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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

使徒信条

 わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。
 わたしは、そのひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
 主は聖霊によってやどり、処女マリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
   十字架につけられ、死んで葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死者のうちから復活し、
 天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。 
 そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。
 わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、
 永遠のいのちを信じます。アーメン

 ポルトガルの敬虔な信者が「我々は真剣に祈ったから今頃は天国にいる筈だったのに、地の底でトンネル掘りをやらされているのはどういう訳なのだろう」と悲嘆に暮れた。それはこの使徒信条のせいなのですよ。旧約聖書の Lord Almightyは決してイエスの父なる神ではないし、彼が天地の造り主なんて買い被りです。敵対する Lord Almighty の右の座にどうしてイエスが座っている訳があるでしょうか。
この信条は世界中の善と悪を逆転させていたのです。
 ロシアの深い穴底でも同じ事が起きていました。これもニケア・コンスタンティノープル信条が原因だった。一時私がハリストス教会に通っていた頃、正教はコンスタンティノープル信条を彼らの教理とみなして特別な親近感を持っているのが感じられました。かつてコンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都であり、彼らの総主は今もってコンスタンティノープル総主教と呼ばれています。プロテスタントにも同じような信条があるが私がいたバプティスト教会のミサで信条を唱えることはあまりなかったように思います。でも十戒への、ヤハゥエへの、Lord Almightyへの誤信は同じでした。エラスムスよ、ポステルよ、ルターよ、どうして信条が危険な罠だと叫んでくれなかったのか。
 エーコはイタリヤの代表的な知性で、「薔薇の名前」は古典になるだろうし映画化も成功でした。然し彼はバチカンのお膝元にいながら、どうして使徒信条のトリックを発いて「こんなもの危険な罠だ」とイタリヤ中に声を大にして叫んでくれなかったのでしょう。エリアーデは母国ルーマニア語に加えて主要七か国の言葉に通じたシカゴ大学の終身宗教学教授でした。「妖精たちの夜」「マイトレイ」は感動的だった。然しアメリカの大地に頑固に根を張っている原理主義の大木に斧を振って立ち向かってはくれなかった。
 彼らは神々が希望を託した錚々たる碩学でした。でも結果はすべて空しかった。だからもう人間には無理なのだと神々はほとんど諦めていました。革命はせめて神々が自分たちで出来ることをやろうとして始まったことなのです。何のネームバリューもなく、60才を過ぎてから心許ない霊感を頼りに玉石混交の情報を選別し、急拵えの知識で何かを言い出した私なんて駄目でもともと、ねじ回し一本でエッフェル塔を盗もうと企てる怪盗ジバコのようなものでした。

 キリスト教はとんでもないことになっていました。悪魔について司祭(神父または牧師)が語るミサはなかったし、信者は司祭に言われた通りに従い、自分たちが悪魔に向かって祈っているとはまるで気付かなかった。“盲人が人を導けば二人とも穴に落ちる”を地で行っていました。クリスチャンの運命はクリードから狂い出しました。ニケーヤ会議で権威付けられる以前にローマの洗礼式で似たような信条が使われていたと Wikipedia に出ています。だからキリスト教の威光は三日天下だったのです。悪魔はキリスト教徒が自発的にやって来るから全部まる取り状態で好き勝手なことが可能でした。悪魔が審き、人の子が審かれていたのです。
 マタイ25章31~46を見ると
“その時人の子が栄光の王座に着き、羊飼が羊とやぎとを分けるようにすべての国民を右と左に置きます。そして王は右側にいる人々に『わたしの父に祝福された人たちよ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたはわたしが空腹のときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』と言うのです。これに対し正しい者たちは『主よ、いつ私たちはあなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、渇いているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』と尋ねます。すると王は『わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわちわたしにしたのである』と答えます。
また左側にいる人々に『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火に入ってしまえ。あなたがたはわたしが空腹のときに食べさせず、渇いていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』と言います。そのとき、彼らもまた『主よ、いつあなたが空腹であり、渇いておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』と尋ねます。そのとき、王は『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわちわたしにしなかったのである』と答えるだろう。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう。”
と書かれています。この文章で、冒頭の「その時人の子が栄光の王座に着き」を「その時わたしが栄光の王座に着き」と変え、2か所ある「最も小さい者」を「人の子」に変えれば、イエスがこの宗教を起こした目的がはっきりします。そして「わたしの父」と「わたし」ことイエスと「人の子」の一連の関係が論理的に繋がります。では作り変えの犯人と思われる「最も小さい者」とは一体何を指すのか、大きな疑問が残ります。

 キリスト教徒は王位を受任して王座にいるイエスの前に導かれて審かれる筈でした。然し「全能の神」を信じるキリスト教徒は使徒信条を唱えながら道標の示すとおり続々と悪の方へと行進しました。全能の神とその手下が親切に「ここは君たちの来る所ではないからあちらに行って彼らの審きを受けなさい」とキリスト教徒を追い返すと思えますか。みんな捕らえられて「なんと馬鹿な奴らだろう」と笑いものにされたのです。宗教家も哲学者も信者もみな同じ運命でした。革命軍と共に来た大王に向かって、悪魔の子が「あなた様のお蔭で私たちは長い間大変な恵みをいただきました」と礼を言うと、大王は「ふざけるな!」と叱り飛ばしたのです。
 悪魔は「地上は我々が何の問題もなくコントロールしている」と報告していました。帰って来なかった人の子は「逸楽におぼれて自滅した」と説明されました。降りて来た人の子が実態を目の当たりにして身に迫る窮状を手紙に書いて知らせても、悪魔は郵便局を押さえていたのです。その上手紙を書いた人の子は厳しい罰を受けました。また子供たちは悪魔の学校で「世界一受けたくない授業」を受けて洗脳されたのです。「言われたとおりにやれ」が命を長らえるための鉄則でした。来た者も帰る者も彼らの手中にありました。悪魔は万事ぬかりなくやっていたのです。

 むごたらしい死体の転がっている修羅場を物影から物影へと辿って、どうにか逃げのびたことのある少女が決死の覚悟でその惨状を私に訴えました。ですから私だけが娘たちを代弁出来ます。しかし地獄は日本だけではなかったのです。既に紹介した「フリッカーあるいは映画の魔」を書いたセオドア(神の賜物)・ローザックなる学者は預言者ではないでしょうか。Amazon に投稿されたこの本の読後感想ではいずれも高評価を得ています。彼はアルビ派の年代計算で丁度2000年に当たる2014年に世界的な規模で先端技術を駆使した革命が起きることをぴたりと予言していました。その本にアメリカの教会でメンタルに問題があるが天才的な才能を持つ少年が目を覆いたくなるようなおぞましくも残酷な映画を次々と制作する話が出て来ますが、それが見えない世界の嘘偽りない実相だったのです。結末で孤島に取り残される主人公の絶望感も迷路に落ちた者がさまよう孤独をうまく表しています。

 もう言い飽る程言ったしこれ以上具体的に言うのには身の危険を感じますが、仏教の世界も救い難い根腐れ病にかかっています。「斑鳩の白き道の上に」を書いた上原和という学者は死んでから真相を知って愕然としたそうです。密教の仏がこの国の仏教を牛耳っています。密教の選別で生き残るのはどうしようもない連中ばかりです。そもそもアジア全体が元来悪魔の猟場なのでした。文庫クセジュ「悪魔の文化史」にヨーロッパでは善が天にあり悪が地上にあるが、アジアではその逆であるのとの説が紹介されており、またある女神が「アジアには謝らなければならない」と言ったのはその事を指すのだと思い当たったのでした。ヒンズー教や仏教では天に行く通路はありません。
最近キャンディス・バーゲンが夢に出て来て「助けてくれ」と言ったのには驚きました。何も出来ないし、本人は何も知らず私が訪ねて行っても門前払いでしょう。なぜか彼女の顔は老け込んでひどく皺が寄っていました。

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