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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

デジデリウム

 先月ソファで昼寝している私の耳元に少女が「デジデリウム」と囁いて去って行った。あるいはデジデリウスだったかも知れない。尊い意義のある言葉だと誰かの声がした。ネットで検索すると「臨終の苦しみで残る側に希望を与える死に方と、こちらまで人生に絶望感を与える死に方がありますが、この違いがデジデリウムの問題を真剣に考えて生きてきた人かどうか、の違いです」という用例があり、その後にデジデリウムとは見神欲つまり宗教心、神仏を求める心等の説明が出ていた(無断拝借ご容赦下さい)。

 前に紹介した帚木蓬生の「聖灰の暗号」からこれも作者に無断で申し訳ない乍ら素晴らしいと思った個所をそのまま引用したい。
「信仰とは常に二つの眼差しの出会いなのです。私たちが神をみつめ、神が私たちを見つめてくれるのです。しかも私たちが神を見つめる眼差しがたとえ弱まったとしても、神が私たちを見つめる眼差しは不変で強烈です。しかしあなたがたのなかにも、見つめても何も見えないとおっしゃる方がおられると思います。そうです、見つめても何も見えないところにこそ、信仰の証(あかし)と強さと深さが隠されているのです。祈りによって、また私たちの行いによって、自分が神に見つめられているという瞬間が必ず訪れます。私たちがどんなに小さな人間、どんな罪人であっても、この祈りと行いによって神を喜ばすことができ、神は私たちに永遠の命を約束してくださるのです。私たちは一人残らず短い命しか持っていません。この貴重な機会をどうして無駄にできましょう」(下巻P76)
「祈りは場所を選びません。山や川、畑や家の中、どこでも祈ることはできます、また心で祈らなくても、身体で祈ってもいいのです、山で木を伐り、川で魚を獲り、畑に種を播き、家で粉を練るのも祈りなのです、と私が言うと、多くの村人が何か啓示を受けたように顔を輝かせ、そのうちひとり、若い娘が、神父様、例えば水汲みに行くのも祈りなのですかとおずおずと訊いたので、そうですと私は迷わずに答え、その女性は小さな声で、そのとき心が伴っていなくてもですか、と反問した。」(同P77)
「たとえ心が伴っていなくても、身体が正しい行いをしていればそれが祈りなのです、と言った私の返答に対して、その女性の横にいた恋人と思われる男性が、その行いが正しいか正しくないかは誰が決めるのかとさらに訊いたので私は即座に、自分の行いが正しいか正しくないか自問すること自体が、もう既に祈りになっており、あとはあなたの心のままに行えばよいのですと答え、さらに・・・・」(同P78)
以上は作者の創意から湧き出た文章か、または何か出典があるのだろうか。デジデリウムの好例だと思う。
最初のパラグラフの「どんな罪人であっても」という例で思い出すのは、コンスタンチンという映画でかつて自殺未遂の罪を犯し、特殊な霊能力を持つ主人公がまた自殺して霊界に行き死後彷徨っている女性を助けようとしたが、悪魔がその死体を地獄へと運ぼうとすると、神が死体に仕組んだ屍の異常な重さに手こずり運べない。そして舌打ちし、「自己犠牲か・・・」と呟いて諦める。

 私は書が嫌いという訳ではないが、何故かあの身の丈以上の筆で大きな字を書くパフォーマンスが好きでない。年末に清水の舞台で僧正がそれこそ大袈裟な身形(みなり)で登場し筆を取って大書する姿を見ると、むしろ質朴な作務衣か何かに身繕いした方がやろうとする事に相応しく余程緊張感が出るし、これ見よがしな違和感もないだろうと思う。ただし金澤翔子というダウン症の女性書家の字にはそのハンディキャップに拘わらず力強さと均衡があり一目置く。駅で見た彼女の展覧会のポスターにその一作品が出ていて、書かれていた文章が注意を引いた。
  ふかくこの生を愛すへし
  かえりみて己を知るへし
  学芸をもって性を養うへし
  日々新面目あるへし
帰って調べるとこれは会津八一の言葉で、よく学生に書いて渡したらしい。この言葉も、上の「聖灰の暗号」の抜粋と一脈通じる所があり、やはりデジデリウムの一面であると思う。私の宗教観はどちらかと言うと人生から不要と思うものを出来るだけ引き算するだけの傾向があり、自分でもセザール賞をねらう、などと冗談を言っている。相変わらず夜の霊達の言葉は盛んなのだが、数日前「積極的に生きろ、人の陰にかくれるな、その方が高い評価が得られる」と注意された。このブログも悪魔の存在とその恐ろしさを強調することに偏重し、あまり義のある人生のガイドにはなっていないかも知れない。八一の言葉には私よりずっとポジティブな響きがある。

 最近テレビの娯楽番組で、馬淵晴子という女優がマンション立ち退きをめぐり地上げ屋とすさまじい戦いをした様子を放送していた。彼女は平成23年にまだ75歳で亡くなった。後ろで見ていた大人の霊がその生き方を評価し「死後の彼女は大きく輝く霊だった」と言った。
序でながら、NHKが1980年なかばに制作した、手塚治虫の漫画製作の様子を記録した番組を昨年再放送していた。後ろにいた少女の霊が画面を見て「あっ、漫画の神様だ」と言った。そして「我々も人間のおかげを被っているのね」と言った。手塚治虫が神様になっても不思議はないと思う。

 今更ながら、つい最近読み終えたのは三浦綾子の「塩狩峠」である。これはまだ学生気分が抜けない頃、会社の寮で話題になったことがあった。5、6人が食後誰かの部屋にたむろしていた時、Aがこの本を読んだばかりの感想を語り始め、皆は耳を傾けた。読んでぼろぼろ泣いたと言うと皆が笑った。それを聞いて黙っていたBが「あれは誰でも泣くよ」とボソリと言った。宗教に関心がなかったある男がキリスト教に目覚めて、鉄道会社に在職したまま説教師になり、汽車の脱線を自己犠牲で防いで乗客の命を救って亡くなったという実際にあった話で、読んでみようかと興味をそそられたがそのままになっていた。Bが「ふじ子が可哀想だ」と呟くとAも同感で、読んだ二人だけに通じる共感に浸るのを我々は傍観した。
モデルになった長野政雄こそ生きたデジデリウムの見本といえるだろう。信夫(作中の主人公の名、長野政雄を指す)の助力と本人の必死の努力でふじ子が重病から回復し、今日晴れて二人の結納という日に信夫は死ぬ。神は二人の祝言を喜ばなかったのだろうか。本の最後でふじ子が信夫の死んだ場所に行き花を奉げて線路に泣き伏す場面をAとBはあの時思い出していたのだろう。この本の別のテーマであり、人間にはつきものの性はやはり疾(やま)しいことで、正しい一生にはなくもがなの事なのだろうか。せめて奇跡的にふじ子の健康が戻ったことが救いではある。

 私には子供がないので、誰かと再婚し子供を作って後継者にしろと囁く声がある。霊界が進んでいることは以前書いた通りで、私は特殊な遺伝子を持っているそうである。(ちなみに、霊感に関係あるドーパミンがたっぷりと出ているとかつて言われたことがある。)もう歳だから私自身より子供に未来を託し、自分は残りをその教育に専念した方が良いとする意見である。これまで妻に可能性がなくなってから一切誰とも女性関係はない。ハーレクインロマンにでもありそうな、どこかでまだ30代位の、見知らぬ魅力ある女性と二人だけで偶然同宿し、彼女が夜寂しいからと部屋を訪ねて来てなるようになることがあれば禁を破ることもあったも知れないと夢想するが、そういう上手い話はない。それに楽しむだけのsexはもういらないと思う。最近は疑い深いので、折角のノーセックスを無駄骨に終わらせる罠かも知れないとも勘ぐる。もう長く使用していない勃起筋はすっかり退化しているので無理ではないか。但し最近はそのための薬もある。デジデリウムとは遠い生臭い話題になってしまった。
冒頭に書いた、ソファーで聞いた声はエラスムスに関心を向けさせる意図だったのかも知れない。エラスムスの洗礼名はデジデリウスであることを前の記事を書く際知った。彼の書いた物を何か読んでみようかと思っている。
韓国のことを色々と書いたが、他方中国人はあたかも真実とは似て非なるものを上手く作る国民性であるという声も聞いた。にせブランドや他人の名前を勝手に商標登録する行為の横行。中国産の食物や商品や外交辞令はどうも信頼出来ないので、成る程それも尤もかと思う。商売と思想は全く関係ないと言えるか?
蛇頭は霊界でも越境して侵入している。大乗など当てにならない。禅宗はパーリ語ではなく、私は禅宗を達磨の達観だと書いたが罠かも知れない。既存の仏教は全部駄目ですよ、と仏教に疑問を持たせて自分の方へ呼び込むが、巧妙な誘い込みかも知れない。私の見た背筋の凍る悪魔崇拝の儀式の夢で大きな雪だるまのような形をした偶像が壇上に祀られていた。

 あの世はどう足掻いても悪から逃れられない仕組みになっていると聞いた。「二つの世界を生きて」のガーダムも悪のネットワークは世界を結んでいると言った。私の家宗はもと禅宗だったのを叔父が法華教に改宗し父も従ったのだが、「法華で信心すれば身体が治るなんて考えたのは間違いだった」と叔父は悔いているようである。ただし私の列席した禅宗の法要では南無阿弥陀仏を唱えていたからちょっと話が違う。私もたまたま宣伝していた禅宗の寺の納骨堂を買ったが改宗する時没にした。その際まあまあの乗用車が買える位の権利金は全然戻らなかった。未練はなく止むを得ないと思ったが「永代供養をしたのでお金は返りません」と言われたのは何か釈然としなかった。