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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

人間を取り巻く見えない世界

 私に声が聞こえ始めたことは、私自身以上に回りにいる彼らにとって驚きだった。眼を閉じたままの私の首が人間界との隔たりを突き破って彼らの世界にぬっと現れたようなものだった。そこには多くの登場人物がいた。初めの頃彼らは警戒心なくお互いをニックネームで呼び合っていたが、すぐに人間が聞いていることを意識し出して名前を呼ばなくなった。それぞれの所属や出身地を示すシンボリックな名前だった。ニルバーナ、ジャータカ、ベナレスの方、ラダックの方、などと呼ばれるのは仏教に関わりのある者で渡来者だろう。会社の誰かが京都に旅行に行って「ニルバーナ」というお菓子をお土産に買って来て、箱に添えられた説明書に名前の由来が書いてあるのを読んで初めてその意味を知った。ミナレットちゃんと呼ばれる少女はイスラムだろう。ロゴス、インリ、エリパズと呼ばれるのは皆男で聖書に関係ある名前である。もちろん誰もが自然な日本語を話す。これらに較べ日本人らしいユタカ、マナブ、ダイキという男性名やおりく、アヤコという女性名は自然な響きだが逆にその所属を推定することさえ出来ない。お互いは分っているようだが私にはそれぞれがどの立場のどんな役割を荷っているのか区別がつかない。名前の分らない中にも、親しみを感じさせる存在と反対に敵対心を感じさせる存在がある。私には話し主の顔は分らないし、彼もしくは彼女が先ず自己紹介してから喋るわけではないからどのグループの者の言葉かと内容から推定する訳だが、随分と取り違いしたことだろう。齢40代の半ば、アユタヤ、アユタヤと呼びかける少女の声が聞こえた。アユタヤに何かあるのかと思いまた自分は仏教徒のつもりだったからタイに旅行に行き、それはそれで面白かったが別段何事もなかった。ずっとあとで彼女達はアヤウタ(助けて下さい)と天に頼んでいるのだと知った。

 長い時間を懸けて概ね三つのグループがあることが次第に明らかになった。
一つは私の評価に関わるグループである。それは私が3才の頃形成されたクリルタイと呼ばれる、まだ大人になる前の年代の(そうはいっても人間の年にすれば3~400年は経っているだろう)メンバーたちで構成された組織で、彼・彼女らは何曜日はどの組と決まった日に来て一日を過ごして行く。形式的にせよ子供の判断を重視する組織といえばポルポト治下のカンボジアを連想させる。私のクリルタイは misanthropicな(人間嫌い・人間に批判的な)性格の、仏教と神道と悪魔をコンポネントとするコンソーシアムで、仏教は当然私の家の宗派とそれ以外の4つの宗派である。彼らはその日その日の私の思い・言葉・行い・怠りを観察して筆記者が書くべきと判断した事柄や、誰かが私について言ったり書いたりしたことを選択し、自分たちが適切と思う表現で記録することを任務とし、履歴ファイルを更新するアクセス権を持っている。その上にいる監督者が「いつも同じ事ばかり書くな」と指示し、その結果言われた通り作り事が書かれることも多い。それとは別の、不定期に滞在している大人もいて、彼らの組織の目的に添った記述を書くよう口出しするので、失敗や汚点ばかりがオーバーな表現で書かれたりする。その結果記録はネガティブなバイアスのかかったものになり、話を聞いている私には意図的な底意地の悪さが感じられ、書かれた全体像が正確で信頼性が高いとはお世辞にも言えなさそうである。もし彼らを見ても外見はそれ程危険とは思えないだろうが「本当は恐い」手合で、決して甘くみてはいけないと感じる。彼らの基調は私を潰すことである。
その姿を覚えているので私は浅い午睡の夢を見ていたのだろうか、ある時大柄な少年が現れて家にいる(多分特別書くことが思いつかない)少年に「(弱みや隠し事が)5つか6つあればいいんだからさ、それ位あるだろう」と指導していた。

「不干斎ハビアン」の項で書いたように仏教は悪魔を敵視排除していない。ただし、個々には悪魔も葛藤を抱えている。キリスト教信徒のクリルタイにはどのようなコンポネントがあるのか知らないが、基本的に悪魔がメンバーに含まれることはないだろう、というのが希望的観測である。歴史を見ればクリスチャンがすべて善人ではないし例外に事欠かないとは思うけれども、我々のレベルではイエスの人間救済の意欲、三位一体の故に基本的に philanthropicな(人間を愛する、過ちだけでなく善行も重視し悔悟や努力を認める。これらの英単語は彼らの会話にあったもので私が格好付けているわけではない)ユニットであることを願う。しかしそれが現実にどうであったかは、後に別項で述べるように仏教の童子が居座ったまま「我々はカトリックだ」と言うようなことが起きた。つまり仏教とカトリックの両方に関わっている者がいる。

 第二のグループは私の仲間、随身、莫逆の友たちである。彼らは第一のグループとほぼ同じ年代で、タイミングは違うが私が来たのと同じ所から来た仲間達だと考えられる。人間にも皮膚の色や体形に出身地の特徴があるように、霊的な身体にも光や縞模様の特徴があるようで、多分私と彼らは共通の特徴を持っていたのだと思う。ヨハネ福音書は出自を「上から来た者と下から来た者」に大別している。離れた所から私を支持しない一団が事ある毎に私を悪し様に言い、また過去の落度を並べたてるのに対して、彼らが反論する声が間近から聞こえたし、不当な評価について反対意見の証人になり死後の審判では私を弁護してくれるのだろう。37才で自分の家を買って仏壇位牌を備えた時、そのせいかどうか知らないが、きらびやかな金色の装飾で飾られた冠と胸飾りをつけそれに相応しい衣装を着た美形の菩薩と、枠の中に納まった複数の女性像(そのうち2~3人がことのほか美しく緑色の衣装を着て微笑していたが、興醒めするような愛情のない顔も何人かあった)が夢に現れて衝撃を受けた。全体的に力強さは感じられなかった。見仏の体験は誰もがするものではない。それまで自分が仏教徒であることを別段疑問視していた訳ではないが、このことでまあ肯定的に考えた。ずっと後になって私が改宗を決意し複雑な気持ちでその菩薩像を思い返していると「あの時はこれでもう駄目かと思った」と味方の一人が呟いたのが聞こえた。つまり私は自分では仏壇を買い揃えて救いの環境を整えたつもりだったが、実際は逆に地獄の深みにはまったのだと。

 この二つのグループはしばしば戦っているのが感じられ、それはいたたまれない不安と疑問を掻き立てて眠りを妨げた。医師アーサー・ガーダムはこの戦いのせいで強迫神経症に悩まされる患者がいたと書いている。私と仏教がもし同じルーツならこんな戦いはないのだろう。人間は常識に乗っかってあちらの世界のリアリティーを全然認識していないが、この世とそっくりの世界があるだけでなく、彼らも食物を手に入れ、食べ、排泄する。お金もあるし買い物もする。聞こえた声によれば時代はこちらの世界より10数年先を行っているらしい。彼らは住所を登録され宗教グループは私をモニターするのが仕事で、そのために来て報酬も支払われている。私達人間はこの世に来るに当り相応の財貨を準備して来たらしい。それを管理するのが味方のグループで、金銭にまつわることが争いの原因になることも多い。ヨハネ福音書に「イエスは言われた。わたしより前に来たものは皆、盗人であり強盗である」とあるのをずっと後で知ったが、私が信者であることを理由に宗教の強欲な手先は奉仕を求めて財産を狙い、クレジットカードを不正利用し、借金を押し付ける。家には子供ばかりではなく人間に対して優しい婦人も来る。ある子供がそんな婦人に「金をくれ」と無心し、婦人が「あげる金はない」と断ると「仏敵だ」と彼女に打ち掛かる。争いの前に「ハジュラ、ハジュラ」と刀に呼びかける呪文の声を聞いた。私はこうした状況を整理しきれずに苛立ちただ無事平穏を願った。今でも余計な口出しをするべきでなかったと思い出すたびに後悔していることがある。戦いの模様の最中に私は「武器を捨ててくれ」と叫んだ。争いなんて双方の誤解から起きていると思ったのだ。然しそれに耳を貸したのは仲間たちだけで、その結果劣勢になり酷い目に遭ったらしい。少し時間がたってから少女の嘆き悲しむ声が聞こえてやっと事態を呑み込み、自分の甘さを痛烈に悔やむことになった。

 キリスト教の信者はエッサイの子との間にこのような危険な抗争を引き起こさないという意味でイエスは「あなたたちに平和を残す」と言ったのだと思う。にも拘わらず教会は信条やカテキズムにエッサイの代表である旧約の全能神を混在させた。重大な過ちだったと思う。

 こうした状況から当時私は不眠に悩まされてはいたけれども、仕事面では忙しく50代は会社員として一番充実した時期だったかも知れない。キーパンチ入力による旧バッチシステムから端末入力によるペーパーレスの本格的データベース・オンラインシステムへ全社的に作り変える仕事に末端管理者として中心的に取り組んでいた。

 仲間グループに何かの異変が起きたことを薄々感付いた。数が減ったのではないか。夜私が寝ている近くに集まって相談している様子に不安感が漂っているのを感じた。まもなく「力不足だった」と一人が耳元ではっきりと聞こえる声で言って、彼らの存在感がなくなった。これを書いている現在、私は70才になりあれから25年ばかり経った。その頃直接危険や異常を感じた訳ではないから事件は私が仕事中家にいない間に起きたのだろうか。当時から最近まで私に情報を与えないようにする厳しい緘口令が敷かれていたが、今私が思い返しているのを知ってほんの少し様子を話す声が聞こえた。ヤクザ(悪の手先の暗喩か)と仮称される無法な暴力グループがあり、誰かが導いた1000を超えるヤクザと仲間の間に争いがあり仲間のほぼ全員、約130の個体が殺され、勝負がついた頃仏教のメンバーが現れた、と。人間として平凡な私からは信じられないことだが、私は随分豊富な資金を用意して来たらしい。それは私一人のためのものではなかったらしい。悪口を言い触らしたりひとの秘密を漏らす悪意ある少女のグループがあり、潤沢な資金のことを狙って「ボナンザ、ボナンザ」と騒いでいた盗人のことも事件と無関係ではない。「こんな事はありえない、許されぬ事だ」と言うものもいるが、実際に残酷な悲劇が発生したのは、いずれかの強欲なグループによる財産奪取のせいでもあり、記録の虚偽や偏りを反証する証人がいなくなれば裁きの場で優位を保てるし、その結果彼らの言い分が通り私を有罪に貶めて彼らの責任は問われないようにする証拠隠滅のためでもある。また「出る杭は打たれる」の諺の通り、彼らは私の特殊な感受性を警戒し、私の仲間が不都合な真実を漏洩すればそれが私によって人間界に暴露されることになるのを防ぐためであると推測するが、あるいは私自身を悪魔の手に渡すためという最悪の理由も考えられる。

 然しこれらの状況把握は今だから言えることである。私と妻は真面目な信者のつもりで毎晩食事の前に燈明を灯し線香をあげ、位牌に手を合わせ、ご飯やお茶や水を供え、生花が傷んだら取り替え、果物や菓子が手に入った場合は先ず仏壇に供えたし、都会ではもうめったに見掛けないお盆の迎え火・送り火もした。家族や親戚の法事には欠かさず出席した。それが逆に厄介者を増やしていたとも知らずに。

 1980年代の中頃だったか、当時購読していた朝日新聞に、日本の初期仏教文化の時代に作られた仏像が中国のある地域の古い仏像と全く同じ様式をしているのは適当な説明がつかない、何故なら当時両方の文化圏の間に直接の交流は全くなかったし誰かが齎したという伝承もない、というような記事があった。私は自分の夢を思い出しながら、それぞれの地域で同じ仏が僧侶か仏像作家の夢幻に現れたのだろう、などと考えた。当時毎月定額を送金して援助していたフォスターチャイルドが「クリスマスにはどんな予定をたてていますか」と手紙に書いて来たのに「私は仏教徒だから特別なことはしない」と返答したこともあった。つまり自分は今生で仏縁のある人間なのだと思っていた。

 悲劇のあとの変化はそれまで交代で来ていた伝令が訪ねて来なくなったことだった。この伝令というのは彼らの言葉によれば「ひらひらと舞い降りて来る」まだ幼い感じの少年少女たちで、時差ぼけと言っていたから遠方から来たのだろう。大きな声で外に向かって家の状況を伝えていたのはボイスメールのようなものがあるのだろうか。訪問者にとって私は既知の存在らしく、私も彼らに愛着と親しみを感じたが、来訪は大変な危険を伴い地上の無情な連中による暴力や略奪の被害者になることもしばしばあった。クリルタイのグループは詐欺まがいの勝負事をしたり贅沢なものを食べたりと勝手に振舞っている様子を感じた。いつも夕方になると少女のしくしくとすすり泣く声が聞こえ、特に隣家の小型犬が無駄吠えする鳴き声にそれが共鳴して鮮明に増幅されるのが耐えられなくなって、遁れるように家を出てしばらく散歩に時間を費やしたりした。

 もう退職して仕事に拘束されず眠ければいつでも寝られたから、不眠は気にならなくなった。それでも、時折肌に泡立つような焦燥に駆られる時があった。鬱勃と危機感が募りこそすれ日々安堵の心境には程遠かった。すすりなくあの少女が悲しむのには悲しむだけの理由があるに違いない、どう考えても現状は英語でいうin adversityなのだとの思いが深まる一方だった。65才になって聖書を購入し、決心して近くの教会に通い始めると彼らの間に明らかに動揺が走った。ある少女がどうしようと問い掛け、それを年長の女性が「人間は生きている間は未知数なのだから」と宥めていた。家には親譲りの神棚もあった。これまで神道を余り理解出来なくて、脇役的なものとしか思わなかった。突然「畏み畏みお願い申す」や「かむろぎ来りて助け給え」と外に助力を求める女の祈りが聞こえることがあったが、ある者が「天の安川にいらっしゃい」と声を掛けてくれた。然し神道に窮状打破と救済への信頼性があるか確信が持てなかった。

 私はあちらの世界では知られた存在らしく、不意に大人の男女二人の無神論者が枕元に現れ、女性の方が敵意のある表情で改宗など無意味だと詰(なじ)り、男性は温和で理性的な好感の持てる態度で「すべての過ちの原因は宗教にある」と言った。彼らとタイアップした無宗教を標榜する組織がこの世にあるだろうか。

第三・その他のグループは次項で。