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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

変身譚

 最初は逃げの一手だった。自分がthresholdに立っていることは実感していたが、冥界なんて得体が知ず不安
が先立った。しかしページを重ねるたびに深入りし、自分が書き記したことが次第に重さを加えてはかりの針が動き始めた。誰かが言ったことを書けば必ず正反対の意見が出て来るから一体どちらが正しいかと煩悶した。途中から警戒心が芽生えて何も書かないでおこうかとも疑ったが、何とか中心軸を外さないことを念頭に置いた。匿名とはいえブログがパブリックなツールである限り、何よりも誤情報を書きたくないと思った。随分とトリックに足を掬われて行きつ戻りつ逡巡した。これまでで自分が立つ足場が固まったと思うがまだほんの序の口か。己を信じて更に一歩一歩前進するしかない。こういう人間を敵とも味方とも取る様々な霊的集団があることも分かったが、それが現実界の宗教的な立場にもおのずと繋がっているだろう。死後「無事には帰れない」とか「銃殺刑は決まっている」とか、何者かの直接の言葉「お前とはいずれ一戦交えなければならない」等々の脅しが耳に入る。危険が身に迫っているとも、「カトリックに物申した者は無事では済まなかった」とも言う。ブルガーコフは「人間の欠陥は数多いが最大のものは恐怖心だ」と作中のイエスに語らせた。その通り、未知の世界に対して恐怖心で委縮したからと言って恩恵がある訳ではない。定説のない未開拓の分野であるが誰かが先駆けとなって語らなければならないことがいっぱいある。

 動物霊を決して侮ってはならない。だから人間は死後どうなるかも考えないで、自分の視野だけで奢ってはならない。自然界と霊界では進歩に於いて格段の差がある。霊界は宇宙を作り出した神をも含み、時間は宇宙が出来る以前にも無限にあり従ってその蓄積があると考えねばならない。霊的進化のプログラムを霊たちは知っている。霊たちが持っている語学の能力は想像以上であるし能力がなければ彼らは生き残れない。テクノロジーでも思想観念でもはるかに霊界の方が進んでいる。彼らの方が書かれたことの正誤を知っているし、書き残されていないことも含めて過去を知っている。地球上では動物の方が人間より先在している。だから「お経は猿の教えそっくりだ」とも言い、「レビ記は毒蛇の教えそっくりだ」とも言う。猿を尊崇る寺があり、モーセは蛇を導きのシンボルとして掲げた。中には動物の方に味方する神もあるだろうが、人間が悪魔と呼ぶものはそういう類の神だろう。進歩しているからと言って霊界の方が人間にとって良い所とは言えない。
 動物が何も考えていないわけがない。彼らの心中には最後に生まれた人類に対する怨嗟があり、人間が彼らを捕食し或いは使役すること、彼らの領域を犯すことに対し程度の差はあれ根深い不満と憎しみがある。彼らは神に対して先行する自分たちが人間と比べて劣っていること、地位が低いことに文句を言ったに違いない。それに対し神は譲歩して彼らをなだめたのだろう。「その代り人間が気が付くまで自然界とそれを取り巻く霊界ではお前たちが神になっていい」と。進化論とは先行者の神化論である。銀河系の外から我々を見て「銀河系には仏教という邪教がある」と言う者があるそうであるが、他の宗教も仏教を根本教としてその上に乗っている。

 ブルガーコフはキリスト教から脱したかったのだ。だから巨匠とマルガリータが悪魔に導かれるエンディングを選んだのだろうが悪魔の食については把握し切れていなかったのではないか。作中でイエスは「マタイが混乱の種をまき散らした」とキリスト教の失敗をマタイのせいにしている。ユダヤ教の大祭司の訴状に対しイエスが尋問の場で「私が神殿を壊せと言うはずがない。やがてこの神殿も壊れるであろうと言ったのをマタイが取り違えたのだ」とピラトに釈明するくだりがある。ヨハネ福音書2:17でイエスは祭司たちに神殿を奪われそうな危機を危惧している。
 マタイ6章17,18に「あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう」という、意味の判然としない文章がある。これは本当にイエスが言ったことでのその真意を伝える文章なのだろうか。この文章にある通り神は油を好み、油は神を呼び寄せる物質なのだろうか。キリストとは“油注がれたもの”と言われるが、油を身体に注ぐなんて常識で考えて皮膚呼吸に支障を来し私は先ず不快感を覚え、いかにも不自然で疑念が浮かぶ。サラダにドレッシングをかけるようなものではないか。“顔を洗う”の「洗う」行為も食べる準備の食材処理であるし、また猫のしぐさでもある。これらは自身を神への食の捧げものにするための行為ではないのか。何日か断食をすれば胃や腸に詰まった汚い未消化物や悪臭のする排泄物を身体から除くことが出来る。故に断食は人身御供の習慣の名残りとは考えられないか。宮沢賢治の「注文の多い料理店」のようなものである。「巨匠とマルガリータ」の終わりの方でペゲモートという名の猫が暖房器具から灯油を舐める場面があるが、入江たか子演じる有馬の化け猫も灯芯の油を舐めた。子供の頃見たあの映画はゾッとするほど怖かった。猫は隠れた場所にいる。私は猫たちが会話している夢を見たことがあり、会話の内容も聞こえた。猫はエジプトで神聖視され神格化されたし、猫族の頂点には百獣の王ライオンがいる。マタイの言によれば猫族が我々の父なる神だということにならないか。猫が聖書を示し「ここにこう書いてあるではないか」と死後のキリスト教徒に「我々はお前たちを陰から見ていた。だからおれ達はおまえ達の父なる神の正当な代理だ」と主張し、クリスチャンは猫族のエサにされた可能性が考えられなくはない。こういうタチの悪い理屈を悪魔は得意とする。ローマのコロッセウムでキリスト教徒はライオンに食い殺された。
 猫族は基本的に肉食だが昔はペットフードなんかなかった。私の家で飼っていた猫は雑食でご飯に味噌汁をかけたものをネコめしと呼んでいた。恐ろしい話をしようとするのにここで笑ってはいけない。猫は鼠や雀も捕まえて自慢し、弄んでから食べる。皮肉なのは直前の6:14,15である。「もしもあなた方が人々のあやまちをゆるすならば、あなた方の天の父もあなた方をゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならばあなた方の父もあなた方のあやまちをゆるして下さらないであろう。」は「主の祈り」の一部にある耳障りのいいモラルの言に聞こえるが、動物達の勝手放題なあやまちも許せと言うのか。血も凍るようなブラックユーモアに聞こえないだろうか。マタイの意図は悪魔のやり口を警告しようとしたのだと思う。

ブタは雑食である。前に放蕩息子の帰還の話を引用し「豚は悪魔の代名詞。悪魔の食い物とは何か」と書いた。
今は12月初旬、伝統を重んじる教会は馬小屋を作り人間や動物の人形を飾る。全体の風景を眺めてほしい。馬や牛や羊に取り囲まれて生まれるものは豚しかないではないか。キリストを演じる豚がいる。クリスマスなんかやめるべき理由がある。「巨匠とマルガリータ」でピラトに来歴を問われてイエス(物語の中ではヨシュア)は自分の誕生をシリアのどこかと言ってベツレヘムの馬小屋で生まれた物語をさらりと否定している。羊は大人しい動物と思われているが羊を飼った人なら気性を知っているだろう。子供の頃ヤギと羊が一緒に飼われている囲いがあったが、からかうと猛烈に怒るのは羊の方だった。羊の角が生えた悪魔もいる。羊と人間の合の子である。
 十二月は私の誕生月。まさにその誕生日に女が現れるはっきりとした夢を見た。顔立ちは美しいが、装いは武具に身を固め青ざめた顔に必死な表情があった。場面は私が時々買い物に行くスーパーの駐車場を兼ねた空き地。すぐ近くに大きな寺がある。彼女はこの寺で受けた仕打ちに決死の仕返しをする所だった。彼女は私に○○(関東の代表的都市)に豚の皇子がいる、ガバメントもそれに仕えていると言った。私が戦わねばならぬ時は戦う意志のメッセージを送ると、皇子は強力だ、無理だろうとの否定的な答えが返された。私に自信あり気に「いずれ決着をつける」と言った霊である。彼女は「皇子には付け届けしなければならない。いっそ殺された方がましだという目に何度も会った」と言った。付け届けとは人間の女を提供することである。皇子とは巨大なブタの精である。それがイエスに余りにもそっくりで彼女は「イエスなんてとことん恥知らずなエゴイストだ」と言った。ずっと前に「人間に強姦されるならまだましだ、同じ人間同士の欲望だから」と誰かが言うのを聞いた記憶があるがこのことか。イエスそっくりの化け物は欲情が燃え上がるとブタに戻り、あのワインの栓抜きのような性器を挿入するのだろう。子供の頃農業高校の秋の農業祭で色々な家畜を繁殖させる映画を見た中にブタを交配させる場面もあった。あの夢はきっと彼女の最後のダイングメッセージだった。「巨匠とマルガリータ」の最後に馬に乗ってドイツを目指して飛び去る悪魔の長ヴォラントはDVDの画面を圧倒する巨大な姿に変わる。ヴォラントのスペルはWolantであるが意味は分からない。作品「巨匠とマルガリータ」も共産主義国家で自由を奪われたブルガーコフが密かに書き残したダイングメッセージだった。
皇子の子供が生まれると生きているのか死んでいるのか、姿形はどうなのか。「01・命の道を問う者へ」で書いた悪の根城となっている禅寺では野坂昭如が「骨餓身峠死人葛」で書いたような事が行われていたがまさか・・・しかしどんなことでも起こるのが霊界である。女は犯されるだけではない、中身を抜かれてゴミ捨て場のゴミになる。女たちの耐えきれない恥辱は推して知るべしである。無残なるかな、股裂きは毎度のことらしい。成層圏に天女たちの住む場所があるが(あったが)皆食い殺された。
 結果的にこの怪物を日本に導いたのは言わずと知れたカトリックの宣教師である。本人は善意のつもりだろうが彼らの結果責任は重い。大聖堂にある彼の像の前に立つと思わず手を合わせたくなるし建物も荘厳であるが、残念ながらその背後にあるものがどんなに恐ろしいかは人間には想像すら出来ない。1549年彼によって齎されキリスト教は一時盛んな頃もあったが江戸時代の禁教政策によってほぼ完全に粛清された。霊界における怪物の横暴は世界的な悪の連帯によるもので、仏教も屈服しその奴隷になった。彼によって仏教のなかにあった多数の善根は根絶やしにされた。怪物は日本のクラバックとタイアップしたかも知れない。それまでは独自性のあった禅も席巻されたのだろう。江戸時代以前までは仏教もまだ良かったらしい。江戸幕府の将軍や主だった大名が彼によって死後の運命をどうされたか。致し方ないことだが、生前の成功話をあれこれ話している歴史座談会はそこへの視点は全く欠如していて空しい。
 仏典が猿の作であるとすれば三蔵法師が中国に仏教を齎す以前から仏教は動物霊のための宗教だったことになる。すると仏陀への疑いが沸く。日本の命名法ではいぬ、ねこ、とら、しし、うま、うし、うお、さる、むし等動物は二文字なのが普通である。ではブタはなぜブタなのか。ブタという呼び名は“仏陀”の転用とは考えられないか。仏陀はブタだったらしい。しったかブッタというブタの漫画があった。仏教は真の姿の追及より偶像を崇めることをよしとする。鳥羽僧正は動物たちの奢りを叱ったそうである。日本において仏教とカトリックの出会いは表と裏の合致のようなものである。私がカトリックに改宗してもクリルタイに同じメンバーが居座った訳である。人間の無知のなんと悲しいことか。

 ではなぜブタがイエスなのか。これは日本だけの問題ではない。ちなみにアメリカでは、食習慣や生活環境の違いもあろうが、救いの恵みに与る者の割合は日本よりもっと少ないそうであり、またヨーロッパ人の中にキリスト教に見切りをつけ仏教に救いを求めて来るものも多いそうである。多分それも幻滅への道であろう。
イエスの磔刑は過ぎ越しの祭の最中に行われた。過ぎ越しのパンには人血が混ぜられる。今日アメリカの某地では血抜きした後の身体はミンサーで挽かれ、こっそり食品に混ぜられることを既に書いた。何故イエスの死体は見つからなかったのか。これはとんでもない仮説だが、イエスの身体はブタのエサになったと考えればその説明がつく。ブタは多産である。神の身体を食ったブタの子は何匹いたのか。ギリシャ神話の変身譚でゼウスが牛になったり白鳥になったりするが、ゼウスは牛も白鳥も食べたのだろう。「巨匠とマルガリータ」の劇中劇でマタイはイエスの身体を十字架から降下する。つまりブルガーコフは徴税人マタイが死体を隠した犯人であると見ている。私は新約聖書の中でイエスが神の子だったことや死者の霊魂を復活させる力のあること(ヨハネ福音書11:25「わたしはよみがえりであり命である。わたしを信じる者はたとい死んでも生きる」)は認めるが、マリアの処女懐胎とイエスの肉体を伴った復活は受け入れられない。ここに書いたブタの話は多分暴論だろうが、イエスの遺体を一体誰が何処に運び去りどうしたのか、その真実を知りたい(ロシア正教は何かを知っている?)。

 あらゆるつまずきのもとはイエスを有罪にしたことである。33才で道半ばに十字架上で半死させたことである。もし生き永らえていたなら聖書の誤謬もなかったろうし聖書を勝手に切り貼りされることもなかっただろう。クリスマスも現行とは全く違ったものになっていただろうし、磔刑を遁れていたらブタの化け物が出来上がることもなかっただろう。ピラトはイエスに罪を見出せずいったんは縄を解いたが、別件で「いつか皇帝の権力もなくなる日が来る」とマタイに言ったことを皇帝侮辱罪と受け取られ、結局ピラトも「皇帝の栄誉は永遠に陰ることはない」とイエスの有罪を容認し、皇帝の絶対的な権威に対する畏れを越えられなかった。彼はなおもイエスが過ぎ越しの祭の恩赦で赦免されることを希望したがユダヤ教の大祭司はバラバを指名して譲らなかった。
キリスト教の見直しに立つイスラム教が説くジハードは他者に対する無限の許しではなく聖戦を指示している。ジハードは他の宗教や他民族に対する戦いというより人類の敵への戦いに目覚めるようガイドしていたのではないか。アラーを反ラーと言葉遊びしたのはあながち見当違いではないかも知れない。(でもアラー・アクバル、悪威張るじゃしょうがない。ラマダンも両方の意味に取れる。)ルネッサンスは日本語で人間復興とも訳され、今の頭で考えると動物に対する人間の栄誉の回復運動ではなかったかと思われる。そういう側面はほとんど自覚されず実は結ばなかったかも知れないが、今回ガバメントが建てたスローガンは人間中心主義である。
 聖書学の専門家である田川建三氏はクリスチャンではないらしいしアーマンも信仰を失ったというが、その理由は何だろう。調べれば調べる程言葉使いの違いや論理的な内部矛盾に直面しどれが本当か分からなくなり信頼を失ったというだけだろうか。一歩進んで黒子によって聖書に仕掛けられた邪悪なたくらみを発見しなかっただろうか。ナグ・ハマディー文書がいまだに公開されないのは何故だろう。イエスは偽キリストに注意せよと警告したが、誰でもパウロのような経験をするとショックを受けるだろうとは思う。私の出会った光り輝く者は悪魔だったと思っているが、パウロの場合は本物だったかも知れない。

インドの神々はずっと性に寛容らしい。リンガ・ヨニ崇拝、ヒンズー寺殿にある石造彫刻を見れば頷ける。
「37・ポルノ」を書いたことで霊界に何かの衝撃があったようである。セックスは裁きで否定的に捉えられるという事がその趣旨であるが、誰がセックスに言いがかりをつけて引きずり下ろすかにも注意の目を向けた。
数日後あまり聞いたことのない声が私を目覚めさせ「皇子はcast-offされ埋められた。今後は殊更女を貶めることはしないだろう。せいぜい飯炊き位に留めよう。自分はドイツで三カ月暮らして人間の実態を知った。これまでブログに書いたことは現実を理解する助けになった。評価が一方的だったことも改めよう。お前に何点(大学で優を取れるくらい)付けたから今のままで身を引け」と私をdissuade した。心に受け入れやすいハッピーな声ではなかった。言っていることが本当なのか、平気で嘘を吐く連中がいるのが彼らの世界なのである。最近は疑り深くなっているから「何点て、300点満点なの、500満点なの」と反論したい。その後ブタの化け物のことが自分なりに分かったが女の夢が事実なら、奴が憎い、恨めしい。何様だと思っているのだ。自分が他人にやったと同じ報いを受けて欲しい。この言葉に祈りを籠める。
過去をビジュアライズするコマンドで何をしたかがすっかり露見し彼らの立場が危うくなっているのは感じる。皇子のもたらす悲劇は霊界でも案外知られていないようで関東地方に偏っているのだろうか。大阪の(すでに名を挙げた)神も最近知って「自然の理に反する」と怒り狂ったそうである。江戸辺(えどべり)と呼ばれるゴミ捨て場は東京Up-countryの墓場を指すが同じような場所は全国津々浦々にもある筈だ。

(付記)
1.エドベリと言えば霊界にとって聞いただけで震えの来る場所だそうです。三大観音のある辺りか。千葉県にも似たよう場所がある。仏教の寺を思い起こして下さい。
2.漫画は馬鹿にならない。進撃の巨人だけではない。彼らのイメージ力は何かを捕えている。ある漫画に良いマツオが取れる話があった。親父がご隠居の所へ息子を連れて行き「いいマツオが取れました」と見せる。マツオが少年の名前なのだろう、その名の人を私も知っている。老人は気に入り、少年を床の間に座らせ、少し離れてあご鬚を撫でながら眺め「ふーむなるほどいいマツオだ」と感心する。少年は何も言わず膝に手を置き大人しく正座している。マツオとは過ぎ越しのパン、マッツオである。漫画家が知っていたとは思えないが、子供を過ぎ越しの犠牲にする祭の話そっくりではないか。奇妙な印象の残るベルイマンの「ファニーとアレクサンデル」のテーマもこの漫画と同じだったのではないかと思う。マツオと言えば松尾神社。42才の時厄払いのお参りをして引いたお御籤に「松尾神社と石上神社を参拝せよ」とあったので松尾神社には数回行った。松尾神社は酒の神。黒い顔をした美形の若い男が酒飲みの背後から首の長い水差しに入った何かの液体を盃の酒に注いで混ぜている夢を見た。酒飲みは滅びを遁れられない。竹鶴正孝が「なんて余計なことをしたのか」と悔いたそうである。石上神社は一回行っただけだがご神刀は国宝の七支刀。メノーラーにそっくりである。両方共ユダヤ教に関係ある不吉なお御籤ではないか。
3.ブルガーコフは作品を仕上げて「やっとノベライズが終わった」と言った。しかし後で「大失敗だった」と悔やんだ。マタイはブルガーコフが言う程悪人だったのだろうか。
4.日本語には何かが籠められている。最初に精神をやられた時その謎を問いかけられて混乱した。「ひふみよいむなやこのと」とは?
5.間違った宗教を信仰することも罪になる。ユダヤ教徒の中に「我々は律法を守りエロイムなのにこんな姿にさせられた」と嘆く者がいる。法華教の信者も同じ運命である。