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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

人間なんてみんな馬鹿だ

モーセ五書(トーラー、律法)~旧約聖書の最初の五つの書、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記。紀元前16世紀(約3600年前)or紀元前13世紀(約3300年前)の2説あり、2000年前に書かれたのは新約聖書 

創世記第二章(716日の課題)について

(1) アダムの胸の骨からイブが作られた~女→男の順でなければ例えフィクションであっても非論理的。人間が生きるための代謝作用に必要なミトコンドリアは卵子から受け取るのでアダムの先在はありえない。聖書といえども誤りには✕を付け頭を切り替えるべき。聖書には読者を試す仕掛けが多数あります。
(2) 「善悪を知る木になるリンゴを食べる」とは~堕落に導く悪魔の誘惑(食と性)を象徴する。アダムとイブはリンゴを食べた後羞恥心を覚えてイチジクの葉で隠した。性行為は善でもあり悪でもある。子孫を残すためである限り善であるがモラルに反する性行為は問題を引き起す悪であることを人間は知ることになる。主の祈りの「我らをこころみにあわせず悪より救い出したまえ」はカトリックの「私たちを誘惑におちいらせず悪よりお救い下さい」の方が妥当か。英文では Lead us not into temptations, and deliver us from the evil ones.
食欲にも危険がひそんでいる。
(3)「聖書の非科学性を列挙した分厚い本がある位で聖書の学習に科学を持ち込むべきでない」~審判には常識問題もあります。そんな本があるなら是非読んで勉強して下さい。貴方の位置付けが今までより2ランク上がるでしょう。聖書を書かれた通りそのまま受け入れ毒にも薬にもならない話をしても群盲を生むだけ。狭き門より入れないだろう。「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」
(4) 既成の権威(旧約聖書、ユダヤ教祭司)に対するイエスの態度~「私は律法や預言書を廃止するために来たのではなく成就させるために来た」「私は争いをもたらすために来た。すでに火の手が上がっていたらどんなに良かっただろう」

「一回きりの人生」か
(1) 山上の垂訓の中に天の国に招かれる者と地上に生まれる者(柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから)がいる。つまり人生は一回きりではない。
(2) 洗礼者ヨハネはエリヤの生まれ変わりと言われた。イエスも「私は必ず来る」と言い残した。
(3) 教皇グレゴリウス(在位590-604)の遺体はバチカンの内部に葬られたが、またいつの日か彼はほかの聖職者と一緒に栄光のうちに再起するであろう。その墓には次のような碑文が刻まれている。「地よ、お前の身体から生まれた肉体を受けよ。神が新しい命を与えて、お前がふたたび肉体を生むように」(ベーダ・英国民教会史P70より)
(4) では考えてみて下さい。天の国にも招かれず、地上にも生まれ変わらなければどうなるのか。その人こそ人生は一回切りです。
「悪魔とはキリスト教の本質を害わずにたやすく捨てることができるような末梢的な概念ではない。神の国は悪魔の国と戦っていて、それもいまついに勝とうとしている、と教える新約聖書の中心に悪魔は位置する。キリストの救済の使命は悪魔の力に対抗するものという観点から見なくては理解できない。これが新約聖書の眼目のすべてである。」JBラッセル

 以上はこのブログに何度も書いて来たことで今更目新しい記事ではない。今いる教会のミサ終了後6,7人が集まって開かれる定例の勉強会で先週は創世記2章が課題として与えられ、その時話題になったことを補習するつもりだった。冒頭のモーセ五書については「2000年前の人が書いたことだから(聖書が非論理的なのも仕方ない)」と司会者が言うのでまず創世記が書かれた年代を再確認してもらうために記載した。「一回きりの人生」については一参加者(女性)がそう言うので「キリスト教では人生は一回きり」とするコンセンサスに根拠がないことを説明するつもりだった。バチカンの墓碑銘にさえ次の再生を刻んであるのに一体誰が言い出したのだろう。「22・食」の聖ベーダが語る悪魔に連れて行かれる兵士の話も書きたかったが、一枚に収まらなかったので口頭で言えたら言おうと思った。“審判に受からなかった信者は悪魔に「おまえ達キリスト教徒は再生を信じない。だからここで自殺せよ」と言われる”を引用し、だから口が裂けても「人生は一回きり」などと軽率に言うべきではないと警告したかった。
いずれにせよこのペーパーは責任司祭からストップがかかり用立たなかった。

 当日の勉強会は3章1~19節で、蛇にそそのかされたイブがアダムに奨めて二人共リンゴを食べる話だった。
女性Aさん「神がどこにいるのかと二人を探したのはなぜでしょう」
私「隠れてセックスしてたんですよ」
女性Bさん「アダムとイブが神に逆らわないでずっと天国にいてくれたら私たちも天国にいられたのに」
私「そうしたらアダムとイブが天国にいるだけで我々は生まれなかったでしょう」
そんな話をした。奇妙なことに何故か3章の最後の20~24節は輪読から除かれ範囲外だった。エデンの神は人が善悪を知る木の実を食べたことを怒って二人を天国から追い出し「命の木の実だけはたべさせてはならない」とエデンの東の園に護衛のケルビムときらめく剣の炎を置く。私は20~24節の持つ意味を強調し「命の木の実を人間に教えたのはイエスでイエスは父なる神の使いです。つまり聖書にはエデンの神とイエスの父なる神と、神は二人います。今日のミサの説話はアブラハムがイサクを生贄に捧げる話でした。一方の神はアブラハムに人間の生贄を要求し他方の神は生贄を止めさせる。このことも神は二人いることを意味します。我々は髪の毛の一本一本まで数えられているのだから神は人間のすべてを見抜いています。アブラハムの信心を試したと言うのは言い訳でイサクを危険にさらしてまで試す必要はないのです」と言うとAさんが「でもキリスト教は一神教でしょう」と言う。一神教の常識は間違いですと言っているのですが。女性と話すとよくこういう風に会話が行き詰まる。「チッチッチ、まーたおばさん、イエスと同じく私は神ですよ。パンを食べて咀嚼するように私の言葉を受け入れなければ永遠の命なんか授かりませんよ」とは言わなかった。「ホントかしら。貴方なんかどう見てもただの年寄りじゃない。だったら奇蹟を起こしてご覧なさい」と返されて謝るはめになっただろう。前に私なりに聖書の真意を翻案したことがあったが、ある女性が「だってそう書いてあるではないか」と譲らなかった。
四人のラビが天の果樹園パルディスを訪ねたが、一人は発狂し一人は自殺し一人は棄教し、無事に帰ったのはたった一人だけだった、というユダヤの説話を話したが人の出入りがあって尻切れとんぼに終わった。
炎のようにきらめく剣とは今日ジュラシックパークと呼ばれ、剣が連立した風車のように回転する通路で日本にも各地にある。悪魔は避けきれず刃(やいば)に切り刻まれた人体に群がる。だからラビたちはパルディスに人間の骨がごろごろしているのを見たのだろう。よってこの神が悪魔の長であるとするとケルビムとは悪魔の天使である。ケルビムをWikipediaで参照されたい。ロシア正教ではミサの祈りに崇高なものとしてケルビムの名を唱える。日本にもYというケルビムがいるが天狗が討たれて仕事を失った。Bさん、パラダイス別名パルディスは楽園などではなかったのです。
発掘された人間の古い遺体から発見された最古のミトコンドリアは年代測定され同様にして発見された人類最古のY染色体より何億年も古く、これによって女性の方が男性よりずっと前に生まれていたという推測が成り立つ。「37・ポルノ」でこの事をイエスの“後のものが先になり、先のものが後になる”は“男が先に救われる”の意味ではないかと書いた。しかし男だけがいる世界に何の喜びがあるか。とは言え悪魔に食われるよりははるかにましである。女性は非力で脱出する機会が少なかった。まして「人の子」の女性は美しいために悪魔に注目され捕らえられて犯された。私が問題視している宗派ではあちら側で婦女暴行は当たり前と言われている。今度のミレニアムが性差なく女性が救われる新しい時代の始まりであって欲しい。女性よ、救われたいなら美味いものあさりに熱中しない方が良い。黙示録の“小麦一ますは一デナリ、大麦三ますも一デナリ”は贅沢を言わず安価な大麦を食べよとの意味か。麦飯のすすめはマジ本当です。
だからミホラよ、どうか私の警告を真面目に考えて下さい。手紙を破って捨てたと聞いて目の前が暗くなった。「霊になったら痛くも痒くもないんでしょ。考え過ぎよ」なんて言わないで。死んで肉体という殻を脱ぎ捨てても感覚は全然変わらない。悪魔に渡されたら貴女が悲鳴を上げようがわめこうがぶった切られてブロック肉にされる。または生皮を剥がれ油の煮立った大鍋に放り込まれる。全然誇張した表現ではありません。

 「人間は馬鹿ばっかり、悪魔の方が上だ」と悪魔は自慢する。「だからこんな連中煮て食おうが焼いて食おうがこっちの勝手」だと。仏教の本質、聖書の嘘を見破れないし、間違いに気が付いても「まあそういう事にしておきましょう」と受け入れる。これに対し悪魔は「人間は我々の言い分に首肯した」と勝手に解釈し、不満があるなら何故生きている時に反対しなかったのだ、いまさら遅いと言う。大体アダムとイブの物語にしてもアフリカやインドや中国で人間はユダヤ人より先に生まれていた筈である。また聖書に書いてあるからといって極東の島国の日本人がアダムとイブの後裔である訳がない。
カタリ派は賢明にも旧約を正典と認めなかった。我々はイエスが登場するまでのイスラエルという小国の欺瞞に満ちた自己中心の検証しようもない長い歴史を学び、下手をすると悪を正当化してその陥穽に落ち込むより、イエス以後の2000年にキリスト教を中心とし他の重要な宗教も含めて世界で一体何があったかを真剣に学ぶ方がはるかに多くの収穫とよき未来への展望が開けるのではないか。

 上野の美術館で開催されたブリューゲル展を見に行った。勿論お目当てはバベルの塔である。人間がこんな巨大な建築物を作って神に挑んだことで神の怒りを買い、神はそれ以後各民族が違う言葉を話し相互に言葉を理解出来ないようにしたと聖書は言う。塔は東京芸大チームの試算によれば510メートル位の巨大な建築物だったらしい。それで神が怒るなら今日の摩天楼に神の怒りが雨嵐のごとく降り注いでも不思議はないが、高層オフィスビルの勤労者が発狂したとか早死にしたという話は聞かない。ただしイスラム教徒のテロリストが旅客機をハイジャックして突っ込み大惨事を引き起こしたことはある。言葉については歴史上最初に出来たこの地域最大の都市に周辺の国々から人々が流れ込み相互理解不可能の状態だったのだろう。聖書が言うようにそれまではインド人も中国人もヨーロッパ人も日本人も皆同じ言葉を話していた筈がない。バベルの塔を作ったニムロドはノア・ハム・クシュ・ニムロドと繋がるノア一族四代目で曾祖父または祖父から大洪水の恐ろしさを聞き、貯蔵所と洪水時の避難所として塔を建てたのだろう。津波の恐ろしさを知っている我々と同じアイデアである。御婦人方、聖書を文字通り受け取らないで下さいよ。

 これから言うことがこの項の主眼である。アブラハムは唯々諾々と従うだけでなく何故自らこのように訴えなかったのか。そうすればユダヤの歴史は全く別のものになっていただろう。
「神よ、イサクは消えかかる希望の最後でサラと私が受けたこの上ない賜物でした。イサクを失うことは如何なる代物をもってしても補うことが出来ない永遠の悲しみとなるでしょう。また私が人身御供を奉げれば一族や子孫はユダヤの族長たる私を見習わない訳にはいかなくなります。そしてユダヤ人は子供を生贄にする民族として将来にわたり他民族の反撥と憎しみを買うことになるでしょう。それ故イサクをあなたに捧げるのは私にはどうしても出来ないことです。私たちは今も今後も最上の羊をあなたに捧げますからお怒りにならずどうかお受け取り下さい。私たちは私たちの望みを認めていただける神を持つ事が願いです」
人間は神に向かって人間の論理を打ち出さなければならない。それはダニエルの願いでもあったらしい。然しそのためには先ず自分が現在どういう状況にあるかを把握しなければならない。「求めよ、されば与えられん。探せよ、されば見つからん」はアブラハムに対するイエスの批判とも取れる。事は天皇も同じはないか。

 ひとに仏教からキリスト教への改宗を勧めてもあれもこれも行かない方が良いと言わねばならない(追記参照)。消去法で結局どうしても新教だけが残る。特定の宗派を勧めればその宗派の増員目的の勧誘員と思われるだろう。プロテスタントで実際に経験したのはバプティストだけであるが複数あるバプティストの全部ではない。カルビンはサタンをはっきりと悪魔視する態度を取ったらしいからサタンとは溝があるだろう。カルビン派で仲保者の役を受け持っているのは誰なのだろうか。モルモン・ものみ・統一教会はキリスト教ではないと言われるが、モルモンはアメリカの厳しい風土の中で独特の有効な救いの手段を持っているらしいことが分かって来た。しかし聖書も違うモルモンに行けばキリスト教から離れた変わり者と見られるだろう。
万人司祭・月一回だけの聖餐式と信者同志によるグループ学習会をセットにしたバプティストのやり方に最も可能性ありと結論付けたのだが、ミサも学習会も教団発行の学習会用刊行物も踏み込みが浅く他派と団栗の背比べで、救済には届いていないとしか言えない。そもそも教会の存在は滅びのレギオンから信者を救済するのが第一目的であると認識しているだろうか。悪魔軍と人間軍の野球試合に例えればボールに向かってバットを振ってさえいない。ここから上に上れる者は事実上皆無に近いらしい。「ミトコンドリアは良くない」とストップがかかった今度の例のように悪魔の「人間なんてみんな馬鹿だ」から抜け出ていない。
本部さえ気付いていないだろうがバプティズムにはマルコが(だからペテロもサタンも)陰にいるのだが「何をやっても駄目なのか」とマルコは泣いたそうである。辛辣なことを書いたがこれがシビアな現実。しかしめげずにやってくれと言われている。追い出されない限り何食わぬ顔をしていようと思う。


(追記)
昭和30年、まだ中学生だった。法華と大黒天と伊佐須美が仲間と動物霊を連れて襲い1000に余る私の子供たちを捕捉し拉致した。子供たちはローマとロシアに連れて行かれ「これこそ間違いなく本物ですよ」と折り紙付きで献上された。