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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

2014年

 明け方に野鳥が軒先で鳴き騒ぐように、霊たちが私の書いたことに「今更古い話を持ち出すな」と不満の意を表しては去って行く朝がしばらく続いた。宗教はその始まりも過程も現在も、歴史を抜きには語れないと当然のように考えていた私は面食らった。現代人が関心を失って忘れていることを蒸し返すなということか?人間はただ黙って現状維持すれば良いと言いたいのか?。それはないだろう。これまでの過程で、私はオリゲネスに啓発され、「彼の、どこまでも絶望的な人間の死後の運命観」(JBラッセル)に未だに失われていない今日性を認め、またそのことに対する一般の危機感の薄さに嘆息することを書き記した。更に、もう一つの過去、即ち異端の烙印を押され、今は組織的には痕跡もなく歴史に埋もれたグノーシス(特に他の宗教とは違うアルビ派)に共感する面もあった。皮肉なことにオリゲネスはキリスト教の立場からグノーシスを否定しているが、結果的に彼も6世紀のキリスト教により異端とされ、その後宗教的に復権したという話は聞かない。魂の先在や三位一体の序列などの彼の見解は私の考えと同じで、異端の理由として正当とは思えない。グノーシスは極端な霊肉及び善悪二元論と定義されこれまで述べた私見に当て嵌まり、また「グノーシスは権威の位階性を否定し、自分自身の経験のみが真理の究極的基準であり、それがすべての二次的証言や伝承に優先すると考えた」(エレーヌ・ペイゲルス「ナグ・ハマディー文書」)のであれば、私の心情はグノーシスそのものである。いかなる宗教的事象を経験しそれをどう認識するかの個人差は絶対に避けられないものであり、多様性を否定する統一見解に自己を封じ込めるのは難しく、意識内部にどうしても一般の中に解消出来ない実存的個人主義が頭をもたげる。私なぞカテゴリーからはみ出した典型的なサンプルと言えるだろう。位階制について、色んな神父がいるのは現実だがにも拘わらず、イエスが「師を超える弟子はいない」というように自分で考えようとしないで教科書通りの既説を繰り返すだけの、問題意識の足りない神父の教会の信者は得られるものが少ないだろう。どのようなテーマでも、もう到達点に至っているということはない筈である。グノーシスによって「知る」という行為が何を引き起しどう救済の力に転化するのか、「何を」知るのが疑問点の解決なのか、仏教でいう悟りとは何なのか、それはあくまで自分自身で探さねばならないのか誰から学ぶべきなのか。これらの「知がもたらす救済」に向けてグノーシスの哲学はどのようにガイドしたのだろうか。何れにせよ現段階でオリゲネスもグノーシスも勉強不足である。

 実は、霊たちが私を歴史上グノーシスに関係ある者の名前で呼ぶのであるが、現時点で軽々にその名を明かせない。くれぐれも慎重でなければならない、何故なら言葉には嘘も混じるし単なる仮定(または可能性)に過ぎないこともあるから。一つだけカミングアウトする。前に触れた「全き者」というのはやはり私自身のことだった。私という人間が「全き者」であるが故に救済に値するかどうかの言い争いがあった。私が霊界に不可思議な波及力があるらしいことはいつか詳しく述べるかもしれない。こちらがむこうを知ることはむこうもこちらを知る(知らしめる)ことでもあり、注目を集める存在だった。生活態度において、酒は元々私の体質に合わないから全く口につけていないし、N市に来てから数年間肉を断っていた。疾しいことはないか、人付き合いに問題ないか。ちょっと前、就寝中に無遠慮な霊が来て股間を探りいやな思いがした。「大分やっていないな」と言っていたが何らかの痕跡がそこに残されるのだろうか。私の霊的な身体が放つ光りや香り、霊衣が清潔か汚れているか。考えていることは正しいか。これらの条件に適ってもし「全き者」に合格すれば安らかな恵まれた場所に行けるのだと聞いたのはつい最近である。ずっと前、旅行に行って帰るバスの中でうとうととした時、白い服を着たおだやかな人々の群れが雲の上かと思われる高い所で過ごしているのを見て至福感を覚えた残像があるが、あれが選ばれた者のいる場所だろうか。ただし私は「多分書類選考で落とされるだろう」と言う声があった。
 過去ではなく未来について語るのは予言であるが、私に予言者の資質があるとは思えない。それに霊的なイザヤの預言にせよヨハネの黙示にせよ、もしくはノストラダムスの人間界についての予言にせよ、予測された記述を現実の歴史にどう錯誤なく当てはめるか過去の例に照らしても至難の業である。今年は「フリッカー、あるいは映画の魔」に出て来る教団が世界的に何事かを引き起そうと企んだ年に当るが、果たして何か起きるだろうか。アタリの言う通り「過去の意味を白日の下にさらけ出すことの中に彷彿としてくる、もっとも蓋然性の高い未来像を描くことこそ肝要なのだ(カニバリズムの秩序)」とすれば、私の画く近未来像は宗教についてのこの国のパラダイムシフトであるが、まだいつ夜明けの光が見えるとも知れぬ暗闇の中で手探りするような願望のレベルだろう。人々は何の疑問も持たず当然のように弔いの儀式として仏教に慣れ親しみ、また善良な村人の暮らす地方の生活習慣にも神仏が組み込まれているし、伊勢では最近も準国家的な行事として古式に則り式年遷宮の祀りが行なわれた。

 このブログに対するもう一つの指摘がある。これまで過去および現在この国でもまた世界史的にも、霊界の支配者が「人間を喰う」ということを決してあからさまに言わないという暗黙のルールがあった。その部分には皆モザイクが掛かり、知りうる者だけが知るように配慮されていたのに、私はその封印を破ろうとしている。明言の影響はやがて他国にも及び、これから他所の国でそう言い出すものが続くだろう。悪の組織は私の掟破りに憤り歯がみしている、だから彼らの厳しい報復は避けられないだろう、と。

 プラトンが門外不出の秘教として決して書き残さなかったというその教えはもしかしてこのことを含んでいたのではないだろうか。アタリの本はフランスで1979年に出版され約35年経っている。然しその論調は出だしのショッキングな暴露から段々と別の論旨に変化し、神々のカニバリズムが今日も人間の死後の運命に関わっているとの展開にはなっていない。ペイゲルス然り、ラッセル然り。ジョルジュ・ミノワ「悪魔の文化史」はスマートかつコンパクトに右(悪魔の実在とその危険性)と左(悪魔の存在は仮定、単に便宜的な説明原理。人間の常識に近い)の両論を並べ、いかにも理知的に幅広く歴史上の様々な事例と見解をガイドブック的に紹介していて参考になるが、極言すれば何もキーポイントを語っていないに等しい。

 30代後半、毎晩々騒がしく一体何が起こっているのかと唖然として過ごしていた頃、明らかに私に味方するグループと敵対するグループがあった。後者は宗教のグループだった。ある時夢の視界に愛らしい少年が現れて「見ろ、土下座して謝るからな」と言って両手をついて見えない方に頭を下げた。その時はどういう事情か分らなかったが、ずっと後で思い当ったのは、多分私が欲望のはけ口を求めて何所か悪所に行ったことが原因だった。その少年たちは段々と減って行った。暮らしを共にしていたと思しい婦人霊が「もう日本語を話せるものがいない」と嘆いていた。謝罪など何の意味もなく、不品行の代償として彼らは連れ去られたのだった。少年たちのことを私はなんとなく自覚していて、本能的に親しい愛着があった。後々彼らがいなくなった理由を知って感じた無念さが私にこういう記録を書く気にさせたのだった。人間は気が付かなくても当人そっくりの分身たちは罰を受けている。またある少女霊が「人間はみんな馬鹿ではないか」と言っていた。この国の多くの人々は莫逆の仲間を失っていることも知らずなぜ好き好んでこんな宗教に来世を委ね当人も犠牲になるのか、彼女には全く愚かしく見えたのだろう。

 昨年末から、どうも私の周辺で普段と違って何かが起きているような様子が感じられた。多分私にもうこれ以上情報を与えないよう口を閉じろと指令があったのだろう、交す声も控え目になった。ただし全然聞こえなくなったわけではない。周波数を変えると言っていたが、夢で少年が黒いくねくねしたケーブルコードを持ち去る姿が見えた。私に付いていたコードを取り替えたのだろう。霊が人間を時々ヒューマノイドと呼ぶのは知っていた。おかげでこの40年来初めて、妙に静かな夜を過ごせて支障なく眠れた。メッセージを伝えたくてトーンを上げて喋る来訪者が以前からいるが、最近はその声がすっかり聞き取りにくくなった。また夢も見せなくするらしい。仏教の少年が来て「革命の記事はおかしい」と言い「我々を侮るな」と威嚇した。いつも身辺にいた私によく似た霊がすっかり居なくなったと囁くのを聞いた。
あの革命の結果が大勢を覆すほどの影響をもたらした訳ではないことを実は感付いていた。すぐに反動の揺り戻しがあった。人間の宗教意識に変化はなく、それを反映してまだ旧勢力は圧倒的多数を占めている状況は何ら変らない。多くの仲間を失ったことを知った。一昨年、私は西宮で入院していた妹のことで病院に呼ばれ、阪神間のビジネスホテルに泊まった。その夜地霊から「この周辺の死者は甲子園に集められる。整列させられた死者のうちクリスチャンはあっという間に喉笛から血を吸われて斃れ、それを見たほかの霊達は皆驚きのあまり真っ青になる」という話を夢うつつに聞いた。目が覚めて涙が流れたが、今更改宗を後悔する気は起きなかった。旅行から戻った夜少年が来て、寝ている私に「生兵法は大怪我のもとの例え通りだね」と言って泣いた。革命の参加者は全員亡くなったと聞いたが彼もその一人だった。期待に反して様子見に転じるグループが多く、人数が集まらなかったのに無理な決行だった。それでも上部指導層に入れ替えがあり少しは変わった。革命による仲間の死を聞いた私は今度は泣かないで唇を噛んだだけだった。霊界はしばしばむごくまた妥協のない戦いの場所だということに思い至ったし、光の子と闇の子の戦いと言われる小競り合いは日常的で、かつてある大人の霊が「勝敗は時の運」と子供達をなだめているのを聞いた記憶が甦ったから。地上は見える世界も見えない世界も「呪われた大地」(創世記三)なのだ。

 然し予想になかったのは、数ヵ月後神道のうちphilanthropicな有力数グループとexileのグループが立ち上って力を示し、年末にキリスト教も同様の威力行動を取ったらしいことである。これらは横に連絡をとって示し合わせた訳ではないが他の仲間の動きを覗っていたのは間違いないだろう。宗教の勢力図が変わった訳ではないし安心出来ないが今までとは違った明るい兆しが見えるようである。それで思ったのは、キリスト教の浸透拡大だけに希望を託してもこの国の変革は困難で、一部仏教も含む宗教の枠を超えたphilanthropicなグループの結集が必要なのではないかということである。だから私にナショナルフラッグ(日本的な新たな宗教の旗印)を立ち上げろとさかんに言うものがいる。冒頭の、蓋然性の高い未来像を語れとはそういうことか?それは何かマニ教のような寄せ集め的宗教にならざるを得ないと思うが。仮にそういうものを創るなら、隣国の統一教会が持つと言われているようなネガティブな面は厳重警戒しなければならないと思う。

 そうした全体的な温暖化のムードにも拘わらず、私が余計なことを表沙汰にして「知らしむべからず由らしむべし」とするグループの憎しみを買っている状況は変わらない。自分のやっていることが原因でまた犠牲者を増やしたかと、すっかり無力感に包まれて迎えたのがこの新年だった。それに加え、助力が遠退きますますお前の戻れる道が塞がったと不安を煽る。しかしそう言われていつも思う。あのまま仏教徒でいれば助かる望みはもっと薄かったろう、と。

 ほとんど私にとって前例のないことだと思うが、イスラムの少年が夢に現れた。それは誰かが「イスラム教徒ばかりが天国に増えている」と言ったことが頭にあったからだった。この言葉を私は額面通り受け取った訳ではないし、イスラム活動家の暴力沙汰や独断的判決とその執行にはとても同調出来ないが、イスラミズムの食と性と祈りについての厳しい教えに従順な信徒が天に受け入れられる可能性は高いとは考えられた。しかし天の国はキリスト教徒の行く場所ではないのか?現れた少年は怖い外見でも攻撃的でもなく「我々は宴会型の生き方をしない」という言葉を残して去った。宴会といえば酒・御馳走・歌・ショーが付き物である。なにやら間違えると堕落への道に誘うが如きものばかり・・・

 私は八つの小さいダイスで一つの大きい正立方体のダイスを作ったその中心点にいるようなものだと常々考えている。右上の方で意見が出ると必ず左下で反対の意見が出る、左上で意見が出ると必ず右下で反対意見が出るという具合。このHPでヒンズー教について余りいい書き方をしていないのは承知している。それに対し「ヒンズー教の中にも立派な神々はいる」と弁護する声が聞こえた。30代後半の頃、中央公論社から出た「人類の知的遺産シリーズ・ウパニシャッドの哲学」という本を買ったが、全く持て余した。以来再度インド哲学の門を訪ねようとする意欲は沸かない。NHKの世界旅歩きシリーズで最近バリ島を取り上げていた。その中でカメの卵を一か所に集め孵化して海に戻すことをボランティアでやっている男性を映した。彼はその動機を聞かれて曰く「我々ヒンズー教徒には三つの務めがある。神々を敬い礼拝すること、隣人と仲良く暮らすこと、自然を保ち生き物を助けること」。なる程それがヒンズーの基本的教えか。

 中国語の出来る俳優の阿部力がチベットのシャングリラ地方を訪ね純真な少女と出会うNHKの番組が再放送され、色んな見方でブロガーが取り上げていた。100階建ての家や400人も乗れる飛行機なんて信じられない少女は阿部の話に興味をそそられて上海に行って見たいと言うが、「仏のいない所には行ってはならない」と叔父は反対する。シャングリラもラダックのように地霊と相俟って仏が人間の救済に貢献しているのなら、誘惑に迷わされず僅か70年ばかり故郷で道を外さずに暮らせば後生に助かるのなら、そこに生まれたことは特別な恩恵であると考える発想は今の時代とても難しいとは思う。それでも「憂愁書架」という美文家のブログが紹介している「金髪のエックベルト」のベルタのようにはならないで欲しい。あの、全く非キリスト教的な信仰のパフォーマンスである五体投地のコースを少女も一度回ったことがあると言っていた。ずっと前に別の番組でそのリアルな映像を見たが、あれ程胸を打つ祈りの姿はない。