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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

終末論

 朝鮮は我々にとって厄介な隣人である。本田宗一郎氏が技術指導した後で「台湾は“我々は自分達でやっていけるようになったから一度見に来て下さい”と言ったが、韓国には“我々は自分達でやっていけるようになったからもう来なくて結構です”と言われた」という話は、韓国人の日本人への応対が与える違和感を伝える好例である。自己主張が強く「自称処女が子供を生んでも処女でないことを容易に認めない」のだそうである。北朝鮮はもう戦火は絶えて久しいのにまだアメリカとの戦争状態が続いているとし、アメリカが攻めて来ることへの備えを怠らない国家体制を維持している。もしアメリカが本当に攻めて来るとすればそれはこれまでの歴史が原因ではなく、これから彼らが何かをやらかすことが原因になるだろう。北朝鮮の軍人が「我々のいない地球は認めない。我々が消滅する時は地球を割ってでも皆を道連れにする」と気炎を上げているのを見たが言葉だけにしても空恐ろしい。かつかつの国民生活の北朝鮮一国が世界のすべての他の国に匹敵する価値があるとは到底思えない。この強気なセリフには「我々には核爆弾がある」という自負が隠されている。

「ローマ教会は最終審判を説く一方でこれを可能な限り未来へ押しやった。現実世界はただちに廃棄されるべきものであるどころか現実の秩序を神の賜物として聖化したのである。カタリ派絶対派は最終審判を否定する。ヨハネス・デ・ルギオが最終審判を想定しない理由としてそれはすでに行われたと考えた。その結果として人の住む現世こそ劫罰の地獄に他ならないというのは終末観を一歩すすめたものと言うことができる」と既出「異端カタリ派の研究」(p227)は述べている。然し過去の思想家または宗教家よりは我々の方が終末の何たるかを容易に想像することが出来る立場にある。カタリ派絶対派の終末観には否定しがたい真理がありそうに見えるがやはり妥当性はない。核の問題が北朝鮮や一体何処に何発原水爆を保持しているか解らないイスラエル、地上に危機の種を播いている紛争国やすでに膨大な核軍備をすませている保有国にあるだけでなく、原発の事故はスリーマイル・チェルノブイリ・福島で将来にわたる深刻な環境汚染を引き起こしたし、紛争になった場合敵の通常兵器による攻撃のターゲットにされる可能性がある。温暖化による環境悪化と異常気象は平和裡に進行している。ある少年が私に「2050年後人間は地上にいなくなる」と言ったのは致死的全面汚染に繫がる最終戦争がその頃起きるのだろうか。
 別の声が「人間は団結して悪魔と対抗しなければならない」と教えた。言い換えれば個々の人間はまず悪魔の存在を明確に意識すること、次に悪魔はどんなカムフラージュを装い何をもって人間を誘い込むかを知ること、さらに(至難の業であるが)悪魔に騙されない道を促す宗教を選ぶこと、そして団結してその道を実践すること。そうすれば命の終わりにも終末にも神の救いに与るということであろうか。イスラムには余りにも世を荒廃させるばかりのジハードなぞ止めて欲しいと言いたいが、彼らにすれば「かつて十字軍が、現在アメリカが我々に何をしたか」と反問するだろう。不幸にして多くの人間は自分だけは正しいと錯覚しそれを信念と呼んで疑わない傾向なしとしない。時あたかも、評判の朝ドラ「花子とアン」で「最高のものは過去にではなく未来にある」とカナダ人の女性校長が言うのだが・・・

「この世は終末を持たない」(同書p51)という定義は近々地球がなくなることはないと解釈すればその通りだが、人間が住めなくなる可能性はあると思わざるを得ない。カタリ派の「現世を悪神または悪魔の所産と見て」「悪魔は神の承認のもとに現世を作り」「現世は有限で裁きの日までである」と考える論理にも混乱がある。もともとこの世は悪神が作った訳ではなく、人間が作られて地上に置かれる前この世は楽園だったのだ。その意味で現世は神の賜物であり、フランチェスコが賛歌を歌った通りである。神話にある、ヤーヴェが「そんな議論をしてももう人間は出来ていますよ」と言いサムエルが怒り狂った時から人間の苦難が始まり、この世は人間にとって地獄に等しくなったが、他方その恵みもエンジョイ出来るのだ。形式的にせよ十字架は上下左右に通じる道標である。上から来て下へ、横から来て下へ行くものがほとんどだが、逆に下から来て上へ、横から来て上へ行ける可能性もあるのだ。
 青い水と緑の草木、折々の花は人間への最後の贈りものだとある女神が言った。食や性の悦楽もその類かも知れない。ソイレント・グリーン(1973)という映画も人肉食の話で、50年後の2022年が舞台であるが次回東京オリンピックのすぐ後でもう間もない。幸い事態は映画ほど悪くはない。E.Gロビンソン演じる老人はまだ元気だが、常食するソイレント・グリーンの原材料の秘密を知りもはや生き続ける意欲を失い、政府の奨める死を受け入れる決心をする。彼は恐ろしい物価騰貴により余りにも高価で一般には手に入らない本物の食事をもてなされた後、ベートーベンのパストラールが流れ美しい自然の映像が次々と写されるスクリーンを眺めながら、甘受した死と引換えの最後の安楽を味わう。

 四人のラビが天の果樹園パルディスを訪ねたが、そのうち一人は発狂し、一人は自殺し、一人は棄教し、無事帰って来たのはたった一人だった・・・ユダヤ人の間で語り継がれるこんな逸話がエルサレム・ミステリー(アレク・マルテ)という謎解き活劇本に紹介されている。かつての楽園で彼らが見たショッキングなものとは何だったか。
 終末が来るのが長引けば、忘却と欲望の罠にはまった人間が増えるだけだから早い方がいいとは決して思わない。サリンを撒く者の気が知れない。出来れば終末なぞない方がいい。私が仏教を敵愾視しているからと言って、過去の仮令の話であっても京都にも空襲があった方が良かったとは思わない。何処であれ人間界で空爆の被害なぞない方が良い。それより、もし長崎に落とされた核兵器が現在の威力のものだったら私も無事では済まなかっただろうと思う。
 現実の秩序は神の賜物かも知れないが、人間が置かれた状況は抜き差しならないのだ。アウグスティヌス(もう彼の名前はこれで終わりにしたい)がまるで揉手でへつらうように神を讃える文章を書いているが、どの神を指しているのだろうか。それで神が単純に満足し喜ぶと思っているのだろうか。むしろ事実を知って、一年、三年と泣き明かし自分をこんな状況においた神を恨み、それでも神に頼むしかないと祈る位でなければ助かる可能性はない。イエスは人類の窮状を見るに見かねて、人間を憐れむ者たちの合議の結果代表として自分が救いの道を作ろうと地上に下りて来た。彼は何故イスラエルを選んだか? 彼の使命はこの二千年で達成されたか? ニーチェの「神は死んだ」をどう理解するか?

 対立物の統合という概念によれば将来二元論は消滅する。その代表的論客オリゲネスは万人救済を信じ、サタンおよび悪霊を含めてすべてのものが最終的には和解すると説き、死後300年のち異端者とされた。対立物統合の概念には真理があり、悪魔やデーモンと呼ばれる存在も人間の立場を全く無視している訳ではなく、個々ばらばらではあるが次第に意識を変化させているように見える。
  まだ私が幼い頃、近所の4,5人の子供達と遊んでいた
  一人の子供がスイッチョを捕まえその羽をつまみ自分のシャツの縁に近付けた
  緑色のスイッチョは加害者を痛い目に合わせようとシャツにきつく噛みついた
  その時彼がスイッチョを急に引っ張るとみんなはアッと叫んだ
  頭はシャツを噛んだままシャツの縁に残り首から内臓が垂れ下がり
  彼の右手にからっぽの胴体と手足と羽だけのスイッチョがあった
  彼はそれをスイッチョのギロチンと呼んだ
  家の庭でスイッチョを捕えて姉を呼びスイッチョのギロチンをやって見せた
  姉はすっ飛んで母の所へ行き弟は残酷だと訴えた
  小学生になり農園作業の時スイッチョを見つけた
  女の先生にスイッチョのギロチンをやって見せると吃驚しやめろと悲鳴を上げた
  授業参観の日に先生が母にお宅の息子さんは平気で虫を殺し残酷だと注意した
  その夜母に叱られてやめると言ったがそれならあいつも誰か止めねばならないと思った
  何年かして小学校の高学年になり一人きりの時スイッチョを見つけた
  昔これで遊んだことを思い出し久しぶりにギロチンをやった
  その結果ことの余りの残酷さを初めて知って仰天し血の気が引いた
  罪もない虫の命を思いやらない自分の愚かさにやっと気付いたのだった
これは私の実体験で(よい子はまねしないでね)これと同じような変化がデーモン達の意識の中でも起こっているようである。「砂時計がひっくり返された」という声がある。確かな情報によればメソポタミアの伝説の神がやり方を変えたらしい。人間がなんとかして自分達の世界から悪をなくそうと努力しているのを彼らも理解した。善神・悪神・人間の3グループがあるとすれば、悪神の歩み寄りがなければ対立物の統合は進まない。ただし、蚕が桑の葉だけを食べコアラがユーカリだけを食べるように、人間を専ら餌にする恐ろしいデーモンもいるらしいから、どうしても力なくして目標は達成されないだろう。

 法王庁には信仰教理省と呼ばれる省庁がある。旧名・検邪聖省元の異端審判所である。全く架空の話であるが、もし私がこのままで死後の審判を受けた場合どのような会話が行われるであろうかという、半ば遊びの、多少は真面目な想定をシミュレーションしてみた。審判の期間のある一日、ローマから教理省の役人が来るとすれば多分2時間程度で到着するであろう。聖書に「あなたたちはただYes/Noだけを答えなさい。そのほかの事はすべて悪魔が話すだろう」とイエスは教えている。ただし、私はYes/Noの他に I don’t know の場合もあると想定する。注意すべきは、審判では嘘をついても決して為にならない。
役人:2014年の夏、あなたは「聖灰の暗号」と「異端者」というフィクションを読みましたね。「異端者」の主人公サルセドには歴史上のモデルがある。
私:Yes
役:「聖灰の暗号」の中でアルノー・アモリがベジエ攻略後「神の復讐は見事なものでした。我々は全員を殺しました」と教皇に報告したことが書かれています。あなたは彼を何と恥知らずで愚かな男だろう、神は彼を死後どう裁いたか知りたい、と思いましたね。
私:Yes
役:彼はどのように裁かれたと思いますか?
私:I don’t know.
役:だが「多分こうだっただろう」という予測はした。それは末代に及ぶ厳しい裁きだったに違いない、と。
私:Yes
役:カタリ派で火刑に遭った人達こそ救われただろうとあなたは思った。その理由は日本でマルチリが救われたこと、またオリゲネスが殉教を奨めていること。
私:Yes
役:つまり我々の役回りは信仰心のかけらもない江戸時代の非情な役人と変わりない、と。
私:Yes
役:ただし「異端者」のサルセドは別の裁きを受けた、何故ならカタリ派の信者は女性に触れただけで三日間の断食をし、鶏を殺すことも出来ない程厚い信仰心があったが、サルセドの場合そこまでではなかった。
私:Yes
役:カトリックは転生を教義上公式には認めていないが、サルセドは別の転生を与えられただろう、と。
私:Yes
役:ベジエで巻き添えにされたクリスチャンは交通事故に遭ったようなもので特別な恩恵はなかっただろう、と。
私:Yes
役:カタリ派が「生まれる前の胎内の子には魂はない」と言ったのは正しいと思いますか?
私:No
役:囚われの身となったカタリ派の指導者アルノー・ロジェとパコー大司教の討論を読んで、なる程カタリ派はこういう主張をしたのか、しかしロジェは「主の祈り」についても言及すべきだった、とあなたは思った。
ロジェは大司教に対して「あなた達がミサで唱える主の祈りには“天に行われることが地にも行われますように”という句があるが、あなたたちのこのような見苦しい行いが天でも行われていると思うのですか。聖書は“求めよ、さらば与えられん”と教えているが、あなたたちは天で行われることを求めているのではなく、その全く逆のことを求めて実際行っている。他方“日毎の糧をお与え下さい”という祈りは自発的に求め、その祈りが叶えられている」と問かけるべきだった。更に「イエスは“天の全き神が誰にでも恩恵を与えるように、あなたたちも全き者になりなさい”と教えているではないか、あなたたちは自分が全き者になることを全然願い求めてはいない」とも。
私:...Yes

 このシミュレーションで結果的に役人が私に「死後の裁きを勝手に推測するのは逸脱も甚だしい傲慢な行為である。これらの論理は我々を糾弾するためには大変適しているかも知れないが、あなたは我々をサポートする有用な力になるとは考えられない。こちらに来なさい」と告げ、私はどこかへ連れ去られ帰らぬ者となることもあり得る。二冊の本は私の経験の余りにも小さい一事に過ぎないが、既にこのブログで私は随分彼らの気に入りそうもない事をたくさん書き表沙汰にしてしまったのだ。
「さて、どうすべきか」と重苦しく思う。怖い信仰教理省なんかない宗派がいい。「そうだ、既に亡くなった我々夫婦の仲人は大学の元先生で、あるキリスト教新教の神父の息子だった。この縁は貴重な導きなのかも知れない、その新教を訪ねてみようか」と思い付く。

 前項・ミレニアムを掲載した後、カトリックの側と思われる温和な人柄の霊が訪ねて来た。そして「ヨーロッパのことを心配しているようだが我々は独立した権限があるから余程のことがなければ影響はない」と言った。私は「自分はその余程のことをしているかも知れない。実は何事にも本当の書けない理由がある。それは三つある。一つは前の教会で神父に失望したこと。食いっぱぐれがないので神父になった等と説教壇で言うような人だった。もう一つは良くない情報。最後は教会に悪童のような霊がいる気配がした」と答えた。彼はその良くない情報についてあえて否定せず詳細を書いてもいいと言った。神父にもAからFまでのランク付けがされると聞いたことがあり、触れるべきではない事かも知れないがその神父は信者の救いなぞ念頭になく熱意のない説教をし、低い方のスコアが当て嵌まりそうだった。師を超える弟子はいないというイエスの言葉は、換言すれば救われない神父が司祭する教会の信者は同様に誰も救われないという意味かも知れない懸念がある。
ネットを見るとバチカンに関して怪しげで邪悪な記事があるが、根も葉もない噂か、火のない所に煙は立たないの類のどちらだろうか。居並ぶ枢機卿が人差し指で喉を掻き切るしぐさをする何かの儀式の映像があり、それは誓いに背いたものはカットスロートの罰を受けるとの意味らしい。噂の秘密結社と関係あるのだろうか。イエズス会にしても厳しい入会規約があるようで、イエスが誓約をしてはならないと戒めたことの意味が分ったように思う。

 異端の項である有名人がエテ公にされた話を書いた後、二人の少年の霊が来た。一人は大分前に亡くなった会社の知人の犬飼さんがイヌにされたと教え、もう一人は親戚の誰々がメーメー鳴いていると告げ、とんだ泣き笑いになった。故人二人とも仏教徒だった。
ミレニアムの項で書いた仏教の人間中心主義宣言を読んだ大人の霊が来て私の文章を「有難迷惑」と言ったから、もうなるべく書かないようにする。そして、今まで悪事を働いていた仏(複数)はあるコマンドでその悪事がすっかり露見し現在は拘束されていると告げた。そのコマンドは私が言い出したもので唱えると過去の事象をビジュアライズすることが出来るらしい。冥界はコンピューターワールドなのだ。自分でそのコマンドを試したことがないから確証がなくはっきりとした自信がない事は今も変わらないし、ある者は嘘だと言う。かつて私が悪霊のトリックに引きずり回されて危機的状況に落ち、精神異常のマックス・ハイパーテンション状態になった時偶然聞いたものだった。そのコマンドが本当に有効で私より前に言い出した者がいないのなら、私が命がけの、最初の発見者ということになる。

 最近、ピエモンテでの異端者ワルド派の処刑場面図をネット上で発見し、バットで頭を殴られたような衝撃を受けた。