これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。
“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”
前項「仕分け」に書いた「革命に呼応したこの国の神」としていくつかの神の名が聞こえた。確信はなかったがその内の一つの神を祀る神社に参拝に行った。訪ねたのは例年の祭の最後の日で、参拝客も多く賽銭箱の前に長い行列が出来ていた。自分の番が来て両手を合わせ、二礼二拍手一礼して「このたびのお働き心より感謝します」と祈ると何故か泣けて仕方なかった。今後はエスニックな神に対し認識を改め視野を広げる必要があると痛感した。ユダヤで言えばエロイムである。これらの神々は死者の裁きにも臨席する。そのことが判っただけでも私に取って大きな意義があった。これまで建国記念日についてもあまり関心がなかったが相応の礼儀は尽すべきだと考えた。エスニックな正しい神を尊ぶこともデジデリウムだと言われた記憶がある。
キリスト教といえども一神教とする理解は卒業すべきではないか。逆にキリスト教が他の宗教にそそぐ恵みの光もある。
ラクタンティウスの「迫害者たちの死」はキリスト教徒を迫害したローマ皇帝の悲惨な運命を描いている。だから迫害者とはゼウスと12神を信仰しキリスト教徒を迫害した皇帝たちのことであろう。この本によれば彼等には神罰が下って悲惨な死を免れなかったのである。ギリシャ哲学とキリスト教の融合を基盤とするキリスト教グノーシスはゼウス信仰を是認するものではなかったのではないか。
「祟りの神」の項に書いたことは正しかったのだろうかと長い間迷っていてあとで手を加えた。少なく共結果的に教訓として学んだのは、私は危うい道を歩んでいて、聴こえた耳情報には落とし穴があり決してそのまま鵜呑みしてはならないという事である。ニセ情報は罠であり、ましてそれを文章にして公開するのは私に対する悪によるマイナス評価に根拠を与えてドジを踏む危険がある。騙されやすく信用出来ない人間だという訳である。
仏教各派はこの国のそれぞれの神を選んで祀っている。またある有名な明神様を拝んだ者はある密教の寺を拝んではならないという言い伝えがある。両者は対立関係にあるというのである。一口に神社仏閣と呼び神仏習合と言い習わされる一般概念が、実は複雑極まりない関係にあることを人々がどれだけ把握しているだろうか。下から見ている人間には永遠に整理不可能なテーマであるが、上から見れば彼らが人間をどう見ているか(philanthropic か misanthropicか)、どう処遇しているかで、それぞれが相応しい相手と組んでいる関係図が見えるだろう。自力本願も含め仏教に対する私の疑念は変わらない。最も悪に染まった仏教の名前をはっきり書けという声もあり、敢て言えばそれは密教であろうが、結局他も同じであろう。
「マリア」の項で触れたエピソードの「飛び去ったカミ」とは「この地にある寺とタイアップしたカミ」を祀った分社の祭神だと因数分解すれば辻褄が合う。一般にある名前で呼ばれるカミは人間のようにたった一人ではなく集団である。他国の宗教と関連する神々も多い。
神父と僧と神主が鼎談する民放の番組で、僧が「人間は死んだら仏になる」と言っていた。然し仏教徒は仏になれると聞いて喜んでいられるだろうか。イエスが復活し「復活するものの初穂」となった時、驚き慌てる使徒たちに「何を驚くのか、私は亡霊ではない」と言ったというが、亡霊とはいったい何を意味するのか、それを正しく定義するのは難しい。よく使われる「魂を抜かれる」と言う表現は命の実質を失った状態と考えられる。まだ霊界についての我々の知識は限られているが、食われたり血を吸い取られても即座に消滅する訳ではなく、未だ使者の特徴だけは留めて存在している霊的状態があり、それが「仏」ではないだろうか。魂の抜け殻は霊的力も主体性も失い言いなりになる。今の仏教には死者を食べかすにして「お前達は仏になった、だから我々は何も嘘を吐いてはいない」とうそぶく血も涙もない酷薄さが潜んでいる。法華経が導く意味不明のアノクタラも同様であり、どこに連れていかれるか、あるいはどんな状態になるか知れたものではない。「復活」したイエスも悪魔の手から逃れ餌食にならなかったのだ。後期の悉皆成仏を説く大乗仏教ですべてが救われると思うのは勘違いで、まだ小乗の方が一部の到達者だけでも救われる可能性を残し釈迦の原初の教えに近い。胎児と合体しこれから人間になるために降りて来た児童霊が盛んに捕えられているようである。それを私がこの国の人口減少と結びつけて考えるのは一般の理解の限界を超え、多分まともな意見とは受け止められないだろう。伝令で降りて来た少女が「飛んで火にいる夏の虫にされた」と泣いていたこともあった。聖霊は危険な敵に取り巻かれている。
初出だが霊界にも人間界と同様 WHOがある。この国を覆う宗教的な末期症状と人間の危機意識のなさを天上も WHOも嘆いている。何故ドラビダ国で仏教がアショカ王に迎えられ一時栄えたか。それはインドで救済の必要性が切迫した状態だったからである。イエスがユダヤで受肉したのもユダヤ人の救いのない運命の状況を神が放置出来なかったからである。
インド、アフガニスタン、ベトナム、カンボジア、インドネシア、中国の仏教遺跡は昔の形骸を留めるだけで既に仏教の現場ではない。ならばドラビダの悪霊とその追随者を日本が全部引き受けている?そう考えると情無いやら馬鹿々しいやらで涙も出ない。異形の悪霊も今回の革命のターゲットだったろうが、何処かに難を避けまた戻って来るかも知れない。追随者とは、カニバリズムの罠にはまり魅了されそこから抜けられない者たちの事である。重症なら姿形に特徴が表れているだろう。
註
(*1)サタンが蛇で描かれるのは別の理由であろう。「対立物の統合」参照