これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
何か強力な力が地上に臨在し、霊界の勢力図が一新されたことは間違いありません。人間に画期的な希望がもたらされたらしいのです。以下の記述には多分に私の推測が混じっているので事実がまさしくこの通りであるとは受け取らないで下さい。
私には何の目的で来るのか分からないB(セリエAに所属する有名なサッカー選手と同名)やP(古典的詩人・文学者と同名)という、友達のような口のききかたをする霊がおり、両方ともイタリア人の名前ですが自然な日本語を話せます。「変身譚」で豚の皇子のことを取り上げた時、Bは「皇子のことをあからさまに書いて彼を刺激するべきではなかった、彼に狙われて命の危険を遁れた者はいない」と私の帰路を不安視して警告しました。由来は判りませんが豚の皇子はかつて御三家の一人と呼ばれた歌手(NG)と同じ日本人の名称で以前から知られ、関東をテリトリーとし(その在住する都市の名前を書けば読者に話の具体的なイメージが伝わるのでしょうが)、暗々裏に霊界では軽率に語ることさえ厳重に憚られるような脅威的存在だったのです。あの世は考えただけ、あるいは名前を言っただけで思念が伝わる世界です。青ざめた必死の表情で訴えたあの女性霊のほかに、かつて豚の皇子のことを私に教えた者はいませんでした。
彼らに鉄槌が下り、それに伴って彼を頂点とする体制が格段に弱体化されたようなのです。今現在このような文を書かれても彼は受け入れざるを得ないでしょう。霊界の人々の間に、これまで全く予想することさえ出来なかった新しい展開への驚きと期待が密やかに流れているのが感じられます。なべて改革というものは一方に益し他方に不利益を齎します。以前を思い出して「余りにもむご過ぎる場所だった」と言う者がいます。然しこれは人間に、もしくは philanthropic な霊達にとっては神々の力の偉大な恵みなのでした。ついこの間突然豚の皇子とエドベリでホラーを煽っておき、まだその舌の根も乾かぬうちにもうあの話はほぼ終わったと片付ける私の語り口を眉唾ものと笑う人もいるでしょうが、致し方ありません。それが厳しい緘口令の下にある霊界に固有の特質で、人間に知らされた時が同時にその事件が終わった時である場合が多いのです。その名を語る者の声におびえが感じられたエドベリも、多分同時に浄化されたのではないでしょうか(堕落したネロの時代を舞台にしたペトロニウスによる「サチュリコン」という作品がありますが、このイタリア語もエドベリと同じような意味らしい。ペトロニウスは「Quo Vadis 」に登場します)。
自画自賛する気はありませんが、このような展開は私のこのブログと並行関連があると思われます。思うに悪霊たちの奢りを公にし、汚れた手によって歪曲された聖書への再考を惹起するべく書いたこれまでの文章が神々の意向に叶ったのです。
「マタイ」の項で紹介した Dean Dudley(1823-1906)著 「History of the First Council of Nice」 は Amazon のHPで Kindle 版 Introduction を読むことができますが、そこに ”It was the custom to punish heretics and burn their books in the first days of Christian rule”と書かれています。第一回ニケーヤ公会議ではミサも全く催されず、聖書に勝手な更改がなされて決定版が作られ、それが正典になると共にそれに先立つ記録はQ資料も含めてすべて異端として葬られ捏造の証拠隠滅がなされたのでしょう。ヨハネ福音書に関して「イエスの弟子である、読み書き能力さえ十分でないガリラヤの一漁師が、言葉を意味するプラトン的ギリシャ語であるロゴスという単語を用いて福音書を書いたとするのは不自然さが目立つ。ロゴスは当時の最高レベルのギリシャ哲学者だけが限定的に用いていた単語だ」として、今日この本の作者をヨハネであると誰が証明出来るだろうと疑問を提しています。また主の祈りの冒頭で「み名が聖とされますように」と唱えながら、肝心の尊ぶべき神が誰なのか分からないのは怪しいと思いませんか。福音書とはその本を読んだ者に特別な神の魔力(God’s spell)を賦与するものなのですが、バイブルはニケーヤ公会議で自説のみが正しいと過信し異説を強引に排除する者たちの汚れた手に塗れ、それ以来真の力を秘蔵する福音書ではなくなったのです。今日正典とされて残っているいわゆる四福音書はすべて汚されています。本来の力を秘めた原典の福音書はもはや我々の手に入りません。ですからプロテスタント達がカトリックの排他的な権威主義に反旗を翻し聖書そのものへの回帰を謳っても結局は遅きに失したのです。
ニケーヤ公会議の犯罪性が及ぼしたダメージは何と深かったことでしょう。このような背景を持つニケーヤ信条に神の力は宿りません。「人間を取り巻く見えない世界」に書いたように、私の認識ではロゴスとインリは別人です。
今考えると私はあの項目でジョンという名前を書き落しています。ジョンが誰を指すのか分からなかったというのが正直な告白です。ある時テレビでパトモス島を放送していた時、後ろで「島のことを覚えているか」「もう忘れた」と話しているのを聞いてやっと一体彼が誰なのかを確認した記憶があります。長い間ジョンは現存の福音書へのやる方ない憤懣を抱え、結局は自分が悪の側に利用されたに過ぎないことを嘆いていたようです。また「当時の自分たちの能力は読み書き算盤程度だった」と福音書冒頭の章句への違和感をかこちました。最後の21章25節で「イエスの語ったことは余りにも多くここには書き切れない」と以下カットされていますが、原典は26章まであり悪が勢力を揮う霊界の実態についての教えがもっと詳しく書き残してあったようです。現存する聖書は時々ばらばらに漏れ聞こえ辛うじて記憶に残っていた話を再録したものです。
羊たちは力を失った聖書をこれこそ唯一不可侵の福音書であるかのように信奉し、間違った誕生日に主の生誕を大々的に祝い、敵対する神の名を祈りのたびに唱え、削除されてしまった重要な警告に気付くべくもなく、救いの神に背を向けてもと来た危険な道へと歌を歌いながらぞろぞろと行進した。それが今日までのキリスト教の姿だったのではないでしょうか。
羊という動物に鍵がありそうです。「羊の教育に失敗した」という言葉の意味は、正しい教えが人間に伝わらなかったということでしょうが、この言葉を残して神の臨在は中止となり、地上では困難な状況の中で神の使いだけが役目を負って降り立ち形だけの命脈を保っていたのがキリスト教の実情だったのです。
今回、この神の揮った力は我々の住む日本だけ、またはキリスト教だけに限らないことが判りました。日本には多数の仏教徒がいますが、その源はインドです。天の神はウパニシャッド傘下の神々にも影響力を及ぼし正邪を裁いたようです。悪が一国だけでなくグローバルな繋がりを持っているからにはそれも当然の成り行きなのかも知れません。
ニケーヤ公会議の責任はローマ教に対して最も重く問われる訳ですが、責任問題というよりは結果的に現状がどうなっているかが検証され、ローマに対する厳正な裁可が用意されているようです。ある場所が霊的にどんな所かは人間には分かりませんが、霊界の住人には一目瞭然です。法王や枢機卿にはどれだけ霊界での新しい動きを察知する敏感な感受性があるでしょうか。折しもキューバで初めて催されたカトリックとロシア正教のトップ会談が報道されて注目を集めました。志を同じくする世界中の神々による国際的な会議が催されたというニュースも聞かれます。
ガバメントは死者の裁きだけでなく治安の維持にも関与し、警察や裁判の諸制度も充実しつつあるようです。狭き門はこれまでより大幅に広くなりました。希望的観測ですが、地上が歴史的に辿った経過と同じように霊界も弱肉強食の暴力優位の世界ではなくなる方向性が感じられます。こうしたイノベーションの背後には新しい世紀を期してスタートした神の秘められた計画があったと考えられます。「ミレニアムは(これまでの)時の終わりの始まり」と言われていました。
サタンが立場を変えたらしい情報に「今まで何度も騙された」と警戒する声もあったのですが、ほぼ間違いではないようです。ある声が「豚が増え過ぎて共食いまで始めた。サタンもさすがに付き合いきれなくなった」と言い、別の声が「(人間とサタンとの)対立物の統合は約束事だった」とも言います。私が仏教徒だった頃のクリルタイで「むしろ悪魔の方が人間に優しかった」とも聞きました。(後述しますが、悪魔にも2種類あるようです。)
付言すると、やはり霊界の豚族は特殊な能力の持ち主らしい。世界にはアヌビス神としてエジプトで恐れられた犬族が霊界で君臨する国もあるようで、犬を親衛隊として従えた豚が支配するオーウェルの「動物農場」の役柄は巧妙に作られた作品と言わざるを得ません。マタイ7章6の「犬や豚は向き直ってあなたがたに噛みついてくるだろう」という警句にはイエスの人間救済の根本的背景が見え隠れします。今回彼らが現状打破を素直に受け入れて支配をすんなりと明け渡したわけはなく、既成勢力を排除するには当然ながら各地で凄惨な戦いが避けられなかったでしょう。神々が人間の哲学に失望してうんざりしたのはこれまでこうした命に関る喫緊のテーマが全く真剣に取り上げられなかったからではないでしょうか。あの世で動物霊たちは「未開人の迷信に過ぎない」では片付けられない侮りがたい勢力であることを我々は知らねばならないしょう。ただし犬は豚と違って狼やドーベルマンのような獰猛な種から人間にフレンドリーなラブラドールまでバラエティーに富んでいます。
私自身は前途にたれ込めていた不安がいくらか薄らぎ安堵しましたが、その代り「キリスト教に意識改革をもたらせ」とのリクエストが届けられました。
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カトリックのミサで必ず歌われる賛美歌 ”神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、われらを憐れみたまえ” には大きな錯誤がありそうです。