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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

人生は遊びではない

   あわれ馬鹿者どもよ、大きな顔をして嘘を言っている者
   あわれ馬鹿者どもよ、生まれ変わりに気が付かない者
   あわれ馬鹿者どもよ、自分だけは特別だと思っている者
   あわれ馬鹿者どもよ、自由勝手に振る舞えると思っている者
   あわれ馬鹿者どもよ、いまわの際に寝言を言う者
   あわれ馬鹿者どもよ、民族の間に争いの種をまく者
   あわれ馬鹿者どもよ、無茶苦茶に食いたがる者
   あわれ馬鹿な女どもよ、きれいな顔だからとのぼせ上がる者
   あわれ馬鹿者どもよ、悪魔に気付かない者
   あわれ馬鹿者どもよ、天照なぞを崇める者
   あわれ馬鹿者どもよ、釈迦の教えを有難がる者

 タイトルの「人生は遊びではない」という言葉は何方(どなた)とも知れず私に与えられたものですが、我々をハットさせそうだったと気付かせて気を引き締めさせる、英語で言う“Pull yourself together!”のような効果があります。最近は今までと違ってワンランク上の人物たちが、場合によっては自らを表明して語りかけて来ることがあるのです。以下、一連の「あわれ馬鹿者どもよ」の順に「では胸に手を置いてお前自身はそんなに偉そうに言えるのか」と問い返される不安を無視して思い浮かぶままに詳説します。

 神は無知蒙昧を嫌います。イエスの神を旧約の神の名で呼んではなりません。イエスの死によって人々に救いが与えられたと言いますが、どうして我が子の十字架上の惨たらしい死に父なる神が満足し、その見返りに罪の許しを与えたりするでしょうか。ヨハネ福音書でイエスが「あなたがたは自分の父すなわち悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と言い、ユダヤ教の祭司たちが「イエスは神を冒涜した」として死刑を宣告したのは聖書に新・旧二つの神が存在することを意味しています。
古い別の神ではなく、キリスト教徒は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なるあなたの神を愛しなさい。」
この世は目で見、耳で聞こえるものがすべてで霊なんか存在しない、霊の話なんて世迷い事だ等と思ってはいけません。生半可な知識で知ったかぶりをしてはいけません。あなたが必ず行く所はごまかしの効かない世界です。
 カトリックを去ってある教会に九か月ほど通いました。最初に参加した勉強会で自己紹介し、自分は霊の声が聞こえる人間だと打ち明けました。今後私が何かの折に「霊がこう言っているのを聴いた」と言い出しても、突然妙な事を言う奴だと思われないためでした。霊たちは聖書も知っています。その時牧師は黙っていましたが、出席していた牧師夫人と男女数名のうち一人の女性が「声を聴く経験は私にも時々ある、最近も車に乗っていて道が分らなり迷った時声にあっちの方だと言われた」と話を合わせてくれました。
その教会のミサは幼い子供たちを除け者扱いしないで歓迎し、普段は二、三人の子供が参加していて、まれに全然いないこともあったのは仕方ないでしょう。信者の数人と牧師夫人が毎週交代でそれぞれ自分の担当する日にマジックペンでミサのテーマを描いた紙芝居風イラストを用意し、それを見せながら子供向けの易しい言葉で聖書の話しを聞かせるという楽しいプログラムがありました。その年の聖霊降臨の祝日は牧師夫人の担当で、炎のような舌やいくつか聖書に出て来るエピソードを絵にして一通り霊の話を披露したのですが、最後に「私は自分には見えないし聞こえない霊なんてうさんくさいものは信じない」と締め括ったのには唖然としました。
 多分多くの教会がそうでしょうが、その教会も事前の勉強会と日曜ミサの説教は聖書の同じ個所を週の課題にしていました。勉強会の司会は信徒が担当し聖書や聖歌集やコピー等を準備し、あまり意見が出ない場合司会者は順に指名します。次の件はクリスマス前でイエスの生誕がテーマの勉強会だったと思います。天使がマリアにもヨセフにも受胎告知を知らせる訳ですが、たとえ天使の姿が見えても声が聞こえなければメッセージは伝わりません。私が思いついて「昔ユダヤ人には霊の声が聞こえたそうですね」と言おうとして半分まで言いかけた時、突然牧師が声を荒げて「霊の声を聴けないものはキリスト教を語ってはならないことはない」と遮り、私はその剣幕に吃驚して息をのむだけでした。その後の勉強会で、たしかアンチオキアの教会で皆が「パウロをローマに行かせよ」との霊の声を聞き、それで彼を代表として派遣する章節が出て来た時、もし声でなく誰かがパウロを指名したかパウロ自身が名乗り出たのであれば、必ず「彼は信用できない、かつて敵だった男だ」と反対するものが出ただろうと思いましたが黙っていました。
 出エジプトが週の課題だった勉強会でした。神の声を聴いたモーセに指示されて、エジプト在住のユダヤ人が「我々は我々の神の祝祭をしたい」とファラオに申し出たが拒否され、逆に今までよりさらに苛酷な労働を命じられます。その結果仲間からモーセに対する不満の声が上がります。司会者に何かコメントはないかと私が指名された時「声を聞いたと言っても中々信用されないのですよね」と答えました。それに続いてモーセが荒野で燃える枝を見つける章が週のテーマだった時、牧師がミサの説教で「私はあるという神がモーセに現れた」と感動を盛り上げるのを聞いて、もうこれ以上ここにいても無駄だなとおもったのです。
 あの教会で私はどう振る舞えば正しかったのかと思い返します。私が先走り過ぎていて、現状ではむしろ彼らの方が普通一般なのかも知れません。キリスト教にはたくさんの宗派がありますが、方向が間違っていて神に受け入れられない信条を掲げた宗派では救いの機会は極めて少ないでしょう。他方神に受け入れられるべき宗派であっても牧師の影響力は大きく、凡庸で指導力の乏しい牧師によって導かれる教会ではやはり救いの機会は少ないでしょう。ほとんどの教会は群盲を生み出しているに過ぎないが、「それでも救いに最も近い教会はある」という声を聞いて以来、私はそれを探し求めているのです。

 生まれ変わりは宗教に関係ありません。「我々はそういう風に考えない」と貴方が言っても事実はそうなのです。ただし誰でも今回の生で輪廻を脱したいと願うのは尤もなことです。次回も人間に生まれ変われるなら上上上出来でしょう。親が子を、兄が弟を侮ってはいけません。どちらが前世で偉大な仕事をしたかは人間には分かりません。

 貴方だけ畜生に生まれ変わることはないとどうして言えるでしょうか、神に秘密を知られていないとどうして言えるでしょうか、死後に醜い姿になり果てていないとどうして言えるでしょうか、(地獄に堕ちることはないとどうして言えるでしょうか?)。

 あなたが周りを気にせずに一人自由を謳歌している時、あなたを当惑と失望で見ている多くの悲しい目があります。あなたが人の後押しをし、痛みを分かち、共に悲しみ、東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ、南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイイトイヒ、北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイウなら、あなたを喜びと満足で見ている多くのやさしい目があります。(書イテル自分ガ泣ケテキタ)

 人生はそれぞれのホールでスコアが付くゴルフのようなもの。死んだあと余りに不出来なスコアなのに、見つめると自分が人間の姿ではなくなっているのに、人々の憎しみや嫌悪を買っているのに、非難がうず高く積み上げられているのに、「神よあなたは愛の神の筈ではありませんか、救って下さるものと思っていました」と不満を漏らしても聞き入れられません。

 日本が朝鮮を統治していた時代、治安維持のために公娼制度にも何らかの関わりがあったのは事実でしょう。然し娼婦になる事を権力が強制的に無理強いした事実があったかどうかは、どれだけ確実なことが言えるのでしょうか。一日に多数の相手をさせられたのは多分に店の経営のやり方と関係あると思います。売春婦たちは「娼婦になる権利がある」と言っていますが、権利のことを言うなら「娼婦になることを拒否する権利」「娼婦扱いされない権利」でしょうし、強い儒教倫理があって性道徳に厳しい国民性と言いながら事実は潔白に程遠く、性的要求やサービスはあの手この手で蔓延している(私は行ったことがないので噂だけですが)。熱心な反日教育で日本の悪口を言えば“良くできました”、アメリカにあちこち慰安婦像を建てて日本の悪評を宣伝する常識を超えたいやがらせ。謝罪も賠償も既に受け入れながら「50回、100回謝ってほしい」「問題を蒸し返して賠償を上乗せしよう」。どうもOINKと呼ばれるこの国の論理には違和感があります。隣国は一例で民族の争い事はそこだけに限りませんが。

 俳優の榎木氏が無事一カ月の不食(水とコーヒーだけ)に成功した事は私に勇気を与えました。と言っても昼食を抜く位で口寂しくなるとつい何かに手が出ます。食べないでも生きられるとはずっと前から言われていたのですが、まさかと思っていました。普通の身体ならたくさん食べる必要ないし、肉食しなくてもよさそうです。肉を食べると死後食べられた動物が莫大な代価を要求するし、細道を刃が回転し切断された肢体が悪魔や動物に食われるジュラシックパークは完全に廃止された訳ではないようです。バビルサの恐ろしさ!過食はあなたの霊的姿を醜く退化させます。

 命の息吹を受けて美しい女が蘇りました。なんと彼女は800年間も土中に埋もれていたと告白しました。「あの時なぜ良い方を選ばなかったのだろう」と、それは気の遠くなるように長い後悔の年月だったに違いありません。エレーヌ・ペイゲルスが「禁じられた福音書」で書いているように、霊的に復活した女性はどれも人間だった時よりも美しい。見目麗しい女達よ、彼女の轍を踏んではなりません。

 好青年関口知宏がヨーロッパを旅する番組で、悪魔が一夜にして懸けたという伝説の橋を見に行く場面がありました。彼が近くにいた青年に笑いながら「でも悪魔なんていませんよね」と話しかけると、男は「さあ、いるんじゃないの」と答えました。そう、関口君、甘いんですよ。上述の教会で、洗礼者ヨハネの言葉「お前たちはまむしのすえだ」、ヨハネ福音書の「あなたたちは悪魔である父から出た者である」を引用して、私が旧約の徒は悪魔に仕える者であると言ってふと横を見ると、くだんの牧師はニヤニヤしていました。
どこか知りませんが、日本には悪魔はいないと教える宗派もあるそうです。

 改宗する前お札を毎年新年に買い替えていました。それで微かにでもよい兆しがあったか。むしろ逆でしょう。「19・実名」の項に書いた“伊勢の女神を鬼神論のオニだと断言した” 声の主が誰だったかは分かりました(*註1)。天皇は天照と縁が深い。一部で注目を集めている陰謀論のブログでは天皇を悪魔崇拝者だと決め付けています。このブロガーは八坂神社の主を牛頭馬頭と明言していますが、私はいままで遠慮してそこまではっきりとは書かなかった。ある時私の後ろに誰かがいる気配がして、八坂神社はどうなのかと疑問を投げかけたところ、少年の声が「奴らは・・・」と言ったきり黙ってしまったことがありました。祇園祭りにしても櫛田神社の生類憐みの放生会ゆかりの山笠にしても、祭りは何か禍禍しいものを隠しているのかも知れません。諏訪神社の大仕掛けな御柱の祭事はどうなのでしょうか。
ガバメントの指導が次第に行きわたり、冥界の雰囲気はすっかり様変りしました。ゴイムは最早なくなったと声高らかに言う者がいます。この革命は(ハルマゲドン?)なんと画期的で偉大な恵みだったことでしょう。今までは考えられなかったことですが、オニさんも加わって野球の試合をする光景が見えました。かなり自由にものが言えるようになり、私に「神道も仏教と同じだ、総じて一宮はみな悪の元締めだ」と、耳を覆いたくなるような実例を枚挙する者がいました。しかし、もと一の宮が全部そうなのではない、例えば「海の神」は信頼に値する神だと、私は彼の意見への全面的同意を留保します。(*注2)
私は若い学生時代を過ごした関係で大阪と繋がりがありますが、大阪の方が関東より意見のまとまりがあるようです。人間には人命尊重と権利平等の原則がある。ガバメントの方針である人間中心主義について、野崎神社は六法を百読して受入れたそうです。人間界と冥界の立場が逆転しつつある。人間なんて何も知らない愚か者達だ、煮て食おうが焼いて食おうがお構いなしという、ついこの間までの風潮とは何という違いでしょう。

 仏教徒は死後数億円の劣後債を買わされるが、買うお金がなければ即殺されて食料にされました。私には名目約7億円の借金があったようで、借金の内訳には前の大戦中中国大陸で親戚が行方不明になった時の捜索費用などという、全く心当たりのない項目もあったそうです。これらの借金はガバメントの指示によりすべての証書が破棄されました。人間は過ちを犯す生き物だから過ちだけをピックアップすればよいというのが仏教のやり方でした。そして仏達は捕縛拘束され、開かずの奥の院が開かれてすべてが明るみに出ると、そこから醜怪な姿になり果てた異形の者たちがぞろぞろとよろめき出て来たのです。彼らはあまた同輩の行く末の例を見ると自分もそうなることは判っているが、それでも人間の味への嗜好性から離れられなかった。そこで人間の女たちに子を産ませ、自分はやがて腐って果てるのです。「19・実名」の項で書いたT君の話は、ペイゲルスがどこかから引っ張り出して来た何かの古典の昔話ではなく、現に今までこの国で行われていた実情そのものだったのです。
仏は上から下までもう行くところまで行っている。気の毒なのは人間の同伴者として降りて来た子供たちです。その中に人間のために宗教で働かされる者がいる。食うために幼な子を殺すことを可哀想と思わなくなると泣きながら言っていました。京都には金銀の装飾や庭や舞台その他で観光客を呼びよせる多くの禅寺がありますが、古刹とされる一禅寺の僧もやはり私と同じに実情を知っているとの情報があります。

 これから書くことを「ブログに載せるな」と事前に恫喝しに来た恐ろしげな霊がありました。「いずれお前とは一戦交えなければなるまい」とも凄まれました。Youtubeに出ていることなのでご覧になった方も多いでしょう。あるアメリカのラビが電話インタビューに答えてゴイム(人畜)の秘密を明かしたのは、過ぎ越しの祭りに特別に用意するマッツオと呼ばれるクラッカー状のパンの件です。正式にこのパンを作るには人間の血を混ぜねばならない。そうして血抜きされた後の(たいていは未成年者の)人体は強力な挽肉の機械にかけてミンチにされ、Mcのハンバーガーやソーセージに混入されていると言うのです。それで時々歯のかけらや髪の毛がハンバーガーの中から見付かるのですね。首と内臓を取り去った人体がフックに懸けてある映像が出ましたが、それは「31・仕分け」に書いた私が見た夢と全く同じでした。それ見ろ、私の言ったとおりだったろうなどと得意がるつもりは全くありません。私の方が大間違いであればよかった。
ユダヤ人は学校を作って非ユダヤ人に教育の場を提供し、いかに表の顔のユダヤ人が崇高な倫理観と高い知性を持っているかを教えているが、親は子供をそんな学校には行かせない。そして数千年続く本当の伝統をユダヤ人だけのための学校で教えていると言っています。それでヒトラーはユダヤ人に余りにもわけの分からないあんな残虐な暴挙をしたのか。ならばドイツ人は知っていたに違いない。最近ドイツでブーバーが再評価されたのもそのことと関係あるかも知れません。ホロコーストのあとブーバーは「こんなものが何の役に立つかとバイブルを取り落とした」と言われていますが、本当は破り捨てて踏みつけ川に投げ込んだのかも知れません。バイブルとは彼らのバイブル、つまり旧約聖書です。
イエスが今後はパンと葡萄酒による聖餐の儀式を行うよう定めたのにも実はそういう意味があったのです。出エジプトで敵の子供を殺すユダヤの神がユダヤ人の家である目印として門口に血を塗っておくよう指示したのも、識別だけが目的なら何も血である必要はなく白い布か木の枝を縛っても十分な筈です。(聖書は象徴性にこそ意味がある。厳格に文字通り解釈しなければならないとする近視眼的立場のなんと愚かしいことか。)
いまラビが自ら秘密を明かすことには重大な意味が隠されているのかも知れません。うそかまことか、なんとサタンは漸次世界に及んでいるこの革命に反対ではないそうです。
私がかつてイスラエルに旅行したのは4月で丁度過ぎ越しの祭りの最中でした。どのホテルやレストランでも食事に普通のパンは提供されないので郷に入れば郷に従えでずっとマッツオを食べましたが、後半体調を崩して気分が悪くなり、明日は帰りの飛行機に乗る最後の日に激しい吐き気を催して、我慢できずテルアビブのホテルの廊下に嘔吐した経験があるのですが、あれはそのせいだったかとぞっとする疑惑が募ります。イスラエルでも祭りの行事が多く、そのために臨時閉館や道路封鎖でツアーの予定のコース通りに行かないことはざらで旅行スケジュールが変更になるのも毎度の事らしい。 日本の国は莫大な借金を抱えて、何もオリンピックなんて招聘してお祭り騒ぎしないで静かな環境の方が良かった。眼の色変えて金メダルの数を競う必要はないと思います。ギリシャの財政悪化もオリンピックが原因で、大金をかけて作ったのに今やスタジアムは放置されて雑草が生え放題です。人生は面白おかしく祭り騒ぎで暮らせばよいというものではありません。クリスマスやハロウィーンの祭もアーメンも止めろと言う声があります。
冒頭の“あわれ馬鹿者どもよ”は風と共に聞こえた声ですが、

  「あわれ馬鹿者どもよ、賛美歌を歌う者」
というフレーズもあったような気がします(*注3)。ヤコブやダビデを讃える歌、ヤハウエ(カトリックではその名が出て来ると‘主’に置き換えて歌うよう付け焼刃的な指示がなされているが、もともと誰を賛美していたかは変わらないでしょう)を讃える歌が混在する賛美歌は見直しが必要なのはもっともだと思われます。また音楽はデジデリウムから除かれています。とは言え親しんだ出来の良い賛美歌に感動しミサで歌う時涙が出ることがあります。「いつくしみ深き」は私も名曲だと思っていましたが、考えてみれば自分の重荷をイエスに丸投げする歌で自助努力の全く反対です。この賛美歌を感動して歌うことは焼き豚を喜んで食べるようなものかも知れません。

 別件ですがYoutubeで興味を引くのは「未来から来た人が質問に答える」シリーズです。アシモフは時間の構造を正しく理解していたそうですが、タイムマシンは2034年にIBMが開発に成功するなんてある未来人は言っている。我々が現在見ている一万光年彼方の星は一万年前のその星の姿なので、光より速いスピードで遠ざかれば地球の過去を見ることが出来るという程度の知識しか私にはありませんが、未来にはどうやって行けるのでしょうか。シミュレーション仮説という興味深い哲学理論がありますが、未来もプログラムでシミュレートされ現在に同時並行して既に先行実現しているのでしょうか。マッドマックスやマトリックスその他SF映画に描かれる地球の未来は足並みそろえて荒れ果てた絶望的な姿をしています。未来を変えることは可能でしょうか。
約50年後から来た人が次回東京オリンピックの後にアジアで第三次世界大戦が起きて中国・朝鮮・インドに国境の大変動があり、その結果分割や併合や統合により新しい国が出来るが、それと同時にイスラエル・イラクを中心として中近東も戦場になると言っています。そうなれば核の使用は避けられないでしょう。気休め程度ですが日本は2500人位の犠牲者が出るだけで済むそうでほっとします。(安倍首相はそれに備えている?)

今から2000年後の過去に行けるようになり、捏造される以前のオリジナルの新約聖書の真実が明かされる時が来るかも知れません。

付記
二つの記憶に思い当たりました。一つはもう50年位前、まだ働き始めて間もなかった頃のかすかな記憶です。仲間とネコバーグの話をしていると、聞き耳を立てていた別の仲間が「猫ではない、人間だ」と口を挟むのです。そして彼はユダヤの聞いたことのない祭の話をしましたが、そんな祭りは知らないしひどい事を言う奴だ、まさかそこまで非常識なことはないだろうと真に受けませんでした。もう一つ、上述の旅行で一緒になったご一行の中に奥さんと参加しているもと商社マンがいました。私が彼らにコシェルの話をするとイエスともノーとも言わず、ご主人が独特の目で見返して「彼らは血抜きする」と答えた意味が分かりませんでした。行程中のある夕食で思い思いに二つのテーブルに分かれた時夫妻と私は別々のテーブルに座ったのですが、彼が「それは食べない方が良い」と言っているらしいのが聞こえました。我々のテーブルは自分たちの話で騒がしかったので何事かよく判らなかったし、意外なことに彼の説明を聞いて急に隣席の雰囲気が変わった様子が見えました。
我々の中にも昔から結構知っている者はいたんだな、と今になって思います。ベルリンでは公然の秘密で、人々はそれを言おうとして慌てて口に手を当てたことが何度もあったのではないでしょうか。
タルムードの中には文書化されない口伝の部分があります。ユダヤ人の中にも多分複雑な対立抗争があったものと想像されます。エロイムは優位に立てなかったのでしょう。

(*注1)「47・負の遺産」と「48・対立物の統合」で女神についての結論を書いています。最初は曖昧に書いていたのですが、女の霊が現れてもの凄い顔で睨みつけられ、負けてはいられないとはっきり名前を出しました。人狩りして取引するだけでなく自身も血を飲んだそうです。とんでもない神を崇拝してしまったと神武天皇の後悔は深いそうです。
(*註2)「47・負の遺産」でこの神の正体を書いています。ある夜遠くから呼びかけながら親しげに訪ねてきたことがあり、邪神とは思いませんでしたが、本質は危険であると判りました。
(*注3)ほとんどの讃美歌は最後にアーメンで締めくくります。