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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

1984年

 私がこのブログを書き始めた頃、霊界で「ホーガンと同じことをしている」と言う声があったらしい。そのことは二つのことを意味するだろう。その1・ホーガンはSF作家であるが背後に宗教がある。その2・ホーガンは審きに受からなかった。私も同じ轍を踏めば受からないだろう。誰かにそう言われたことを知ったのは実際にホーガンを読みこのブログに取り上げた後だった。『神の目の小さな塵』を読みコメントを書き始めた時、「お前達が教えたのだろう」と不満げに問う声がし、他方が「私達は知らない。自分で見つけて読み始めたのだ」と答える会話が聞えた。前者はモートだろう。作者のラリー・ニーブンはまだ存命中である。彼とホーガンには多大のお陰を蒙ったと思っている。ある程度の基礎知識を得ると往々にして霊界からヒントまたは助言が期待出来る場合が多い。三島由紀夫については『豊饒の海』その他をもう大分前に読んだが、いつの頃だったか三島はパスしなかったと聞いた。SF(1)に書いたように『美しい星』を読んで「これも躓きの原因の一つか」と思った。ただし彼は仏教徒の筈だから他の人たちと審きの場所は違うだろう。未読だった『ペスト』を読み新型コロナ禍が進行中の今は何もコメントしない方が良いと思っている。カミュの本質は心根の優しい人なのだなと思った。ノーベル賞を貰った彼だがやはり駄目だったらしい。人間は考え方が甘すぎるという声が現実にあって、本の持つ影響力を考えれば物書きの仕事にはリスクがあり自己満足を得るだけでは決して救われないと思う。ジョージ・オーウエルは受け入れられたらしい。

 オーウエルがこの本を執筆した1948年と、この本が近未来像を描く1984年ディストピアワールドの間に第三次世界大戦があり、1950年代の核戦争でロンドンも被爆したことになっている。その結果世界はオセアニア・ユーラシア・イースタシアの三大国と空白地帯に四分割された。Wikipediaの1984年(小説)にご親切にその世界地図が出ている。我々の常識とは違ってイギリスはヨーロッパが中心のユーラシアではなくアメリカを中心とするオセアニアに属した。三大国は並列的に争いのない平和的関係になることは決してなく常にどちらかを相手にする戦争状態にあり、二国が同盟を結びミサイル発射を伴う他の一国との交戦関係が続く。ただし同盟はしばしば不安定で国民には何の説明もなく今までの味方が突然敵になり逆に敵が味方になる。空白地帯は三大国が資源と労働力を好き勝手に収奪する草刈り場である。

 この本はよく書けていて引き込まれた。私がそうであったように、もしビジターの中に関心はあるがまだ読んでいない方があれば是非手に取って読んで戴きたい。だからストーリーついては余り書かない方が良いのは分かっているが、書かなければ説明にならないので致し方ない。ただし事前に偉大なる兄弟ビッグ・ブラザー(B.B)がスターリンを指し、裏切り者ゴールドシュタイン(B.B及び人民の敵であるがその異教は永遠に生き続ける)がトロツキーを指すことは事前に頭に入れておいた方が良いと思う。私はすっきりしないまま読み終わって、巻末の解説を読んで初めて成る程そういう事だったかと納得した。B.Bのポスターは町中の至る所に掲げられて国民は日頃彼を称賛し、反対にゴールドシュタインとその仲間である兄弟同盟を憎む毎日の二分間憎悪の慣行に習う。『動物農場』で雌牛が「われらが指導者にして同志ナポレオンのおかげでこの水は何ておいしいのでしょう」、めんどりが「われらが指導者ナポレオンのおかげで私は六日間に五個卵を産みました」と豚のリーダーを讃えるのと同じである。 

 同じ党が支配するオセアニア国でエアストリップ・ワン(イギリス)で行われていることはアメリカでも行われていることであろう。つまり世は世界革命論のトロツキーが勝利しアメリカもファッショ的赤色集参主義国になったわけである。フィクションとは言えアメリカ人は「悪い冗談だぜ」と思うだろうし、アメリカで映画化された時のバージョンは結末を変えたくもなるだろう(Wikipediaの末尾にある映画紹介参照)。背後にソビエトでは第一次五か年計画の達成が喧伝され、中国では毛沢東が実権を握って両国が核兵器を蓄えつつあり、二大陣営の緊張は日増しに高まって未知なる新しい時代が到来するかも知れぬ不安または期待があった。オーウエルはそうなった場合1984年に我々が見るかも知れなかった悪夢をいささか誇張気味に描いている。

 主人公のウインストンは既婚であるが妻とは別居している。彼はネズミに対する先天的恐怖心を抱えている。ネズミは『動物農場』では出て来なかったが『カタロニア賛歌』ではスペインの不潔な戦場にネコ程の大ネズミがいてのそのそと徘徊し、オーウエルがその一匹を蹴飛ばしたことを書いている。彼はスペイン内戦に人民戦線の義勇軍として参加した際首に貫通銃創の重傷を受けた。首は頭部と身体部をつなぐ肉体の無防備で重要な連結部であり神経も血管も頸椎もあるから、銃弾が当たってそれらを損傷すれば命にかかわる部位だが幸い致命傷には至らなかった。撃たれた時口の中に血があふれ出る描写を怪我した本人が書き残す例はめったにないのではなかろうか。ウインストンもオーウエル自身と同様体調はベストには程遠く足を引き摺っている。
 彼の勤務する真理省は党本部に直結し報道・娯楽・教育・芸術を管掌する部署で、もし公式発表でチョコレートの生産が予定を下回ったら遡って一年前のタイムスの記事ファイルにアクセスして計画数量を削減し、あたかも計画が上首尾に達成されたのみならず、いくらか上回ったように改竄するのが彼の仕事である。過去を制する者は現在・未来も制するという訳である。ソビエトの経済計画達成なぞマユツバだったという意味だろうか。ウクライナの食料危機は一切記録に残らずなかったことになっている。二重思考という原理があって、理念と現実では理念が優先し現実は理念に合せて書き換えられ、常に党は正しいとされる。
 ある時ウインストンが街を歩いていると、やせた小男が檀上に立ってアジ演説をしていた。男は党とB.Bを称賛しイースタシアと同盟した党の方針は正しく裏切り者ゴールドシュタインと敵対国ユーラシアの非は厳しく糾弾されなければならないと長広告を揮っていた。その時突然オセアニアはイースタシアと交戦状態に入りユーラシアと同盟関係に入ったというニュースが流れた。しかし檀上の男は何事もなかったかのようにイースタシアへの誹謗中傷を並べ始めユーラシアとの同盟関係のメリットをよどみなく語り続けた。従ってウインストンがさっそく過去の交戦国と同盟国に関するタイムスの記事を遺漏なく書き換えなければならなくなったわけである。この小男の姿は腕が不釣り合いな程長く、禿げた頭に縮れていない毛が薄く生え、歪んだ顔をし、一方の骨ばった腕から突き出ている大きな拳を振っていた(1975年出版新章哲夫訳・p-170)。これを『神の目の小さな塵』に出ていたモート人の描写そっくりだと思うのは私の考え過ぎだろうか。モート人も掌返しは毎度のことで全然意に介せず、人間とはまるで違う考え方をすると聞いている。
 室内でも屋外でも国民の日常生活は徹底的に監視されている。カメラと盗聴装置を仕組まれたテレスクリーンは設置義務が課されていて勝手にスイッチオフ出来ない。誰しも挙動を怪しまれないよう、何かが注意を引いても余所見しないで眉一つ動かさず通り過ぎる習慣が身に着いている。異性関係は男女が私的な繋がりを持つことであり党は厳しく禁じている。ウインストンは同じ局で働いている黒い髪の女ジューリア(別居中の妻は金髪だった)がウグイの泳ぐ小川のほとり、柳の枝がそよぐ緑の木陰に素っ裸で現れる夢を見るが、その気になって欲情を催すことはない。彼女は党規約に忠実だという噂の女であり、席が離れていて言葉を交わしたこともなく、すれ違っても目と目を合わせることさえない。偶然街で彼女を見掛ければ自分を監視しているのではないかとさえ疑う。しかし彼女は仮面を被ったような装いの内にウインストンに対する燃えるような恋情を隠していたのだった。彼女のある計略が奏功してウインストンはそのことを知る。人間は既成概念だけでは決して本性までは分からないというのもこの作品の共通テーマかもしれない。いつものように局の食堂の窓際の席で一人ランチを取っているジュ―リアの隣にウインストンは何気ないふりをして座る。二人は腹話術のような会話で退社後密会する場所と時間を打ち合わせ、17時にヴィクトリー広場の記念碑の前で会う。そこで彼女はウインストンに次の日曜日15時頃列車でパディントンに行き、駅からある場所まで一人で歩いて行く道順を指示する。言われた通りに次の日曜日にパディントンの森の道を歩いているとジュ―リアが現れて合流した。彼女に導かれて着いたのは夢で見たのとそっくり同じの川辺だった。そこで二人は思うさま存分に激しく愛をむさぼる訳だが、まるで映画がモノクロ無言劇から急に総天然色トーキーに変わったような鮮やかな場面転回である。80才に間もなく手が届く私でさえ本能をくすぐられてゴクリと生唾を飲み込み、思わず「うまいなー」と嘆息した。彼女は党規約に忠実なふりをするのも保身のためだと本音を暴露した。
 以前ウインストンは日記をつける気になりロンドンの場末の古物商で日記帳を買ったことがあった。しかし日記に真実を書くことは危険であり余り筆は進まなかった。ある時偶然その古物商の前を通りがかり美しい珊瑚の置物が陳列されているのに目を止めた。初老の店の主人チャリントンは彼を覚えており、二階にもほかに展示品があるからと一見を勧めた。乱雑に古物が取り散らかった二階の部屋には家具や寝台やキッチンもあり壁に額縁入りの絵が掛っていて、描かれた風景の中の建物にウインストンは見覚えがあった。チャリントンはその建物にちなんだ昔の流行り歌を口ずさみ、ウインストンはそんな彼に親しみを感じた。その部屋は貸し間としてレンタルすることも可能だと説明を受けたことを思い出し、そこをロンドンでジュ―リアと密会する愛の巣にするために借りた。かくて二人は隠れ家で蜜月とも云うべき幸せな夕べを何度か過ごした。ジュ―リアは時々正規ルートではめったに手に入らない本物の砂糖やコーヒーを調達して来た。ウインストンがベッドの下に這い出して来たネズミに震え上がりジュ―リアをあきれさせたのもその部屋だった。しかしそれはつかの間の幸せだった。ベッドで交わしている二人の睦言に何者か突然第三者の声が侵入してきた。二人は驚いて飛び起きて壁の額縁をめくるとそこにはテレスクリーンがあった。その時二人が感じたあせりと後悔は私にも伝わり二の腕に鳥肌が立つ程のショックだった。間もなく厳しい顔をしたチャリントンが官憲をつれて二階に上がって来た。彼はまるで別人のように面変わりし前よりずっと若く見えた。
 ここからがウインストンが党内局査問官オブライエンと対決する最終章である。かつてウインストンはオブライエンに「君とは一度明るい所で話してみたい」と声を掛けられたことがあり、ウインストンもそういうチャンスがあるかと心待ちにしていて、彼に期待感と親しみを抱いていた。それは全く甘い幻想だったことをウインストンは思い知らされる。対決とは言えウインストンは身動きできないようボードに縛り付けられ一切抵抗したり防御したりは出来ない状態だった。ボードには痛みの強弱を調節する舵輪が付いていて、質問に下手な答え方をすると舵輪の針は上げられ全身に激痛が走ってウインストンは悲鳴をあげた。折檻で手足の骨は折れ、歯は度重なる殴打によりほとんど抜け落ちた。しかしオブライエンの尋問の目的はウインストンを殉教者にすることではなかった。彼の死体が望みなのではなく生きたままその人間性を破滅させることによって、いわばコンテンツをそっくりスクラッチ&ビルドすることによって、ウインストンは受け入れられた党員として生き残れるのだった。人間性を敵視する党とは人間の集団ではない。党--財貨と特権の所有者--は多数の個人に代わって、”誰も見たことのない”者たちのいる集団である(P-191)。ウインストンの知っていることはすべてオブライエンも知っている。さらにウインストンの知らないこともオブライエンは知っている。これでは勝てないとウインストンは敗北を覚悟した。尋問の過程でオブライエンは「君は自分を何者だと思うかね」と問う。ウインストンは「自分は人間だと思う」と答える。これに対しオブライエンは「君が人間なら君は最後の人間だ」と言う。人間に関する二重思考は現実にあり、外見は全く人間であるが人間ではない者と、外見も中身も人間である少数者がいる。オーウエルは最初この本のタイトルを「ヨーロッパ最後の人間」にしようかと考えていたことがWikipediaに出ている。作品が書かれた1948年のその時点で、トロツキーが目指すような赤い世界は1984年ごろ出来ているかも知れないし、出来ていないかも知れない(オーウエルは出来ない方が良いと思っていたのだろう)、然しすでに人間が駆逐された時代は来ていて、モートに支配されたヨーロッパは彼らのテリトリーになっていますよ、と警告する話として私はこの作品を読んだ訳である。
 最後にオブライエンはウインストンを恐怖の101号取調室に連れて行く。そこは容疑者の潜在意識が最も恐れおののく方法を使って尋問する場所である。ウインストンの場合は古えの中国にあった飢えたネズミに容疑者が食い殺される刑であった。ウインストンは縛り付けられて動かせない頭部に耳もとでチューチュー鳴いている、充血した目のネズミたちでいっぱいの籠を押し付けられ、半狂乱になって「鼠にジュ―リアを食わせてやってくれ」と叫んでしまう・・・
 入れ歯で食事を取れるまで回復して釈放され、体重も元に戻り手足の痛みも癒えたウインストンはジュ―リアと出会う。ジュ―リアは「私は貴方を裏切ってしまったわ」と言うがウインストンとて同じことだった。それがかつてお互いの中に唯一無二の愛を見出したにも拘わらず、今は共にその愛も自尊心も望みも人間性も失ってしまった二人の最後の出会いだった・・・読み終えた私もどうしようもなく空しい無力感に打ちのめされた。オーウエルは『カタロニア賛歌』で「スペインのカトリック教会は沈滞している国教会より以上に無力だった」と書いているが、他の終わり方ではなくこのエンディングでしかイギリスの置かれている状態を表現出来なかったのだろう。

 39項・エピソードに開高健が書いた「権力の情念は自然なるもの一切への反逆である」という『1984』についてのコメントを引用した。分かったような分かないような文章で、あの時点では権力が何を意味するか私は具体的に説明出来なった。この権力(者)は表向きはこの本のテーマである赤色集産主義的な未来世界の指導者としての党のことであるが、上述のように霊界において権勢を揮うモート集団のことだと理解すれば、彼らは実際上自然界とは全く違う秩序を打ち建てていた。そういう意味で開高健のコメントは妥当性があり、結局の所この本は読者にもダブルシンクを求めているのだと言えないだろうか。霊界では豚族や烏賊族が上位を占め人間は羊族よりも下だった。人間の住むのは詫びしいあばら家で電気も引いてなかった(今は電気が引かれた)。ではトップは誰かと言うとモート即ち鼠族だった。彼らは「人間の言うことには耳を貸す必要はない」と言っていた。自然界で人間が牛や豚や羊の言うことに耳を貸さないのと同じである。ウインストンへの尋問でオブライエンは「未来では妻や子という人間関係は存在しなくなる。(人の)子は生れ落ちると同時に雌鶏から卵を取り上げる様に母親から引き離される(P-239)」と言った。未来を来世に置き換えればこれは現在行われていることであり、それは後述するダンチェッカーの嘆きにも表れている。「われわれが全能(原文はAlmightyかomnipotentか知らないが)になった時(同頁)」という仮定は彼らが旧約の主、ひいてはキリスト教(旧約も新約と同等の正典と教えるキリスト教)の主になるという暗示なのだろう。その時彼らは抵抗力を失った敵を踏みつけにするのである。
 話は少々ややこしいが、ホーガンの『星を継ぐもの』シリーズに生物学者ダンチェッカーが登場した。私はダンチェッカーが言ったことをブログに書いたがジュベレンが「冗談だと思っていたら本当にダンチェッカーはいた」と言っていた。そのダンチェッカーがイギリスで「気の毒な人の子たちをとても見ていられない」と言っているのである。国教会とカトリックはタイアップしていると噂されている。宗教は個々の人間が選ぶ霊界への入口である。私は仏教に悲観しているから今さら三島がそうなったのを意外とは考えない。共産主義革命の成功はブルジョアジーに対するプロレタリアートの勝利とされる。これに倣ってウインストンはエアストリップ・ワンの庶民階級であるプロレに期待を賭けるが、オブライエンは自信たっぷりに「彼らが目覚めることは決してない、期待しても無駄だ」と言う。日本で仏教徒がことの重要さに気付かないで、初詣に、名庭に、豆まきに、除夜の鐘に、スタンプ集めにうつつを抜かしているのを見ると私もそうだと思う・・・