これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
「エジプト神話体系内でもっとも共通するセト神の添え名は『偉大なる強さ』で、荒々しさ・敵対・悪・戦争・嵐・性欲を象徴しレタスが好物とされる。古代エジプトではレタスの茎から出る白い液は精液と看做された。壁画で表現されているセトは口先が長いツチブタである。セトは太陽神ラーとヌトの間に生まれた。暗闇と混沌を司る悪魔神の大蛇アピオスを打ち倒すことから、軍神としても信仰された。」
以上Wikipediaからの抜き書きです。これが何度も書いてきた、北◯から来て◯◯市にいる豚の皇子の正体か。中国には世界一多産と言われる怪物的な梅山豚がおり、ヨーロッパ、アメリカ、韓国、日本でも豚は品種改良され大量に飼育されています。日本で畑を荒らす猪は縞模様のウリ坊を連れた憎めない愛嬌物ですが、結構気性が激しく人間に突っ掛かって来ます。インドネシアに生息するバビルサの目は独特でぞっとします。
イスラム国では豚を飼育しません。インドでは一部のカーストだけが食べるようですが牛は食べません。もし豚が人間の犠牲になった代価を来世で要求するとすれば豚肉を食べないユダヤやイスラムの選択は賢明です。食肉加工品を製造する会社に勤める社員に付き添う付随霊たちはもう半ば諦めていると言われています。「人間はグルメと称して肉食を好むが人間本来の生き方ではない」と警告されました。その声の主に「肉食は食われた動物の恨みを買うだけでなくしばしば人の霊体に病的な悪影響が出る。軽々しく肉を食った連中はくれてやるしかないと見切りをつけられている」と言われました。このようにこれまでは中華・韓国・西洋も肉料理の怖さを警戒すべきでした。然し注目すべきは、ガバメントのガイドラインは四つ足を戒める古い食道徳とは違う立場に立っているのではないでしょうか。古い食道徳は動物が人間に対して報復する時引き合いに出す根拠でした。
「仏教のそもそもの理念は人間救済だった」と仏教を擁護する声があります。理念だけでなくアショカ王の時代には敵に対抗することが出来る力のある眷属が揃っていて、その威力によりインドでしばし隆盛を誇ったのでしょう。しかしその力も末法に入り次第に衰え、釈迦族は仏敵に屈服しさんざんな目にあったのです。仏教そのものの中にも法華経のような背後に猛獣が潜む欺きの教えも紛れ込んでいました。
ローマ教が悪魔崇拝に堕ちた後宗教界でラ○◯◯条約なる取り決めが結ばれ、すべての責任を人間に帰して人間は食われることになりましたが、堕落した仏教も条約に追随したメンバーでした。児童を犠牲にする儀式が行われているとの嫌疑があるユダヤ教、カトリック、英国教に比べれば仏教徒は騙されているだけでまだ罪が浅いのかも知れませんが、それにしてもひたすら仏典を信じ込み情勢の変化を考慮しない仏教徒の脳天気にはいいかげん限度というものがあります。
今回の革命がインドに及んだ際、弁財天として仏教の仏でもあるサラスバティーが「人間は仏教を慈悲の宗教と信じ、経を唱え寺を造営し仏像を丁重に拝んでいるではないか」とルンピニーに変革を促したのですが、それに対する返事は「人間が仏教を美化して有り難がるのは人間の自由だ」と聞く耳を持たず、サラスバティーの怒りを買ったそうです。サラスバティー、別名アナーヒター神は世界の倫理を見守る神だそうです。驚くべきことに、インドでは人間の胎児に動物霊が宿るハイブリッド現象はないと主張しているそうです。動物霊自体がもと人間だったと見ればそういう言い方も出来るでしょう。
黙示録によれば、ヨハネは御座の前にいる子羊と四つの生き物を幻視します。最初の生き物は獅子のようであり、二番目の生き物は牛のようであり、三番目の生き物は人間の顔をしており、四番目の生き物は鷲のように見え、それらは前にも後ろにも一面に目がついていた、と書かれています。これらは地上に生きる動物たちを表し、最初の生き物が肉食獣、二番目が草食獣、三番目が人類、四番目が鳥類で、生き物の姿をした四つのものとは「A-Bomb」に書いたようなそれぞれの形をした乗り物ではないでしょうか。トトロの猫バスのようなその乗り物には各々の種類に属する多数の動物や人間が詰め込まれており、車内にいる動物たちが暗がりにヨハネを見つめていた目だけが光っていた図ではないかと想像します。つまりこれはすべての生き物の囚われの姿で、三番目の乗り物がある意味が重要でしょう。子羊とは御座の主に信頼されて従順に従う者の代表でしょう。
御座にいます方と長老と地上に生きる動物・人間の間にはむやみに混血を増やしてはならない約束がありました。にも拘らずその約束は反故にされ、現在は「額に神の印のない人間」が増え過ぎたのです。同族合食まず。逆に神の印を持つべき人間は彼らの餌になって数が極端に減少し、幸運にも生き残った者だけが隠れるようにして生きて来た。人間が「食われるために生まれて来たなんて、何のために人間に生まれたのか分からない」と言うのを聞いて、やっと神は人間の窮状を理解したのだそうです。神が地上の惨状を知るのは実に遅きに失したのですがそれには理由があります。神は人間以外に√ (ルート) を教えていなかった。そこで悪賢い動物が√を使って報告書を捏造し、あたかも地上の霊界でスタート時点のままベストミックスが保たれ、約束通りすべてうまくコントロールされているかのような数表を用いて、それをいかにも人間が作って提出したものと見せかけて、まんまと神々を欺いていました。ハイブリッドも人間として学校に行き、初歩的な義務教育程度で√を学びます。動物に欺きの手口を入れ知恵した何者かがいたとしか考えられません。
このブログを書き始めた当時、私がこんなテーマに行き当たるとは思いも及びませんでした。子供の頃鶏を飼っていましたが、逃げた鶏を小屋に戻すために麦を点々と撒いて自然と小屋に帰るように仕掛けたものでした。振り返るとまるで自分がその鶏になった気分です。ガバメントによる裁きのガイドラインに掲げた条項の意味が今になって分かります。疑う人もあるでしょうがあの文章は決して私の自作自演ではないのです。イエスの教えを標榜に掲げたのは聖書に書かれたことを信ぜよということではなく、聖書がイエスの教えから如何に歪められているかを探求しその教えの真意を見付け出せということでしょう。人間が自ら動物よりも地位を高める積極的な自助努力なくして、言葉や歌や儀式でどれだけ神を賛美し神の愛に頼っても効果は薄く、救いの恵みは与えられないと考えられます。
ガイドラインにグノーシスが言及されていますが、黙示録にある「小麦一ますは一デナリ、大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とをそこなうな」を「小麦(人間)は大麦(動物)より3倍の価値がある。ギリシャの哲学(オリーブ油もワインもギリシャで生まれた)を無駄にするな」という風に解釈すれば両者の関連性が見えてきます。聖書でユダヤはイチジクにたとえられ、イエスは「時代の変わり目にイチジクが芽吹く」と言ったとされますが、イチジク(ユダヤ)を大切にするとしてもオリーブやブドウ(ギリシャ)も忘れず手入れしなければならない、という意味と解釈されます。
黙示録は難解極まりなく日本語で読んでも隠喩は掴めないと言うし、ヘブライ語独自の数秘学は余りにも抽象的で興趣を呼び起こしませんでした。福音書が救いに与る生き方の指針を学ぶ必読書なのは理解できるが、黙示録は預言の書でノストラダムスの予言と同様どっちつかずの解釈の渦に巻き込まれて迷路に踏み迷うだけだろうとこれまで敬遠して來ました。どの教会のミサでもめったに黙示録は取り上げなかったと思います。たとえ長期的な歴史の流れがどうであろうと、その時その時に信仰の道を必死に模索する事が各個人の忘れてはならない心掛けだと思っていました。
しかし事ここに至って、私が第七の封印を解いたと言う声があるし、ゴグマゴグとは動物霊やハイブリッドのことだとも言われ、今まで無関心だった黙示録とは一体どういうものだろうとやっとページをめくったのが実状です。上に書いたことも俄仕込みの知識です。
アジアの七つの教会が一本の根から延びたメノーラーの七本の枝のように互いに支え合いながら教えを守ってほしいとの願いが書かれていますが、2000年を経た現在から見ると余りに短い余光の時代でした。進展を阻んだのは旧約聖書でありユダヤだったと考えられますが、果たして彼らを地の塩・世の光と呼ぶに値するか疑問を禁じ得ません。ローマへの伝教には懐疑的な様子が感じられます。七つの巻物とはポステルが言ったように人類が信じた各種の宗教のことで、それまでイラン・中国・インド(ヒンズー教と仏教)・ギリシャ・ユダヤ(ユダヤ教とキリスト教)で宗教が起こりイエスの後にアラブでもイスラム教が起こります。エジプトや南米にも独自の宗教がありました。しかしどの宗教でも禍禍しい出来事ばかりでした。7とは厳密な数ではないでしょう。
目を通して驚いたのは、私が手探りしながらこのブログに書いて来たことと黙示録の記事に多くの共通点があることでした。霊界で「人の子が食われる」ことは危機感のない現代人の一般常識にどれだけ受け入れられるか最も危惧したことでした。イエスを主人、教会を妻に喩えて、夫を蔑ろにし放蕩の限りを尽くす大淫婦とはローマ教を措いて考えられませんが、カトリックに対する嫌疑もこのブログのテーマの一つです。大淫婦は獣の背中に乗ると書かれています。「偽りの」使徒とは11人の使徒のことですが、彼らは御座にいます方にとっては名ばかりの使徒であることを意味するでしょう。
霊界もで人間が減り過ぎてサタンの助力なくして革命は続けられないと言われていますが(天の国は攻められている)、黙示録はサタンの出獄(名誉と力の回復)を予言しています。冒頭のセト神の記事にセトと大蛇アピオスとの対立関係が書かれていますが、しばしば蛇に譬えられるサタンは「豚の尻拭いはこれ以上御免だ」と言っているそうです。
この国の人々に仏教からの目覚めを訴えるのも私の別のテーマでした。六百六十六とはあるブログにある通りミロクのことでしょう。日本語で666がミロクに結び付く仕掛けは大変革の時何より日本人こそ黙示録の予言と関わりがあるということではないでしょうか。この解釈が正しく、仏教が日本に来るはるか以前に来るべき将来(今となれば過去の話ですが)にミロク(仏教徒のことか)が生まれてこの国で大きな宗教的革命を起こすことが見通されていたとすれば驚きです。
また、これまで秘匿していましたが、革命の最有力者の一人はアポロンです。黙示録にヘブライ語でアバドン、ギリシャ語でアポルオンが地の王として戦うと予言されています。ギリシャ神話によればアポロンはアイギスと呼ばれる未来的な武器の使い手です。