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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

 3月2日(2014年)の日経「風見鶏」で紹介されたドキュメンタリー映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」を見た。映画は収容所で生まれ、成人し脱出に成功してのち脱北した主人公への韓国でのインタビューと、それをもとに収容所の様子を描いたイラスト風動画で構成されている。日経の記事は非人間的な収容所の苛酷さが愛情や希望や悲しみの感情を持たない彼のような人間を生み、それが母と兄の脱出計画を立ち聞きした彼に二人を密告させ、母と兄の公開処刑を見ても何も感じなくさせるに至らせたとの見方に立っている。或いはその通りかも知れないが、生まれながらにそういう感情の薄い性格の持主もいることはいて、その類の人間がもっとましな環境の日本でも不幸な事件を引き起したりする。これはそういう人間の方が北朝鮮の強制収容所では適者生存する一例だと見る見方も可能かもしれない。彼の場合そのどちらであれ、性格分析よりも映画製作者は「食」が齎す動機付けに関心を移し、「作業場から逃げて来た兄に母が隠し持っていた食べ物を与える所を(窓から)見て嫉妬にかられたか」と質問する。彼は小考し「それはどちらとも言えない」と答えるが「はいそうです」とは言えないだろう。それを認めて自分が僅かな喰い物に支配される動物並に酷薄な人間とは思われたくない。
映画には彼が今現在韓国で提供されているアパートのような一室で一人食事するシーンがしばしば挿入される。強制収容所の一回の食事はトウモロコシの粉をペースト状にしたものを小型のお玉杓子に2杯と葉物のスープが基本で、その量も食事係の判断次第で何か落度があれば半分に減らされる。時に運よく鼠を捕まえて皮を剥ぎ火に炙って食べるのは美味かったらしい。たまにはささやかな食べ物の特別支給もあって母はそれを保存していたのだろう。このような特殊な環境でも母は身ごもって二人の男児を出産し、栄養学の常識に逆らう粗末な食物ばかりの生活で彼のように無事成長出来ることにむしろ驚かされる。新しく入って来た収容者から外の生活で食べたものが如何に旨かったかを聞いたのが脱出の動機になる。
ほかに、今は脱北した元・強制収容所看守がインタビューに答える場面がある。看守達にとって囚人は同情の余地なく所詮死ぬ者達であり、囚人に懲罰を与えて死なせれば良心の咎めは皆無ではないが、むしろよくやったと慰めに酒と肉が支給されたと告白する。女囚はかってよい暮らしをしていた美人が多く、看守は気に入った女をセックスの相手に選び、もし妊娠すると女を酷い目にあわせて死なせた上褒美を貰う。ただし政治犯は死ぬのが当然なので、殺しても何ら褒美はない。
主人公は当時を思い出して肯定的に「あの頃は純粋だった」と言うが、言われたことに忠実で余計な事を考えて判断がつかないようなことはなかったという意味だろうか。然しそれでは人間ではない・・・人間は努力する間は迷うものである(ゲーテ・ファウスト)。彼のような強制収容所生まれは生まれた時から罪を負っているとして扱われる。旧約聖書の原罪の概念の下では人間はこの囚人と同じようなものだとされる。“救いの道”は自分で探さねばならない。

 以下の二つの文章は以前所属していたカトリックの教会の月報に頼まれて書いた原稿を多少修正加筆したものですが、当時はこんな風に考えていたと受け取ってください。またこれまで書いたことと重複している点があるのはそういう訳ですのでご容赦下さい。

食について
 夜の岩山を舞台とする珍しい祭りを記録するために一人の日本人カメラマンが南米の奥地を訪ねる番組があった。村人は日本からの遠来の客をもてなすために一匹のビクーニャをほふることになり、その命を絶つ前に真剣な祈りを奉げる様子が映し出された。祈るインディオの両眼から涙があふれて流れた。
厳格な伝統を守るユダヤ人はコシェルと呼ばれる食材を使用する。食用の肉を得るに当って神に祈りを奉げ動物が最も苦痛を感じない方法で屠らなければならないとされる。イスラムも同じだが肉の呼称はハラルである。これらは日本にも輸入され丸善などでも売られているそうである。豚、鰻やイカ・タコ等鱗のない魚、貝・甲殻類も食べない。
会社員だった頃、グッダイの国オーストラリアのメルボルンで開かれた2カ月間の研修に参加した。参加者はオーストラリア、ニュージーランド、香港、シンガポールのグループ企業の社員で日本人は私一人。皆自分のお国訛りの英語をしゃべりその分りにくかったこと。英語を聞く耳を鍛えねばと痛感した。参加者約30人の中にユダヤ人が一人、イスラム教徒が一人いた。食事は肉を主とした料理が多く何の不満もなく戴いたが、イスラム教徒はいつも特別メニューで魚の料理を調理してもらい、ユダヤ人は自分の部屋の冷蔵庫にストックしてあるチキンカツを持って来て皆と一緒の食卓で食べた。シンガポールの若い男性が「あんな冷たいチキンを」と顔をしかめたのは美味で温かい料理にこだわる中国人の食習慣に冷えたチキンは考えられないことで、日本人の私に同意を求めたのだろう。然し私はこの二人を見て、忘れていたことを思い出さされたような気がした。
アダムとイブの神話は食と性の欲望が魂を罪に落とすことの譬えである。今の日本には飽くなき欲望が渦巻いている。大食いやゲームで外れると無理に食べさせる番組が面白おかしく放送されている。
怒った鶏が畳を蹴破る夢や、皮を剥いだ豚が吊るされている夢を見たことがあり、それらの肉を食べるのをやめた。魯迅の「草を食べて乳を出す牛のようによく働いた」という言葉から牛には愛着があったが牛肉も食べるのを止めた。するとソファに寝ている私の足元に長さ30センチ位の透明の子牛が淋しそうに現れた。山本神父の印象的な説教に水の結晶の話があった。コップの水に罵詈雑言を浴びせて凍らせるといびつな結晶の氷ができ、感謝や温かい言葉を掛けて凍らせるときれいに整った結晶の氷ができるという話である。水でもそうなのだから肉に動物の魂が残っていても不思議はない。
練り物に抵抗がないから、魚・練り物・大豆たん白と野菜の食生活になったが、肉と生卵なしだからいつも同じようなものばかりを食べている感じがする。ましてや下手な男の手料理である。私自身はベジタリアンには程遠いが、ネットで調べると有名人でもベジタリアンは随分いるようで、例えば選手生活の長かったカール・ルイスも完全なベジタリアンだったらしい。
欧米やインド・中東では主義や宗教から人によってある種の食物を食べないことに対しても配慮されるようである。夢の中にカレーの香辛料の一種が出て来て「これを食べると助かる」との声がした。デーモンがいやがる匂いがするのだろうか。
「食べ物は神の身体」という教えが私の命題で、ホスチアはこの言葉通りだが、上空で誰かが言うのを聞いたような気がする。動物にせよ植物にせよ我々は命を食べている。R・ドーキンスは「神は妄想である」の中で「それでも命は不思議である。手の中の命ある鳥は手を開くと飛んで行き、命がなければぽとりと地面に落ちる」と、命はどこから来るのかその不思議を書いている。
然し聖餐式のホスチアと葡萄酒にはキリスト教のある重要なモチーフが秘められているように思う。

キリスト教と悪魔 
 「悪魔の文化史」(文庫クセジュ)に8世紀イングランドの兵士の話が出ている。この兵士は余り褒められない中隊長クラスの人物だったが、病を得て死んだ。すると天使が立派な表紙の、然し薄っぺらなページ数の文書を持って現れた。続いて悪魔が、外見は大して良くないが分厚い文書を持って出て来た。天使は「どうやらこの男はあなた方のもののようですな」と言い、悪魔が彼を連れていくのを見送った。
この話には時代を貫く真理があり、単に教訓のために作られたありえない昔話と考えない方がよい。聖書に「あなた達は髪の毛の一本一本まで数えられている」とあるように、我々は一生のすべての思い・言葉・行い・怠りを悪魔に記録されている。(これとは別に冥界のコンピューターデータがある。)
死後に人間の一生に対する評価が定められ、その結果魂はどこに送られるかをダンテの「神曲」が物語っている。この本でダンテのガイド役をするのが地獄と煉獄はベルギリウス、天国はベアトリーチェである。何故なら紀元前に一生を終えたベルギリウスはクリスチャンではないので天国に入れない。絵で見るダンテはこわもての厳めしい顔つきをしていて、たとえ法王であっても不正があれば「神曲」で容赦なく地獄に落としている。作中で地獄に送られた者の遺族は文句を言うだろうが、「まあ、そう怒らないで。これはコメディーですから」と言い訳出来るよう原題はDevine Comedy(神聖喜劇)である。地獄門の立て札に「この門を通るものは一切の望みを捨てよ」と書かれていて、そこには悪魔の長ルシファー(*註)とその手下デーモン達がいる。前述の兵士はここでどうなるだろうか。
死者の評定にはもっと時間がかかると私は考える。天使や悪魔の記録だけでなく、各種の映像や数値が引用され、敵味方双方から様々な証言者が現れるだろう。相手の記録に反証することも当然あり得る。例えば悪魔のレポートに「この男は何年何月何日に銀座でダンサーのA子と会った」と書いてあっても、実はその時女の夫も彼の妻も一緒だったかも知れない。仏教で死者の霊魂は忌明けの49日迄は軒の下に留まると考えられており、使徒信条でイエスは三日間冥府に下り40日後に天に昇ったとされるように両者の地上に留まる日数は似通っている。私はこれが審判に要する期間だと思っている。
「私達を誘惑に陥らせず悪からお救い下さい」と主の祈りにある通り、魚釣りと同じで悪魔は誘惑し誘惑された者を罰する。砂漠で悪魔が提案した魅力的な条件をイエスが呑まなかったのは悪魔の真の意図を知っていたからである。放蕩息子の譬えでも、彼は豚の餌に手を出す寸前父の事を思い出すが、もし手を出した後では遅すぎただろう。人間に取りついたデーモンがイエスによって追い出されガラダの豚に戻ったように、豚は悪魔の代名詞。豚のえさつまり悪魔の喰い物とは何か。
食と性は恰好の誘惑の手段で人間を堕落させることを悪魔は知っている。人生はただ面白楽しく過ごせばいいと甘く考えてはいけない、助かるべき者を選ぶのは我々ではなく神なのだから。招かれる者は多いが選ばれる者は少ない。
悪魔の話なぞすると「このご時世に、あなた大丈夫ですか?妙な事を考えないでのんびり暮らした方がいい」と言う人がほとんどだろう。1992年のカトリック公教要理が悪魔の実在を強調していると言っても「まあ、宗教はあくまで宗教ですから」と信者でも誰も真剣に考えまい。ボードレールが「悪魔の最も賢い所は悪魔なぞいないと思わせる所である」と言ったとおりである。
JBラッセルという宗教学者は「悪魔とはキリスト教の本質を害わずにたやすく捨てることができるような末梢的な概念ではない。神の国は悪魔の国と戦っていて、それもいまついに勝とうとしている、と教える新約聖書の中心に悪魔は位置する。キリストの救済の使命は悪魔の力に対抗するものという観点から見なくては理解できない。これが新約聖書の眼目のすべてである。」と述べている。
イエスの「彼ら(悪魔)が霊に対してやっている事は許されるものではない」、パウロの「彼らは口では言えないことをしている」、ヨハネの「彼ら(旧約の指導層)は彼らの父(悪魔)の欲望のためにやっている。悪魔はもともと人殺しである」等々の言葉が何を意味するか、それが永遠の命とどう関係するか、そして地獄には何故劫火が燃えているか。これらを少し考えれば先程の兵士の運命も想像できるだろう。
イエスは十字架上で「父よ、私の霊を受け取って下さい」と叫んで刑死し、復活する者の初穂となった。キリスト教以前の宗教が、例え人間を外敵から救いまた何か利益をもたらすものであっても、それは羊が財産として飼主によって保護され出来るだけ良い牧草を与えられるようなものであり、最終的にマトンにされることに変わりはない。イングランドの聖ベーダが語るこの兵士の運命も同じである。

(*註)紆余曲折したがやはりダンテは重大な間違いを犯していると考える。サタンとルシファーは同じかどうかで様々な議論があるが両者は別物であろう。私はサタンを悪魔ではないと結論付けたがルシファーはどうか。本物の悪魔がサタンを悪魔呼ばわりしたと同じように本物の悪魔はルシファーを悪魔呼ばわりしたと考えられる。本物の悪魔にとって両方共敵である。