人間の肉体を借りずに、いわば素のままで登場して活動するという趣向を完全に排除する。その代り『ヨハネ』に於いては、神自身がキリストとして登場したように、サタンもまた肉体を持った姿で登場する。まず始めはイスカリオテのユダ(裏切り者ユダの中にサタンが入った)、次にイエスに対立したユダヤの上層部、そしてヨハネの言うユダヤ人たち(ヨハネはエルサレムから離れた地域に住んでいた)である。
p-233 こういう者達は偽善性、ずる賢い働き手であってキリスト教徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装っているのです。だからサタンに仕える者達が義に仕える者を装うことなど大したことではありません。(コリントの信徒への手紙11章13~15)
-----ヨハネのサタンに対する考え方はユダヤ人一般と大差なく、悪魔が自分たちの敵(=サタン)を悪魔と呼ぶことによるconfusionを分かっていない。ヨハネは死後の審きでサタンとは誰のことかを知って間違いを認め謝罪したらしい。パウロも同じで、パウロは間違いを納得してワニに落とされた(現在はヒトの姿に戻った)。ペーゲルスは「サタンは死者を篩にかけるよう願い出て許された」をどう考えたのだろうか。

p-191 だが、キリスト教に改宗したユスティノスにとってはこうした認識の全てが一変してしまった。彼がこれまで知っていた神々と聖霊たちは皆、アポロンもアフロディテも、子供の頃から崇拝していたゼウスも、今の彼にとってはサタンの眷属に他ならない。
-----彼らは今もあり、キリスト教に良かれ悪しかれ関わっている。ゼウスの子供たちはオリンポスの神々として神格化されているが、兄弟というものは等しなみに正義と恵みを齎すとは限らなかったのだ(これがギリシャ神話の誤りだった)。日本に「兄弟は他人の始まり」という諺があるように、旧約聖書に登場する兄弟--イサクとイスマイル、カインとアベル、モーセとアロン、ヤコブとエサウも互いに立場が対立している。アフロディテには悲劇があった。

p-245 『真理の証言』の著者はプロテスタントのキリスト教徒たちよりも遥かに先を行っている。キリストのメッセージは「律法」すなわちヘブライ聖書の対極に位置すると確信する彼は『創世記』にアプローチし、すべてを逆転させてこの書を読むときにのみ真理を発見する---すなわち旧約の神とは実際は悪党であり、蛇こそが聖なるものにほかならないということを!神はアダムに命じていう、楽園の中央にある木から実を採って食べてはならない。何故なら「それを食べるとその日のうちに必ず死ぬことになるから」。だが蛇はそれとは正反対のことをエヴァに告げる。「あなたは死ぬことはない。あなたがそれを食べるとあなたの目が開け、あなたは神のようなものになり、善悪を知るようになることを神はご存知なのだ」(創世記3章4~5)。事の次第を知ると「神は蛇を呪い、その名を『悪魔』と呼んだ」。『真理の証言』によれば、アダムとエヴァを霊的覚醒に導いた蛇は実際はキリストであり、アダムとエヴァを「天使から解放するために」姿を変えて現れたのだ。
-----楽園とはユダヤの伝説によれば神の果樹園パルディスである。四人のラビがそこを訪れ、一人は発狂し、一人は自殺し、一人は棄教し、無事に帰って来たのは一人だけだった。アダムとエヴァはそこは悪の場所であり脱出しなければ悪魔に食われることを蛇に教えられた。二人は人間に生まれ変わって人間の始祖となった。ここで言う天使は悪魔の手下である。ヘビがキリストだったというのは違う(キリストとサタンは別)と思うが、『真理の証言』の視座は正しい。

p-268 ちょうどキリスト教全体がユダヤ教という基盤の上に築かれたように・・
-----ユダヤ教に対するアンチテーゼとしてキリスト教は生まれた。

p-269~270 弟子たちが個別の問題についてイエスに尋ねる。「あなたは私たちが断食することを欲しますか。そして私たちはどのように祈り、どのように施しものを与えるべきでしょうか。どのような食事規定を私たちは守るべきでしょうか」。『トマス福音書』ではイエスはこう答えるだけである。「嘘をついてはならない。またあなたたちが憎むことをしてはならない」。皮肉な答えと言えよう。何故なら、それは自分自身に立ち返るからである。自分自身以外の誰が、自分が嘘を吐いていることを、そして自分が何を憎むか知り得ようか。
-----イエスはユダヤ教の聖書が嘘をついていることを言っている。そしてあなた方みんなが憎むことをしてはならないと言っている。それは冒頭に書いたような悪魔のやること、マッツオに血を混ぜるような祭司たちのやること等である。

p-204 ユスティノス自身は、彼が「ヘブライ人」と呼ぶ人---すなわち彼自身の信仰の祖先である古代イスラエル人を賞揚しているが、にもかかわらず彼が「ユダヤ人」とよぶ同時代人につては軽蔑を表明している。何故なら彼らは神の啓示に対して盲目であり、彼ら自身の聖書を「誤解」しているからである。
-----古代イスラエル人はホモ・サピエンスであり真の人間であった。その数が十分に増えた頃、途中からイスラエル人の霊的子種はモートら悪魔に食われ始め、代わりに悪霊たちが人間の胎児に宿り増え始めた。ユスティノスが軽蔑するのは後者である。真人間の数は著しく減少した。イエスの願いは古えの霊とからだの結びつきの回復である。

ルカ福音書の「サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された」(22:31)とはどういう意味か。人間はその一生を終えて審きの場に行く時誰でも人間であったときの顔や姿を獲得する。だから彼/彼女が人間に生まれる前は人の子であったかなかったかを見分けることは困難である。しかしサタンにはそれが出来る。サタンが死者をふるいにかけるのはキリスト教だけだろう。