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これは一人のマイノリティーが書いた自分自身とこの国の救いなき来世についてのレポートである。W.ジェイムスは労作「宗教的経験の諸相」で“超感覚者は無敵である”と言ったが果たしてそうだろうか。この時代、むしろ私は“常感覚者は巨象である。我々はその足に踏み潰されないよう必死に逃れる蟻のようなものだ”と思う。しかし今、孤立の怖れを捨てて私はこう叫ばねばならない。

“人々よ、長い眠りから目覚めよ。無知の麻薬の快楽に耽るな。そしてこの警告を受け入れる人々に神の恵みあれ。”

仕分け

  人の霊的な感受性は半仮睡の状態に際立って働くのかも知れない。ある晩寝ている部屋のすぐ外の道路で工事中らしくその騒音と振動が余りにけたたましく伝わって来て、寝続けていられなくなって窓の外の様子を覗うと、路面にドリルを突き立てて働いている工夫の姿が見えた。そこで目が覚めて現実に返ると、実際に自分がいるのはこの世の全く静かな夜半の寝室でしかなくて、音も振動も突然途絶えた。
また現在一人暮らしのアパートで睡眠中の布団の中にいる時携帯電話の音がして半ば目覚めても、今頃私の電話が鳴ってはいないことは分かっている。それは部屋にいる健全な霊の誰かに外から掛って来た受信音だと気付きつつ、目を開けると音は消えて全く静かになる。このように浅い眠りの時私はしばしば現実よりは霊界へと連れ出されている。

 まだ洗礼を受けていない頃、関東の自宅が属する教区のカトリック教会に通い始めたばかりのあるミサで、信者たちがホスチアを受ける列に並んでいる間私は後ろの席に座っていた。目を閉じてふと眠気がさすと、周りと同じ場面が目の前に浮かんだ。ただし一点違いがあって、檀上に神父の隣に立ち聖餐式の介添えをしている一人の霊の姿があった。彼は今真面目な顔をしているが、どう見ても Holy Spirit と呼ぶには相応しくない悪童風の、平服の少年だった。それを見て聊か期待を裏切られた感じがした。

 関東から日本海側へ抜ける高速バスが山中にさしかかり座席でうとうとしていた時、私を外から覗き込んでいる異形の姿の霊が見えた。その外観は頭蓋骨と背骨と両手両足も骨が透けて見えて、人体の骨格標本のように全身骨の体なのであるが、かがんで屋根に取り付いている姿は危なげなく、移動する車のスピードにも拘わらず不安定さは全く感じられないし、身のこなしも敏捷である。クリスタルスカルのように眼窩は暗く穴が開いているだけで眼球はないが、こちらを認識しているのは分かる。「コンスタンチン」という映画で主人公のジョンがこれとそっくりな悪魔と戦い鏡の中に封じ込めるシーンがある。初めて見たのに何故かそれ程驚きはなく、このあたりはこんな不可思議な霊がいる場所なのかとおぼろげに考えていた。きっと彼らは何らかの宗教と関係があり、神か悪魔の働きをしているのだろう。地名は神を暗示する。現在住んでいる冒頭のアパートはその沿線の都市にある。

 昨秋引越して来たすぐ後に訪ねて来た少女の霊が「ようこそ、ここは地獄の一丁目」と言うのを聞いてまずい所へ来たのかと当惑したが、所詮どこがどういう場所なのか事前にわかる訳がない。霊界とこの世の住民は何の関連もなく重なっている。ただしこれまでの経験で近付きたくない要注意の場所はいくつか念頭にある。太平洋側にも禍々しい場所があり、東京とそこを結ぶ急行列車は観光や会議で何度も利用した。霊界ではその便が死体列車と呼ばれていることを数年前に聞いたことがあり以来足が遠のいていた。そこら辺りも悪霊が多数棲みついているエリアらしい。彼らは人目に触れることを嫌がる。仏教徒だった頃「お前はえらいものを背負っている」と言われたことがあるが、誰に取り付かれていたのだろうか。私はこれがインドの悪霊で、同じ悪霊でもシスティーナの天井画に大蛇として描かれているサタンとは違うと考え始めた。従って羽化(補足)の項で文殊を「サタン即ちYHWHである」と書いたのは間違いであろう。「英語を使うな」という言葉も「混同するな」の意味か。サタンが私に「我々は彼ら程非道ではない」と言ったのを言い訳程度に考えて真面目に受け止めていなかったが、サタンには別の意味があるのかも知れない。後述するようにサタンの方が人間中心主義に肯定的である。

 現住アパートのあるこの街と東京を結ぶ路線は人間界では都心への通勤路線で、いま私は最も頻繁に利用している。最近の夢でその列車の内部が見え、我々の乗るのと同じ車両には乗客がいたが、それとは別に貨車があり、荷台に顔を包帯で巻いて隠された白装束の遺体や切断された肢体が横たえられていた。たぶん東京で死んだ人間が死の刑を宣言され、刑の執行後食肉に利用する目的で運ばれて来たのだろう。
これまで私が「人間は死んだ後霊は再び殺されて食われる」と再々ブログに書いて来たことを「大げさなんだよな」と枕元でなじる少年がいた。今更書き立てることではない、それがむしろ霊界の常態なのだと言いたいのかも知れない。しかし我々にとって如何にしてそこから逃れる道を見付けるかが重要なのだ。近年日本海側の漁港都市に花見に行って戻った夜、その日山上の桜咲く公園に至る坂道を陽光の下で登ったのと同じ景色が夢に現れて、道路脇の民家に生白い人体が竿に架けて干してあり、そばに人影があった。死体はすでに血の跡も洗い流され、頭部も骨も内臓も取り除いてきれいに処理されていた。漁港の浜ではよくあることらしい。 

 5年ほど前、同じ様な人の処理死体が白い冷凍車に牛肉のように多数並んで鉤フックで吊り下げられていて、それが半開きの後部ドアから見えた夢が記憶にある。場所はパリの路上、前項でフランス人の死後の不安を書いたのはこのことである。背後で「日本の方がまだいい。フランス人は肉の食い過ぎだ」と声がした。
夢という極めて個人的な情報がそれを見た当人以外にどれだけリアリティーと説得力があるか迷いが付きまとうが傍証にはなるだろう。ここまで書いたことで不快になった方には申し訳ない。霊視者とはいかに不幸な者か。

 つい最近見えたのは、多数の亡者の群れである。彼らの醜い顔や身体には不快な欠陥があり、ある者はうずくまり、あるものはさまようようによろめき動いていた。かと思うとまるでカンガルーのようにピョンピョンと飛び跳ねる者もいた。江戸時代の錦絵にこれとそっくりの亡者の群れの図があった。こんな霊夢が現れるのもこの場所柄のせいか。彼らが殺されなかったのは食用としては欠陥品だったからであろう。生きている間の悪しき飲食や重ねた悪事、救い主を敬うことも助けを希求することもない、無知と欲望への放恣がこんな姿をもたらしたのだ。彼らはこの場所に集められ、その行先は地獄である。背後で少年の声が「我々は成仏出来なかった、ゾンビ一歩手前の霊だ」と言った。こういう者たちがもしキリスト教徒であっても、快く迎えられ、あるいは天の国に行けるわけがない。ゾンビになれば容赦なく土中に廃棄される他はない。
少年は自分が審判者に言われたことを私に伝えた。
「誰かのためにならなければ存在価値はない」
「どんな事でもいい加減には出来ない」
まだ生きている我々が彼らのようにならないために銘記すべき言葉である。しかし善行の道を歩みつつ穢れを遠ざけて霊の身体の清らかさを全うし、裁きに合格しても、合格札をひっくり返して歩く仏がいる。仏教にいる限り結局救われない。

 最近読んだバート・D・アーマンの「キリスト教の創造」に、初期キリスト教徒が律法を順守すべきかどうかで様々な意見の対立があったことが書かれている。割礼や安息日の規定はキリストの救いとは関係ないが、飲食の規定はどうだろうか。コーシャーは死者の霊が醜く汚れていないための訓戒だとされ、汚れた霊は摂食者にとって食用に適さないので砂漠のゲヘナにダンピングされる。ユダヤの飲食の規定といっても過ぎ越しの祭日にパン種のないパンを食べるとか供物でレビ記の規定を守るとかはキリスト教徒には関係ない。イエスは食べ物はすべて身体を汚さないと言っている。

 人間は選んだ宗教に死後を支配される。それらは何れも巧みに救いや恵みの道を説き信者を招いているが、その実態が真に魂の救済への道か偽りの破滅の道への誘いかが問題なのである。ある宗教は初めから我田に水を引く騙しの手段なのであり、本来は正しい救いの宗教であっても悪魔との戦いに敗北すればその宗教は悪魔に乗っ取られて罠になる。だから数千年前に作られた教えをいくら熱心に学んでも今の実情とかけ離れていれば無意味である。悲しいかな人間にはその区別が付かない。
霊界を語る者は真実性を問われる。蒙を啓く真実を語る者には褒賞が与えられるらしい。だとすれば逆に的外れな虚偽を語れば懲罰がありうる。ヨハネ福音書14章でイエスは「私は道であり真理であり命である」と言いキリスト教こそ以後人類が信頼して選ぶべき真の救済の教えであることを強調している。しかしこの2000年間にその宣教は広く意図通りに浸透して機能し、救済の事業が成功をおさめたと言えるだろうか。キリスト教にも虚偽の影が隠れ住む。表向きはキリスト教でもライバルに勝つために悪魔の力を頼り、変質して悪魔のものとなったキリスト教宗派もある。私の場合法華教からカトリックに改宗してもクリルタイのメンバーは変らなかった。「我々は法華教だ」と言っていた連中が居座って今度は「我々はカトリックだ」と言うような事が起きた。二つの宗教の本質は変わらず、悪はグローバルに手を組んでいる。私はカトリックで洗礼を受けたが、今はプロテスタントだと自認している。
ぶどうの木のたとえにあるように、キリスト教だからといって信仰の誤謬や独善を不問にしすべてがイエスの父なる神に受け入れられる訳ではないと考えるべきだ。

 イエスはルカ22章で「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出て許された」ことを容認しているように見える。サタンが死後の冥界の入口で死者を「こいつはユダヤ教徒でイエスのものではない、こいつはキリスト教徒でイエスのものだ、こいつはもう一度やり直しだ、こいつはゲヘナで始末すべきものだ」と選別しているとすれば、ユダヤ人キリスト教徒がユダヤ教独自の律法を順守したためにむしろユダヤ教徒として選り分けられる危険性がどうしてないといえよう。パウロが律法からの離別を主張した理由である。殉教者だけは間違いなくクリスチャンと認められた。キリスト教とサタンの関係が何を意味するかは慎重に見届けねばないテーマである。

  この国の2014年の革命は従来の優劣の関係を初めて覆した。「2014年」の項を読み返すと意図的に判断を誤らせようとする雑音に私は散々迷わされたが、その後の動きを追うとあの革命はこの世の霊界における悪と正義の立場を転換する、時代の終わりの始まりとなる画期的なブレークスルーだったのだと気が付いた。正義の神々にもカビナントと呼ばれるグローバルな連携組織がある。革命軍の戦力は四つの外来の力を主力とし、それに呼応するこの国の勢力を伴って、旧支配勢力に対し、或いは爆撃により或いは敵を崖下に突き落とす等による熾烈な攻撃が加えられた。戦いの結果悪の主勢力は弱体化され、神の計画(預言)へ一歩近付いた。

 新体制に向けてこの国だけではなく世界的な philanthropic な神々によってガバンメントが組織された。新しい権力はそれまでの宗教組織の上位にi位置して、場合によって死者を先立って仕分けする優先権を回復した。悪のための選別ではなく、正しい差配によって救われるに値する人間を救済することがその目的であり任務となった。この国で始まった人間中心主義はここを震源として既にアメリカやイタリアにも同様の革命的戦いを展開しており、それはやがてブルー・ブックと呼ばれる神の計画に従って、漸次世界に敷衍されることになるだろう。誰もが思うように事は単純ではなく、イスラム国やインド・中国がどうなるのか、明らかに前途は多難で容易に片付く問題ではない。イスラエルはマルチン・ブーバーが言うように「必ずやユダヤ人の叡智はユダヤにイエス・キリストを迎え入れる」だろうか。イエスの本意に違背したキリスト教会に自浄と自己変革が可能だろうか。生きている限り私はそれを注視し続けるが、見届けるのに命の残りの年数で足りるとは思えない。

 この国にも問題が残されている。ガバメントの存在がどれだけ認知されるか。盲目な死者が単純素朴に家宗に固執し、或いは信念とするお題目や念仏に拘って滅びの道へ進むと言うなら、誰がそれを押し留めることができようか。仏教徒に対して「人間は悪魔の味方であり喜んでその餌食になっているのだ」という見方さえある。仏教も新体制の影響を受けない筈はないが「我々は今までと変わらない」と言っているそうである。だから革命後もこの国の光と影の領分はあまり変わらない。私はお題目や念仏を唱える者に個人的に何の敵対心もないし、ついこの前まで自分がその一人だった。基本的に、彼ら自身による宗教そのものへの覚醒がなければ救いの恵みには与れない。そのことに早く気付くべきだ。

 「終末論」の項で「対立物の統合」に触れた直後、枕元で「赤い手をした連中と握手出来る訳がない」と複数の霊に言われた。オリゲネスがサタンおよび悪霊を含めてすべてのものが最終的には和解すると説いた根拠は万人の神の意志への帰一である。究極的にすべてのものが神の持つ本来的な愛に目覚めるとする想定は壮大な楽観主義的ロマンであり、オリゲネスが悪というものをどのように捉え、どれだけリアルに認識していたか疑問である。悪が目覚めて悪行を止めるまで待っている訳にはいかない。善と悪を生み出した原初の一なる神はゲームのプログラマーのような中立的存在に思われる。自分を生み出したものが何であれ悪は一人歩きし始める。善と悪の統合は力によらないで可能かどうか疑わしい。今回の革命でも上位の神の実力を思い知らなければ悪は自分の論理を一方的に揮い野放しだっただろう。人間には霊界(神・仏・個々の霊群・各宗教)のどちらが善でどちらが悪か、どちらが本当のことを言いどちらが嘘つきか分からない。結局どの宗教であれ裁きで同一に神の基準が適用されることが「対立物の統合」であり、それがガバメントの目標ではないだろうか。

 前回マリアの項を書いたことが何者かを私の元に呼び寄せた。私を観察して「偽物ではないようだ」と言い、私が書いたような意見が出る時期は予想されていてそれと大きな誤差はなく、彼にとってあの記事はさしたるサプライズではなかったらしい。私の論理展開は彼らには頭の体操程度で「所詮人間の知識と我々ではレベルが違う」と言った。サタンも革命を受け入れるだけでなく力になる用意があるらしく、そうすると「悪魔ではなくなる」のならば、これを境に言葉の意味が変わるエポックメーキングな出来事である。