これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
ホームページ imitatio-xp.comを2013年8月に立ち上げて一年がたった。
この記録は人間界に向けて現代人に共通し特にこの国で著しい宗教への無関心に多少なりとも刺戟を与え、その覚醒を促すのが第一の目的であったが、果たして誰の目にとまってどのような関心を呼び、またHPビジター達の間に如何なる反応を引き起したか、実は私は全く知らない。然し今まで折々触れてきたように、ここに書かれたことが冥界に伝播され(複数の言語に翻訳されて外国にも。それをやってくれている恐るべき霊界の娘さんたちよ。だから最近台湾から中韓とは違うから是非来てくれとお誘いがある)、どう受け取られ、人間ではない存在の世界にどんなインパクトを及ぼしたか、また結果的にどのようなインテリムの評価が与えられたかについても、その都度敏感に伝わって来て、凡そその全貌を把握していると言えるだろう。
昨年の六月頃、早朝というよりは夜の一時過ぎになると決まって一人の少年の霊が来て、枕元で寝ていられない程の大声で私の考えを早く公開しろと毎晩々騒いで急きたてた。そして「ザメンホフのルール」(註*)という聞いたこともない原則を持ち出し、「タイミングを逃して誰かに先行されるとパイオニアに与えられる筈の折角の恩恵を失ってしまう」とかまびすしく警告したのだった。その切迫感は胸の動悸を早めさせた。ホームページを作るにはプログラミングが必要と思いホームページビルダーのテキストを買って来たが、もと Mainframe Systemのプログラマーあがりの私でももう70歳を過ぎた現在とても簡単に作れそうにはなかった。この問題はネットで運よく見つけた近在の専門家にリーズナブルな値段で依頼することで解決した。
むしろ懸念するのは、私の考えを公にすることによって、私に動物なみの辛辣な評点を下し地獄に引きずり込もうとした仏教グループを刺激することだった。鳥も鳴かずば撃たれまいという諺があるではないか。我々は人間の一生を審判する仕組みを知らない。この国の宗教の圧倒的な割合を占め、かつまた私の過去に対し意のままに裁量権を揮って来た仏教が、改宗によってその支配を簡単に手放し、これまでの惨めな評価を白紙に戻させることが出来るかという疑いがあった。私はもう既に彼らによって悪魔に売られているという声もあった。だから、望むらくは波風立てずそっと抜け出したかったのだ。
この国の仏教徒の死後の問題について、私が決意し人々に知らしめよとプッシュするのはあの少年だけでなく、複数の、声からして権威ある者達がいた。この世を抜け出せなくなる心配に対しては「それならそこまでの命」と言われたが、例えそうでも自分個人のことより重要で必要なことだと諭された。思い出すのは、高校生の頃日記に“早く老いたいと思う。物事を誤りなく映す鏡のような心を持ちたい”と書いたことである。老後に任務があるとはっきり自覚していた訳ではないが何かを予感していたのだろうか。若く危うい期間を無事に通過したいという気持ちもあったと思う。また私の本棚には「日本人とユダヤ人」も「豊饒の海」もあるが、以前本を読むと作者の霊を呼ぶと書いた通り「この人なら皆に真相を知らせてくれるかもしれない」「忌憚なく言ってくれ」と、夫々の作者からもう大分前にメッセージを送られたことがあり、それがずっと記憶に残っていた。
HP公開後一年経って判ったことがかなりある。クリルタイの理解については間違っていた。既にキリスト教も神仏以外から(多分イスラムとヒンズー)も日替わりメンバーが入っていたし、キリスト教が特別 philanthropicなことはなかった。だからヌシが仏教からカトリックに変わっても同じ嫌味なことを言っている。女を連れ込んだとか(不動産取引の女性です)読まない本ばかり買ったとか(そのうち読みます)。彼・彼女らはHPに記憶を綴り始めてから格段に用心深くなった。聞いたことをそのまま書いて全体像をつかむのが趣旨だったから「祟りの神」の項は当初開示する意図になかったが、これはプライベートには問題があったかも知れない。セミラミスとニムロドは私と全く他人の関係ではなさそうである。あの事を書けと主張した女性霊が誰だったかは判らないが(キリスト教の可能性も全然なくはない)見事内紛を呼ぶ罠のひっかけに嵌ったのかも知れない。仏教の霊(多分間違いない)が入手先を「今後はニワトリに頼むとするか」と言ったのも耳学問を信じさせるための罠だったのだろう。
また霊界に対する人間の認識が余りに急速に刷新されるような事を書いたのは予定調和違反のフライングだとして罰せられるとする声もある。私がいくらブログで叫んでも新しい考えが組織化されない限り本人の功績にはならず、むしろ不利になるばかりで「犬の遠吠えに過ぎない」と馬鹿にする者もいるが、他方相応に評価され影響を及ぼして立場がずっと良くなっているとの声もある。過去を遡及するコマンドも具体的に書かなくて幸いだった。合ってはいるが使い方が違うらしい。人間中心主義の仏教への導入は統一して全体が纏っている訳ではなく、去年亡くなった入社同期のN君は夢に二度出て来て「こちらでいい仕事がありそうだ」と恰もうまく行っている様子だったが、彼の宗派が何教か知らないが結局従来と変わらない目に遭ったらしい。シバ神の記事に対して「あれは事実と違う」という声は、所詮意見が皆同じということはあるまいしシ重々注意を警告された。最近は声が遠くて聞こえ難くなり、もうあまり耳を傾けなくなった。
そうではあるが、重大事項がある。神のアギーレとイザヤの予言である。何かが絶対にあったと感じる。
この六年間の改宗によって齎されたものは、それまで封じられていた、本人も容易に信じられない私自身の前身に関する秘密だった。これが真実なら私を手中にすれば悪魔は大喜びに違いない。更に、新たに明かされたのは私にある特殊な能力、即ち今までの人生を通して全くの無意識のうちに行く先々で起していた霊的現象についてである。今住んでいる町でも少年霊に「来てくれてありがとう」と言われた。フランスから霊が訪ねて来てもう一度是非これまで行った以外の別の都市にも来訪してくれと頼む理由もそれである。弁解じみて聞こえるだろうが、今生について私は逡巡した上で決意し、世間的な能力や身分では特別どうという事もない人生をおくるであろうことを「それもいいだろう」と予め了解してもらっていたらしい。インノケンチウスも二度と法王の地位に就きたいとは思っていないと聞く。
霊達は誰も積極的に人間になりたがらない。ほとんどの人生は危険な片道切符の旅に終りかねないから。今までに私はインド、ギリシャ、イスラエル、ヨーロッパの何カ国か、ロシア、アフリカ、日本、アメリカ、ジャマイカ、ベトナム、そのほかを巡りめぐって転生を繰り返したのかも知れない。そのせいか心理の奥底ににぶい疲労感がある。そう思うのは直接的・間接的な言葉や暗示や夢による映像だが、もし嘘だとすれば何故そんな手の込んだ策を用いるのか分からない。ただし言語については行き先の国語を直前に学習する以外毎回降りて来るたびにすっかり記憶を消されているから、どの外国語も白紙状態からの再スタートである。願わくば今回を最後にして故郷の国で休息を取りたいと思っていることを知りながら次はブラジルだ、ウクライナだ、ポルトガルだと誰かが囁くのは意地悪な嘘に聞こえるが、ひょっとするとあり得るかも知れない。一時私が自分の遺骨を海に散骨して欲しいと妻に呟いたのを聞いて、嫌がらせかまことか次は深海魚だと言う者もいてゾッとする。私が余程例外的なのかも知れないのは認めるが、グスタフ・フェヒナーの「人は三度生きる」という説はあまりに単純に思われる。こういう私の認識が世間の常識とは全くかけ離れているのは分っているので、この事で誰かと虚しい議論をして説得を試みる気はない。人間が生まれ変わること、女から男への性転換、畜獣や虫にさえ落されること、地獄に落ちること、煉獄の存在、天に昇ること、それに悪魔に食われることも含めて輪廻転生は余りに謎が多く、霊についての人間の知識は極めて限定されている。だが絶対に楽観は禁物なのは明らかで、これらを避けることが出来ないのは間違いないし、死ねば皆終りでないことは確かだろう。「自分が死後どうなるかに無関心で、いくら動物や植物の知識を学んでもさして意味ないだろう」とペトラルカも言っている。輪廻の定義は仏教がほぼ言い尽くしているそうで、根本教と呼ばれる所以であるが、仏教は悪魔についてことさらに言及せず地獄に含めている。こういう事を一人考えている時、近くで「俺達にも人間になるシェアがある」とデーモンらしき者が言ったことから推して、地獄すなわち終りとは限らない。そんな彼らは地上でなにくわぬ顔をして地獄の使者になるのだろうが、頭脳優秀な者も多い。胸の奥に残っている天の記憶のかけらを目覚めさせて、まともになる最後のチャンスを逃すなと彼らに言いたい。
昔高校の授業で「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」について、悪人は浮かばれなかった時の苦しみを念頭にやり直すから往生すると、先生は「悔い改め」と「再生」をキーワードに説明した。
うまく説明出来ないので今まで書かなかったのだが、「闇の奥」で私の不品行の代償として連れ去られ食われた子供達の中に私自身の子供が含まれていた。降りて来る時に私は子供の姿だったのに、既に子供があったことを人間には説明のしようがない。霊は時と場所と必要に応じて姿を変えるとしか説明出来ない。数年前まだ若く愛らしい女性が来て「坊やはどうしたの?」と聞いた。彼女のことは記憶にないのだが、その言い方が私と彼女の間の子供を指していることを暗示していた。幼い子供に見えても霊の子は数百年は経っている。私の子供も今回の任務に童子の役目で私に伴っていたのだろう。彼女は事情を察したのかふっと消えた。私がどうしても仏教にネガティブなこだわりを持った理由である。
然しこの話にはとんでもないサプライズがある。おととい10月13日夜、私と仏教の深い関係が明かされたが今それを書く心の準備がない。
前回の最後に書いたワルド派虐殺の図に関し意見の食い違いがある。
V「我々とは関係ない」
S「命令通りにやった」
V「もういいかげんにしろと言った」
S「いやいやながら無理矢理やらされた」
Vが誰でSが誰か興味のある方はご自分でお調べ下さい。Vは調べるまでもないと思うが。
前の教会から私が離れて以降の月報をまとめて送って来て、宗教新聞の切り抜きが2枚同封してあった。それにはカトリックでかなり名の知れた神父が書いたコラムが載っていた。彼の説教はいつも独特のオプティミズムをテーマにし女性ファンが多い。勉強会で彼のテープを何度か聞いたが、何を根拠にそれ程楽観的なのかメモを取ろうとしても、ただ鳥がさえずるように一種独特の言葉使いで雰囲気を作り上げて根拠となるポイントは漠然としているのが常だった。毎週約一時間のミサの中で神父の説教の時間は限られているから、それはそれで話術として巧みだと思う。善意に取れば送り主の女性は、私が「食について」や「キリスト教と悪魔」でかつて月報に書いたような悩ましい事を頭に抱えているのを思い遣ったのだろう。ピエモンテの図をプリントして送れば「歴史上教会がこんな非度いことをやった過去があるんですよ」と注意を喚起することも出来るが、安易に軽率なことをすれば大ごとになりかねない。下手をすると理由の如何に拘わらず私は外見をはばかる残虐ポルノをばらまく犯罪者扱いされる危険性がある。この絵はあちら側でも知っている者は知っているそうである。
バチカンの悪魔崇拝について公言した者のことがネット上に出ている。人間の子供達が犠牲になったとすれば悲劇である。まるで「あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人には正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」(マタイ福音書23章)のようになってしまった。大聖堂の、人影の絶えた夜に異形のものが徘徊しているのを誰も気付かない。
ワルド派が宗教改革のきっかけであるとする考えもあるが少し違うように思う。彼らとルターとは新しい信仰についての原理・手法にほとんど共通性がなかった。ただし造反有理という点で同じ基盤に立つのは頷ける。
改革神学の三大原理(信仰義認、聖書中心、万人祭司)に関連しルターやカルビンの予定説というものが現れ、勉強不足の私には何だろうと疑問が湧いた。「良い木はよい実を結び悪い木は悪い実を結ぶ」のたとえを、自然界と同じに「木が良い実を結ぶかどうかはあらかじめ決まっている」と解釈するのが予定説の根拠だとする解説がある。しかしこれは逆ではないだろうか。救いに値するもの(良い果実)を実らせた者(木)が良しとされて合格し、実らせなかったものが悪い木として落される。果実の善し悪しによって木の善悪が決まるのである。諺に「棺を覆って人は定まる」とある通りである。そうでなければ人間は髪の毛一本一本まで調べられる必要がないし、言葉が記録される必要もない。“人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて裁きの日には責任を問われる。あなたは自分の言葉によって義とされ、罪ある者ともされる”とイエスは警告している。画像もしかり、私は自分の写真アルバムがファイルされているのを夢で見た。そこにいた少年が笑いながら「ここまで上がって来たものは今までいなかった」と言っていた。それだけでなく、既述の通り監視者のクリルタイグループが組成され、採点したり記録したりレポートを書いたりしている。何故なら監視者は生涯一定ではなく交代があるから。
審判の場には良い証言と悪い証言をする両方の証人が現れる。救いを求める意志の濃淡も重要である。叩き台としてコンピューターのAIによる査定表が出るかも知れない。人間は摂取した飲食物・嗜好品の種類や量によっては霊的身体や衣服に著しい汚れが出ると言う。愚かな行為によって、あるいは付着した霊によっても汚れる。ソニー・ビーンのファミリーやチカチーロは目も当てられない姿だったに違いない。その意味で身体検査もあるだろう。以上が予定説に対する私の反論である。信用してもらえるかどうか判らないが。
聖書中心には誰も異存ないと思うが聖書そのものが何と複雑なヴァリエーションを持っていることか。敬虔で素朴な聖書原理主義の信徒から出発したバート・D・アーマンが Text Critics の学究を深めれば深める程信仰を失って行く様子が「捏造された聖書」に書かれている。アーマンは写字生が新しい聖書を書き写す際発生する異同には a.意図的削除 b.ミスによる削除 c.意図的変更 d.ミスによる変更 e.意図的追加の5種類があると言っている。
パウロが律法を否定しているのは聖書の中の律法についてのイエスの教えに違背すると考える意見があるが、パウロが布教し手紙を書いたのは聖書が出来上がる前であり、彼が持っているのはQ資料とも呼ばれる聖書のドラフトのコピーであろう。後に何者かによって編集された聖書の方が巧妙に何かをやられた可能性がある。以下は私独自の推論で、「イエスは折角苦心して残した言葉がその通り聖書に書かれていないと嘆いていた」という声は聞いたことがある。どの個所かは判らない。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」という言葉はユダヤの律法が不完全であったことを意味している。他方「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」の中の律法はユダヤの律法ではなく、天地に及ぶ神の定めた律法の不変性を意味する。天の律法の一部とユダヤの律法は重なるかも知れないが、ユダヤの律法は天の律法の全体像を映していない。「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方がやさしい」も天の律法を指す。イエスは教えの局面に応じて修飾語を付けて二つの律法を区別したが、アーマンの a(意図的削除)によって修飾語は削除され、その結果あたかも律法という言葉がすべてユダヤの律法を指すものと見紛うように、聖書に狡猾な操作がなされている。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」とは、ユダヤの律法はモーセの律法で、それが神の掟とは違っていたことを意味している。「これら(天の律法)の最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者」こそユダヤの神(YHWH)であり「天の国で最も小さい者と呼ばれる」とイエスは言うのである。烈しく嫉み代々に及ぶ憎しみを齎すユダヤの神のイエスに対する敵意が燃え立ち、地上でキリスト教が苦難の道を辿る始まりとなったであろう。
律法と価値判断との関係について、イエスは場合によって律法を脇にどける。行い如何により同族の祭司やレビ人よりはサマリア人のほうがよき隣人になることがある。安息より重要なことであれば安息日のルールは曲げられる。律法が守られなかった前例も引用する。「もしあなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないならあなたがたは決して天の御国に入いれません」と義の重要性を強調する。ただ形だけ決まりに従うだけでは義とされない場合があって、その例は次のように其処此処にある。
レミゼラブルで、ジャンバルジャンは宿の提供をうけて翌朝教会を去るとき燭台を盗み、怪しんだ警官によってミリエル司教のもとに連れ戻される。司教は燭台は私が与えたものだと証言し、もう一つ与えるのを忘れていたと別の燭台も渡す。あきらかに律法が禁じた偽証であるがジャンバルジャンの悔悛を信じたのである。
杉原千畝は出国を希望するユダヤ6000人のビザに徹夜で署名する。通常の役人なら同盟国ドイツとの関係を重視し本庁の指示を杓子定規に守ってそうはしなかっただろう。あとで杉原の行為は彼自身だけでなく日本人に与えられた名誉となった。
映画「戦場のピアニスト」で、収容所に送られる列車を待つ行列からピアニストは一人の警備の兵隊によって腕を引っ張られ、どさくさまぎれに助け出される。それがなければ彼のその後の全き一生はない。兵隊の死後の審判でピアニストの分身は有力な弁護の証人になっただろう。これらの義の行為はただ規則に盲従し墨守するだけでは決して生まれない。イエスが禁止した盟約の加入者、例えば「私を道具にして下さい」と歌う厳しい規約に加入したイエズス会会員には到底期待出来ない行為である。
「ドイツ宗教改革(R.Wスクリプナー)」によれば、宗教改革の結果善行の価値を論ずることさえ不可とされ、善行を説く聖職者や反律法主義的聖職者はドイツで反宗教改革者と看做されて、命の危険を感じ職を捨てて逃亡せざるを得ない状況だったという。これではこの改革はカトリックに異を唱えただけで、まだ足が踏み台から離れていない。青虫が成長し羽化して蝶になって飛び立っていない。
仏教を刑法とするならユダヤ主義は刑事訴訟法であり、その検察の手法は世界に及んでキリスト教・仏教・イスラム教の審判の手続きになっている。旧約で人間を生み出したYHWHは人間性のベースを把握しており原則的な検察手法の指導者となった。彼は二元論者というよりは悪と二人三脚の一元論に近い。その原罪の概念は墓石のように重苦しく人間にのしかかっている。イエスによって生まれ変わるべきキリスト教は旧教を引きずり旧教がキリスト教の4割以上を占めている。これはイエスが意図したことではなかった。ゲッセマネの祈りで苦悶するイエスはまだ自分の目的が完全に達せられていないことを訴えたのであろう。然しもう時間がなかった。そしてすべては御旨のままにと神に従った。
モルモン教はユダヤの検察の手法を逃れた可能性がある。ユダヤと対立関係にあったラタキヤの神は寛容でオレゴンの教会に恵みを齎している。
(*註)ザメンホフのルールについては後述する。今だかつて人間が誰も扱った事のない未知の規則らしい。