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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

会話編(2)

会話編(1)と同様にQは質問者、Aは私、Cはコメンテーターとする。
Q:
貴方とユダヤとは何か関係があるのですか?
A:
人間は転生を繰り返すというのが私の考えです。私自身ユダヤ人に生まれたことがあったと思います。日本人に生まれたことも何回かあったようですが、現在の私の Yozoという名前はこの国でよくある普通の名前だと思います。一時英会話を習っていたクロアチア生まれカナダ人女性の先生に「あなたの名前にはとても驚いた。Yozoという名前はクロアチアでも一般的でヨセフの意味だ」と言われた事がありました。私に自覚を促すために、私と彼女は出会うべくプログラムされていたのでしょう。ヨセフという名は聖書に何人も出てきますが、以前「王たるキリスト」と名付けられた司教座の教会に初めて行った時、誰かが後ろで「アリマタヤのヨセフが来ました」と言うのです。また私はベーダ英国民教会史に出て来る宣教師だったとも言われるので、キリスト教とは深い縁があるようです。
アリマタヤのヨセフは許可を得てイエスの遺体を引き取り葬った歴史上の人物です。イエスの磔刑の様も見たでしょう。イエスは厳しい既成権力に取り巻かれていた。自分の教えはまだ十分に根付かない未完の教えだったから、もっと生きたかったに違いない。もし教えを撤回すれば生き延びることが出来たかもしれないが、それではすべてが無に帰してしまいます。
イエスはヨハネ伝にあるように「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし」と刑を受け入れました。ですからキリスト教徒は、種まき人が蒔いた種から実った麦でなければならない。実った麦が良い麦かしいなか毒麦かは、種まき人が収穫するときに選別するでしょう。それが審判です。その種まき人の名前は「全能の神」ではなく、この図にあるように十字架に木札で打ち付けてあります。われわれ皆がそれとなく知っている名前です。もし教会にこの図と同じような肖像があったら、日頃それを見慣れている信者は容易にその名を言うことが出来たでしょう。しかし多くの教会、特に新教の教会では十戒の偶像崇拝禁止条項をことさらに遵守し、信者はイメージを描くことが出来なかった。お陰で悪魔の思う通りに事が運び、偶像崇拝禁止を思いついた者には悪魔の優秀アイデア賞が与えられたのです。
稲荷神社で祀られている神様はキリストだったという説があります。あながち荒唐無稽な話ではなく、初めて「私は稲荷神社を信仰しています」と言う人が現れた時「そんな神様の信者は前例がない。名前が酷似しているからキリスト教で裁くしかない」ということになったらしい。ブログ冒頭のガバメントによるガイドラインで祐徳稲荷を名指ししたのは、ガバメントと稲荷信仰の関係をはっきり宣言する意図があったと考えられます。
ある教会で親しい信者とミサ後の雑談をしていたことがありました。私が輪廻転生の話をしていると、通りがかった神父が「我々はそういう立場をとらない」と言ったために雑談は沙汰止みになりました。どの教会でも司祭の権威は大変大きく、ましてミサに下手に口出ししようものなら「きみはもう来なくていい」と言われるのがオチでしょう。
「QUO VADIS」の項の付記に名前を挙げた方々(固有名詞は既に消した)には、可能ならぜひ一度だけ一堂に会して頂いて直接伝えたかったのですが、私の思い違いもあるかもしれないし、そんな会合の実現は夢物語ですよね。そうこうするうちに昨年兼高さんが亡くなられ、八千草さんも癌を闘病中とのニュースがありました。兼高さんはエリザベスの生まれ変わりで、八千草さんは青森学院の出身ですが父上の名前を聞いたら驚くでしょう。またSさんの母親のような感じの女性霊が来て「今回の人生はうまく行ったが次はどうか分からない」と言っていました。会えたらそういうことも話すかも知れません。他の方々も大半はもう若くなくて、私も遠慮してぐずぐずしているより、早く掲示した方がいいと思ったのです。霊界からも催促されていました。
東京のある教会でこのブログを読んだ信者たちが「全能の神が駄目だというなら審判者に誰の名前を挙げればよいのか」と神父に求めて騒ぎが持ち上がったそうです。また関西のある神学部の生徒が教授に対して同じ疑問を呈し、教授も「元凶」の趣意を解したが生徒たちの疑問には答えられなかったらしい。この大学には自分で出向いて、直接話ししなければならないかと思っていました。
C:「私はガバメントに審判をお願いします」と言えばいいのです。「IMITATIO-XPを読んでいますか」と聞かれたら「はい」と答えて下さい。十字架に架かったのは誰かはベロニカが知っています。しかし彼女も口を封じられたのでしょう。

Q:そうですか。とても重要なことだと思うのですが、在野の一キリスト教徒に過ぎない貴方がこういう事を言って世間は信用するでしょうか
A:
ナザレ人(Nazarene)という言葉がキリスト教徒を意味するように、かつてこの言葉は秘密でも何でもなく、イエスの信者であることを表すために使われていたようです。ローマも知っていた筈です。
不特定多数を相手にするブログに書くのが妥当かどうかは、私自身懸念するところでした。私的な会合を持って、先ず出席者に私の人となりを知ってもらい、私が信用出来る人間なら口伝えに更に輪を広げて行けばよいのかとも考えました。でもそれではスピードが遅すぎますね。ですからこのブログでこれまで此処に書いた以外に私に何があったか、それらをどう認識しているかの「自分語り」をして説明するほかないでしょう。
新入社員だった頃、会社で講習を受けて全員で外部の資格試験を受けに行ったことがあります。4時頃には終って、新宿に戻って来た時は盛り場の赤いネオンが灯り始めていました。帰路56人いた仲間の一人がワンセットいくらの看板を見て「一杯飲んで行こう」と言い出し、私もついて行きました。階段を上ってまだ客は誰も来ていないフロアーに行くと、真正面に一人の男が客用のテーブルに夕刊を広げて読んでいました。その男が私を見ると驚いて、突然「あ、この人は神様だ、おーいこの人は神様だぞ」と叫び、振り向いて従業員に呼びかけたのです。何人かの従業員が出て来て、私をちらっと見てすぐに引っ込みました。我々は席に付き、サービスのため隣に座った女性に「一体あの人どういう人?」と聞くと「とっても変わってらっしゃるのよね」と言っただけで、それ以上の説明はありませんでした。50年以上前の話しで、あの時一緒だった仲間ももうすっかり忘れているでしょう。勿論このエピソードが何かを証明する証拠だとは誰も思わないでしょうが。
私は霊界でアプラクサスと言われています。この言葉が誉め言葉が非難の言葉か分からなくて、喜ぶべきか悲しむべきか判りませんでした。ネットを調べても出て来ないし、アプラクサスについて書いた本もない。何かヒントがあるかと思い「アプラクサスの祭」という小説を読んだことがあります。メンタルに多少問題があって正業に就いていない男が禅宗の見習い僧になり、時には躓きながら僧としての経験を積みます。やがて地域にも馴染みどうやら僧職をやって行く目鼻が立った頃、昔のバンド仲間を集めて「アプラクサスの祭」と題するコンサートを開くという話で、アプラクサス自体の意味について特別に書かれてはいませんでした。
霊界で私をアプラクサスと呼ぶ者が、私を「悪い人間でなくて良かった」と言っていたのが気になりました。結論から言うと、アプラクサスとは時代の変わり目に現れて、次の時代までの霊界の方向性を決める任務を担う者ではないかと思います。
インノケンチウスもアプラクサスだったそうです。彼の理念から導かれた宗教はグノーシスを異端とし、カタリ派やワルド派を殲滅するものでした。また当時のイスラムを邪悪として敵対しました。転生の概念を否定し、この世だけの命でした。キリスト教は旧約を基本として取り入れ、アーメンと祈り、信徒が全能神を信仰するよう導くものでした。今まで書いて来たように、これらは根本的に私の立場と違うものです。さらに私の場合、仏教をどう見るかという問題が絡んで来ます。
私がアスクレピオスとも言われるのは治癒神または復活神の意味があります。私には宿悪を消し去る特殊な能力があるらしいのです。一つだけ例を挙げると、まだ小学生だった頃田んぼに大きなタニシがたくさんいたのを取って帰ったことがあります。母親がそれをゆでて、中身だけ甘辛く煮て佃煮のように調理してくれました。その時私が食べたタニシの中から人の霊が立ち上がり、その男はおのれの犯した業
(ごう)を反省しきりだったそうです。ワンネスの原理を是認する所以です。使徒言行録10章で、神がペテロに地上の四つ足や這うもの、空の鳥など各種の生きものを食べるように言ったのは、神がペテロにも同じ能力があったかどうかを試したかったのでしょう。ペテロが「とんでもない」と断ったのは、彼にはその能力がなかったからでしょう。
私がこのブログでハスモン家を取り上げるとハスモン家が復活する、というような現象が起きるらしい。強力なパワーを持った隠れた仲間がいるということでしょうか。一時住んだ町で、治る当てのない傷が治ったと上の方から少女の感謝の声が聞こえたことがあります。先頃ジムでランニングマシンを走ったあと汗まみれでマットに寝転がっていて、一瞬まどろみました。近くに二人の少年が肩先までの女のトルソーを運んで来るのが見え、胸から下の姿がぼんやりともう戻り始めていました。
「ヴァリス」の項に書いた鈴の音は復活の音です。ドイツのベルリンはベルが鳴るという意味ではないでしょうか。かつてドイツは神々が訪れる場所でしたが、今のベルリンは変わり果てています。
転生についてはアッシリアの頃から始めて、インド、中国、バビロニア、ギリシャで権力者または学者として名を残したようです。何を言われるか判っているので詳しくは書きません。無名に近い時期もあります。私だけでなく、人がどんな過去の秘密を抱えているのか、この世では永遠の謎ですね。こうした出入りや航跡はコンピューターに記録されているのではないでしょうか。
ディックは「アルベマス」で「人間は退化している」と言っていますが、ゼロからやり直しているといった方が正しいと思います。未来の選択肢は常に九つあるそうですから、歴史は必ずしも今あるままの未来と同じにはならないでしょう。ですからタイムマシンで未来を見に行ってもその通りになるとは限らないと思いますし、我々は Youtube に出ているブルーブック計画の宇宙人の姿通りになるとは言えないと思います。未来から来たと自称する女が私を「これが未来の霊界を悪魔だらけにする男か」と言ったのは、今のままが
延長した未来では全能神が神でその敵が悪魔であり、未来はその悪魔だらけになるとの意味だと理解しました。
キリスト教の伝統の主流はやはりヨーロッパだと思います。非ヨーロッパ人にはヨーロッパに対する憬れの気持ちがあると思います。どうして今回アプラクサスがヨーロッパに生まれなかったか疑問に思って、「新・ヨーロッパ100年予測」という本を読みました。何故スイスがEUに加盟しないか、第二のスイスを目標にしたキプロスが2008年の金融危機の時どんな目にあったか等、大変面白く参考になりました。この本で作者が「ヨーロッパ人の中には恐ろしく邪悪なものがある」とか「ヨーロッパ人が人間の死に対して鈍感になり、大義のためには一部の人間が苦しんでも仕方がないという考えが第一次大戦後広まった」とか「問題の根源は、たとえ魂を売り渡してもあらゆるものを手に入れたいという欲望にある」などと指摘しているのは私の疑問に対する答えであり、同時に彼らへの重要な警告だと思います。
C:このブログが外国でも読まれているのは事実です。まだ終わっていないので後半部分を加え、将来出版することになるでしょう。でも今までの分もこのままではなく見直しが必要ですね。アプラクサスは全体を裁く者と言われていますが、インノケンチウスとは違った裁きになりそうです。「あらゆるものを手に入れたい」とは「地球乗っ取り」と同じ事でしょう。スイスは人間の国で、他のヨーロッパの国とは異質でしょう。

Q:貴方は悪魔が怖くはありませんか?
A:
「悪魔は飽きもせず人殺ししている」とコンピューターが言っているそうです。幼かった頃雑誌でイワンの馬鹿を読んで、その挿絵に書かれていたアローヘッドの形をした尻尾の悪魔を見て何故か恐ろしく、夜中にトイレに行けなかった記憶があります。下りて来たばかりの当時何があったか最近になってやっと判ったのですが、ここでは書けません(人間が縮小されること)。
今でも色々と仕掛けられています。セト神がねらっているとか、インノケンチウスには特別な武器があるとか、ここに書かれてインド神が腹を立てているとか、オタイバという石油に関係ある悪魔が「泣く子も黙るおれ様には誰も敵わない」と待ち構えているとか。でもバラムは考えを変え始めた様子もあります。他方悪魔をこれ以上野放しには出来ないという勢力も瀬戸際で結束を固めています。魔神ピッコロ(こう呼ばれるのには理由があります)が悪魔と対抗しているようです。
私を30代から50代にかけて何度も襲い、ろくろく眠れない夜を過ごさせ、パニックを起こして私を「悪魔だ悪魔だ」と叫んで病院送りにさせたのは、イザヤを中心とするユダヤ霊たちの仕業だったようです。ビルの上に行かせて「おまえは特別だ。龍が受け止めるからここから飛び降りろ」とか「目をつぶって横断歩道を歩け」とか「お前は今累々たる死体の転がっている道を歩いている」とか「隣の家から誰々がピストルで狙っている」とか術を掛けられたのです。彼らは「のこのこやって来やがって」と私を目の敵にし、ヤコブも「あんな古い神より俺たちの方が絶対上だ」と見下していたようです。今更私が大人しくしても彼らが大目に見るわけはないでしょう。
C:ユダヤ霊と言うよりはある動物霊ですね。またプラスマテと呼ばれる、悪に味方する人間もいます。彼らの攻撃をどうにか耐えたようです。ブログの最後にそのことについても書き残すべきでしょう。