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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

元凶

 つい最近、今まで一生の間完全に忘れていたある記憶が蘇ったのは、前項で使徒信条について書いたからに違いない。その場面で私はまだ日本語も覚束ない子供の姿をしていたから地上に降りて来る前だったと思う。何故ならあの年恰好の時、この世でそんな場面に遭遇する機会は考えられないから。以下辻褄の合わない点は若干の想像を交えて思い出した事を書く。
 私は教室のような場所にいてそこにある男が訪ねて来た。彼は私が何処から来た子供かを噂で聞いたのだろう。私を認めた時点で既に彼の表情はやや気色ばんで見えた。そして怒気を含んだ声で私に「キリスト教がうまく行かなかったのは何もかも使徒信条のせいだ。使徒信条を言って見ろ」と言った。私は何の事か分からず面食らって質問に答えられなかった。何故私が責められなければならないかも疑問だった。過去の記憶は完全に消されていて、初歩的な日本語を習ったばかりでは唐突な質問の意味を理解することさえ出来なかった。それでもこれから行く家の宗教とは関係ない質問だろうと思い「僕は仏教徒になる」と答えたが、一抹の不安があった。ひょっとするとこれはテストで、それならば別に何か仏教の問題を出されるかも知れないが、まだ勉強不足で答える自信はないと思ったから。男は戸惑った風で周りを見回すと同室にいた別の男が黙って頷いた。それを見て「お前が人間になる目的はお前が行ってキリスト教の間違いを正すことだと思ったが」と呟いて顔を曇らせた。多分二人はこれから仏教徒になるという事が何を意味するかを知っていたのだろうーーはっきり言えば自殺行為だと言う事を。そして彼らは使徒信条をキリスト教の儀式に仕組んだのが誰かまだ分かっていなかったのだ。

 カトリックを例に挙げると毎回のミサで何度全能の神の名を引用するだろうか。賛美歌を入れると多分7~8回位か。だから信者は全能の神こそ自分達の信じるべき神であると刷り込まれ何の疑問も持たない。そんなキリスト教徒が死んで最終的に審判を受ける前に「お前は誰を信仰しているのか」と問われれば100%「全能の神です」と答えるに違いない。その結果彼らは全能の神の元に連れて行かれたが最後あと戻りは出来なくなる。もし40日の待機中偶然全能の神を望見する機会があれば、その姿は光輝いていて、これぞ我らが信じる神だと信用するかも知れない。人間は決して外見だけでそこにいます神が信頼に値する善神か悪意を秘めた邪神かを見分けることは出来ないと言われる。本来この仕分けの場にサタンがいて助言する筈だった(ルカ22;31~32)がサタンはローマで争いに敗れ(これも信条や聖書の改竄と無関係ではないだろう)、イエスの救済の意図は瓦解した。この2000年間散々サタンは悪魔であると逆宣伝されて人々の信用を失い、今日のキリスト教徒はサタン説を鵜呑みにしているからその指示には従わないだろう。替りにガバメントが出来た理由だと思う。日本で仏教は「これでは飯の食い上げだ」とガバメントに抵抗している。
 キリスト教がユダヤ教の習慣を受け継いで固有名詞を用いなかったのは混乱の元で大きな失敗だった。たとえばマルコ12章34~36の
“イエスはこう言われた。「ダビデ自身が聖霊に感じて言った、『わが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。このようにダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それならどうしてキリストはダビデの子であろうか」。大勢の群衆は喜んでイエスに耳を傾けていた”
にある代名詞“主・わが主・あなたの敵”が誰を指すのかをすんなり理解出来る者がいるだろうか。然しユダヤ人の聴衆は理解したらしい。あるいはイエスはもっとわかり易く言ったのかも知れない。多分文脈から最初の主はキリストでキリストが他の三者(ダビデの主・その敵・ダビデ)の上位にいることを表しダビデの主(即ちユダヤの主)はその右の座にいるのであろう。したがって「キリストーユダヤの主ーダビデ」の序列になるから「キリストはダビデの子にはならない」とイエスは言ったのだが、キリストとはイエスの父なる神のことであろう。
 では一体全能神とは具体的に誰なのだろうか。私も「お前とはいずれ一戦交えなければならない」と言われ無関心ではいられない。ネットの悪魔辞典(NAVER)によればバアルは最高神エルの子でカエルの頭で描かれ、剣術の達人で戦いに強く人を透明にしたり知恵を与えたりする力を持つという。主という言葉にこだわる点でも符合するなど思い当たる点が多く、実はユダヤ教が浸透しているこの国で「バアルに呼ばれたら終わりだ」と密かに恐れられていた。
 全能の神を信じ込ませるトリックはすべてローマから発している。正教の神父が「我々は原始キリスト教に最も近い」と言っていたがコンスタンティノープル信条を尊ぶ限りそれは当たらない。
 法王フランシスコが2015年6月22日トリノのワルド派寺院で、過去にワルド派に対してカトリックが行ったピエモンテの虐殺を含む迫害を謝罪したとの記事を見つけて(Wikipedia)一時彼に期待する気になった。しかし、もしローマが誤りに気付いて「我々は騙されていた」と言えば済むという話ではない。カトリックに思い入れの深いフランシスコは私と全く逆の立場で両者の溝は深い。最近彼は「ミサへの出席なくして信者は救済されない」とも「悪魔サタンが信仰を妨げている」とも「偶像に頼ってはならない」とも言っている。相変わらずミサで営々と信者に全能の神を刷り込む儀式を継続するつもりなのだろうか。実体験から私が最も反感を覚えるのは「主の過ぎ越しを記念して」ホスチアを聖化するために「全能の神が受け入れて下さる」ように祈る請願である。過ぎ越しの主がどうしてキリストなものか。実際そうなるかどうかはさておき、聖変化が起きてホスチアが過ぎ越しのマッツオに変わるよう祈るわけである。私のイスラエル旅行は計らずも過ぎ越しの祭の最中だった。もし旅行の最後の日テルアビブのホテルで、具合が悪くなり食べた物を吐いていなければ大変な禍根を残すことになったと言われ、思い出すたびにぞっとする。アメリカ東海岸のラビがマッツオに何が混ぜられているか、肉をどう処分しているかを告白していた動画は現在 Youtube で閲覧禁止になっている。

 グノーシス異端視もローマの伝統的理念だった。私は今まで敢てワンネスについては触れなかったが考えてはいた。ワンネスの原理を持ち出して簡単に動物が人間に戻ると考えるのは甘すぎるから。「無原罪のマリア」という言い方をするが、原罪(宿悪または仏教で言う業)が人間を動物の形に退化させた原因だった。悪魔が様々な動物の形で造形されるのもそういうことだろう。簡単なことではないにせよ、動物が人間になったチャンスに正しく生きて、恵みに与り人間にプロモーションするのが救いであり共通の念願であった。従ってグノーシスの理念の下では人間が一目置かれ尊敬されていて、人間(人の子)は調停者の任を荷っていた。それはギリシャだけでなく世界に普遍する考え方だった。これに反し全能の神が導くローマの理念は霊的世界を人間と動物の弱肉強食の場にし、人間を下位に置いた。仏教国日本の悪魔の学校では「悪いのはすべて人間のせいだ。人間を憎め」「人間が殺されても気の毒とは思うな」と、人間上がりは誰彼なく悪魔と misanthropic な動物共のエサにされて当然と教えた。仏教とカトリックは同じである。しかしこの状況は世界中同じだったと言えるだろう。
現世においては人間優位がゆるがない。人間が誰かの命を犠牲にして生きていることは事実であり、これまで代わりに霊界でその代償を払わされることがあった。ガバメントが霊界においても人間の優位を主張し、人間中心主義を掲げたのにはそういう背景があると思う。

 ローマ法王が神の代理人なんてとても言えたものではない。この2000年間にローマ流によってマラキ書に書かれた Lord Almighty の念願は十二分に叶えられた。その結果ローマは何を切り捨て、何を抱え込んだか。今年はファティマの預言以来丁度100年になるが、法王が内容を知って卒倒したという第三予言は未だ開示されていない。もしかするとその予言にカトリックの存命はあと100年と宣告されていたのではないだろうか。マラキの預言にもフランシスコの次は「終り」と書いてある。ナグ・ハマディ文書の解読は何故今もって公開されないのだろうか。グノーシスの古代的かつ伝統的な宗教性が再び説かれれば正統キリスト教は崩壊すると言われている。「ギリシャの宗教性」には一体どういう秘密が隠されているのだろうか。ローマの終焉が間近に切迫していると言うならば、過激派によるバチカンの物理的崩壊さえありえない話ではない。私も右に左にとふらついたがこれが決定稿か。

 大和組ユダヤ人が歴史の始まりにちなんで「ひふみよいむなやこと」を用いて新しく数詞を作ったのに対し、青森組ユダヤ人は一戸・二戸・三戸~八戸のように数字を使っている。戸はヘブライを意味するらしい。青森組が「大和の中心は奈良にある。オナラとは臭いガスのこと、ほんに奴らはオナラのような連中だ」と言うと、大和組は「何を言うか。では今後臭いガスを「へ」と言うことにする」と新語を作った。このように大和組は盛んに造語した形跡がある。ダマスカスは美しいオアシスに恵まれて人々が多数集まり、人類最初の都市が生まれたことから楽園の原型とされた(現在のシリアは地獄のような場所である)。そこから「だます」という単語が創られた。つまり創世記のイスラエル楽園説は偽物なのだ。宗教原理主義者は騙されている。「歯がゆい」という言葉は物事がうまく行かなくていらだつ心理を表す。これは聖書の人物ハガイから創られ、神殿造りが思い通り行かないでハガイが焦慮したことをもじっているらしい。「尊い」がトートから来たことは「世迷い事」の項で暗示した。彼らは英語にも通じていた。よく似た英語と日本語の対比表をネットに掲げたマニアがいるがほとんどが大和組ユダヤ人の造語ではないだろうか。苦しむとか苦しめるは crucify から創られた。クリードが狂うの原語らしいことは前に暗示した。

 我々はコジキと言われれば乞食を最初に思い浮かべる。神武天皇が東征し初代天皇の栄誉を得た物語が古事記に書かれているが、その陰にはユダヤ人の助力があった。共闘に先立ち神武天皇とユダヤ人の間に契約が結ばれたが、日当計算には巧妙な仕掛けがあるのを素朴な神武天皇は気付かなかった。ユダヤ人に膨大なサービス料を請求され、たちまち神武天皇の財は底を尽き乞食同然になったらしい。東北地方では乞食のことをズンム(神武)と呼ぶ。だから古事記という表題は相当人を馬鹿にしていて、教科書に出ている古代史は決してまともに取ってはいけないそうである。「世迷い事」の項で伊勢信仰に嫌疑ありと書いた裏には神武天皇に「神祇のやり方を変えてくれ」としきりに訴えられたせいもある。聖徳太子も怪しい。根の国系も物部氏も最早ヤマトを諦めていた。
 悪魔の学校とはヤマト学園のことで、四国学園・九州学園も同類だろう。その非常識さ(持ち物を奪う、ただ働きをさせる、飲まず食わずを強制する、吐瀉物を飲ませる、規律違反すれば命を奪う、凌辱するetc.)は聞くに堪えない程である。他方青森学院は乏しくとも健全な楽しい学校だったらしい。エゾとはエサウの転化だという説がある。父イサクに愛されたエサウは狩人だったというから、陸にはエゾシカ・クマがいて海ではサケ・ニシンが取れる北海道はエサウにとって格好の場所だったかも知れない。ソーラン節を作ったのは彼らと思われる。多分エサウとアイヌとは関係ないだろう。エサウ系に守護神に値する有力な崇拝の対象がいる。非力な女性信者(勿論男性信者にも)に彼の名を教えたい。北海道は昔は住むのによい所だったかも知れないが今は奇妙な事件が多い。これでヤコブ系・イエス系・エサウ系のユダヤ3系統が出揃うことになるが、中間に位置する長野に諏訪神社がありここもユダヤとの深い繋がりが語り継がれる。守屋山があり、アシラ(樹木に宿るユダヤの女神)から御柱のハシラの語が生まれ、御神渡りはイエスの水上歩行に関連付けられる。諏訪神社もガバメントを支持しているらしい。私には稲荷とINRIは無関係だとは思えないが専門家に任せたい。第二次大戦中の欧米の敵味方のリーダーが誰も彼もユダヤ系だと言われるが、このようにユダヤ人自身が複雑な内部対立を抱えている。

 しかしこの国のユダヤ系は大分模様替えしたようである。映像復元のコマンドで過去の悪行がホログラムに浮かび上がって言い逃れ出来なかった。イザヤは罰せられ、レビは悪魔に仕えることを止め、ハスモン家が復活して世界を飛び回っているらしい。聞こえたことが事実であればあな恐ろしくも画期的な変化である。
ただし霊界はまだヤクザと呼ばれる悪霊がのさばっている世界だから決して安心出来ない。「ポテンヒット位で大きな顔をするな」と言われたが、このブログを参考にして方針を変えた宗教団体や大学もあるらしい。

(備忘)
このページに関連する謎の言葉~ジュマンジ、ナメック星人、エキノコックス