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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

祟りの神

 中国の陰陽道のシンボルマークは白と黒の二つの勾玉を逆向きに組み合わせたものであり、霊的世界は相争う善(philanthropic)と悪(misanthropic)の領域に二分されていることを示している。これはゾロアスター教が霊的世界は真理の霊と虚偽の霊の二元対立の場であることを説いて以来伏流する宗教のテーマであり、人間の自由意思がそれを思惟し良き霊団を選ばなければ救いはないとするが、たとえその選択が正しくとも個々人が善なる思考・行為・人間関係を維持しなければ救済の選別に肖(あやか)れないと教える。
この後半部分を取り上げて多くの宗教が宗旨の遵守と善行を説くが前段にあるその宗教の本質的実体は何であるのか。その教えは羊頭狗肉か真実か。それを透察出来ない我ら人間はなんと悲しい存在だろう。
J.B.ラッセルの「悪魔―古代から原始キリスト教まで」に、各民族は基本的に二元対立を抱えており安易に礼拝して他宗に敬意を表するなどは軽率な行為で「キリスト教徒は他の宗教の神域になるべく近づかないよう心がけるが良い」と警告する古い神学者の説を紹介している。

 かなり前に、一人の女神が降りて来た気配を感じ「アジア人に謝らねばならない」と言うのを聞き、ずっとその意味が解らなくて疑問に思っていた。上述ラッセルの本に、インドではデーバがアスラの上位に置かれたがこれは他の地域とは逆であるとする説を紹介している。デーバはmisanthropicな神デーモンに対応しアスラはphilanthropicな神アフラ・マズダーに対応する。
人間を愛する神を天に置き、悪魔は罪を犯して天の国から地上へ追放され、人間は天に向かって神に悪魔からの救いを求めるものとするのが今日常識的な宗教(その代表がキリスト教)の構図である。これとは逆に、仏教の六道は第一位に天のデーバ、第三位に地上の阿修羅、その中間に人間を配置する。デーモン(デーバ)の犯罪的行為の罪は問われず、この世は人間を繁殖させる場所で人間愛を持たない天の住民に食物として供給する目的で作られた場所であり、人間に味方する神の地位は低く背後で人間を助けるものとする構図(従って救済の場所は地上の何処か)が須弥山の最高神たちによって構築されたということか。仏教がアジアの一宗教であるなら、他のインドの宗教も中国の宗教も仏教と同じ構図になっていて、それがアジアのキリスト教徒にとって不都合なことがあるのだろうか。弥勒の正体は何なのか。「天の地価は下落した」という声を聞いたことがある。アジアにおいて天は悪のエリートの場所であり、その天の環境が劣化したのか。宇宙は広く天と言う場合必ずしも同一の場所を指すのではなく、地価が下落したのはキリスト教の天の可能性がある。何故ならこれまでキリスト教は正しい神の崇拝に失敗した。霊界の声は往々にして説明不足で聞き分けるのが難しい。

 日本の神々もこの問題を避けて通れない。ある霊が降ってわいたように私を訪れて露骨に「食いたい」と真情をこめて言うのを聞いたことがある。不安を掻き立てられずにはいられない囁きだがそんなことを言う霊のカテゴリーと権威は何なのか。
私は夢で格式高い神社風の建物の中に立派に装丁された文書が並んでいる場所を見たことがある。自分自身が正装に近い身なりをしていた。清浄な神饌を食べる直会(なおらい)の子と呼ばれる霊団があるそうだがあの場所は彼らと関係あるのか。それとは逆に有名な多くの(名前を挙げるととんでもない騒動になるだろう)神社に関して相当やばい話を聞いた。彼らに「人間なんて馬鹿な奴らだ」と思われていないだろうか。神道にも二者対立があり前者が正しい神、後者が危険な神ということになるだろう。前者がどこの神社のことを指すのかまでは分からなかった。多分宮司たちの間で後者のカミの本性の凶々しさは内々に伝わり共通認識されているだろう。

 私が指向している指摘とそれが齎す変革を是としつつも、未だ認識が甘く片手落ちで“一抹の不安”あり、肝心なことを放置したのではもとの黙阿弥に終わると警告する声がずっとつきまとっている。
枕頭に仏教の少年が来てこんな話をしたことがあった。多分彼は宗教間の争いで捕えられ、キリスト教側に咎(とが)を加えられるべき状況にあったが、私にこの話をすることを条件に捕縛を解かれた・・・ような事情があったかと想像する。余りに具体的過ぎてこれまで書けなかったことである。
彼曰く「死者は審判の結果例外なく地獄に行く。その内6割は助からない」私が「食べた動物に復讐される者もあると聞くが」と言うと「まあそういうケースも無くはない。あと1割が生前の職業で示した能力を有用と見なされて生かされる。残りの3割はhenchmanになる」私はその単語を知らなかったので目が開いてすぐに辞書を引いた。地獄で働く鬼どもの手下の意だろう。この割合が死者の運命の通例らしい。

 イエスが初めてそれを打ち破るまで、2千年前のヘブルも同じ状況だったろう。神の子を自称してユダヤ教に逆らったからには当然死後も罰を受けるべきであった彼は、「父よ、私の霊を受け取って下さい」と叫び、磔刑台で槍に貫かれたが、果たして地獄に落ちて囚われることなく戻り、“復活する者の初穂”となった。

 教会の中にいる女性霊が「この地は武蔵の国のように独立していない、ここにいても救われない」と悪気なく言うのが聞こえたが、聞かなかったことにした。普通は人間がそこまで知りうることではないから。特別な脱出の能力を持つか助力がない限り、一般の信者は死後この割合で分配されるのだろう。

 改宗のもたらす恵みを否定し、私を無事には帰すまいとする勢力がある。
シンパシーのかけらもなく私を「肉体」と呼び、これまでの私の性についての潜在的欲望と行為を悪し様に言挙げし、現在の私にも「例外はマルチリだけ。この人間に救済はない」と冷酷に言い張る女神がいる。しばしば現れて宣言するように私をdisapproveし救いから引きはがそうとするこの自信に満ちた口調の女神は、誰もが認めるような権威を持っているように振る舞う点で人口に膾炙された神である可能性が高く、私はその危険性を正しく把握していないらしい。彼女が非難している時にしばしば耳にした“全き者”とは私のことか。私だけでなくこの神の真実を知らなかった者は少ないと思う。久しぶりに帰った自宅で、ニスを塗ったように黒く光る骨を抜かれた男児の干物が重ねてあるのを夢で見て唖然としたが、それは正月ごとに御札を買い変えていたこの神が、私の留守を幸い我家を倉庫にしていたためらしい。御札なぞ有り難がって買うべきでなかった。
神や仏が家に来て何かをするなんて眉唾だと思われるかもしれないが、傍証となる一例を話したい。2011年3月の大震災の直後、空港のような広い敷地で行列が横に視野いっぱいに広がっている夢を見た。一つの列には10人内外が前後に並んでおり、一人一人が同じ衣装で顔も髪形も背格好もよく似ているが、隣の列に並んでいる者たちとは全くイメージが違う。コスプレのような衣服も髪型も人間の現代的ファッションではない。男の列と女の列があり同列の中に男女が混じることはない。彼・彼女らは任地の寺社や信者の建物が被災し復旧するまで一時帰還する便を待っている所だったに違いない。

 罪・穢れを消滅する神前での祈りは一体誰の罪・穢れを清めようとするのか、宮居が定期的に移し替えられるのは何故か。これらの習わしも怪しめば怪しめないことはない。
両部神道説にせよ本地垂迹説にせよ日本のカミは仏教の別の形態であると説く。元・神の子の権威と美しさでCEOの地位につき審判者として指揮をとったのは悪魔だった。ギリシャ神話で言うハデスの地位、今風に呼べばあの世の大統領である。この地位に着く者にはある条件が必要で彼はそれを充たした。結局、悪魔・仏教・神道の三位一体が上部構造としてスクラムを組んでこの国の冥界と人間の来世の運命を支配して来たということか。なかでも信仰の対象でありながら自身と人間の命運との関わりをほとんど語らないカミの方が「開闢以来」からヤマトの霊を私してきた。「人間に謝りたい」のはまさにアジアの縮図であるそんな日本の状況かも知れない。

 日本の最高神の斎場として霊界のコアにある場所が長過ぎた忌まわしき過去によって如何にすさまじく荒廃したか、今日の様を霊視して互いに嘆き共感する者はいないだろうか。自分達だけ儲かればればよいと考える者たちによってなり果てた他界の禍禍しき現状を。天皇の祖先はカミとされるが、万世一系の男系(Y染色体)の継承を柱とする天皇家の創始に女神を加えるのは矛盾する。時折私に橘を紋章にせよとか橘の神社を尊べという声があったがその意味を理解できなかった。橘神社は島原半島の千々石湾にある日露戦争の軍神を祀った神社で重要とは思えなかった。今は、弟橘媛こそ最も尊ぶべき女神であると言いたかったのだと推測する。カミもひとしなみには括れないらしいが個々を誤りなく識別し色分けするのは私の力量には余る。